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好きなことを好きなだけ楽しみたい欲張り人間の雑記帖

あきない世傳 金と銀シリーズ(高田郁著)

2022年09月26日 | 読書雑感
第十三話『大海篇』はシリーズ最終話。売り手も買い手も幸せとなる商売を目指した幸の生きざまの大団円。前回から続いている吉原でも衣装比べで残念ながら二位となってしまったことを惜しまれる一方、一位となって吉原御用達となり一般庶民の手が届かなくなる店にならなかったことを良かったと思ってくれる人たちもいる。幸のみならず、菊枝も新しい意匠を凝らした笄を銀三匁という手ごろな価格で売り出して大成功する。二人に共通するのは、書い手のことも考えることと協力してくれる人たちをいつまでも大切にすること。そのために協力する人の輪が年とともに大きくなっていく。

二人を襲う不幸は、江戸の大火事と新しく出した店の権利を失うこと。元の所有者が二重に売っており、もう一人の所有者の方が書面がしっかりとしていたために幸と菊枝は店を失うことになってしまう。しかも、店の所有権を主張するもう一人とは惣ぼんこと井筒屋三代目保晴だった。幸と手代の賢輔に対して甘いと教え諭すは惣ぼん。身近と思っていた人間に裏切られたと感じる幸たちの落ち込みは大きい。そこへ大火事が江戸を襲い、人々は困窮する。そんな中でも幸は新しい知恵を出し、今度は同じ町で商売する他業種の店との協同できるようにする。言ってみれば、地域ですべてがそろうシッピングセンターか。街の区切りが分かるように店は同じ色の暖簾を出し、同じように商い商品名を掲げ、床几を使って商品を見やすく展示するようにし、しかも町内双六を開発して人々に広報宣伝していく手段も考え付く。組という同業者との信頼と協力関係に続いて、町という地理的につながった仲間との協力関係も作り出すことによって、売る方も幸せで買う方も便利で幸せとなる状況を作り出していく。女中時代に叩き込まれた商売指南の志を一生持ち続け実践していった挙句の幸せな世界がここに完成した。

一方、敵役の音羽屋は、謀書謀判の罪に問われて家財没収の上で江戸処払いとなる。その昔に泉州の生糸を違法に買い占めた折に偽名を使っていたのが判明してしまったためのお沙汰。音羽屋の謀書謀判を暴いたのがなんと惣ぼんこと井筒屋三代目保晴。幸と菊枝が騙された店売買にも音羽屋が絡んでいたことを知った惣ぼんが手を尽くして音羽屋の悪事を調べ上げて奉行所へ密告したのであった。地獄に落とした後で拾い上げる惣ぼん。やっぱり悪人ではなかったことが判明して安心。

このシリーズを読むと、不思議と幸せな気持ちになれた一方で、日本では通用するが海外で商売する上では妨げとなるのだろうと心配になることが多々あった。価格は需要と供給との関係で決まるという経済学の一般常識に反してまで書い手のことを考える値付けは、日本では美学だが愚かな商売方法と思う国も多い。商売相手を叩き潰した上で独占化価格を設定して儲けを最大化するという経営としては当たり前の考え方があるし、騙された方が悪いとするバザール商売が当たり前の地域もある。そんな国々では、幸の商売方法が上手くいかないどころか食い物にされてしまうだろう。そこそこの儲けで我慢し、回りの人たちとの三方良しの関係を築きあげられる日本という国の特異ではあるものの素晴らしさが誇らしい。

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第十二話の『出帆篇』。いよいよ属している組合が太物だけではなく呉服も扱える組合に脱皮することを決めてお上へ届け出る。冥加金千六百両という大金をふっかっけられたものの、以前鈴屋江戸本店が幕府に貸した形の上納金千五百両を相殺することを認めさせ、実質百両に値切ることに成功した。昔の上納金がここで活きてくるとは、伏線の張り方が上手だ。後は、組に属するお店すべてが呉服商いを上手にできるかどうか。智慧が武器の幸は、呉服切手という一種の商品券を考え付く。組全体で呉服切手を扱うことで、反物を運ぶ手間と労力を客に負わせなくて済むはず。でも、偽切手の出現や品の価格の差をどうするか?そこで、家内安全という文字を染め込んだ反物の販売を組で行うことを提案する。火事、地震、疫病など、数々の災害に見舞われていた江戸庶民の願いを反物に染め込むという。染め込みこそ、鈴屋江戸本店の得意技。結果はもちろん上首尾。

この話の一番の盛り上がりは、月蝕。忌み嫌われていた月蝕が起こるのだが、なぜか売られていた暦には書かれていなかった。大阪時代の知り合いの学者からの忠告を受けて、月蝕があることを予知していた幸は、新たに客となった御家人の嫁入り衣装を手伝う中、婚礼当日が月蝕の日であることを告げる。とんでもないことを言われたと憤る用人。衣装の用意は潰れてしまったが、元々はライバルの日本橋音羽屋が大手大名から手を回し、その仕事を横取りしていた。肚の中は煮えくり返るものの、御家人の用人に当たるのは不当と考え、また縁起ものの婚礼にケチがつかないように婚礼用意の仕事キャンセルを快く受け入れる。しかも、ドタキャンされた相手に月蝕があることも知らせるという新設ぶり。万が一のことを考えた両家は婚礼を一日延期し、これがこの家の婚礼を救うこととなった。しかもこの話が武家筋に広がる。逆に立場を悪くしたのが日本橋音羽屋。万事が塞翁が馬、というやつか。正直な商いが一番というこのシリーズの哲学がここでも発揮されている。

更なる商売繁盛を目指す幸たちは、吉原が行う衣装比べに参加することとなる。とは言っても、金にあかせた贅沢三昧の着物など作るつもりもない。目を付けたのは、吉原の女郎あがりの女芸者。それまでは男だけの職業だったところに、踊りや三味線、芸事が得意な年季明け女郎が、芸で身を立てないと志すが、女郎時代の着物しか持っておらずに苦戦。それを見た幸たちは、買って幸せ、売って幸せ、着て幸せを実践できるモデルを見つけたこととなったところで十二話が終わって次回へ続く。

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大河ドラマにでもなりそうな長さと内容なのだが、物語がフィクションなので大河ドラマにはならないだろう、残念ながら。

こんかいのお話は江戸の大火事が出てくる。「火事と喧嘩は江戸の華」と言われたことは聞いているので、火事が多かったという事実を踏まえて、幸たち語鈴屋の商売が広がっていく。綿の着物の新しい用途として浴衣を開発し広げている過程で身に着けた新しい染め方を同業者たちに公開することとした。染めるのは「火の用心」。火事が起きないようにするゲン担ぎと心の用心とを呼びかけるための柄物だが、これを組合仲間に公開して習得してもらい、一斉に売り出すこととした。折しも、綿花の不作の中音羽屋の綿買い占めにあった組合仲間は、綿生地の入手に苦労するが、「火の用心」と染め上げられた浴衣は大好評を博す。組合仲間は幸に大いに感謝。

火事で苦しむ江戸の人々の気概を高めようと勧進相撲が催される。ある年、いつも決まって年末に五鈴屋を訪れる老夫婦が来ない。心配していた幸を始め店の人々だったが、年明けに主人のみが供を引き連れて訪れる。買い物ではなく商売の相談をしに。その人は勧進相撲の興行主で(なんと話が上手い方に転がることか)、力士たちが纏う浴衣を誂えたい、ついては五鈴屋に柄を考えてもらいたいとのこと。頭をさんざんに捻った賢輔は、幕内力士には各自の四股名を、幕下力士には揃いの手形模様を考え出す。四股名の染めは夫々に工夫を凝らして異なるものとする。金に糸目は付けぬといった興行主に対して、幸は通常の価格でよいという。代わりに、生地を店売りさせてほしい。なぜなれば、贔屓にする相撲取りと同じ浴衣を纏うことで、贔屓の力士を応援したいと思う気持ちを江戸の人々は思うはず、その思いを叶えてあげたいからと。売って幸い、買って幸せの商売哲学が発揮できると。もちろん、諸手を挙げて賛同される。幸の深慮はこれで終わらずに、組合仲間に声をかけて一緒に売り出すことを申し入れる。願ってもない商売話に組合仲間は喜び協力。そして、勧進相撲の幕開けとともにその浴衣生地はバカ売れしていく。

物語の最後部分で、組合に新たに加わりたいというお店が登場。今は呉服店だが、呉服組合の高く値をつけて大いに儲けようという姿勢を疑問に感じていた丸屋だった。丸屋の商売の仕方に好意を持っていた組合仲間は参加を受け入れる方向で考えることになったその時、一人が驚くべき提案をする。丸屋は、呉服を扱ったまま太物の組合に入ってもらいたい。なぜ?と思う面々を制して、その老人は言う。呉服に加えて太物を扱うようになる丸屋に入ってもらうことで、自分たちの組合は太物の組合から呉服太物の組合に発展するべきだ。自分たちの商売もそうだが、何よりも幸たち五鈴屋が呉服商売に戻れる道を作ってあげたい。それが、2度に渡って幸たちが組合仲間に提供した商売機会に対する真っ当な恩返しになる。思わず、頭を下げる幸。そして次回へと続いていく。

