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好きなことを好きなだけ楽しみたい欲張り人間の雑記帖

コージーミステリを読み耽る愉しみ その22 バブルズ・ヤブロンスキー(サラ・ストロマイヤー著)

2022年11月09日 | 小旅行を愉しむ
バツイチで子持ち(毎日髪の色が変わる高校生)の34歳美容師のバブルズが、自らの生活を変えようとコミュニティカレッジでジャーナリストの講座を取る。美容師として客の噂話に耳を傾けることが第二の天性となっているバブルズにとって、ゴシップ集めは大好物であり得意技。橋から身投げしようとした高校教師の取材で現場に潜り込んだところ、かつて物理を教えてくれた教師であることがわかり体を張って自殺を思いとどまらせる。この時に一緒に組んだカメラマン、スティレットがメグ・ギブソンばりのいい男だったので心はメロメロ。だが、今までの性生活から学んだ経験からしっかりと股は閉じたままにしておく。

事件解決した直後に母親がバスの乗っ取り事件を起こしたと聞いて現場にスティレットと急行する途中、早道として通った公園の中で人が死んでいるのを発見。側にあったレンジローバーに乗っていたのは地元有力者の若い妻。酒か薬でへべれけになっている。証拠写真のフイルムを渡してスティレットはズらかってしまう。地元警察との関係を考慮してのこと。残されたバブルズはヒールが道の割れ目に入ったかなにかで倒れて気絶。気付いたたら、手にしていた携帯電話と証拠写真フイルムがなくなっている。新聞社に戻ったバブルズは今見てきたばかりの事件を記事にする。地元有力者の妻を名指しで殺人と結びつけ、警察官の言葉を拡大解釈して台スクープに。翌日、有力者から訴訟すると脅された編集主幹から呼び出され事実確認をされたものの、証拠がない。新聞社は日和って謝罪記事を出し、その中で記者ノバブルズはボロクソに言われてしまう。自身も訴えられるおそれもある中、自分に掛かった汚名を晴らすためにバブルズは事件の渦中に飛び込んでいく。母親のルールーはぶっ飛んだ行動をするし、母親の同居人のジュヌヴィエーヴは傭兵も顔負けするくらいの戦闘オタク。家の警備のために有刺鉄線を張りめぐらし、廊下には小豆をばらまき、窓に乾燥豆とポテトのブービートラップを仕掛けてバブルズを守ろうとする二人。

母親と同居人、美容室の経営者、娘に助けられながらバブルズは事件の真相にグイグイと迫っていく。そこへ地元有力者が雇った殺し屋がバブルzを狙う。いつも寸前のところでスティレットが現れて命を取り留める。二人の関係に疑問を持ちつつ、遮二無二渦中へ飛び込み続けるバブルズ。そして、10年前の高校生チアガール自殺事件も字図からが信じていたように他殺であり、今回の事件とつながっていることをつかみ出す。そして汚名返上するのみならず記者としての実力もいかんなく見せつけて無事に美容師の職へと戻っていく。記者はあくまでも趣味としてやるだけと宣言。

作者のサラ・ストロマイヤーは、ジャネット・イヴァノビッチから励ましを受けてこの処女作を仕上げたと後書きにあったが、主人公ノバブルズはイヴァノビッチが書くステファニー・プラムにそっくり。素人ゆえのハチャメチャな行動、回りのやっかむくらいの男前でプレイボーイ(らしい)のスティレットからは深く好奇心を超えた複雑な心情を持たれている。そして、自ら墓穴を掘ったようにでいながら最後はしっかりと宝物を掘り当てるというラッキーさ。このシリーズは7作まで出版されていることがウィキペディアに出ていたが日本ではこの1冊のみのようなのが悔やまれる。

   ☆★☆★☆★☆★☆★

女装したゴジラでも見るような目でわたしを見つめていた。
天然素材にはアレルギーを持っているバブルズが好む服装はストレッチ・チューブトップとホットパンツ。髪は美容師として盛り上げており、化粧もばっちり。そんな恰好で事件現場に行ったがために、警官からこんな目で見つめられてしまう結果に。

わたしはタバスコにどっぷりつかった赤唐辛子よりも過激な女なのだ。
自分で自分を形容したことば。前後を考えないめちゃくちゃな行動が可愛く見えてしまう。

「いったい全体、あれは何だ。おっぱいのついたシャーマン戦車か?」
バブルズを助けに地元有力者邸に忍び込んだ完全武装のジュヌヴィエーヴを見て発せられた言葉。気取っていた名士も一皮むけば品のない男であることが暴露される台詞だ。
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そうだ、鎌倉に行こう ~その1~

2020年03月22日 | 小旅行を愉しむ
■円覚寺
JR北鎌倉駅東口を降りてすぐにある臨済宗の禅寺で、鎌倉五山の第二位のお寺。中国の宋から来た禅僧の無学祖元が開堂した折に白鹿が出現して説法を聞いたという謂れから、山号は瑞鹿山と名づけられた。寺内は広い。線路も県道も円覚寺の敷地内を貫いているのだとか。

総門と三門。




仏殿には、宝冠釈迦如来がおわします。


大方丈の奥にある庭園を方丈から見た様子と外側から見た様子がこんな感じです。




更に奥へ進む坂道の様子。桜がしっかりと咲き始めています。


入ることができませんでしたが書院の入り口には扇子が置いてあり、寺らしくない雅さがあります。



■東慶寺
別名、縁切寺。山号は松岡山で円覚寺派のお寺。開山は北条時宗婦人だった覚山志道尼。かつては、後醍醐天皇皇女や豊臣秀頼の娘が住職を勤めている。入るときに渡されるパンフの片面は、季節ごとに寺内で咲く花が写真入りで紹介されています。さすがに尼寺です。

入り口。


三門。


本尊である釈迦如来坐像が祀られている本堂前の桜は、三分咲き程度でした。



■浄智寺
五山第四位のお寺で山号は金宝山。臨済宗円覚寺派のお寺。
三門に掲げられている『寶所在近(ほうしょざいきん)』の文字は、開山の無学祖元の筆なのだとか。


珍しい唐様の鐘楼門は鐘つき堂を兼ねた山門で。2階の窓は花頭窓という花形の形で、中に梵鐘が下げられています。


本堂には、室町期作の木像三世仏坐像、阿弥陀・釈迦・弥勒の各如来が安置されており、その三つは『過去・現在・ 未来』の時を象徴しているのだとか。鎌倉地方に多く見られる、衣の裾を台座に長くたらした様式の如来です。

院内の奥のほうに布袋様の石像が祭ってあり、お腹をなでられるようになっています。



■明月院
紫陽花寺という別称の方が有名な臨済宗建長寺派のお寺。元々は平治の乱で死んだ山内首藤俊通の菩提供養のために創建された最明寺を前身とし、後に蘭渓道隆禅師が開山した禅興寺の塔頭となった。総門、三門ともに、塔頭という地位のせいか控え目です。


