自分が信じている(と思っている)仏教について、実は知識不足であることに気付き、仏教について色々と勉強しだした。この本は、ブッダの教えの本質である「無常・苦・無我」について教えてくれているためにとても理解が進んだ。教えの本質は、
・すべての現象や物質は変化して定まらない(無常)
・無常のものを自分でコントロールできると勘違いして(無我)執着してしまうことから苦が生まれる
・物事を認識する過程で自分なりの物語を勝手に妄想・幻想して煩悩を生み出してしまうことを止めて、ありのままを認知することにより煩悩から離れて涅槃の境地に入れる
と理解した。
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■ ゴータマ・ブッダの教え
律(僧侶のルール)では物の売買や金銀による取引も禁止されている。そうした一般社会(俗世)における労働・交換・取引には一切関わるな、というのが比丘たちに与えられた規範なのである。(略)出家者の目標が渇愛(愛執)を滅尽して解脱・涅槃に至ることにある以上、彼らが離れなければならないのは、単に直接的な性行為だけではない。解脱した者が捨て去っているべきなのは、軽重を問わず、異性に対する欲望や思慕にあたるものの全てである。(略)解脱・涅槃を一途に希求する者(出家者)たちに対して、農業であれ商取引であれ、あらゆる労働生産や生殖の行為は禁じられる。これはゴータマ・ブッダの仏教の基本的な立場の一つだ。(略)ゴータマ・ブッダの教えは、私たち現代日本人が通常の意識において考えるような「人間として正しく生きる道」を説くものではなく、むしろそのような観念の前提になっている「人間」とか「正しい」とかいう物語を破壊してしまう作用をもつものなのである。
■ 無常・苦・無我
・「原因によって生じたものごとは全て滅する」と如実知見する(ありのままに知る)のが仏教理解のはじめである。「すべての現象が原因(条件)によって成立していること」を法則として概念化したのが、いわゆる「縁起」の説である。(略)ゴータマ・ブッダの仏教において目指されていることは、衆生を「世間」(迷いの生存状態にある現象の世界)から「出世間」(迷いから脱した風光のこと)へと移行させることであり、その手段は縁起の法則によって形成された私たちの苦なる現状について、その原因や条件を徹見して消滅させることである。
・「苦」とは、欲望の対象にせよその享受にせよ、因縁によって形成された無常のものである以上、欲望の充足を求める衆生の営みは常に不満足で終わるしかないという事態をこそ意味する。現在の英語ではしばしがunsatisfactorinessという」単語が使われるのは、原語(dukkha)のニュアンスを正しく汲み取った適約だ。(略)マインドフルネスが日常化し、自分の行為に常に意識を行き渡らせている修行者は、縁生の現象の無常・苦・無我の性質をありのままに見て(如実知見して)それを実体視することがない。そして仮に内面に貪欲が起こったとしても、それもまた一つの現象として、ただ「ある」と気づくだけで執着に発展させることがない。
・ゴータマ・ブッダの立場は、一切を構成する六根六境(目・耳・鼻・舌・身・意と色・声・香・味・触・法)が欲望を伴った認知を形成した時、そこに「世界」が成立するのだというある種の観念論的な色彩を帯びる。(略)六根によって認知される六境に執着して喜悦することが苦の原因であり、苦を決する方法は六根によって認知される六境を歓喜して迎え入れ、執着することをやめれば、喜悦も滅するから苦は滅尽するのだとも説かれている。(略)六根六境が「滅尽」したときに存在しなくなったのは、認知そのものというよりも、そこにある「ある」とか「ない」といった判断を成立させる根底にある「分別の相」すなわち、拡散・文化・幻想化の作用であるpapanca(妄想・幻想・迷執を含むもの、渇愛・煩悩・我執に基づいてイメージを形成して現象を分別して多様化・複雑化させて「物語」を形成する作用)であろう。
・「無我」とは、「己の所有物ではなく、己自身ではなく、己の本体ではない」ということである。つまり「己の支配下にはなく、コントロールできない」ということだ。(中略)「苦であるものは無我である」と言われるのも、不満足というのは言い換えると「思い通りにならない」ということだ。(略)ゴータマ・ブッダが否定したのは、「常一主宰」(常に住であり、単一であり、主としてコントロールする権能を有する(主宰)もの)の「実体我」である。