美談で塗り固められた物語で心がホッコリするものの、経済学的には変だと思ってしまう。価格は需要と供給とで決まるというのが経済学の鉄則。綿生地を不足し、しかも需要が増大しているときに綿の価格を上げることになんの問題があろうか。それが火事後で困っている人が相手ということで後ろめたさがあるためだろうが、日本以外の世界規模の商売を考えると、高く売る機会を逃すようなことは考えられない。正価がなく売主と買主との駆け引きで価格が決まる中東のバザールを始め、株売買、土地売買などもそうだ。自分利益を犠牲にしてまで相手のことを考えてする商売のあり方は、世界基準では「お人よしのバカ」と見なされる。聞き心地の良い言葉でいうとナイーブ。この小説を読みながら、こんな商売を理想として考えるビジネスマンが生まれてしまったら、日本経済はたちまち食い物にされてしまうであろうという心配が心の中に広がっていくのを感じながらの読書だった。

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絹が取り扱えずに綿のみで勝負するようになった幸たちが智慧を絞って浴衣を一大ブームにしていく藩士が第十編『合流篇』。「合流」にどういう意味を入れ込んだのかまでは分からなかったが、それでも従来は湯文字としてほとんど下着としてしか扱われなかったものを、染め方と形を工夫して江戸庶民に爆発的な人気とともに受け入れられていく。夏に絹織物では暑すぎる、江戸庶民が大好きな湯でさっぱりした折角の帰り道にも汗が滴る。そんなニーズを汲み取って、涼し気で粋な柄が入った浴衣というファッションを作りだすことで幸たち五鈴屋は商売を盛り返していく。

このシリーズは、常に創意工夫を怠らず困難に立ち向かっていく幸たち主従の不屈のチャレンジ精神に加えて、自分たちの才覚に溺れることなく周りの人々を信じ、助け合う気高い精神も読みどころの一つになっている。自分が困難な時期に手を差し伸べくれた人の恩を忘れずに、相手が困ったときには損得勘定を抜きにして援助する。そうして人と人の和が繋がって、商売のみならず人としての生きざまも豊かになっていく、そんな精神がシリーズの根底にあることが今の世知辛い世で暮らしている今の人々にとってのひと時の憩いを提供している。単にストーリーを追いかける物語で終わらないところに惹かれている自分に遅まきながら気付いた。

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第八編『瀑布篇』では、幸が考案した小紋染めが江戸町人に大いにうけて人気商品となり、五鈴屋は益々の発展を遂げる。ところが、あまりの人気に目を付けられた結果、幕府から1500両もの御用金を命じられてしまう。運あれば不運あり。一方的な申し入れだが、幕府からの命令である以上拒むことはできない。御用金支払いのために高利で両替商から借り入れして金利を支払うのも馬鹿らしく、金利の支払いが後々の五鈴屋の首を絞めかねないことを恐れた幸は、1500両の3年分割払いを申し出る。前例のない申し出ではあったが、借り入れして発生する金利の半分に相当する金額を上乗せすることを交換条件として出したことで、幕府側にも利があることとなって受け入れられる。

以前から付き合いのある両替商に挨拶にいった際に、挨拶がしたいと望む同業の両替商に引き合わされる。実は、その両替商は5代目店主の惣次だった。大阪で行方を絶った後に江戸で出てきて、両替商に婿入りして店を繁盛させている遣り手とのこと。その場で惣次は、御用金の下命には裏で糸を引く悪い奴がいると仄めかす。以前、大手の両替商である音羽屋の主人が結を見染め、是非後沿いにとの申し入れがあったのだが、音羽屋の主人は父親ほど年が離れているだけではなく、結をねっとりと眺める目つきが気に入らずに幸は断っていた。その音羽屋が黒幕かもと疑う幸。疑念は残る中、音羽屋に遊びに行った結は主人からちゃんとしたもてなしを受けてまんざらでもない。でも、結は手代の賢輔と添いたいと願っている。姉の幸もそれを望みつつも、賢輔の才覚を見込んでいる幸は、賢輔を次の五鈴屋の主人にしようと考えており、まだ嫁とりの時期ではないと判断する。その判断に不服な結は、ある日家を出てしまう。五十鈴屋にとって大切な新しい小紋柄の型紙も一緒に消えてしまっていたことが判明したところで第八編『瀑布篇』が終わり、第九編の『淵泉篇』へと続く。

これまでになかった十二支を象った小紋柄の型紙は、五鈴屋にとってこの上ない大切な財産。結は勝手に持ち出して、事もあろうか音羽屋に身を寄せていた。好いた賢輔と一緒になれず、姉ほどの能力もないことが引け目になっていた結は、音羽屋の力と型紙を使って自分なりに勝負しようと考えた結果だった。音羽屋が借金のカタにとった呉服屋の女主として、結は日本橋で呉服商売を始める。五鈴屋で培った才覚と新しい小紋柄を大いに受けて、店は好調。十二支を象った小紋柄の型紙には細工が施されており、「五」「金」「令」が十二支の文字の中に隠されていた。これを知った結は、両替商の寄合の席で音羽屋主人が新しい柄物の反物を仲間内に配った際に種明かしをする。五と金と令で「五鈴」。自分は五鈴屋主の妹であると名乗り、反物の柄である十二支を染めた型紙は姉が「婚資」として持たせてくれたものと言う。これは、音羽屋の中での自分の地位を固めるために結なりに考えたことであった。

「嫁資として持たせた」美談が、江戸っ子にうけて、五鈴屋で売り出した同じ十二支の小紋反物も売れ行き好調。両店ともウィン-ウィンになったわけだが、五鈴屋が寄合から除名されるという事件が起きてしまう。ある大名家から受けた100反の購入依頼が、同業者の顧客を奪ったと言われ、寄合のルールに基づき除名されてしまう。除名されてしまったからには商売を続けるわけにはいかない。福久の法要の折に出会わせた惣次は、自分たちで寄合を作ればよいとアドバイスされ助かる道が見つかる。仲間が見つかるまでに間は、呉服の商いを中止して太物(綿)だけの商いとすることにする。絹と綿では単価が違い過ぎるために、売上は大幅減少するものの、幸を中心に五鈴屋の手代たちは結束して困難に立ち向かう。そんな中でも工夫を忘れない幸。綿の良さを活かせる道があるはずと必死に考える。そして、辿り着いたのが浴衣。寝巻であって人前に出られるような着物ではない浴衣だったが、工夫をすれば可能性が開けるのではと必死で考え、工夫に工夫を重ねるところで第九編『淵泉篇』が終わって、次へと続く。

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第七編は『碧流篇』 江戸の田原町店が本格的に商いを始める。目の前の時代の流れを追いつつも時代の流れに流されない大局観をもって、「蟻の目と鶚の目」の両方を持てと言った元番頭の戒めを忘れずに。「蟻の目」でやったことは、帯の愉しみ方を教える催しを毎月14日に開催し、次第次第に客を増やしていったこと。「鶚の目」としてやったことは、武士のものであった小紋を町人用の反物に取り入れること。しかも、五鈴屋のトレードマークともいれる鈴を小紋にすることにした。

アイデアは、それを実現しなければ意味はない。小紋を染め上げるためには、型紙と腕の良い染め師が必要。型紙は以前から取引があった伊勢が名産だったので、手代を送り込むことで入手できた。そして、開店の際に反物展示用の撞木を作ってくれた指物師の義兄が腕の良い染め師であることが分かる。しかも、その妻は毎月の帯の催し物に常連客という好都合だったので、さっそく依頼に行くとあっさりと断られる。指物師の力蔵は、同じ染め師であった父親を染め物の事件ゆえに失っており、それが理由で型染を頑なに拒んでいる。それでも、何とか依頼したい幸は手を尽くす。ある日、見てもらおうとした小鈴模様の型紙を力蔵が邪険に振り払う。持ってきた型紙と入れ物の箱が土間に落ちる。ころもあろうか、箱のふたに張り付いた型紙が、綺麗な小鈴の文様を映し出す。思わず見惚れる力蔵。亡き父親のために武士用の型染から一切手を引いた力蔵だったが、新しい小紋染めは町人のためと聞いて、ついに協力を約束する。ここの場面は、第七編の中での愁眉ですね。ゾクゾクしているシーンです。

出来上がった染め物は、当時の歌舞伎の第一人者の中村富五郎が是非使いたいという。江戸紫に小鈴の小紋を散らした反物で誂えた衣装で、一世一代の出し物となる「娘道成寺」興行前のお練りをするのだという。願ってもない幸運。その時、富五郎が一つ注文を出す。仕立てを幸とお竹に任せたいと。去り際に富五郎が言う。昔売れる前の時代、芸で色々と悩んでいた頃に二人の友がいたという。一人は人形浄瑠璃師、もう一人は貸本屋に居候しながら戯作を書こうと散々苦労していたものの芽が出ることはなく自分の夢を捨て去ったのだという。それを聞いて茫然とする幸とお竹。運命の歯車が音を立てて嵌った瞬間だ。お練りの日、出来上がった着物を着た富五郎がそっと呟く。
「一緒やで、智やん」