方丈の前には枯山水が配され、奥には庭園が配されています。


本堂越しに見える庭園と本堂に入って見える庭園です。聞こえるのがカエルの鳴き声だけという静謐な空間と時間を愉しんだ10分間でした。




6月の紫陽花の季節には、きっと綺麗なんだろうと想像するだけで愉しめるお寺でした。


■建長寺
正式には巨福山建長興国禅寺という名前で鎌倉五山の第一位の臨済宗建長寺派の台本山。


総門。


三門の楼上には五百羅漢などが安置されており、その下をくぐると心が清浄になることを祈念している。


仏殿には本尊の地蔵菩薩坐像が安置されている。


仏殿とその奥にある法堂。どちらも重要文化財。法堂には千手観音菩薩が祀られている。


龍王殿とも呼ばれる方丈には宝冠釈迦如来が祀られ、背後には大覚禅師が作庭した庭園があります。




方丈の正面にある唐門。元々は、崇源院御霊屋(今の仏殿)の唐門で、17世紀に移築されている。



■浄光明寺
真言宗のお寺で山号は泉谷山。皇室の菩提寺である京都東山の泉湧寺の末寺として建長三年(1251年)に創建。開祖は北条時頼(5代執権)と北条長時(6代執権)で、北条長時から始まる赤橋流北条家の菩提寺として位置づけられているお寺。北条氏滅亡後、足利尊氏が後醍醐天皇から謀反の疑いをかけられたことに苦悩し、戦いを決断するまでの一時期この寺に蟄居していたために、室町時代にはいって足利氏によって庇護された。

三門。


客殿には、本尊である阿弥陀如来像、観世音菩薩と勢至菩薩がその両脇に安置されている。2つの菩薩は首を傾げており、客殿入り口で屈んでみると、如来、菩薩の3体の視線が集まっているように工夫されている。

狭い石段を登っていくと、岩壁に大きなやぐらが掘られており、鎌倉二十四地蔵の一つに数えられている「網引地蔵」と呼ばれる石造地蔵菩薩坐像が祀られている。この地蔵は、由比ヶ浜の漁師の網にかかって引き揚げられたことから「網引地蔵」と名付けられ、背中には1313年の銘が刻まれている。





■寿福寺
正式名称は亀谷山(きこくさん)寿福金剛禅寺。臨済宗建長寺派。開基(創立者)は北条政子、開山(初代住職)は栄西で、本尊は釈迦如来を祀っている。鎌倉五山の第三位で、このあたりは源頼朝の父である義朝の屋敷があった場所とのこと。

総門からは次の門である中門までの参道は、桂敷きという技法の石畳で、その両側には木々が背高く植えられており、いかにも由緒正しいお寺っぽさが漂っております。そして、中門。


見ることができるのは中門までで、この先は非公開。調べてみると、特別公開されるのはお正月とゴールデンウィーのみ。残念でしたが、せめてもと思って中門から寺内を覗いてみました。


寺奥にある北条政子と源実朝の墓がありました。
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そうだ、北海道に行こう ~その7 虎杖浜温泉~

2019年11月02日 | 小旅行を愉しむ
札幌からJRで1時間ちょっと、登別の近くにある虎杖浜温泉に行ってきました。いつくは旅館があるようですが、離れて建っているので温泉街という賑やかな雰囲気はありません。それでもかけ流しの温泉が愉しめました。

夕食は、温泉旅館らしいメニューです。左奥は名物「白老牛」の陶板焼。


お品書きです。


肝心のお風呂ですが、露天風呂やサウナ・水風呂・気泡風呂があり、内湯には熱い湯、中くらいの湯、ぬるい湯の3種類の湯舟が用意してあるという豪華さ。私は、もっぱら露店でしたが。温泉、水風呂、休憩を3回繰り返すと、部屋に戻ってからも体がぽっかぽかです。「ぬめりのある褐色湯」と旅館紹介HPには記載がありましたが、ぬめりも色も普通でしたね。お湯は柔らかく、入浴後にローションを塗らなくても平気でした。
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そうだ、京都に行こう ~その4~

2019年10月26日 | 小旅行を愉しむ
■ 修学院離宮
10世紀後半に修学院という寺がここに建立されたのが地名の由来。この地に離宮を建てたのは後水尾上皇で、1655年から造営工事が起こされ1659年に完成された。この時は上と下離宮のみで、中離宮は後に建てられたという。総面積は54万5千平米を超え、高低40メートルの差も上手に使いながら設計された山荘。8万平米にも及ぶ離宮敷地内の水田畑地は、元々近所の農家の所有地だったものを、1964年に国が景観保持のために買い上げて今日に至っているのだそうだ。

下離宮の入り口である御幸門


車が無い時代に、上皇が御所からここに来るまでに相当な時間がかかったために、到着後にお休みになるお休み処として作られたのが下離宮にある寿月観。石段の上に見える建物がそれで、池泉観賞式庭園の中に建っています。


そして下離宮を出た門


杉並木の中を歩いていくと中離宮の入り口となります。




門を入って右を見ると松の木が庭の中央に鎮座しています。


中離宮の建物えある楽只軒(左)と客殿(右)。上・下離宮は別荘であったのに対し、中離宮は常時住まう住居であったために、いつ見ても飽きないように庭に設えが異なっているのだそうだ。


客殿の襖絵と、桂離宮の桂棚や醍醐寺三宝院の醍醐棚とともに「天下三棚」の一として知られる霞棚。


杉戸に描かれた鯉。この鯉は夜な夜な泳ぎに出るために網をかぶせたという伝説がある。


上離宮の入り口でる御幸門


門から石段を上った離宮内の最高所に茶室・隣雲亭があり、その横には滝が作られている。


隣雲亭から望む浴龍池。浴龍池は谷川を堰き止めて造った人工池で、堤防は高さ13メートル、延長200メートルに及び4段の石垣で補強されているが、武骨な石垣が見えないよう、3段の生垣と大刈込で覆ってあるのだそうだ。


浴龍池の周辺






浴龍池の中島に作られた窮邃亭(きゅうすいてい)。西側の景色が愉しむ際に西日を遮るために窓はこのように開ける仕掛けとなっている。


訪れたのが10月下旬で丁度の茸の季節でした。そのために、通路や庭のあちこちに茸がこれでも!というくらいに生えていました。




年に何回通ったのかは分かりませんが、これほどまでの別荘を建てられるのも権力者ならではなのですね。明治時代に入るまでは、離宮を取り囲む垣根もなく、自然に対して開放された山荘だったのだそうです。鷹揚な時代だったのですね。


■ 禅華院
修学院離宮の入り口からほんの50メートルも離れていないところにある小ぶりなお寺。事前に電話予約しておいたので、拝観することができました。

門は2階建てとなっており、上には鐘楼が乗っている珍しい構造の門です。


元々は天台宗に属していたが、1624年に大徳寺の禅師である清巌宗渭禅師(せいがんそういぜんじ)が来られて臨時宗大徳寺派に改宗。その時は開山。正式名は解脱山禅華院で釈迦如来を本尊として脇侍に観音菩薩と地蔵菩薩が配されている。
仏間


