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好きなことを好きなだけ楽しみたい欲張り人間の雑記帖

『仏教思想のセロポイント』 (魚川祐司著)

2020年11月23日 | 読書雑感
自分が信じている(と思っている)仏教について、実は知識不足であることに気付き、仏教について色々と勉強しだした。この本は、ブッダの教えの本質である「無常・苦・無我」について教えてくれているためにとても理解が進んだ。教えの本質は、
・すべての現象や物質は変化して定まらない(無常)
・無常のものを自分でコントロールできると勘違いして(無我)執着してしまうことから苦が生まれる
・物事を認識する過程で自分なりの物語を勝手に妄想・幻想して煩悩を生み出してしまうことを止めて、ありのままを認知することにより煩悩から離れて涅槃の境地に入れる
と理解した。

   ☆★☆★☆★☆★☆★

■ ゴータマ・ブッダの教え
律(僧侶のルール)では物の売買や金銀による取引も禁止されている。そうした一般社会(俗世)における労働・交換・取引には一切関わるな、というのが比丘たちに与えられた規範なのである。(略)出家者の目標が渇愛(愛執)を滅尽して解脱・涅槃に至ることにある以上、彼らが離れなければならないのは、単に直接的な性行為だけではない。解脱した者が捨て去っているべきなのは、軽重を問わず、異性に対する欲望や思慕にあたるものの全てである。(略)解脱・涅槃を一途に希求する者(出家者)たちに対して、農業であれ商取引であれ、あらゆる労働生産や生殖の行為は禁じられる。これはゴータマ・ブッダの仏教の基本的な立場の一つだ。(略)ゴータマ・ブッダの教えは、私たち現代日本人が通常の意識において考えるような「人間として正しく生きる道」を説くものではなく、むしろそのような観念の前提になっている「人間」とか「正しい」とかいう物語を破壊してしまう作用をもつものなのである。

■ 無常・苦・無我
・「原因によって生じたものごとは全て滅する」と如実知見する(ありのままに知る)のが仏教理解のはじめである。「すべての現象が原因(条件)によって成立していること」を法則として概念化したのが、いわゆる「縁起」の説である。(略)ゴータマ・ブッダの仏教において目指されていることは、衆生を「世間」(迷いの生存状態にある現象の世界)から「出世間」(迷いから脱した風光のこと)へと移行させることであり、その手段は縁起の法則によって形成された私たちの苦なる現状について、その原因や条件を徹見して消滅させることである。
・「苦」とは、欲望の対象にせよその享受にせよ、因縁によって形成された無常のものである以上、欲望の充足を求める衆生の営みは常に不満足で終わるしかないという事態をこそ意味する。現在の英語ではしばしがunsatisfactorinessという」単語が使われるのは、原語(dukkha)のニュアンスを正しく汲み取った適約だ。(略)マインドフルネスが日常化し、自分の行為に常に意識を行き渡らせている修行者は、縁生の現象の無常・苦・無我の性質をありのままに見て(如実知見して)それを実体視することがない。そして仮に内面に貪欲が起こったとしても、それもまた一つの現象として、ただ「ある」と気づくだけで執着に発展させることがない。
・ゴータマ・ブッダの立場は、一切を構成する六根六境(目・耳・鼻・舌・身・意と色・声・香・味・触・法)が欲望を伴った認知を形成した時、そこに「世界」が成立するのだというある種の観念論的な色彩を帯びる。(略)六根によって認知される六境に執着して喜悦することが苦の原因であり、苦を決する方法は六根によって認知される六境を歓喜して迎え入れ、執着することをやめれば、喜悦も滅するから苦は滅尽するのだとも説かれている。(略)六根六境が「滅尽」したときに存在しなくなったのは、認知そのものというよりも、そこにある「ある」とか「ない」といった判断を成立させる根底にある「分別の相」すなわち、拡散・文化・幻想化の作用であるpapanca(妄想・幻想・迷執を含むもの、渇愛・煩悩・我執に基づいてイメージを形成して現象を分別して多様化・複雑化させて「物語」を形成する作用)であろう。
・「無我」とは、「己の所有物ではなく、己自身ではなく、己の本体ではない」ということである。つまり「己の支配下にはなく、コントロールできない」ということだ。(中略)「苦であるものは無我である」と言われるのも、不満足というのは言い換えると「思い通りにならない」ということだ。(略)ゴータマ・ブッダが否定したのは、「常一主宰」(常に住であり、単一であり、主としてコントロールする権能を有する(主宰)もの)の「実体我」である。
・心にふと浮かんでくる欲望とはいうのは、「私」がコントロールして「浮かばせている」わけではなく、欲望はいつもどこからか勝手にやって来てどこかに勝手に去っていく。すなわち、私の支配下にある所有物ではないという意味で「無我」である。(カントによれば、心にふと浮かんできた欲望に抵抗できずに隷属してしまうことが「恣意の他律」なのだから、それは「自由」とは別物と考えていた)
・仏教の立場からすれば、衆生というのは業と縁起によって形成された枠組み(世間)の中で、条件づけられた欲望を持ち、条件付けられた欲望の対象を見出して、それらを次から次へと追い求めながら終わりのない「不満足」の生の繰り返しの中で盲目的に走り続けるものである。
・仏教の世界観によれば、私たちは過去に積み重ねてきた無量の業の結果として現在存在しているものであるのだから、私たちにはそのような無量の業の力(業力)が」作用しており、それば私たちに無数の行為の反復によって形成された行動と認知のパターン、いわば「癖」をつけている。そうした癖による心の」はたらきは汚れたものとして「煩悩」と呼ばれ、そのような煩悩で心の汚れた状態にあることは「有漏」と呼ばれているわけである。(有漏とは心に煩悩があって心が汚れている状態、無漏とは煩悩の汚れがない状態のこと。)