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第五話『転流篇』では、無事に桔梗屋の買取が進む。小が大を飲みこむことで五鈴屋は繁盛する切っ掛けを掴む。更なる成長をもたらしたものは、帯への着目だった。それまでは、絹織物の反物は薦めるが、帯については品揃えも知識も少なかった呉服屋から脱して、手持ちの着物を違った愉しみ方で着こなしてもらえるよう帯の商いに入り込んでいく。「着物一枚に帯三本」と言っていた先代のお家さんの言葉をヒントに、新しい商売を切り開いていく。どんな着物にどんな帯を合うか、年にあった帯の結び方は何か、帯に関する様々な知識を店で働く全員が学んでいく。ここになって、女衆の最年長のお竹どんの知識が活きてくる。母親が死んで引き取った妹の結とお竹どんが手代と一緒に客訪問し、モデルとなって帯の営業を進めていく。更には、2枚の帯を重ね、しかも片方の端には五鈴屋の印である鈴をあしらうことで、女性受けする可愛らしさと他店に真似されない工夫もほどこす。この帯を「五鈴帯」と名づけ、流行りつつあった歌舞伎の忠臣蔵を宣伝のために使うことまでする。お軽役の役者に衣装を無償提供する代わりに、「五鈴帯」を舞台上で言ってもらう。初日の小屋の外の道頓堀に掛かる橋の上に、「五鈴帯」と記した提灯を掲げた手代たち。それを見た観劇帰りの人々が何事かと思っているところに、「五鈴帯」をつけた10人の若い娘たちが両脇に提灯が並ぶ橋を渡る。帯には、歌舞伎の中でお軽が付けていたのと同じ「五鈴帯」。まるで、ランウェイを歩くファッションモデルのよう。この場面は、鳥肌が立つほどに臨場感豊かで劇的。これで一挙に「五鈴帯」の人気に火がつく。そしていよいよ江戸への出店を考えようかというところに、六代目店主の急逝という大事件が起こる。

第六話『本流篇』では、いよいよ江戸に出店する。俵町に小ぶりの店を居抜きが買い取り、じっくりと時間をかけて開店の準備を進める。ここで採用した宣伝手法が手ぬぐい。店の暖簾に合わせた色にトレードマークの鈴と店名を染めた手ぬぐいを、あちらこちらの神社仏閣の手水舎に置くことで、人々の目に止まるようにしただけではなく興味関心までもかき立てようという作戦。この作戦は当たり、人々が田原町五鈴屋を噂しだした年末の12月14日、赤穂浪士討ち入りの日に万難を排して開店。道行く人々が惹きつけられるように店内へと誘われる。大阪とは違って、店前現金売りのために反物が見やすいようにディスプレイされ、手頃なお値段と丁寧は接客で人々の話題と関心を惹きつける。

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第三話『奔流篇』では、商いが大好きな次男の惣次と一緒になった幸が、夫婦力を合わせて店を立て直す。貸本の空きスペースに店名を刷り込んだり、上等な傘に店名と屋号の鈴をあしらって人気を博す。今でいう広告を江戸時代にやってしまった幸の頭のよさ。そこに惣次の商才と努力で益々上向きになったのもつかの間、利だけを追求して情を忘れてしまった惣次が、五鈴屋発展の起爆剤と見込んだ上質な糸を作り出す村から商売を断れてしまう。

五鈴屋の店主がこの男で居る限りは、お断りや。私ら江州者は、不実な輩とはよう付き合わん
と宣言されてしまう。そして幸が五鈴屋の主なら取引するという。

そして第四話『貫流篇』では、店主の惣次が店をでたまま行方不明になり、やがては隠居し妻の幸を離縁するという知らせが届く。自らの不始末を自らの手で解決しようとした惣次の考えた末の結論であり、店には決して近づくこともない。主のいない店のままではやっていかれず、やむを得ず戯作者になろうと貸本屋に居候していた三男を後継ぎに据える。9年間努力して人気戯作を書くことが出来なかった智蔵も、自分の才能に見切りをつけ店に戻ってくる。だが、商才がないことを誰よりも知っている本人は、幸の操り人形になると宣言する。自分はあくまでも人形、実際に商いを差配するのは女房の幸。三兄弟に続けて嫁ぐこととなった幸は、覚悟を決めて今まで以上に商売に取り組む。そんな最中、五鈴屋に同情的で陰ながら助けてくれていた桔梗屋に買い取りの話がでる。高齢で後継ぎもいない桔梗屋の主は真澄屋の話に乗るものの、手付が払われた直後に約定が覆されることに。憤る桔梗屋だが、真澄屋は引かない。嫌だったら手付金を返せと迫る。手付金を使ってしまった桔梗屋は何ともできずに困っている寄合の席で、幸は真澄屋に対抗して桔梗屋買い上げに名乗りを上げる。物語を盛り上げに盛り上げたところで、第五話へ。

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第二話『早瀬篇』ではお話しがさらに進展する。四代目主人の徳兵衛に愛想を尽かして実家に戻った菊栄の持参金35両を返すために、同業者の仲間から金を借りた五鈴屋は、近々のうちに主人に後妻を見つけて身を固め、商売に身を入れられるようにすることを条件とさせられる。相も変わらず悪所通いが収まらずに悪評が立っている四代目の元に来てくれる良縁など見込めるわけもない。番頭の治兵衛が考えた最後の一手が、女衆の幸を嫁に迎えるというもの。消去法の選択でもありながら、幸の頭の良さと根気、人柄を見込んだが故の大決断をすることとなった。

当初はその気もなかった幸だが、卒中風で半身不随の寝たきりになってしまった番頭から、
今は商い戦国時代。お前はんは、その戦国時代で戦国武将になれる器、

と諭されて幸は心を決める。名のある店の娘ではなく、女中である女衆を嫁に迎える以上、同業の仲間たちの承認がいる。寄合に出かけていく幸の姿、心持ち、そして寄合での立ち振る舞い、ここが第二話の山場と言える。反物の商品知識について質問されても、知らないで押し通し、最後には商売をする上で知識よりも大切なものは心得であると、奉公に上がった当初に番頭から叩き込まれた「商売往来」を一つの間違いもなく諳んじることで同業者たちの度肝を抜き、嫁として認めさせる場面は心が沸き踊る。1時間ドラマであれば、45分くらい経過したところで登場する大いなる見せ場といったところ。

無事に五鈴屋の嫁となった幸は、商いについて学んでいく。商品の素材、色、織り方、そして売り方そのものまで。新しい目で見るがゆえに、今までの当たり前が当たり前でなくなってくる。学び続ける幸だったが、主の徳兵衛が堀に落ちて死んでしまう。ただでさえ先行きが暗い店がどうなるか。他の大店の婿に行く予定だった次男が店を継ぐことになるが、その次男が出した条件は幸を嫁とすること。この次男は見た目も悪く堅物だが、真面目一本で商才ある。この次男が店立て直しのパートナーとして幸を見込んだところで第二話が終わり、次へと続く。盛り上げに盛り上げてから、この続きは第三話でとなるお話しの繋げ方も上手です。

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寝たきりになった番頭から幸が教わるシーン。
「知恵は何もないところからは生まれはしまへん。知識、いう蓄えがあってこそ、しぼりだせるんが知恵だすのや。商いの知恵だけやない、生き抜くためのどんな知恵も、そないして生まれる、と私は思うてます」

なるほどな、と思わせてくれる台詞があることも商売をネタにした物語としての厚みを増してくれる。そして、嫁に迎えられることになった幸は、御寮さんに相応しい身なりもするようになる。ある時は
扇面松を散らした金茶色の綸子の着物

ある時は
瑠璃紺に光琳波の晴れ着と白藍の帯

ある時は
白地に青竹色の細縞を織り込んだ明石縮の単衣に萱草色の帯、そして紅鬱金色の紙入れ

こんな具合に折に触れて上物の着物の描写が出てくる。読んでいてもピンとは来ない着物の世界だが、どんな模様や柄なのか、どんな織りなのかを想像する愉しみも出てきた。決して若い頃だったら愉しめなかったであろう読書の愉しみになっている。

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高田郁というと『みをつくし料理帳』がまず思い浮かぶが、その高田郁が著した長編小説が『あきない世傳 金と銀』

享保の改革が行われていた頃、摂津の国で生まれ育った幸という一人の女の子が、幼くして生家から離れて大阪の呉服屋「五鈴屋」で住み込み女衆として働きだす中、持って生まれた賢さが周りから認められて、女ながら商売の道を歩むことができるのか。第一作目のタイトルが『源流編』 源ということで、幸の生い立ちから奉公が始まり、商いの世界でどう生きていけるようになるか、その裏にある父からの「商は詐」という考え方から脱することができるのか、さらりとしたお話しのスタートでありながらも、幸を巡るテーマが色々と出されている。

このお話しの見どころは、女に教養など不要と言われた江戸時代中期に、学者の娘として生を受けて学問したいという希望があったにも拘わらず、家庭の事情で女衆として奉公に出される不遇をどのような努力で克服するのか、また周りの人たちの温かい支援と酷い仕打ちとが両存する中での人情の機微、そして資本主義として金儲けが当たり前の時代から見ると荒唐無稽とも思われるこの時代にあった「商は詐」という考え方を幸がどのように折り合いをつけるのか、そして金儲けにどのような手法と哲学と見出すのか、というところにありそうだ。