観音堂に安置されている円通菩薩像。


三面大黒天像。


観音堂のある仏間。




この大黒天絵は、省峯禅師が描かれたもの。夢のお告げで出てきた大黒天を1万6千枚描いて、信者に配ったところ、多くのお布施が集まったのだそうだ。さすがに大黒天さまのお力ですね。


庭は小堀遠州の作と伝えられている。ガラスも年代もので、近くに寄ってみる波打っているのが分かります。


中ほどに山形の石が置かれている。




開山された清巌宗渭禅師の絵と、代々の住職の絵も見せていただきました。




誰の作のものかは尋ねませんでしたが、こちらも見事でした。


こちらのお寺は常時開いているわけではなく、電話で事前に予約しておくと、住職さんが色々と丁寧に説明をしていただけます。説明の後は、お菓子と抹茶をいただきながら、小堀遠州作の庭をじっくりと拝見。たった一人の空間の中で何の音もしない時間を過ごしましたが、不思議と人寂しくは感じませんでした。

住職から聞いたお話し:
千利休の孫が、茶室を開く前に師匠であった清巌宗渭禅師をお茶に招いたところ、禅師は時間に大いに遅れてしまった。用のあった千利休の孫は弟子に言づけて外出してしまった後に清巌宗渭禅師が到着し、「懈怠比丘不期明日(けたいのびくみょうにちをきせず)」と書き置きして立ち去った。戻ってきた千利休の孫がこの書き置きを読み、自分の不明を恥じて「今日今日と言いてその日を暮らしぬる明日のいのちはとにもかくにも」と詠んで謝罪をしたのだとか。

こんなお話しが聞けるのも、予約して対応いただいたお陰です。ほんの小1時間の拝観でしたが、非常に愉しめる拝観となりました。ありがとうございました。


■ 法幢時
禅華院から蓮華寺まで歩いている途中に見つけたお寺。観光寺ではないので、参拝客は一人もいませんでした。


門とその左側にある毘沙門天の像。



本堂。


境内にあった可愛らしいお地蔵さんたち。



■ 蓮華寺
応仁の乱後荒廃していた京都駅付近にあった浄土宗系の古寺を、加賀前田家の老臣今枝民部近義が祖父の菩提のために、今ある地に移して再興した天台宗のお寺さん。山号は帰命山。本尊として釈迦如来を祀っている。

大通りからちょっと入ったところにある門。


入り口の石像


仏間の軸


庭園は江戸初期の豪華な石組を誇る名園で、何と言っても柱と鴨井、床とが絶妙な額縁となって、目を愉しませてくれる憎い構図となっています。紅葉には早かったですが、葉が色づく前であっても何時間も座って見続けて飽きることのない見事な景色でした。








本堂側から見た庭。





■ 瑠璃光院
蓮華寺からバス1駅離れた風光明媚な八瀬にあるとっても有名なお寺。浄土真宗東本願寺派で無量寿山光明寺瑠璃光院が正式名称のお寺。




この瑠璃光院を有名にしているのは、窓越しに見ることができる風景と部屋の写経机に映る景色のバランス。写経机が憎いくらいにピカピカに磨きこまれていて、フォトジェニックな環境を作り出しています。






紅葉の時期には、寺の前に列ができて整理券を配るくらい人が集まるのだとか。訪れた10月下旬は紅葉には早かったですが、それでも多くの人が経机に映る景色を狙ってカメラを構えていました。

2階からの景色の他にも、臥竜の庭という名の池泉庭園や山露路の庭という名の庭もあり、さすがに景勝地である八瀬ならではの見処多いお寺さんです。










2階から臨む八瀬の風景。


出口近辺の戸口から見る裏庭。


入り口に建ててあった立て札。


書院2階の写経机が有名なために、参詣というよりも撮影会という雰囲気がいっぱいのお寺です。寺側も事情が分かっているので、拝観料は2千円と高めに設定しています。写真を撮るために一度は行ってもいいけれども、景色を愉しむのであれば蓮華寺の方が私は好みです。


■ 青蓮院門跡
天台宗総本山比叡山延暦寺の三門跡の一つで、天台宗の京都五箇室門跡の一つ。山号はなし。開基は伝教大師最澄、本尊は熾盛光如来(しじょうこうにょらい)。明治に至るまで、門主は殆ど皇族であるか、五摂家の子弟に限られており、皇室と関わり深いお寺。門跡(もんせき、もんぜき)とは、皇族・公家が住職を務める特定の寺院のこと。


寺内で最も大きな建物である宸殿。「宸」は皇帝の意で、有縁の天皇の位牌を祀る堂のこと。奥にある建物は鐘楼で、自由に撞くことができます。


宸殿前の庭には、右近の橘と左近の桜が配されている。


龍心池を中心とした庭園は、室町時代の相阿弥の作と伝えられ、粟田山を借景にしてその山裾を利用した池泉回遊式のお庭。




正式の玄関な入り口である大玄関


この寺の良さは、気取らないところだと思う。小御所の座敷に座って、いつまでもボッーと庭を眺めていられる雰囲気だったが、外国人たちが縁側にボッーと座ったままだったので、私が居る場所が確保できませんでした。


■ 知恩院
言わずと知れた浄土宗総本山の寺院。浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、現在のような大規模な伽藍が建立されたのは江戸時代以降である。詳名は華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざん ちおんきょういん おおたにでら)。本尊は法然上人像(本堂)および阿弥陀如来(阿弥陀堂)で、開基(創立者)はもちろん法然。



山門は国宝です。


山門を裏側の石段の上から撮ったもの。


御影堂は修繕中でした。


御影堂横から見える寶佛殿。


境内の奥にある勢至堂(せいしどう)が建つ地は、法然上人がお念仏のみの教えを広められた大谷の禅房の故地であり、知恩院発祥の地。もともとは法然上人のご尊像を祀っていたが、御影堂が建立された折に移されたため、勢至菩薩像(重要文化財)を本尊として祀ってある。


千姫(徳川秀忠公の長女)の墓その先にある濡髪大明神。御影堂ができたために住家を追われたキツネが、知恩院第三十二世雄譽霊巌(れいがん)上人にお願いし、代わりに用意してもらったのが、この「濡髪大明神」なのだそうだ。「濡髪」が艶やかな女性の姿をイメージさせることから、祇園町のきれいどころの信仰を集め、今日では縁結びの神様「濡髪さん」として親しまれていますのだそうです。


広大、というのが強い印象。まず、山門の大きさに驚く。石段を上がって目の前に広がるのが広々とした空間の中に建つ巨大な建物。奥に行くと奥には別の建物や墓地がある。総本山という位置づけが持つ力を見せつけられるお寺でした。
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そうだ、京都に行こう ~その3~