■ 解脱のためのマインドフルネス
・仏教における「転迷開悟」(迷いを転じて悟りを開く)の一つの意味とは、「衆生がその『癖』によって盲目的に行為し続けることを止めること」である。
・仏教界で盛んに語られる「気づき」というのは、解脱するための実践だ。この「気づき」のことを英語でマインドフルネスと訳していることが多いが、これは「まさに読んで字の如くで、一つ一つの」行為に意識を行き渡らせることによって、無意識的つまり盲目的に慣れ親しんだ不健全な行為を行ってしまうことを防止しようとするわけである。

■ その他
・「何が輪廻しているのか」という問題の立て方は、仏教の文脈からすればカテゴリーエラーの問いである。存在しているのは業による現象の継起だけなのであり、その過程・プロセスが「輪廻」と呼ばれれているのであって、そこに「主体」であると言えるような固定的な実態は含まれていない。人が死んで別の存在として生まれ変わる「転生」の瞬間だけにおきるものではなく、いま・この瞬間の現象の継起のプロセスとして生起し続けているものである。(略)「輪廻はない」と考えて、生の必然的な苦から逃避するために自殺したり目を背けつつ快楽だけを追い求めて一生を浪費す」したりするのではなく、現実存在する輪廻を正面から如実知見して、それを渇愛の滅尽によってのりこえようとすることが、ゴータマ・ブッダおよびそれ以降の仏教徒たちの基本的な立場である。
・ゴータマ・ブッダの仏教は、「一切衆生」を対象とするものではなく、あくまで語れば理解することのできる一部の者たちを対象とするものであった。(略)渇愛を滅尽し解脱に至った者たちは、存在することを「ただ楽しむ」のである。それは「欲望の対象を楽しみ、欲望の対象にふけり、欲望の対象を喜ぶ」ような執着によって得られる「楽しみ」ではなく、むしろそこからは完全に離れ、誰のものでもなくなった現象を観照することによって初めて知られ「最高の楽」というべきものだ。解脱者にとっては、悟後の行為はすべてが純粋な「遊び」である。遊びである以上、その仕方は自由だから、利他の実践へと踏み出す場合にその範囲や形式にかんしては、彼らに裁量の余地が存在する。
・「大乗」というのは奇妙な論理構成に依拠した宗教運動である。それは言い換えれば「菩薩乗」であり「仏乗」であって、つまりは現世における苦からの」解脱という自利を追求する阿羅漢ではなく、一切衆生を広く救済する自利・他利び完成者としてのブッダとなることを究極的な目標とし、自らをその過程にある菩薩として位置づけることをその本懐とする。(略)「大乗」というのは、一枚岩のものではなく、それ自体に多様性を含んだ複雑な宗教運動の総体だが、その根底には涅槃よりも世間を、」不生不滅の寂滅境よりは生成消滅の「物語の世界」をゴータマ・ブッダよりも高く価値づけようとするモーティブが基本的な方向付けとして働いている。