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慣れない奉公先で緊張するとともに気持ちが萎えてしまっている幸に、店の番頭がこう声をかける。
ひとというのは難儀なもんでものごとを悪い方へ悪い方へと、つい考えてしまう。それが癖になると、自分から悪い結果を引き寄せてしまうもんだすのや。断ち切るためにも、笑うた方が宜しいで。

そのとおりですね。ついつい悲観的になったり、自分で自分を憐れんだりしている内に状況はますます悪化するなんてよくあることですからね。自分の未来は自分で切り拓く、と考えると過去に捉われているのは無駄。前を向いて進むためには、笑うことが必要。そんな人生観ですかね。

自分を変えるレッスン (ワタナベ薫著)

2022年09月20日 | 読書雑感
何かに情熱を持っている人は美しい。ワクワクした夢や目標があったり、好きなことをやっていると波動が高まります。波動は生命エネルギーのようなもの。だから、波動が高まると健康になります、健康は美容の土台です。楽しい気持ちやモチベーションが高い状態でいると、ひとみに輝きが増し、血流もよくなり、肌も綺麗になります。人の内面は必ずと言っていいほど外見に反映されるのです。美しくなるとは、メンタルのケアと体のお手入れをすること、両面が必要なのです。

私たちの思考は言葉で成り立っているので、よい言葉を何度も言うことで思考と心に影響を与え、行動も変化させるのがアファメーション。だから、自己暗示をかけるためには繰り返し自分に言い聞かせることが大切。例えば、
 ・私は美しい姿勢で一日を気分よく過ごしています
 ・私はいつも微笑みを絶やさず、穏やかな気持ちでいます

多く経験した感情や表情がその人の顔を作っていきます。顔もクセでできているのです。口角を上げ、ポジティブな気持ちになることで顔面にフィードバックする。
 ・言葉の習慣を変える
 ・他人のよいところを見る
 ・常に笑顔を心掛ける

自信がない赤ちゃんはいない。成長するにつれ、他人の言葉を信じるようになった時から自分の言動に自信がなくなるのだ。人は自信満々で生まれてきた。刷り込みたい言葉や理想の自分は自分で選択する。

言葉のシャワーで自分を作り直す。多くの人は他人からの言葉でセルフイメージを形作っている。健全はセルフイメージは自分で作る。そのためには、言葉のシャワーを心の奥底に浸透させる。特に朝の口癖でアファーメーションを実践する。
 1ステップ 思考する
 2ステップ 言葉にして発する
 3ステップ 行動する

カウンセリングは過去にフォーカスして、解決したい問題が合った時なぜそうなったのかの原因を過去に戻って探し出す。原因を見つけたら心理療法などで癒したり話を聞いて心のブロックを解いてあげる。コーチングの視点は現在と未来にあります。原因よりもこれからどうありたいのか?どうなりたいのか?を聞き出し、クライアントの視点を未来に向けて今の行動を変化させていく。

今日過ごした一日の中で経験したいいこと、または感謝すべきことをブツブツ言いながら満たされ感MAXになって眠ることで自分が幸せでいられるようになる。

習慣というのは多岐にわたり、しかも根深い。変えたいという気持ちの先にあるゴールがなんであるか明確になった途端、私たちはそこに向かいたくなる。新しい習慣作りは短い時間でできる簡単な設定にすることがお薦め。たった5分の習慣を継続させる。






「空間」から読み解く世界史 (宮崎正勝著)

2022年09月20日 | 読書雑感
人類の歴史を「空間」で分けると6つの時代に分けられる。
① 四大文明の形成の場となった乾燥地帯の大河流域
② 帝国が形成された諸地域空間
(秦による中国空間統一、アケメネス朝ペルシャはアレキサンダー大王による西アジア空間の統一、ローマ帝国による地中海空間の統一、マウリア朝による北インド空間の統一、等)
馬と戦車(チャリオット)を駆使した遊牧民が濃厚社会を征服するのがこの時代の基本。帝国誕生により、同一の文字、宗教、法律などで支配された広域空間が生まれた。
③ 騎馬遊牧民により統一されたユーラシア空間(イスラム帝国、モンゴル帝国、アッバース朝)
この時代に、サハラ砂漠と西アジアのオアシスを結ぶ商業圏とシルクロードが合体し、また帆舟を使ったインド洋商業圏も生まれたことで新たな経済活動を生み出す商業圏が誕生した
④ 大航海時代に形成された大西洋空間
白い積み荷(砂糖)と黒い積み荷(黒人奴隷)の三角貿易に、コーヒー・紅茶・ココアなどの新しい嗜好品が生まれた。従来の自足自給の経済圏の延長から、分業による経済発展が追求されるようになった。
⑤ 産業革命後に鉄道、蒸気船ネットワークとそれを可能にした機械製工場と資本主義により再編された地球空間
消費するだけの存在であった都市が産業振興により生産空間に変わり拡大するとともに、植民地にプランテーションを設けられた。また、主権国家から国民国家への変遷
⑥ 20世紀後半以降の情報革命による地球規模の電子空間

空間規模が大きく変化し、次いでそれにふさわしい空間秩序の形成がなされた。「真の本来的な基本秩序というものの核心は、一定の空間的な境界と境界設定、地球の一定の尺度と一定の分割に存する。したがってどのような大きな時代のはじまりにも大きな土地の取得がある」(カール・シュミット『陸と海とー世界史的一考察』)これが空間革命という概念。



からだにいいお茶のすべて 日本茶・紅茶・中国茶・健康茶(大森正司監修)

2022年08月03日 | 読書雑感
【日本茶】
蒸して発酵を止めるのが特徴(中国茶は釜炒りして発酵を止める)
●成分: タンニン(渋みの一種でポリフェノールの一種のカテキンを含む)カフェインん(苦味の成分)テアニン(アミノ酸の一種でうまみ成分)ビタミン類
種類や茶ばの収穫時期によって成分が異なる
●美味しく入れるコツ: 水は軟水がよい
      茶葉量   湯の量 湯の温度 抽出時間
玉露    10g(3杯) 60ml   50度  2分から2.5分
上級煎茶   6g(3杯) 180mi   70度  2分
並煎茶   10g(5杯) 450ml   90度  1分
深蒸し煎茶  10g(5杯) 450ml   90度  30秒
芽茶     6g(3杯) 390ml   90度  40秒
番茶・焙じ茶 15g(5杯) 650ml  熱湯   30秒

【紅茶】
●成分: タンニン、カフェイン、テアニン 紅茶のタンニンとカフェインは日本茶やウーロン茶より圧倒的に多く、紅茶フラボノイドがタンニンに含まれる
●おもな産地:インド(ダージリン、アッサム、ニルギリ、ドアース等) スリランカ(ウバ、キャンディ、ディンプラ、ヌワラエリア等) 中国(キームン、ラプサンスーチョン、ガンパウダー等) インドネシア(ジャワ、スマトラ等) ケニア(ケニア)
●美味しい入れ方:茶葉量を正確に、汲みたての水を沸騰させる(最低1分から3分未満)、ポットを使用する、ポットで蒸らす

【中国茶】
●種類
 青茶(半発酵): 香りが魅力 大紅袍 安渓鉄観音 凍頂烏龍、東方美人
 緑茶(釜炒れして発酵を止める):西湖龍井(セイコロンジン)、黄山毛峰(コウザンモウボウ) 碧螺春(ヘキラシュン)
 黒茶(微生物を繁殖させる後発発酵): 独特の味わいと香りが特徴 プーアール散茶
 紅茶: キームン紅茶、正山小種(セイザンショウシュ)ライチ紅茶
 黄茶・白茶: 生産量が少ない 君山銀針(クンザンギンシン) 白毫銀針
●美味しい入れ方
          茶葉(g) 湯温度   抽出時間  煎出回数
緑茶・白茶・黄茶  3.5~4  85~90  15~20秒  3~4回
青茶(茶葉細かい) 8~10  熱湯    45秒から1分 5~6回
青茶(茶葉ふつう) 5~6   熱湯   45秒から1分 5~6回
青茶(茶葉大きい) 8~10  熱湯    45秒から1分 5~6回
黒茶        2.5~3  熱湯   45秒から1分 5~6回   
紅茶        2.5~3  熱湯   45秒から1分 1~2回

『口下手のままでも伝わるプロの話し方』 ひきたよしあき著

2021年05月01日 | 読書雑感
■ 話し手が息継ぎをしないと聞き手が窒息する
話の「間」はたんなる無言の時間ではなく聞き手のための確認時間。だから、「間」の少ない話し方では、どんなに内容がすばらしくても相手に伝わりません。(中略)心に余裕がなくなるとどんどん「間」がなくなってしまうのです。どうすればいいのか。手っ取り早いのは、体をゆっくりと動かすことです。動きながら座禅を組んでいるような気持ちで、じっくりと時間をかける。そして子供が読むような本や詩を朗読します。これもゆっくりと、句点で生きを吸い、十分に「間」をつくって読む。

■ ウケを狙う必要はない。ほほえませるだけでいい
お茶をたて、一服ふるまうように、「お茶を飲んで一息ついてください」という気持ち。そこから出てくる言葉を考えてください。「朝がずいぶん寒くなってきましたね」「師走のいちばん忙しい時期なのにありがとうございます」「この会場に来る途中できれいな桜並木がありました。ご覧になりましたか」と、本題に入る前に相手の労をめぎらい、ここで一服してほしいという気持ちを込めた、相手が微笑むような会話をする。お茶を一服差し出すように、柔らかな微笑みと思いやりのある笑顔でのアイスプレイクを心掛けてください。