2019年10月25日 | 小旅行を愉しむ
■ 地蔵院(竹の寺)
延命安産の地蔵菩薩を本尊とする臨時禅宗のお寺で、正式名称は衣笠山地蔵院。室町時代の管領・細川頼之が貞治六年(1367年)に夢想国師の高弟宗鏡禅師を招請して伽藍を建立。宗鏡禅師は恩師の夢想国師を開山に仰いだために開山は夢想国師となっている。その後に北朝の三天皇の勅願時に準ぜられたために末寺を26カ寺、諸国に領地を54カ所も持つ一大禅寺となったが、応仁の乱で灰塵と化した。細川家の援助等により明治時代に復旧して今の形になった。「竹の寺」と呼ばれるくらい、門を入った両側には竹がみっしりと植えられている。


庭は十六羅漢の庭と呼ばれる平庭式枯山水庭園で、十六羅漢の修行の形を表しており、石の一つ一つは羅漢(悟りを開いた高僧)を意味している。この寺の羅漢は、男山の八幡宮に願をかけているので、その方向(左手後)に少し傾いているのだそうだ。


茶室の窓の形は猪目窓という名称で、部屋の外の景色が上手に切り取られて愉しめるように考えられている。ちょうど「コケ寺リウム」という催しがなされており、各寺院の象徴的な建物などのジオラマと庭園を苔で再現したガラス容器のミニチュアアートが展示されていた。


こちらが「モシュ印」で、モシュ印&コケ寺リウムのキャンペーンサイトはこちら


一間には、細川護熙元首相の手になる瀟湘八景の図が描かれている。中国・湖南省の瀟水と湘水が合流して洞庭湖に注ぐ地域の勝景八つを選んだものだそうだ。


決して大きな寺ではないが、縁側から庭園をゆったりと眺められる手ごろな寺でした。


■ 西芳寺
苔寺という名称で世に知られている臨済宗の有名なお寺さん。山号は洪隠山で、元々は天龍寺の境外塔頭だったが、現在は離脱して単立寺院になっている。本尊は阿弥陀如来。聖徳太子が創業、8世紀前半に行基が開山。庭園は1339年に夢想国師が中興した鎌倉式で、上段は枯山水式、下段な池泉廻遊式の二段構えになっている。

大通りから10分弱歩いていくと立派な門が見えてきますが、使用している奥にある門から入ります。


拝観時に使用されている門はこちら。


入って左側には本堂、右側には青々とした木々が茂っておりました。








庭園に入る前の休憩所にあった手水鉢。これを見ると、ほっと力が抜けたのがとても不思議。


庭園内は120種類以上もの苔に覆いつくされているそうですが、違いはよく分かりません。庭園下段の中心は心の字を象った黄金池で、2つの茶室があり、一つは湘南亭という国の重要文化財だそうですが、正直言って古く寂れたぼろ屋にしか見えませんでした。


こちらは、もうひとつの茶室である潭北亭。


世界的に有名なお寺であるだけあって、拝観は事前予約が必要。立派なHPがありますが、予約は往復はがきにて受け付けています。私が行ったのは午前10時の会で、70~80人の会でした。外国人も多く、英語圏よりもフランス語圏の方が多かったように思います。庭の参観は写経をしてから許される仕組みで、早めに写経を終わらせた私は暫くは一人で庭を愉しむことができました。

庭の印象はと言えば、確かに苔で覆われた美的な空間なのでしょうが、あちらこちらに茶色になった苔が見られました。昨今の環境変化の影響なのか、それとも維持が追い付いていないのか。写真にあるような緑の苔の絨毯というわけにはいきませんでした。


■ 桂離宮
本日のメインイベントが桂離宮。17世紀初めに建てられた宮家の別荘。総面積は6万9千平米。建築家のブルーノ・タウトが「泣きたくなるほど美しい」と評した日本建築物を始めて見学できることに心が逸る。宮内庁のHPから事前に予約しておいたので、予約時間の12時ちょっと前に現地に到着。

ツアーが始まり、何てことない門をくぐる。


と、そこに広がったのは異次元ワールド。入り口が何気ないだけに、くぐった先に眼前に広がる光景は、広くて鮮やかで息を呑むほど美しかった。前後のギャップが見事なうっちゃりをかましてくれました。






庭園内には4つのお茶室があるのですが、第一の茶室に入る前の控えの場の足元に敷き詰めてある石。道なりが曲線であるために入り口から控えの場が見えず、又控えの場からも入り口を見えなくすることで、それまで属していた空間から切り離される感覚をもたらしてくれる。しかも、足元の石は、小さな石から徐々に大きくすることで遠近法を活かした空間設計がなされているという凝りよう。


自然のままの石と切って加工した石とが組み合わせれ、漢字でいう行書体(茶道でいう真行草の行)にあたる格式を表しているのだという。


そして、いよいよ最初の茶室である松琴亭。




茶室の前に広がる池の景色。




二番目の茶室は賞花亭という名前で、夏を愉しむための作りのために江戸時代の茶店のような佇まい。説明されないと、これが茶室だとは思わない。池を眺めるための休憩所かと勘違いしてしまいそうな簡素な作り。

三番目の茶室は笑意軒。秋を愉しむための茶室なのだとのこと。




笑意軒から右手にある渡橋と池の風景。


離宮にある石灯篭は背が低い。これは、当時の愉しみがお茶、月見、舟遊びであったために、目障りにならないように低くしてあるのだとか。


四つ目の茶室は月波楼。ここの奥座敷からは池は見えず、その代わりに月を眺められるように開放的なつくりになっている。


お泊りになられる新御殿。


新御殿から続く古書院からの出口である中門。




1時間ほどの拝観の間に何度も息を呑みこむほど、この上なく美しく、古来の日本人の風雅な世界が建物と庭園とが一体化した空間芸術として昇華した傑作なのだと思う。


■ 霊亀山天龍資聖禅寺 (天龍寺)
臨済宗天龍寺派の大本山で、1339年に亡くなった後醍醐天皇の菩提を弔うために足利尊氏が創建。開山は夢想国師。


広大というのが第一印象。門をくぐってから左右に塔頭が数多く並んでいる様は、さすがに大本山だと思させるに十分な貫禄があり、拝観する前から期待が盛り上がってくるのが分かる。庫裏の白い壁がシンプルだが力強く印象的で、中に入ると達磨禅師絵と本尊が出迎えてくれる。






大方丈の中にあった雲龍襖絵は若狭物外(わかさぶつがい)画伯が描いたもの。




「方丈」の扁額は関牧翁老師(天龍寺第8代管長)の筆で、中には藤原時代の釈迦如来坐像が安置されている。


大方丈の前にある曹源地の景色が見物でした。池中央正面にある鯉魚石を配した2枚の巨岩を龍門の滝として、龍と化す途中の姿を現している。曹源池の名称は国師が池の泥をあげたとき池中から「曹源一滴」と記した石碑が現れたところから名付けられたという。
正面から見た曹源地。