・仏教の本質が「脱善悪」であって「反善悪」ではない。善悪を」否定することも一種」のとらわれであり、それを超脱した境地を」目指すのである以上、修行者が日常の振る舞いにおいて善を行うことを否定する理由はない。「自業自得」という仏教の世界観からすれば、悪行為は修行者に苦の結果をもたらすものである以上、苦からの解脱を求める仏教者がそれを避ける理由はあるのである。
・テーラワーダ教理による煩悩の根絶方法:
 ① 戒によって、身と口の行為に表れる違反を対治して煩悩の彼分捨断、すなわち個別的な煩悩の一時的な排除を行う
 ② 定によって、意に纏いついている煩悩を対治して煩悩の鎮伏捨断、すなわち意識に表れる煩悩の抑制を行う
 ③ 慧によって、煩悩の潜勢力も対治して正断捨断、すなわち煩悩の根切りを行う。



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『考えない練習』 (小池龍之介著)

2020年11月16日 | 読書雑感
僧侶が仏教思想をベースにして、様々な煩悩を抱える現代日本人に対して楽に生きる方法を教えてくれる本。仏教の教えの片鱗を平易な文章で且つ生活に取り入れられるように説明してあるので、難解な仏教思想書では肚落ちしない理解困難な事柄も「なるほど!」と理解ができる。

煩悩とは、「欲」(もっと欲しい、もっと欲しいと求める心の衝動エネルギー)、「怒り」(入ってくる情報に対して、受け入れたくない/見たくない/聞きたくないと反発する心のエネルギー。妬み、後悔、寂しい、緊張する等のネガティブな思考も含まれる)、そして「迷い」

八正道:正しい生き方を実践するためにひとに求められる八つの道
・正思惟(しょうしゆい:思考内容を律する)
・正語(しょうご:言葉を律する)
・正業(しょうごう:行動を律する)
・正命(しょうみょう:生き方を律する)
・正定(しょうじょう:集中する)
・正精進(しょうしょうじん:心を浄化する)
・正念(しょうねん:心のセンサーを磨く)
・正見(しょうけん:悟る)

十善戒:仏道における戒め
・不殺生(生命を殺さない)
・不偸盗(与えられぬものを取らない)
・不邪淫(浮気をしない)
・不妄語(事実に反したことを言わない)
・不悪口(ケチをつけたり批判しない)
・不両舌(ネガティブな噂話をしない(
・不奇語(他人に無駄話をしない)
・不貪欲(心の中に欲望を作らない)
・不瞋恚(心の中に怒りを作らない)
・不邪見(無常・苦・無我の法則を知る)

仏道において人が幸せに生きていくために育てる感情
・慈:人々を含めた他の生き物が平和d穏やかであることを願う感情
・悲:哀れみの感情や生身や苦しみがなくなることを願う同情心
・喜:他者が幸福になって喜んでいるときに自分のそれを見て共に喜べる感情
・捨:怒りや迷いを持つクセをなくし「平常心」を保つ心の状態