■ 信頼と言葉数とは反比例する
つい、おしゃべりになってしまうのは、自信のなさの裏返し。自信がないから余計な言葉でそれを覆い隠そうとしてしまうわけです。言葉の重みの根っこは「考えること」にあります。自分で読んで、食べて、経験したものだけに「つまらない」「おいしい」「楽しい」と判断を下すクセをつける。そして「何がおいしいのか」「どこがつまらなかったのか」と考えて、それを言葉にする練習を重ねる。

■ 伝わるのは一語
小学生にもわかるように話すためには、話の目的を一語に集約すること。「これ!」と決めて、手を替え、品を替え、何度も訴えることで、人はやっと理解しようとし、重い腰を上げてくれる。1つの物語の中に言霊が宿るのは一語だと心得る。その一語とは動詞。織田信長なら『こわす』、豊臣秀吉なら『ひろげる』、徳川家康なら『治める』、坂本龍馬なら『むすぶ」と動詞で語ることができる。あたなの動詞ななんだ、どういう動きをする人間なのか?自分の動詞が見つかれば自己PRに核ができる。自分の主体的な目的を動詞化しよう。伝わるのは一語。動詞を明確にして、ブレない言葉を紡ぎましょう。

■ 聞き手の理解が進む「たとえば」「具体的には」「要するに」
話が冗長にならないために、話の中に「今からこういう話をします」というフラッグを立てる。それが「たとえば」「具体的には」「要するに」。この3つを使って、自分が今、何を話しているのかを聞いている人に示すことで、話を短くまとめられるようになります。

■ 気持ちがより伝わる語彙力の増やし方
ただ名詞や動詞を機械的に覚えるだけでなく、話し相手の頭のなかに映像が浮かぶ、それが動き出すような言葉を覚える必要があります。「木目」だけでなく「清楚な木目」と覚えることによって、物事を表現する力が増すのです。「うまい!」の代わりに「コクがある」という言葉を覚えたら、もう1つ進んで「コク味」「コクの旨味」「まったりとしたコク」「コクに底がある」などといった表現も覚えていくことで、使える語彙を増やすことができるのです。

■ プレゼン・スピーチに特別な才能はいらない
わかりやすくてストンと腹に落ちる筋道か、誰もがグッときて「いいぞ!」と思える感動があるか、任せても大丈夫。一緒に仕事をしたいと思させる安心感と安定感があるか。

■ 人前で話すときも「いいね!」と「シェア」が大切
「ああ、今日はいい話を聴いた」「すばらしい商品発表だった」あなたの話を聴いて、こう思ってもらうために必要なものは2つ:
 ①共感できる部分がいくつもあること 
 ②人に教えたくなるような新しい情報があること

■ 朝、自分で新聞紙面を作るつもりで情報を集める
頭の中で「境いちばんネタとして使えそうなのは、この経済ニュースだな」と考えて、自分で自分の新聞紙面を作る。世間的な重要度ではなく、聞き手のことを思い浮かべながら自分なりの視点でつくるところがコツ。どんな話でも短い物語にまとめて、会話の端々に挟めるようにすることで、共感や信頼が生まれる。

■ エピソードノートを作って、自分の過去から「エピソード」を掘り起こす
自身の過去を棚卸しし、過去のエピソードをいつでも語れるように整理しておく。ノートの見開き左ページの上に「0歳」と大きく書き、右ページの上に自分が0歳だったときの西暦を書く。左ページにはその年にあった出来事を書き、右ページには起こった事件、流行った歌、イベントなど、世の中で起こったことを書く。

『神社と神様がよ~くわかる本』 藤本頼生著

2021年04月18日 | 読書雑感
日本人の神観念とは、人間や動植物、自然、つまり草木や海山などを問わず、人智を超えた何か並外れた力を持ち、畏敬の念を感じさせるものは善悪を問わずすべて神である。そして、自然の様々な事物に神が宿ると考えてきた。(中略)こうした神々を古代から日本人は丁重に祀ってきたが、その最たるものが現在でも全国各地で行われている神社における祭祀であり、各地に残る種々の民俗信仰である。

神社とは、人々が神を祀るための祭祀を行い、神を敬い・拝むための「公共空間」である。(中略)古代の人々は祭祀の度に樹木や岩石に神霊を招き寄せたり、神霊が籠るとされる森や山をそのまま神の御霊が宿る御霊代としてまつりを行ってきた。神は常時一定の場所に鎮まるのではなく、祭祀などのときに神の御霊を招き降ろすものと考えられていたためと言える。(中略)時代が下ると臨時の祭場から次第に常設の建物が造られるようになる。人々に住居があるように神のためにも住居が必要と考えられるようになり、朝廷に縁故深い神々に対して殿舎が設けられるようになったのが「宮」の起源である。

「氏神」とは、同じ氏姓を持つ一族が共同で祀った祖先神、または守り神のこと。氏族(氏人)とは同じ祖先をもつ人々、または血縁関係による同族の集団を言う。古代では、氏族制度があり氏族ごとに集落をつくってくらしていたため、神社を創設すれば自ずとそれは「氏神」ということになり、氏族の人々は「氏子」となった。時代が下り中世になると、各地域には氏族でないものも入り混じって住むようになるため、神社と氏族との「氏神と氏子」という関係も薄まり、代わりにその「土地の守り神」とみなされるようになる。また、一定区域の土地や建造物を守護するために祀られた紙を鎮守神と呼ぶが、これは寺院や城郭、荘園や武家の領地などに祀られた神を指す。

神輿の渡御にあたっては、神輿に神の御分霊を遷す御霊遷しがなされた後に、氏子たちに建つ画れて御旅所に至るまで、:氏子区域を進んでいく。これは神輿の渡御によって、神々が氏子たちの生活を直接見届け、幸いを授けてくれるものと考えられているからである。


『一汁一菜でよいという提案』 土井喜晴著

2021年04月16日 | 読書雑感
日本には少なくとも、手をかけるもの、手をかけないものという二つの価値観があるのです。この一見相反する二つの価値観を併存させ、けじめをつけて区別し、場によって使い分けるところには、それぞれの合理性があります。ところが、今の日本は、その二つがごちゃごちゃになって混乱しているのです。(中略)多くの人が、ハレの価値観をケの食卓に持ち込み、お料理とはテレビの食番組で紹介されるようなものでなければいけないと思い込んで、毎日の献立に悩んでいるのです。

そもそも、「食べる」ことは「食事」という営みの中にあることで、単に食べることだけが「食事」ではありません。食べるとなれば、家族のだれかが買い物をして材料を用意する。野菜を洗って下ごしらえをする。ごはんを炊いて菜を煮て汁を作り、魚を焼いて盛る。そして食卓にその皿を並べるのです。(中略)この毎日の繰り返しが「人間の暮らし」であり、その意味はやがてそれぞれ美しいかたちとなって、家族である人間のそれぞれに現れてくるものと信じます。人生とは、食べるために人と関わり、働き、料理して、食べさせ、伝え(教育)、家族を育て、命をつなぐことです。

台所の安心は、心の底にある揺るぎない平和です。お料理を作ってもらったという子供の経験は、身体の中に安定して存在する「安心」となります。それは、大事のさなかにも、ただ逃れようとする恐怖心を抑えてくれるように思います。安心は動揺することなく冷静に対処するための落ち着きとなります。安心は人生のモチベーション伴って、未知の旅に出る勇気になるのです。

家庭料理にかかわる約束とはなんでしょうか。食べることと生きることのつながりを知り、一人ひとりが心の温かさと感受性を持つもの。それは、人を幸せにする力と自らを幸せになる力を育くむものです。持続可能な家庭料理を目指した「一汁一菜でよいという提案」のその先にあるのは、秩序を取り戻した暮らしです。一人ひとりの生活に、家族としての意味を取り戻し、世代を超えて伝えるべき暮らしのかたちを作るのです。

情緒とは「もののあわれ」です。情緒性を持つとは、日本の四季、自然の移ろい、新しく生まれるもの命と朽ちゆく命に、人間の心を重ねて共鳴できる力を持つことです。

『賢者たちの街』 エイモア・トールズ著

2021年01月11日 | 読書雑感
『モスクワの伯爵』が気に入ったので、著者の第一作となる本書にトライしてみたところ、大正解だった。『モスクワの伯爵』に負けず劣らずに、ノスタルジックな雰囲気満載の中で物語が進展していく中、途中で読み止めるのが苦痛となるほどの小説でした。

1966年のニューヨーク・マンハッタン、近代美術館で開催された写真展のオープニング・セレモニーパーティに出席した主人公、ケイティは多々ある写真の中に昔馴染みの男が写っている写真を2枚見つける。一つは高級な服を身に着け羽振りよさげに振る舞う写真、もう一枚は粗末なコートと無精ひげのままでニューヨークの地下鉄の座席に座っている写真。パーティにいる人誰しも、その2枚が同一人物を写したものであることに気づかない。ケイティはその男の名前を思い出す、「ティンカー・グレイだわ」 そこから物語は1937年の大晦日へと巻き戻っていく。