右側(書院・小方丈)から見た曹源地。嵐山が借景となっている。


左側(大方丈側)から見た曹源地。


広々とした開放的な庭園とそれを縁取る緑の木々が美しく、あちこちに腰かけて見る方向を変えると庭の構図が別のものとなって様々な味わいが愉しめる。日本で最初の史跡・特別名勝指定となったのも頷けるお寺でした。


■ 常寂光寺
1596(慶長1)年に創建された日蓮宗の仏教寺院で、山号は小倉山。百人一首にも読まれた紅葉の名所「小倉山」の中腹にひっそりと佇むお寺ではあるが、山の傾斜を利用してあるために高低差がかなりあって、実際よりも広く感じられる寺です。山門から仁王門、本堂、さらには多宝塔へと続く山道は上り路ですが、青々とした木々と苔に囲まれる風情はとても素晴らしい反面、訪れる観光客も多くないせいか人寂しさを感じてしまうお寺でした。

山門


茅葺の屋根のある仁王門。 境内建築物の中で最も時代の古い建物で、その先に傾斜のある石段が続きます。


本堂


境内はこんな感じで、美しく苔や竹、木々に覆われています。




京都の街を一望できる高台に建つ多宝塔。


この前から見渡す京都市街。



■ 祇王寺
嵐山の奥に建つ竹林と楓に囲まれたつつましやかな寺院。寺院というよりも草庵と呼んだ方が適した風合いのお寺。山号は高松山、院号は往生院、本尊は大日如来の真言宗大覚寺派。平家物語にも登場する白拍子の祇王が庵だ尼寺。

入り口を示す標識。


そして門。非常に地味です。


庭園は非常に小ぶりで、ゆっくりと歩いても2分あれば一回りできる程度の大きさですが、苔の美しさは半端ない。私は苔寺よりもこちらの苔むす庭の方が好みです。










敷地の隅には、祇王と平清盛の墓が並んでいます。


悲劇のヒロインが入寺して草庵だけあって、華麗さはないものの、しっとりとした落ち着きがあるお寺です。庵の中に座って庭を眺めていると、悲恋の物語のせいか、ここだけ俗世とは隔離されて時間がゆっくりと進んでいるように感じられる不思議な時空に彷徨ったような感覚になった一時でした。小ぶりの雨の中での参拝だったために、青々とした苔が特に引き立って愉しめた時間でした。

このお寺もモシュ印&コケ寺リウムのキャンペーンに参加しておりました。




モシュ印



■ 大覚寺と大沢池
嵯峨天皇が檀林(だんりん)皇后と成婚した際、新たな居住地として作った離宮「嵯峨院」を、弘法大師・空海が876年(貞観18年)に寺院として改めたために真言宗大覚寺派の総本山となったお寺。

入り口の門。


明治時代初頭まで、代々天皇もしくは皇統の方が住職を務めた寺院でもあるために、門には菊のご紋がついていました。


心経宝塔


書院造の正寝殿には狩野山楽(かのうさんらく)筆の襖絵や墨絵などの障壁画が多数所蔵されている他、宸殿(しんでん)には狩野山楽筆の牡丹図・紅白梅図など貴重な重要文化財があるとのこと。




そして、大覚寺の隣が日本最古の林泉式庭園である「大沢池」。平安時代に唐の洞庭湖(どうていこ)を模して造られ、池畔に桜や楓が約700本、約3,000株もの蓮が自生している。






JRのキャンペーンポスターでは、池畔の桜が咲いている景色や紅葉のもみじが美しかったが、10月下旬は大したことありませんでした。

■ 渡月橋
嵐山といえば、外せないのが渡月橋。川の水が多かったために、音をたてて流れゆく水の勢いがダイナミックで一興でした。




橋のすぐ横に日帰り温泉がありました。


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そうだ、京都に行こう ~その2~

2019年09月15日 | 小旅行を愉しむ
■ 下鴨神社
正式な名前は賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)。星の数ほどお寺がある京都でも、最古参の部類に入る由緒正しいお寺さんとのこと。説明員の方が、境内である糺の森(ただすのもり)から、弥生時代のものと見られる品々が発掘されているとお話しされていました。この糺の森(ただすのもり)というのが広い。鬱蒼と木々が茂る12万4千平米の敷地(甲子園球場の3倍の広さ)の中に、下鴨神社とその末社が点在しています。




楼門をくぐった先が本殿。結婚式が何組が予定されておりました。


本殿には、祭ってあるのが賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)と玉依姫命(たまよりひめのみこと)。川から流れてきた矢を拾って持って帰った玉依姫命が身ごもり男の子(賀茂別雷命)が生まれた。賀茂別雷命が成人し、その祝宴の席で祖父の賀茂建角身命が「お前のお父さんにもこの酒をあげなさい」と言ったところ、賀茂別雷命は屋根を突き抜け天に昇っていったので、この子の父が雷神であることがわかったという言い伝え。

期間限定の特別拝観で見ることができた一つは大炊殿(おおいどの)。こちらも重要文化財。


京都のお寺は拝観料を取るが、神社は取らないと言う。そのためか、下鴨神社のトイレには紙が置いておらず、自販機で購入することになっている。昔の鉄道駅のトイレみたいに。ちょっといただけない。


■ 河合神社
糺の森の中にある神社。神武天皇の母を祭っているという。




方丈記で有名な鴨長明は、この河合神社の禰宜の職に就任を望んだが叶わず、出家して閑居生活を行った折に書き記したのが方丈記だとか。鴨長明は不遇な人生を送ったらしく、下鴨神社の神事を統率する禰宜の次男として生まれながら、神職としての出世の道を閉ざされ、その後源実朝の和歌の師として鎌倉へ下向したものの、受け入られず失敗しているのだそうだ。方丈記のベースに流れる無常観は、こんな人生から生まれたのだろう。


■ 京都御所
総面積65ヘクタール(65万平米)の京都御苑の中心部にあり、南北450メートル、東西250メートルの築地塀で囲まれた中にある、昔の皇居ですね。塀はこんな感じ。


天皇しか通れな正式な門である建礼門。退位された現上皇も、退位された後はこの門ではなく、東側にある建春門を使われるとのこと。


日常の生活の場であった清涼殿。


こちらは大正天皇がお越しになる際に作られた新御車寄。自動車が横付けできるようになっている他、御所の中で電気の照明が入っている唯一の建物なのだそうだ。


御学問所


御学問所前の庭園。


日本国のトップが暮らされ、政をされていた場所であるだけに、きびしい身分の分け隔てがあちこちに見られる。例えば、殿上の間という控え室が3つ続きであるのだが、右2つ(虎と鶴の間)は車寄から入れるのに対して、諸太夫の間は車寄から歩いて軒先まで行き、履物を脱いでしか部屋に入れない構造になっている。出入りする門が厳格に定められていることは先に書いたとおり。