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煩悩の力で刻み込まれた情報は潜在化していつまでも残る。コマ切れになりはっきりと意識できなくなって心の流れに混ざって影響を与え続ける。(中略)「見たり」「聞いたり触れたりしている」つもりでも、実際には頭の中のノイズにメインメモリを奪われているため、フレッシュな情報が入ってきません。一秒のあいだ人の話を聞いていても、そのうち0.1秒は聞いていても残り0.9秒は過去のノイズが残響していて五感が鈍りぼんやりとしている。多くの方が年を取るにつれ「最近は年月が速く過ぎていく」と感じる元凶は、現実の五感の情報を過去から大事に蓄積してきた思考のノイズによってかき消してしまうことに他ならない。

無駄なエネルギーを使わない思考、その時に最も適切な必要最低限のことだけを考えて、どうすれば無駄な思考や空回りする思考を排除できるか、どうすれば煩悩を克服できるかが仏堂のスタートでありゴールでもある。

無駄な思考を克服するために、ますは今自分の心が何をしているかを普段から見張るようにする。心の動きにセンサーを張り巡らせておいて時折チェックする。すると、心の動きに気付くようになる。次は心を移動させる。集中して意識をコントロールして一つの場所に集める。

身体と心の操り方=感覚に能動的になることで心を充足させる。
「見ている」という受動的な状態から、「見る」という能動的な状態へ。
「聞こえている」という受動的な状態から「積極的に「聞くという能動的な状態へ
「においがする」という受動的な状態から、積極的に「嗅ぐ」という能動的な状態へ
「味がする」という受動的な状態から、積極的に「味わう」と言う能動的な状態へ
「感じている」という受動的な状態から、積極的に「感じる」という能動的な状態へ

■話す
・自分の声色に耳を傾けることで、自分の状態に気付く。
・ムカつくと思ったら、その感情を「 」でくくることで、そう感じている自分を客観視する=そういった感情が持ち上がってきているだけであると自己認識する。
・「ありがとう」という言葉を使わずに感謝の意を伝える工夫をする。例えば、「〇〇を美味しくいただきました」 「家族で嬉しくいただきました」など。

■聞く
・仏道本来の瞑想法は、瞑想の集中力を道具にして自分の心の動きを見つめる稽古であり、「音⇒何の音だろう⇒〇〇の音だ⇒うるさいなぁ」ではなく、「音⇒」で止める。
・普段から音を立てないで動作する練習をするで、脳に対する刺激を減らす(動作も丁寧になり見た目の美しくなる)
・相手の話を聴く際に重要なのは、相手の感情を浮き彫りにして受け止めてあげること。

■見る
・相手を見ながら、人は自分の評価を気にする=「慢」の煩悩

■書く/読む
・相手の自我を刺激しない書き方をする。「雨が続いてうっとうしいですねや「寒くて嫌ですね」にはこちら側の感覚の押しつけがあるために相手の自我を刺激してしまう。「雨を降ってすこしずつ湿度が上がってきた部屋からメールを書いています。そちらは快適にお過ごしでしょうか?」とじゃ「今、時計の針がちょうど12時をさしました」、「満月の晩に失礼します」等。

■食べる
・食べるための動作に鋭敏に意識を置く。手の筋肉、手に触れた触感、下に触れた触感を感じる。食器と箸も下に置いてかむことに集中することで、口の中の触感、味の変化、舌の動きなどを感じる。

■育てる
・相手を励ますことを口実にして、自分の「慢」を満足させていないだろうか?
・大切なことは、相手がいま何に困っていて何を望んでいるかが浮き彫りになるまでじっくりと話を聴くこと。
・相手の話が単なる愚痴で終わらないように、自分自身の考えを整理しなければならないような質問を重ねる。
・今、話すことによって心が穏やかになるか、汚れるのかを判断して、話す(行動する)か黙る(行動を止める)かを決める



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