ブルックリンの2部屋で家族全員が暮らす生活から抜け出てマンハッタンに来て働いていたロシア移民の子ケイティは、下宿のルームメイトであるイヴとジャズを聴かせる安クラブで大晦日の夜を過ごそうとしている。と、そこに身なりのより若いハンサムな男がブラリと一人で店に入ってくるなり、ケイティとイヴの隣のテーブルに座る。何気なく上等なカシミアのコートを二人のテーブルの椅子に掛けたことから仲良くなり、それ以来三人で遊び歩くようになる。その男こそティンカー・グレイ。

クラブには新年を祝うシャンパンを置いてないと聞くと、ティンカーは席を立つ。5分経ち10分経ち、次第に心配になる二人の前にティンカーはシャンパンのボトルを手に戻ってくる。静かな中に自信ある物腰、馴れ馴れしくない控え目な態度、周囲への公平は興味、上質な装い、そして気前の良い金払い。金と作法が同居する環境で育った上質な男、二人を上流社会へ導てくれる男。そんな理想の王子様にケイティとイヴは1937年の大晦日の夜に偶然出会ったのだ。

互いが馴染みの店に連れていく、今まで交わることのなかった中流と上流との間の行き来で三人は大いに愉しい時間を過ごした。イヴは中西部出身の目の覚めるような美人だったが、どちらかというとティンカーはケイティの方に興味があったようだ(とケイティは感じていた)。ある夜、ティンカーの水銀みたいなシルバーのメルセデス・クーペが下宿屋の前に止まっていた。二人が暮らしている下宿屋の女の子全員の一年分の給料を合わせても到底買えそうもない高級車。街へ繰り出した三人は、いつものようにお愉しみの時間を持つのだが、店を出てメルセデスを走らせていたところ、80キロで走る牛乳運搬のトラックに追突されてしまう。

一番重症を負ったのがイヴ。顔に傷を負い、片足が不自由になったイヴをティンカーは自宅に引き取って面倒を見る。塞ぎ勝ちとなるイブと責任を感じるティンカー。三人で揃ってマンハッタンの夜を愉しむ機会がなくなる。傷を負い捨て鉢となったイヴをティンカーはフロリダに療養のために連れていく。精神的に立ち直ったイヴとティンカーの仲は進展して同棲するようになる。

吸血鬼は鏡に映らないという。事故はイヴを反対の性質を持つさまよえる魂にしてしまったのかもしれない。今の彼女は鏡の表面でしか自分が見えないのだ。
事故のために性格が変わってしまったイヴをこのように描写している。

読書好きのケイティは、勤めていた法律事務所を辞めて出版社で働きだす。上司である編集者は業界では有名人だが、今の世に合わずに一人ひとり消え去る昔気質の編集者の一人。給料は半分に減って転職を後悔しだしたケイティだが、出版社には役得もあった。ケイティと同じく暮らすために働いている秘書の他に、上流階級の子女も腰掛として在籍している。後者の女性の一人であるスージーの手引きでケイティの前に再び上流社会の扉が現れた。

ケイティを一言で表すと、自立した女。それは暮らしだけではなく、考え方や世の中に対する見方や人との接し方も含めたすべてにおいて。媚びることなく、それでいて尊大にもならず、自分を常に持っている女。そんなケイティをティンカーはこう言った。
最初に会った時から、ぼくはきみが内に冷静さを秘めていることに気づいた。そして思ったんだよ、あれは後悔しないことによってのみ生じうるものだと ー 自制心と目的を持って選択をすることによって、得られる素質だと思った。

読書好きで文章に独特の嗜好と見る目をもっていることは出版業界で働くケイティに新しいチャンスをもたらした。ケイティの能力を買っている老編集者が若くて野心があってやり手の編集者を紹介する。メイソン・テイトはこれまでになかったNYを代表するような新しい雑誌創刊に向けてフル回転で、そんなメイソンの有能な片腕としてケイティは能力を発揮していく中、新しい恋人ができる。ウォレス・ウォルコット。アッパー・イーストサイドの高級住宅で生まれ、アディンロンダックの夏の別荘と狩猟用の植林のある環境で、父親と同じプレップスクールとカレッジに通い、父親が亡くなると稼業を継いでいた正真正銘の上流階級人。吃音の気味があるものの、思慮深くて礼儀正しく頼りになる男性。

信頼できて頼れるウォレスだったが、スペイン内戦に参加するために一人旅立つことを決心する。クリスマスに向けて親族たちのために夏の内にプレゼントを準備するウォレスに寄り添うようにケイティが手を貸す。ここの場面は心穏やかでありつつも、二人の間の深い絆が感じられるほほえましい場面だ。決して、燃え上がるような恋心ではなが、信頼・安心・相互の尊敬に裏打ちされた静かで安定した奥深い愛情が感じられる。そんな二人であったが、ウォレスは戦死してケイティは一人残される。

そんな頃に、ケイティはイブにプロポーズしたものの拒絶されて去れらたティンカーと再会する。今頃になってティンカーを愛していたことに気づいたケイティだったが、ある日ティンカーの本当の姿を知ってしまう。相手の名前はアン・グランディン。

年齢をろくに感じさせないタイプで、ブロンドのショートヘアーに、バレエをするには背が高くなりすぎたバレリーナのような無駄のない身体つきをしていた。着ているのはほっそりとした腕を引き立たせる袖なしの黒のドレスだった。真珠のチョーカーはつけてておらず、イアリングをしていた ー 大粒のゼリーほどもあるエメラルドだ。宝石は神々しきばかりに美しく、たまたま彼女の瞳の色ともマッチしていた。その身ごなしは泳いでいるよう、としか言いようがなかった。水からあがっても、宝石が耳についていようが、海の底に落ちていようが、一瞬たりとも気にせず、タオルをとって髪を拭くことだろう。

ティンカーの名付け親と名乗ったアンだったが、二人の仲は金持ち有閑マダムと若い燕。愕然としつつも、ティンカーとの別離を決心するケイティ。でも、心は...

このような大河の流れのようなすべての出来事は1938年の一年の中で起きたこと。ケイティにとっても、ティンカーにとっても激動で忘れられない年であることに違いない。結局、自分を恥じたティンカーはアンと別れて港湾労働者として日銭を稼ぐ日をお送り、その一日がある写真の目に止まって地下鉄の中の一労働者としてのポートレート作品となった。貧しくとも偽らない自分を生きている証として、目に輝きを持った労働者として。

そして時は1966年のオープニングパーティに戻る。ケイティは今の夫であるヴァルとの生活、自分の仕事、自分のNYを愛しんでいる。朝起きる時に、ティンカーの名前をつぶやきながら。

   ☆★☆★☆★☆★☆★

「近頃ではアパートにいて何もすることがないと、一緒に過ごせそうなやつが誰か街にいなかったかと考える」
「めんどり小屋に住んでいると、その正反対の悩みがあるわ。一人になるには外に行くしかないから」

出会ったばかりの頃にティンカーとケイティがこんな会話を交わしている。彼らの置かれた立場と階級の違いをそれとなく仄めかす上品で機知に富んだ会話だ。

だから、ティンカーも私もシートに背を張り付け、目を見開いて静かにじっとしていた ー 神の力の前にひれ伏す人間みたいに。

ベルモント(競馬場)でひとつだけ確かなのは、水曜日の朝五時に一般人の居場所はない、ということだった。ここはダンテの「地獄篇」のサークルみたいなものだった - 様々は罪を犯した人間が生息しているが、亡者たちの狡猾さと情熱もあふれていた。なぜ誰も「天国篇」を読もうとしないのかを思い出せる生きた助言だった。
たしかに、「地獄篇」はあるが「天国篇」は書かれていない。こんな仄めかしも教養の現れなのかね。

彼は居間の反対側の廊下を行って、ビリヤード室を通過すると、大げさな身振りでドアをぱっと開け放った。中は道具部屋になっていて、釘にはレインコート、棚には帽子がずらりと並び、幅木に沿ってあらゆる形とサイズのブーツが勢ぞろいしていた。ティンカーの顔つきを見たら、四十人の盗賊の財宝を見せびらかしているアリババかと思ったことだろう。
千一夜物語まで顔を出す。レパートリーが広い。

セントラルパークウエストに沿ってのっぽのアパートメントビルが木々の上に突き出ていた。空はティエポロの青だった。木々の葉が高揚していてハーレムまでずっと明るいオレンジ色の天蓋が伸びていた。公園が宝石箱で、空がその蓋みたいだった。
「宝石箱や~」と彦摩呂が言うとコメディになってしまうが、使い方によってこんなに美しくて洒落た描写になるのだね。

「人生は人を惑わすシグナルで溢れていますから」
「でも三角形の内角の合計は常に180度だわ - でしょう」

三角関係を上手に使って、内角の和に話を持っていくのは意味不明だが、何となく納得させられてしまう。

「たいていの人が持っているのは欲しいものより必要なものなの。だから、彼らは変わりばえのしない人生を送っている。でも世界を動かしているのは、必要以上のものを欲しがる人達だわ」
「締めくくりの言葉がとてもお上手なのね、アン」
「ええ、私の特技のひとつ。」