面白かった情報として、御所の屋根には3種類ある。瓦と銅版葺き、そして檜皮葺(ひわだぶき)。高貴な方が暮らされる建物には瓦は使われないとのこと。理由は、人が足で踏んだ土を材料にして作った瓦を頭の上に置くことは高貴な方には相応しくないからとのこと。そう言われて門を見てみると、天皇しか通れない建礼門の屋根は檜皮葺であったのに対して、我々が使用した清所門の屋根は瓦葺でした。

また、御所の北東(鬼門)には小さな凹みがあり、鬼門を守る猿が据えられている。北東方向には比叡山があり、これも京都を守るためにここに延暦寺が建てられた。なぜ猿なの?と訊いたら、一説では北東と逆の方向(申の方角)とすることで、鬼門がどんどん遠くに外れていくことを期待したという説と、災いが「去る」に引っ掛けたという説があると説明員が教えてくれました。


■ 京都迎賓館
何ヶ月か前に、NHKでこの京都御所の番組を観て、ぜひ訪れてみたいと思っていました。宮内庁HPから予約が必要ですが、空きがあれば当日でも受け付けてくれます。日本という国、そして千年の都である京都という意地、この2つが重なり合って、それはそれは見事な建物と調度品でした。

正面の車寄せ。


正面玄関扉。檜の一枚板、そして七宝焼きでつくられた手すりが見事


扉が開くと、庭園が正面に見通せる設計です。


建物に入って右に折れた廊下がこんな感じ。和紙を通した柔らかい明かりに照らされて、ほっと肩から力が思わずに抜けてしまうような感覚に陥ります。




その先にあるのが聚楽の間。控えのための空間です。ここには外の明かりが入らないために、椅子は、色が鮮やかな赤を基調とした西陣織の布を使って作られている。


椅子の前には、京都美術館から訪問する賓客に合わせて絵が借り出して展示される。観覧した際に展示されていた1対の絵はこちら。波の揺らぎが立体的に表現されていて、思わず「欲しい!」と感じてしまいました。


一つ目の大広間は夕映えの間です。


二つ目の大広間は藤の間。絨毯敷きで、洋食に対応できるようテーブルセッティングが部屋の片隅に展示してありました。


テーブルの上には食器類が展示されており、


カトラリー類も見事としか言い様がない。


部屋の全景はこんな感じですが、天井の照明も3段に上げ下げができるようになっている。


部屋奥の扉には、金とプラチナ箔が伝統技能「截金」という技術で装飾されている。人間国宝の故 江里佐代子さんの作品で、金と銀が互いの美の長所を引き立て合いながら、二つの色が交差するさまに、「人と人との出会いもそうありたい」との願いが込められているのだとか。作品名は、「響流光韻(こうるこういん)」。その華麗さには思わず目をみはるとともに、製作している間は途轍もない緊張感だったろうという想いと、半端ない熟練の技ゆえの作品だと思うと、思わずため息が漏れる


三つ目の大広間である桐の間は和室。掘りごたつ風になっており、その上には見事な漆塗りの大テーブル。


正面から見た様子。


椅子の背には、五七の桐の紋が蒔絵になって入っています。この五七の桐は、元々は皇室の裏紋として使用されていたものが今では日本国政府の紋章として使用されており、そのため京都御所だけでなく御所を紹介するHPにもしっかり入っています。各椅子の背にも紋が入っているのですが、椅子ごとに色合いが少しずつ違っているという手の懲りよう。


そして庭園がこちら。隠されて見えないが、底の浅い和舟で舟遊びができるようになっている。


一つ目の大広間前の廊下の上段から覗く庇に、庭園の池に反射した光があたり、えも言われぬ風情を醸し出していたのが今でもまじまじと蘇ってきます。眼福という言葉はこのためにあるのかと思えるほどの至福の時間を過ごすことができました。場所は、京都御苑の中、京都御所の東側です。


■ 仙洞御所
京都御所の南東、京都迎賓館の南側にある御所。京都御所は天皇が暮らし、政を執り行うための場であるために、退位して上皇となられた方々が暮らすための場として作られたのが仙洞御所です。

こちらも塀に囲まれています。


生活をされる場である建物がこちら。元々は、当たり前ですが和風だったものを、英国エドワード皇太子が訪問された折に、内装を洋風に変えたのだそうです。今でもベッドが設えてあり、エアコンも完備されているとのこと。今でも皇室の方がお泊りされるそうです。




庭園は回遊式で、どの位置から見ても愉しめる設計になっていることと、紅葉が多いために秋には事の外綺麗に色づくそうです。






藤棚のある橋、そして所々に南天が植えられており、藤色に染まる中での赤はさぞかし印象的な風景なんでしょうね。この御所も、京都御苑の中にあり、京都御所の南東に位置している。
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そうだ、京都に行こう ~その1~

2019年09月14日 | 小旅行を愉しむ
■伏見稲荷大社
全国にある、その数約3万社と言われる稲荷神社の総本宮です。


そもそもは、平安建都に先立つ711年に、渡来人であった秦氏が、神を祀ったのが始まりとのこと。
立派な鳥居をくぐると、その奥にあるのは豊臣秀吉が1589年に寄進した楼門。見栄えがして、観光客にとっては無視することの出来ない撮影スポットです。




装飾が豪華な本殿は1499年の再興。


お稲荷さんと言えば、守護神はこちら。いろんな種類の狐さまが鎮座されております。




ちょっと変わり種もありました。


一つの山、稲荷山をそのまま使ったので、本殿から続く約4キロの行程には、千本鳥居と言われる寄進された鳥居がびっしりと並んでおり、その様は壮観です。本殿から登っていくと、最初は人が数珠つなぎになっていますが、三ツ辻になるとぐっと減って、そから頂上まで登る人は少なかったです。何分歩いたか分らない位歩いて、やっと到着した頂上です。先日言った高野山はフランス人が多かったが、伏見稲荷大社ではスペイン語圏の人が多かったです。なぜなんでしょう?