・心にふと浮かんでくる欲望とはいうのは、「私」がコントロールして「浮かばせている」わけではなく、欲望はいつもどこからか勝手にやって来てどこかに勝手に去っていく。すなわち、私の支配下にある所有物ではないという意味で「無我」である。(カントによれば、心にふと浮かんできた欲望に抵抗できずに隷属してしまうことが「恣意の他律」なのだから、それは「自由」とは別物と考えていた)
・仏教の立場からすれば、衆生というのは業と縁起によって形成された枠組み(世間)の中で、条件づけられた欲望を持ち、条件付けられた欲望の対象を見出して、それらを次から次へと追い求めながら終わりのない「不満足」の生の繰り返しの中で盲目的に走り続けるものである。
・仏教の世界観によれば、私たちは過去に積み重ねてきた無量の業の結果として現在存在しているものであるのだから、私たちにはそのような無量の業の力(業力)が」作用しており、それば私たちに無数の行為の反復によって形成された行動と認知のパターン、いわば「癖」をつけている。そうした癖による心の」はたらきは汚れたものとして「煩悩」と呼ばれ、そのような煩悩で心の汚れた状態にあることは「有漏」と呼ばれているわけである。(有漏とは心に煩悩があって心が汚れている状態、無漏とは煩悩の汚れがない状態のこと。)
■ 解脱のためのマインドフルネス
・仏教における「転迷開悟」(迷いを転じて悟りを開く)の一つの意味とは、「衆生がその『癖』によって盲目的に行為し続けることを止めること」である。
・仏教界で盛んに語られる「気づき」というのは、解脱するための実践だ。この「気づき」のことを英語でマインドフルネスと訳していることが多いが、これは「まさに読んで字の如くで、一つ一つの」行為に意識を行き渡らせることによって、無意識的つまり盲目的に慣れ親しんだ不健全な行為を行ってしまうことを防止しようとするわけである。
■ その他
・「何が輪廻しているのか」という問題の立て方は、仏教の文脈からすればカテゴリーエラーの問いである。存在しているのは業による現象の継起だけなのであり、その過程・プロセスが「輪廻」と呼ばれれているのであって、そこに「主体」であると言えるような固定的な実態は含まれていない。人が死んで別の存在として生まれ変わる「転生」の瞬間だけにおきるものではなく、いま・この瞬間の現象の継起のプロセスとして生起し続けているものである。(略)「輪廻はない」と考えて、生の必然的な苦から逃避するために自殺したり目を背けつつ快楽だけを追い求めて一生を浪費す」したりするのではなく、現実存在する輪廻を正面から如実知見して、それを渇愛の滅尽によってのりこえようとすることが、ゴータマ・ブッダおよびそれ以降の仏教徒たちの基本的な立場である。
・ゴータマ・ブッダの仏教は、「一切衆生」を対象とするものではなく、あくまで語れば理解することのできる一部の者たちを対象とするものであった。(略)渇愛を滅尽し解脱に至った者たちは、存在することを「ただ楽しむ」のである。それは「欲望の対象を楽しみ、欲望の対象にふけり、欲望の対象を喜ぶ」ような執着によって得られる「楽しみ」ではなく、むしろそこからは完全に離れ、誰のものでもなくなった現象を観照することによって初めて知られ「最高の楽」というべきものだ。解脱者にとっては、悟後の行為はすべてが純粋な「遊び」である。遊びである以上、その仕方は自由だから、利他の実践へと踏み出す場合にその範囲や形式にかんしては、彼らに裁量の余地が存在する。
・「大乗」というのは奇妙な論理構成に依拠した宗教運動である。それは言い換えれば「菩薩乗」であり「仏乗」であって、つまりは現世における苦からの」解脱という自利を追求する阿羅漢ではなく、一切衆生を広く救済する自利・他利び完成者としてのブッダとなることを究極的な目標とし、自らをその過程にある菩薩として位置づけることをその本懐とする。(略)「大乗」というのは、一枚岩のものではなく、それ自体に多様性を含んだ複雑な宗教運動の総体だが、その根底には涅槃よりも世間を、」不生不滅の寂滅境よりは生成消滅の「物語の世界」をゴータマ・ブッダよりも高く価値づけようとするモーティブが基本的な方向付けとして働いている。
・仏教の本質が「脱善悪」であって「反善悪」ではない。善悪を」否定することも一種」のとらわれであり、それを超脱した境地を」目指すのである以上、修行者が日常の振る舞いにおいて善を行うことを否定する理由はない。「自業自得」という仏教の世界観からすれば、悪行為は修行者に苦の結果をもたらすものである以上、苦からの解脱を求める仏教者がそれを避ける理由はあるのである。
・テーラワーダ教理による煩悩の根絶方法:
① 戒によって、身と口の行為に表れる違反を対治して煩悩の彼分捨断、すなわち個別的な煩悩の一時的な排除を行う
② 定によって、意に纏いついている煩悩を対治して煩悩の鎮伏捨断、すなわち意識に表れる煩悩の抑制を行う