ティンカーを囲うアン・グランディンとの対決の場面は、お互いに譲らない。静かな中で互いの気迫がぶつかり合う中、世慣れたアンならでは存在が強調される。やはり、年の功というものか。このような年の取り方をしたいものだ。

お言葉ですけど、王様のご機嫌とりをした画家たちが歴史に残る絵や肖像画を描いたのよ。静物画はもっと個人的な表現形式だったわ。
画家であるティンカーの兄、ハンクと酒場と出会う。世を拗ねるようなハンクにケイティがやり返す。教養、そして自分なり見方ができていることを証明するかのような台詞。これに似た会話は他にもいくつかあって、ケイティの地頭の良さと折れることのない強い意志があちらこちらに顔を出している。

生まれながらに、バッハやヘンデルのような静謐で様式的な音楽の真価がわかる人がいる。かれらは音楽の数学的関係性や、その対称性やモチーフの抽象的美しさを感じることができる。でもディッキーはそうではなかった。
三人によるジャズ演奏という安上がりの体験が、ディッキーにとっての天啓となった。その即興演奏の良さを彼は本能で理解した。


人生をいつでもコースを変えられる放浪の旅にたとえるのは、ちょっとありふれている ー ハンドルをわずかに切れば叡智が広がって、一連の出来事に影響が及び、新しい仲間や環境や発見と共に運命が変わっていくという考えだ。でもわたしたにの大半にとって、人生はそんなものではない。その代わり、一握りの別々の選択権を差し出される瞬間がいくつかある。この仕事か、それともあの仕事?シカゴかニューヨークか?

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古き良き時代を背景に、古き良き上質な人々が織りなす物語、それを非常に上手に描き出してみれるのがエイモア・トールズという作家なのだと思う。上質な人々がだいたいにおいて上流の人たちで、彼らの誇り高くて周りに優しい眼差し、そして煌びやかな生活に憧れを感じさせることも上手だ。

『仏教思想のセロポイント』 (魚川祐司著)

2020年11月23日 | 読書雑感
自分が信じている(と思っている)仏教について、実は知識不足であることに気付き、仏教について色々と勉強しだした。この本は、ブッダの教えの本質である「無常・苦・無我」について教えてくれているためにとても理解が進んだ。教えの本質は、
・すべての現象や物質は変化して定まらない(無常)
・無常のものを自分でコントロールできると勘違いして(無我)執着してしまうことから苦が生まれる
・物事を認識する過程で自分なりの物語を勝手に妄想・幻想して煩悩を生み出してしまうことを止めて、ありのままを認知することにより煩悩から離れて涅槃の境地に入れる
と理解した。

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■ ゴータマ・ブッダの教え
律(僧侶のルール)では物の売買や金銀による取引も禁止されている。そうした一般社会(俗世)における労働・交換・取引には一切関わるな、というのが比丘たちに与えられた規範なのである。(略)出家者の目標が渇愛(愛執)を滅尽して解脱・涅槃に至ることにある以上、彼らが離れなければならないのは、単に直接的な性行為だけではない。解脱した者が捨て去っているべきなのは、軽重を問わず、異性に対する欲望や思慕にあたるものの全てである。(略)解脱・涅槃を一途に希求する者(出家者)たちに対して、農業であれ商取引であれ、あらゆる労働生産や生殖の行為は禁じられる。これはゴータマ・ブッダの仏教の基本的な立場の一つだ。(略)ゴータマ・ブッダの教えは、私たち現代日本人が通常の意識において考えるような「人間として正しく生きる道」を説くものではなく、むしろそのような観念の前提になっている「人間」とか「正しい」とかいう物語を破壊してしまう作用をもつものなのである。

■ 無常・苦・無我
・「原因によって生じたものごとは全て滅する」と如実知見する(ありのままに知る)のが仏教理解のはじめである。「すべての現象が原因(条件)によって成立していること」を法則として概念化したのが、いわゆる「縁起」の説である。(略)ゴータマ・ブッダの仏教において目指されていることは、衆生を「世間」(迷いの生存状態にある現象の世界)から「出世間」(迷いから脱した風光のこと)へと移行させることであり、その手段は縁起の法則によって形成された私たちの苦なる現状について、その原因や条件を徹見して消滅させることである。
・「苦」とは、欲望の対象にせよその享受にせよ、因縁によって形成された無常のものである以上、欲望の充足を求める衆生の営みは常に不満足で終わるしかないという事態をこそ意味する。現在の英語ではしばしがunsatisfactorinessという」単語が使われるのは、原語(dukkha)のニュアンスを正しく汲み取った適約だ。(略)マインドフルネスが日常化し、自分の行為に常に意識を行き渡らせている修行者は、縁生の現象の無常・苦・無我の性質をありのままに見て(如実知見して)それを実体視することがない。そして仮に内面に貪欲が起こったとしても、それもまた一つの現象として、ただ「ある」と気づくだけで執着に発展させることがない。
・ゴータマ・ブッダの立場は、一切を構成する六根六境(目・耳・鼻・舌・身・意と色・声・香・味・触・法)が欲望を伴った認知を形成した時、そこに「世界」が成立するのだというある種の観念論的な色彩を帯びる。(略)六根によって認知される六境に執着して喜悦することが苦の原因であり、苦を決する方法は六根によって認知される六境を歓喜して迎え入れ、執着することをやめれば、喜悦も滅するから苦は滅尽するのだとも説かれている。(略)六根六境が「滅尽」したときに存在しなくなったのは、認知そのものというよりも、そこにある「ある」とか「ない」といった判断を成立させる根底にある「分別の相」すなわち、拡散・文化・幻想化の作用であるpapanca(妄想・幻想・迷執を含むもの、渇愛・煩悩・我執に基づいてイメージを形成して現象を分別して多様化・複雑化させて「物語」を形成する作用)であろう。
・「無我」とは、「己の所有物ではなく、己自身ではなく、己の本体ではない」ということである。つまり「己の支配下にはなく、コントロールできない」ということだ。(中略)「苦であるものは無我である」と言われるのも、不満足というのは言い換えると「思い通りにならない」ということだ。(略)ゴータマ・ブッダが否定したのは、「常一主宰」(常に住であり、単一であり、主としてコントロールする権能を有する(主宰)もの)の「実体我」である。
・心にふと浮かんでくる欲望とはいうのは、「私」がコントロールして「浮かばせている」わけではなく、欲望はいつもどこからか勝手にやって来てどこかに勝手に去っていく。すなわち、私の支配下にある所有物ではないという意味で「無我」である。(カントによれば、心にふと浮かんできた欲望に抵抗できずに隷属してしまうことが「恣意の他律」なのだから、それは「自由」とは別物と考えていた)
・仏教の立場からすれば、衆生というのは業と縁起によって形成された枠組み(世間)の中で、条件づけられた欲望を持ち、条件付けられた欲望の対象を見出して、それらを次から次へと追い求めながら終わりのない「不満足」の生の繰り返しの中で盲目的に走り続けるものである。
・仏教の世界観によれば、私たちは過去に積み重ねてきた無量の業の結果として現在存在しているものであるのだから、私たちにはそのような無量の業の力(業力)が」作用しており、それば私たちに無数の行為の反復によって形成された行動と認知のパターン、いわば「癖」をつけている。そうした癖による心の」はたらきは汚れたものとして「煩悩」と呼ばれ、そのような煩悩で心の汚れた状態にあることは「有漏」と呼ばれているわけである。(有漏とは心に煩悩があって心が汚れている状態、無漏とは煩悩の汚れがない状態のこと。)

■ 解脱のためのマインドフルネス
・仏教における「転迷開悟」(迷いを転じて悟りを開く)の一つの意味とは、「衆生がその『癖』によって盲目的に行為し続けることを止めること」である。
・仏教界で盛んに語られる「気づき」というのは、解脱するための実践だ。この「気づき」のことを英語でマインドフルネスと訳していることが多いが、これは「まさに読んで字の如くで、一つ一つの」行為に意識を行き渡らせることによって、無意識的つまり盲目的に慣れ親しんだ不健全な行為を行ってしまうことを防止しようとするわけである。