■東福寺
とにかく広い。入って感じた第一印象は、でかい。本堂もでかいし、山門も立派。敷地も広く、とにかく広い。創建は鎌倉時代。時の摂政関白だった藤原(九条)道家が、南都東大寺と興福寺から「東」と「福」の二文字をとり、九条家の菩提寺として19年もかけて造った。京都五山の一つで、当初は天台・真言・禅宗の三宗兼学だっだったが、後に臨済宗東福寺派の大本山になった由緒あるお寺さん。見る者を圧倒する立派な山門(国宝)は日本最古のものとのこと。






方丈 八相の庭と言われる枯山水の庭も美しい。昔からある庭園なのかと思いきや、昭和14年に重森三玲が作庭したもので、近代禅宗庭園のモデルになっているらしい。






通天橋からは、眼下に流れる三の橋川の渓谷が見渡せ、紅葉が多く植えられていることから、さぞかし紅葉の頃は綺麗だろうと想像されます。


13世紀に開山された聖一国師は、中国・宋に渡って修行されました後帰国し、天皇より国師号を初めて送られた禅僧だそうです。


■芬陀院
東福寺の塔頭の一つで、雪州が石で描いた枯山水の庭園があるお寺です。そのため「雪舟寺」の別名もあるお寺。創建は鎌倉時代後期、後醍醐天皇の時代で一条寺の菩提寺。


茶道を愛したために「茶関白」と呼ばれた一条家14代の関白一条恵観が、この院にある茶席図南亭にて茶を愉しんだとか。その茶室の隣にあった部屋の窓からお庭を窺うとこんな感じになります。



■勝林寺
東福寺の北側にあるお寺の一つ。ついでに回ろうと思って訪れたところ、受け付けのおばさんで「4時までです」とつっけんどんに言われで拝観を拒絶されました。時計を見ると4時2分。




庭先の説明書には、「吉祥天様のご加護が御座いますように...」と、他のお寺にはない訪問者を考えた表現があったので、こころがほっこりしたい矢先に、冷たい対応をされてショックでした。、



■ 番外編 ラーメン藤
京都にチェーン店を数多く持つラーメン藤の本店がホテルの斜め向かいにありましたので、食してきました。


スープはしょうゆ味。色こそ薄いですが、塩気が強いスープです。ネギがいっぱいのっているのが嬉しい。


麺は細めん。いかにも細めんらしい、蕎麦っぽい味わいのしこしこした麺でした。
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そうだ、京都に行こう ~宇治編~

2019年09月14日 | 小旅行を愉しむ
■平等院
宇治と言えば、平等院。京都駅からJR奈良線に乗って行ってきました。快速急行に乗れば所要時間は20分もかかりませんでした。
門を正面右から撮ると、こんな感じ、

門を裏側から撮ると、こんな感じ


そして、肝心の平等院の建物はやはり神々しかったです。


建てられたのは1052年。日本史の平安・摂政時代に燦然と輝く人物、藤原道長の別荘だった屋敷を、子の頼道(これも摂政)が、仏教の説く極楽浄土をイメージして阿弥陀如来を安置するように寺院に改めたもの。池を前にして静かに佇まう雰囲気と屋根の上で輝く一対の鳳凰(国宝)、鳳凰堂の中の阿弥陀如来坐像と二重天井(これまた国宝)、その他数々の菩薩像を始めとする美術工芸品を見ると、当時の人が死後の世界を本当に恐れて、仏教にすがった様子が分かる。




でもね、別荘だったといっても、どこで生活していたのでしょう?真ん中の鳳凰殿はともかく、両脇の翼廊には屋根こそあれ壁がない。当時の権力者が利用する建物自体としては、さほど大きくはないなぁ。
それでも、池に映る姿と一体になった姿は美しい。


■興聖寺
宇治川を渡って10分ほど歩くとある、曹洞宗の最古の寺院。1233年に中国から帰朝された道元禅師が日本で初めて開かれた禅宗寺院。事前に予約すると、1000円で座禅体験ができるのだそうだ。



琴坂と名づけられた坂を登った先に山門があり、その奥に法堂を始めとする建物が建てられている。中には、檀家と見られる有力者一族の位牌が祭ってある殿もあり、お金がある一族は宗教の世界でも別格扱いなのが如実にわかります。



法堂では、見るからに位の高そうな御坊が5人の坊さんを引き連れて、誦経しておりました。

■宇治上神社
本殿は平安時代後期の造営で、神社建築としては現存最古で、国宝。しかも、ユネスコの世界遺産に「古都京都の文化財」の構成資産の1つとして登録されている。でも、見た感じは大したことなかったなぁ。





■三室戸寺
宇治上神社から徒歩20分くらいかな。裏山から千手観音が出現し、その像を祀っているお寺。土地の傾斜を利用した5千坪の庭園があり、蓮の季節には綺麗なんだろうと思わせてくれる。





■宇治茶道場
宇治川沿いにある京都府茶業会議所が、お茶を美味しく、楽しく飲んでもらおうと開いた茶房。おばさまたちが美味しいお茶の入れ方を教えてくれました。
私が選んだのは抹茶、しかも冷たい抹茶。店構えと店内はこんな感じ。




そして、一式が出されます。ガラスの器が涼しげで、夏向きでした。


おばさまの教えに従いつつ、冷たい水を注ぎ入れて抹茶粉を茶筅でダマにならないように溶かします。


ダマがなくなったら、向こう側から手前側に茶筅を勢いよく動かして、泡を立てます。茶道でやるようにかき混ぜるのではないのですね。そして、泡に艶が出てきたら、茶筅をゆっくりと回して泡を中央に寄せて、出来上がり。


私が冷たいお抹茶でしたので、これに氷を入れて飲んだところ、渋さが少なく、ほんのりとした抹茶らしい甘みが口の中に残りました。


■地元のスイーツ
旅行ガイド本で紹介されていたご夫婦でやられているスイーツ店、シェ・アガタで、アガタロールをいただきました。宇治抹茶を使って旨味をぎゅっと凝縮したスイーツです。




宇治の全体像がよく分かるイラストマップがあったので重宝しました。

実物はこちらから。
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そうだ、高野山に行こう

2019年09月08日 | 小旅行を愉しむ
我が家の宗教は真言宗。両親ともに看取って、喪主として葬儀も出したので、しっかりと覚えています。でも、京都旅行でお寺産を拝観する際には、宗派など決して気にしないのですが、ふと我が家の宗教の大本山を一度でも見ておかないといけないなぁと思い立ち、大阪出張の折に高野山まで足を伸ばすことにしました。

高野山と呼んでいますが、高野山という山があるわけではなく、和歌山県の紀伊山地の一部に今から1,200年前に空海が真言密教発祥の地とし、「山内全体が金剛峯寺というお寺の境内である」という考えに基づいて作られた地域一帯のことだそうです。ここには117もの寺院があり、約4,000人が居住しているとのこと。そのうち1,000人ほどが真言密教のお坊さんで、真言密教の修行をしながら生活をしているのだそうです。

朝早く(とは、言っても9時前)の新幹線に飛び乗り、新大阪着が11時前。ゆったりとは言えないまでも、しっかりと高野山を見てこれるだろうと思ったのが甘かった。新大阪から高野山まで片道2時間以上かかるのですね。

南海電鉄の難波でお得な高野山・世界遺産きっぷなるものを買って、難波の駅を出発したのはよいけれども、高野山まで一本で行かない。橋本で一回、そして極楽寺からは一駅だけだがケーブルカーに乗って、やっと到着。駅の外観とケーブルカーです。




まずは、金剛峰寺にお参りします。




ツアーガイドに率いられたフランス人の観光客団体と一緒に拝観となりました。


裏側から見た門。






団体旅行もあれば、一人で訪れているフランス人もおり、日本人とフランス人、そして少数の中国人といった具合です。大きなキャリーバッグを転がしながら、ケーブルカーに乗っていた外国人たちは宿坊体験をしたのでしょうね、きっと。