③ 慧によって、煩悩の潜勢力も対治して正断捨断、すなわち煩悩の根切りを行う。
・すべての現象や物質は変化して定まらない(無常)
・無常のものを自分でコントロールできると勘違いして(無我)執着してしまうことから苦が生まれる
・物事を認識する過程で自分なりの物語を勝手に妄想・幻想して煩悩を生み出してしまうことを止めて、ありのままを認知することにより煩悩から離れて涅槃の境地に入れる
と理解した。
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■ ゴータマ・ブッダの教え
律(僧侶のルール)では物の売買や金銀による取引も禁止されている。そうした一般社会(俗世)における労働・交換・取引には一切関わるな、というのが比丘たちに与えられた規範なのである。(略)出家者の目標が渇愛(愛執)を滅尽して解脱・涅槃に至ることにある以上、彼らが離れなければならないのは、単に直接的な性行為だけではない。解脱した者が捨て去っているべきなのは、軽重を問わず、異性に対する欲望や思慕にあたるものの全てである。(略)解脱・涅槃を一途に希求する者(出家者)たちに対して、農業であれ商取引であれ、あらゆる労働生産や生殖の行為は禁じられる。これはゴータマ・ブッダの仏教の基本的な立場の一つだ。(略)ゴータマ・ブッダの教えは、私たち現代日本人が通常の意識において考えるような「人間として正しく生きる道」を説くものではなく、むしろそのような観念の前提になっている「人間」とか「正しい」とかいう物語を破壊してしまう作用をもつものなのである。
■ 無常・苦・無我
・「原因によって生じたものごとは全て滅する」と如実知見する(ありのままに知る)のが仏教理解のはじめである。「すべての現象が原因(条件)によって成立していること」を法則として概念化したのが、いわゆる「縁起」の説である。(略)ゴータマ・ブッダの仏教において目指されていることは、衆生を「世間」(迷いの生存状態にある現象の世界)から「出世間」(迷いから脱した風光のこと)へと移行させることであり、その手段は縁起の法則によって形成された私たちの苦なる現状について、その原因や条件を徹見して消滅させることである。
・「苦」とは、欲望の対象にせよその享受にせよ、因縁によって形成された無常のものである以上、欲望の充足を求める衆生の営みは常に不満足で終わるしかないという事態をこそ意味する。現在の英語ではしばしがunsatisfactorinessという」単語が使われるのは、原語(dukkha)のニュアンスを正しく汲み取った適約だ。(略)マインドフルネスが日常化し、自分の行為に常に意識を行き渡らせている修行者は、縁生の現象の無常・苦・無我の性質をありのままに見て(如実知見して)それを実体視することがない。そして仮に内面に貪欲が起こったとしても、それもまた一つの現象として、ただ「ある」と気づくだけで執着に発展させることがない。
・ゴータマ・ブッダの立場は、一切を構成する六根六境(目・耳・鼻・舌・身・意と色・声・香・味・触・法)が欲望を伴った認知を形成した時、そこに「世界」が成立するのだというある種の観念論的な色彩を帯びる。(略)六根によって認知される六境に執着して喜悦することが苦の原因であり、苦を決する方法は六根によって認知される六境を歓喜して迎え入れ、執着することをやめれば、喜悦も滅するから苦は滅尽するのだとも説かれている。(略)六根六境が「滅尽」したときに存在しなくなったのは、認知そのものというよりも、そこにある「ある」とか「ない」といった判断を成立させる根底にある「分別の相」すなわち、拡散・文化・幻想化の作用であるpapanca(妄想・幻想・迷執を含むもの、渇愛・煩悩・我執に基づいてイメージを形成して現象を分別して多様化・複雑化させて「物語」を形成する作用)であろう。
・「無我」とは、「己の所有物ではなく、己自身ではなく、己の本体ではない」ということである。つまり「己の支配下にはなく、コントロールできない」ということだ。(中略)「苦であるものは無我である」と言われるのも、不満足というのは言い換えると「思い通りにならない」ということだ。(略)ゴータマ・ブッダが否定したのは、「常一主宰」(常に住であり、単一であり、主としてコントロールする権能を有する(主宰)もの)の「実体我」である。
・心にふと浮かんでくる欲望とはいうのは、「私」がコントロールして「浮かばせている」わけではなく、欲望はいつもどこからか勝手にやって来てどこかに勝手に去っていく。すなわち、私の支配下にある所有物ではないという意味で「無我」である。(カントによれば、心にふと浮かんできた欲望に抵抗できずに隷属してしまうことが「恣意の他律」なのだから、それは「自由」とは別物と考えていた)
・仏教の立場からすれば、衆生というのは業と縁起によって形成された枠組み(世間)の中で、条件づけられた欲望を持ち、条件付けられた欲望の対象を見出して、それらを次から次へと追い求めながら終わりのない「不満足」の生の繰り返しの中で盲目的に走り続けるものである。
・仏教の世界観によれば、私たちは過去に積み重ねてきた無量の業の結果として現在存在しているものであるのだから、私たちにはそのような無量の業の力(業力)が」作用しており、それば私たちに無数の行為の反復によって形成された行動と認知のパターン、いわば「癖」をつけている。そうした癖による心の」はたらきは汚れたものとして「煩悩」と呼ばれ、そのような煩悩で心の汚れた状態にあることは「有漏」と呼ばれているわけである。(有漏とは心に煩悩があって心が汚れている状態、無漏とは煩悩の汚れがない状態のこと。)
■ 解脱のためのマインドフルネス
・仏教における「転迷開悟」(迷いを転じて悟りを開く)の一つの意味とは、「衆生がその『癖』によって盲目的に行為し続けることを止めること」である。
・仏教界で盛んに語られる「気づき」というのは、解脱するための実践だ。この「気づき」のことを英語でマインドフルネスと訳していることが多いが、これは「まさに読んで字の如くで、一つ一つの」行為に意識を行き渡らせることによって、無意識的つまり盲目的に慣れ親しんだ不健全な行為を行ってしまうことを防止しようとするわけである。
■ その他
・「何が輪廻しているのか」という問題の立て方は、仏教の文脈からすればカテゴリーエラーの問いである。存在しているのは業による現象の継起だけなのであり、その過程・プロセスが「輪廻」と呼ばれれているのであって、そこに「主体」であると言えるような固定的な実態は含まれていない。人が死んで別の存在として生まれ変わる「転生」の瞬間だけにおきるものではなく、いま・この瞬間の現象の継起のプロセスとして生起し続けているものである。(略)「輪廻はない」と考えて、生の必然的な苦から逃避するために自殺したり目を背けつつ快楽だけを追い求めて一生を浪費す」したりするのではなく、現実存在する輪廻を正面から如実知見して、それを渇愛の滅尽によってのりこえようとすることが、ゴータマ・ブッダおよびそれ以降の仏教徒たちの基本的な立場である。
・ゴータマ・ブッダの仏教は、「一切衆生」を対象とするものではなく、あくまで語れば理解することのできる一部の者たちを対象とするものであった。(略)渇愛を滅尽し解脱に至った者たちは、存在することを「ただ楽しむ」のである。それは「欲望の対象を楽しみ、欲望の対象にふけり、欲望の対象を喜ぶ」ような執着によって得られる「楽しみ」ではなく、むしろそこからは完全に離れ、誰のものでもなくなった現象を観照することによって初めて知られ「最高の楽」というべきものだ。解脱者にとっては、悟後の行為はすべてが純粋な「遊び」である。遊びである以上、その仕方は自由だから、利他の実践へと踏み出す場合にその範囲や形式にかんしては、彼らに裁量の余地が存在する。
・「大乗」というのは奇妙な論理構成に依拠した宗教運動である。それは言い換えれば「菩薩乗」であり「仏乗」であって、つまりは現世における苦からの」解脱という自利を追求する阿羅漢ではなく、一切衆生を広く救済する自利・他利び完成者としてのブッダとなることを究極的な目標とし、自らをその過程にある菩薩として位置づけることをその本懐とする。(略)「大乗」というのは、一枚岩のものではなく、それ自体に多様性を含んだ複雑な宗教運動の総体だが、その根底には涅槃よりも世間を、」不生不滅の寂滅境よりは生成消滅の「物語の世界」をゴータマ・ブッダよりも高く価値づけようとするモーティブが基本的な方向付けとして働いている。
・仏教の本質が「脱善悪」であって「反善悪」ではない。善悪を」否定することも一種」のとらわれであり、それを超脱した境地を」目指すのである以上、修行者が日常の振る舞いにおいて善を行うことを否定する理由はない。「自業自得」という仏教の世界観からすれば、悪行為は修行者に苦の結果をもたらすものである以上、苦からの解脱を求める仏教者がそれを避ける理由はあるのである。
・テーラワーダ教理による煩悩の根絶方法:
① 戒によって、身と口の行為に表れる違反を対治して煩悩の彼分捨断、すなわち個別的な煩悩の一時的な排除を行う
② 定によって、意に纏いついている煩悩を対治して煩悩の鎮伏捨断、すなわち意識に表れる煩悩の抑制を行う
③ 慧によって、煩悩の潜勢力も対治して正断捨断、すなわち煩悩の根切りを行う。