金剛峰寺には蟠龍庭(ばんりゅうてい)と名づけられた広さ2340平方メートルに及ぶ石庭園があり、雌雄1対の蟠龍(天に昇らずに地上でとぐろを巻き潜んでいる龍)が雲海の中で向かい合いながら奥殿を守っているように表現されているのだそうです。




堂々たる中門をくぐると根本大塔や金堂、不動堂などがある大伽藍エリアも見ごたえありました。根本大塔の中には、大日如来を中心に四方に金剛界四仏、周囲16本の各柱に菩薩が描かれております。金堂には、平清盛が自らの額を割った血で中尊を描かせた血曼荼羅もあります。残念なことに根本大塔は外観を修理中でした。

テクテク歩くこと15分くらい、西のはずれに大門が立派に聳えていました。




奥の院や戦国武将たちの供養塔、金剛三昧院など、見逃した見所も多いのですが、もう一回行こうという気にはなりません。遠すぎる上に、広いエリアの中を巡るバスの便が悪すぎる。
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そうだ、北海道に行こう ~その5 札幌 中島公園~

2019年08月31日 | 小旅行を愉しむ
札幌には出張でちょくちょく行くのですが、すすきのから先への行ったことがない。今回は安いホテルを探していたこともあり、札幌駅から離れた中島公園駅にあるビジネスホテルを利用しました。

折角なので、23.6ヘクタールもある中島公園を散策すると、豊平館という名の素敵な洋館が建っているではないですか。明治時代に、天皇陛下が行幸されることになったために、宿泊施設として作られた建物です。外観が立派。とくにファサードが見ごたえあります。






室内の装飾も飾りすぎることなく、それでいて華美。






宿泊の間の天井には、凝った彫り物があります。各部屋にツバキ、ウメ、シャクヤクといった花の名前が付けられ、その花のレリーフが彫ってあり、お洒落なことこの上ない。











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部屋はベッドルームと応接の間で一つのセットになっている。シャワーもバスルームもなく、琺瑯の洗面器とお湯を入れる壷が木の専用棚に置いてあるのが、明治時代の宿泊施設らしい。

もう一つ、美しいと思ったものは、階段の手すりの装飾。かくも美しい木の装飾が一列に並ぶと、それだけで絵になる。






豊平館の他に、小堀遠州の作と言われる古びた茶室、八窓庵(はっそうあん)が置いてある日本庭園もあります。遠州は、江戸時代初期の大名で、古田織部に茶を学び、綺麗さびと言われる茶道を作り上げた他、築城や作庭にも能力を発揮した人物。八窓庵は、8つの窓を配した草庵風の構えで、遠州にしては最も狭い庵だとか。もともとは、滋賀県にあったものを、札幌在住の人が買い上げて、その人の邸内に移築されたが、札幌市に寄贈されたのを切っ掛けに中島公園に移されたもの。

<番外>
前日でしたが、味噌ラーメンを愉しみました。



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そうだ、北海道に行こう ~その4 サッポロビール工場~

2019年08月31日 | 小旅行を愉しむ
前から行ってみたかった本場のサッポロビール工場見学に行ってきました。駅の名前もサッポロビール園。

歩いて10分程で施設に到着。予約しておいた時間まで、しばしお庭で時間つぶした後、バスで見学ルートまで運んでくれる。




見学後のお愉しみは、出来立てのビール。「サッポロ生ビール黒ラベル」と北海道限定「サッポロクラシック」が愉しめる。


ビールが飲めるエリアの外には、ガラス越しで見事なお庭が見渡せる。こんな景色の中で出来たての上手いビールを昼間から飲めるなんて、北海道はなんて良いところなんだろうか。
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そうだ、北海道に行こう ~その2 知床の旅~

2019年08月29日 | 小旅行を愉しむ
■ 知床五湖
札幌から夜の11時過ぎの深夜バスに乗り、知床に到着したのが朝の6時過ぎ。ホテルが提供(有料)している風呂・朝食セットで元気を取り戻したら、そのまま知床五湖ツアーに参加しました。

2・3日前まで天気が悪かったが、ここ2日くらいは天気がとてもよく、知床の大自然を堪能することができました。

ツアーは、ガイドさん付きで奥の一湖から順に廻り、最後は高架歩道となります。この高架歩道がすごい。総長900メートル×幅2メートルくほどの木造製。熊が上れないように電流が流れている電線が張り巡らされ、人が安全に安心して行き来できる構造になっています。大自然もすごいが、こんなものを作る人間もすごい。




高架歩道にある見晴台から撮った風景。通常版とパノラマ撮影版の2種類。




下の遊歩道をガイドツアーで廻っている間、天気も良く湖が綺麗に見えました。何よりも、山々が湖に映える風景が素晴らしい。途中、鹿は出ましたが、幸いなことに熊は出没せず。もし、出たらツアーはすぐに中止になってしまうからです。











■ オシンコシンの滝
自転車をレンタルして廻った先にあった滝。この辺りでは定番の観光スポットです。





■ 知床クルーズ
海からも知床を見ようとクルーズに参加しました。クルーズでした、知床半島の先を見ることができませんからね。
4時間弱のクルーズです。


知床半島の最先端がこちら。先端部分は、平らな土地でした。



■オロンコ岩
クルーズ船が出入りするウトロ港の横に、とてつもなくデカイ岩が。名前がオロンコ岩といって、高さが60メートルほど。170段あまりの急傾斜の階段をヒーヒー言いながら登っていくと、素晴らしい眺望が開けます。





■ 羅臼
知床泊も3日目になり、見るものも見たので、半島の反対側に羅臼に行ってみることにしました。バスの便が悪いので、レンタルバイクを使います。これが愛車。


天気は生憎の曇りのはずだったのですが、山道を走っていくと雨が激しくなってきました。雨宿りする場所もないので、そのまま走り続けて、羅臼のビジターセンターへ。ここまで来ると雨も止んできたので、近辺にある間欠泉まで、泥濘の道を行きますが、着いた時が間欠泉がまさに噴出し終わる時。次の噴出しまで1時間以上だというので、写真は諦めて、羅臼の町へ向かいます。


羅臼国後展望塔から北方領土を見渡すが、曇っていて何も見えず。




眺望がだめなら、名物のウニイクラ丼でも食べようと奮発しました。



ウトロへ帰る山道のほぼ一番高いところにある知床峠で一服。雨はやんでも、景色はどんよりのまま。




でも、原付バイクで知床峠を越える小ツーリングは、雨に打たれたとは言え、爽快でした。バスで行くのとは全く違う移動の愉しみがありました。


■ 夕日スポット
ウトロから五湖方面に向かう途中に、夕日が綺麗に見える有名スポットがあるというので寄ってきました。残念ながら、この日は天気がすぐれず、しょぼい夕方の写真になってしまいました。



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