■ その他
・「何が輪廻しているのか」という問題の立て方は、仏教の文脈からすればカテゴリーエラーの問いである。存在しているのは業による現象の継起だけなのであり、その過程・プロセスが「輪廻」と呼ばれれているのであって、そこに「主体」であると言えるような固定的な実態は含まれていない。人が死んで別の存在として生まれ変わる「転生」の瞬間だけにおきるものではなく、いま・この瞬間の現象の継起のプロセスとして生起し続けているものである。(略)「輪廻はない」と考えて、生の必然的な苦から逃避するために自殺したり目を背けつつ快楽だけを追い求めて一生を浪費す」したりするのではなく、現実存在する輪廻を正面から如実知見して、それを渇愛の滅尽によってのりこえようとすることが、ゴータマ・ブッダおよびそれ以降の仏教徒たちの基本的な立場である。
・ゴータマ・ブッダの仏教は、「一切衆生」を対象とするものではなく、あくまで語れば理解することのできる一部の者たちを対象とするものであった。(略)渇愛を滅尽し解脱に至った者たちは、存在することを「ただ楽しむ」のである。それは「欲望の対象を楽しみ、欲望の対象にふけり、欲望の対象を喜ぶ」ような執着によって得られる「楽しみ」ではなく、むしろそこからは完全に離れ、誰のものでもなくなった現象を観照することによって初めて知られ「最高の楽」というべきものだ。解脱者にとっては、悟後の行為はすべてが純粋な「遊び」である。遊びである以上、その仕方は自由だから、利他の実践へと踏み出す場合にその範囲や形式にかんしては、彼らに裁量の余地が存在する。
・「大乗」というのは奇妙な論理構成に依拠した宗教運動である。それは言い換えれば「菩薩乗」であり「仏乗」であって、つまりは現世における苦からの」解脱という自利を追求する阿羅漢ではなく、一切衆生を広く救済する自利・他利び完成者としてのブッダとなることを究極的な目標とし、自らをその過程にある菩薩として位置づけることをその本懐とする。(略)「大乗」というのは、一枚岩のものではなく、それ自体に多様性を含んだ複雑な宗教運動の総体だが、その根底には涅槃よりも世間を、」不生不滅の寂滅境よりは生成消滅の「物語の世界」をゴータマ・ブッダよりも高く価値づけようとするモーティブが基本的な方向付けとして働いている。
・仏教の本質が「脱善悪」であって「反善悪」ではない。善悪を」否定することも一種」のとらわれであり、それを超脱した境地を」目指すのである以上、修行者が日常の振る舞いにおいて善を行うことを否定する理由はない。「自業自得」という仏教の世界観からすれば、悪行為は修行者に苦の結果をもたらすものである以上、苦からの解脱を求める仏教者がそれを避ける理由はあるのである。
・テーラワーダ教理による煩悩の根絶方法:
 ① 戒によって、身と口の行為に表れる違反を対治して煩悩の彼分捨断、すなわち個別的な煩悩の一時的な排除を行う
 ② 定によって、意に纏いついている煩悩を対治して煩悩の鎮伏捨断、すなわち意識に表れる煩悩の抑制を行う
 ③ 慧によって、煩悩の潜勢力も対治して正断捨断、すなわち煩悩の根切りを行う。




『考えない練習』 (小池龍之介著)

2020年11月16日 | 読書雑感
僧侶が仏教思想をベースにして、様々な煩悩を抱える現代日本人に対して楽に生きる方法を教えてくれる本。仏教の教えの片鱗を平易な文章で且つ生活に取り入れられるように説明してあるので、難解な仏教思想書では肚落ちしない理解困難な事柄も「なるほど!」と理解ができる。

煩悩とは、「欲」(もっと欲しい、もっと欲しいと求める心の衝動エネルギー)、「怒り」(入ってくる情報に対して、受け入れたくない/見たくない/聞きたくないと反発する心のエネルギー。妬み、後悔、寂しい、緊張する等のネガティブな思考も含まれる)、そして「迷い」

八正道:正しい生き方を実践するためにひとに求められる八つの道
・正思惟(しょうしゆい:思考内容を律する)
・正語(しょうご:言葉を律する)
・正業(しょうごう:行動を律する)
・正命(しょうみょう:生き方を律する)
・正定(しょうじょう:集中する)
・正精進(しょうしょうじん:心を浄化する)
・正念(しょうねん:心のセンサーを磨く)
・正見(しょうけん:悟る)

十善戒:仏道における戒め
・不殺生(生命を殺さない)
・不偸盗(与えられぬものを取らない)
・不邪淫(浮気をしない)
・不妄語(事実に反したことを言わない)
・不悪口(ケチをつけたり批判しない)
・不両舌(ネガティブな噂話をしない(
・不奇語(他人に無駄話をしない)
・不貪欲(心の中に欲望を作らない)
・不瞋恚(心の中に怒りを作らない)
・不邪見(無常・苦・無我の法則を知る)

仏道において人が幸せに生きていくために育てる感情
・慈:人々を含めた他の生き物が平和d穏やかであることを願う感情
・悲:哀れみの感情や生身や苦しみがなくなることを願う同情心
・喜:他者が幸福になって喜んでいるときに自分のそれを見て共に喜べる感情
・捨:怒りや迷いを持つクセをなくし「平常心」を保つ心の状態

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煩悩の力で刻み込まれた情報は潜在化していつまでも残る。コマ切れになりはっきりと意識できなくなって心の流れに混ざって影響を与え続ける。(中略)「見たり」「聞いたり触れたりしている」つもりでも、実際には頭の中のノイズにメインメモリを奪われているため、フレッシュな情報が入ってきません。一秒のあいだ人の話を聞いていても、そのうち0.1秒は聞いていても残り0.9秒は過去のノイズが残響していて五感が鈍りぼんやりとしている。多くの方が年を取るにつれ「最近は年月が速く過ぎていく」と感じる元凶は、現実の五感の情報を過去から大事に蓄積してきた思考のノイズによってかき消してしまうことに他ならない。

無駄なエネルギーを使わない思考、その時に最も適切な必要最低限のことだけを考えて、どうすれば無駄な思考や空回りする思考を排除できるか、どうすれば煩悩を克服できるかが仏堂のスタートでありゴールでもある。

無駄な思考を克服するために、ますは今自分の心が何をしているかを普段から見張るようにする。心の動きにセンサーを張り巡らせておいて時折チェックする。すると、心の動きに気付くようになる。次は心を移動させる。集中して意識をコントロールして一つの場所に集める。

身体と心の操り方=感覚に能動的になることで心を充足させる。
「見ている」という受動的な状態から、「見る」という能動的な状態へ。
「聞こえている」という受動的な状態から「積極的に「聞くという能動的な状態へ
「においがする」という受動的な状態から、積極的に「嗅ぐ」という能動的な状態へ
「味がする」という受動的な状態から、積極的に「味わう」と言う能動的な状態へ
「感じている」という受動的な状態から、積極的に「感じる」という能動的な状態へ

■話す
・自分の声色に耳を傾けることで、自分の状態に気付く。
・ムカつくと思ったら、その感情を「 」でくくることで、そう感じている自分を客観視する=そういった感情が持ち上がってきているだけであると自己認識する。
・「ありがとう」という言葉を使わずに感謝の意を伝える工夫をする。例えば、「〇〇を美味しくいただきました」 「家族で嬉しくいただきました」など。

■聞く
・仏道本来の瞑想法は、瞑想の集中力を道具にして自分の心の動きを見つめる稽古であり、「音⇒何の音だろう⇒〇〇の音だ⇒うるさいなぁ」ではなく、「音⇒」で止める。
・普段から音を立てないで動作する練習をするで、脳に対する刺激を減らす(動作も丁寧になり見た目の美しくなる)
・相手の話を聴く際に重要なのは、相手の感情を浮き彫りにして受け止めてあげること。

■見る
・相手を見ながら、人は自分の評価を気にする=「慢」の煩悩

■書く/読む
・相手の自我を刺激しない書き方をする。「雨が続いてうっとうしいですねや「寒くて嫌ですね」にはこちら側の感覚の押しつけがあるために相手の自我を刺激してしまう。「雨を降ってすこしずつ湿度が上がってきた部屋からメールを書いています。そちらは快適にお過ごしでしょうか?」とじゃ「今、時計の針がちょうど12時をさしました」、「満月の晩に失礼します」等。

■食べる
・食べるための動作に鋭敏に意識を置く。手の筋肉、手に触れた触感、下に触れた触感を感じる。食器と箸も下に置いてかむことに集中することで、口の中の触感、味の変化、舌の動きなどを感じる。

■育てる
・相手を励ますことを口実にして、自分の「慢」を満足させていないだろうか?
・大切なことは、相手がいま何に困っていて何を望んでいるかが浮き彫りになるまでじっくりと話を聴くこと。
・相手の話が単なる愚痴で終わらないように、自分自身の考えを整理しなければならないような質問を重ねる。
・今、話すことによって心が穏やかになるか、汚れるのかを判断して、話す(行動する)か黙る(行動を止める)かを決める




『モスクワの伯爵』 エイモア・トールズ著

2020年10月01日 | 読書雑感
ロシア革命で共産主義が誕生した経緯から、この国には元貴族などという階級が存在しないことは周知のこと。それなのに『モスクワの伯爵』とは? そんな好奇心から、あまり期待もせずに読み始めたところ面白いことこの上ない。面白いという形容が不謹慎であるならば、主人公である元伯爵の素敵な人柄が物語全体に投影されたとてもチャーミングな小説、と呼ぼう。

主人公は自己紹介する際にこう言う、「アレクサンドル・イリイチ・ロストフ伯爵。聖アンドレイ勲章の受章者、ジョッキー・クラブ会員、狩猟家です」と。名前と称号は当然としても、勲章の有無は貴族にとって重要事項だったのだと分かる。聖アンドレイ勲章とは、軍人または文民の最も傑出した功績に対してのみ与えられたロシア帝国初の勲章で、1000人に満たない人しか受賞の栄誉に浴さなかったらしい。

勲章までは分かるとして、「ジョッキー・クラブ会員、狩猟家です」は今の時代に生きる一般人の我々にとって重要度が分かりかねる。冒頭部分にこんな台詞がある、「紳士(ジェントルマン)は職業を持ちません」 そして、物語の中でロストフ伯爵がバーで仲良くなる英国人もこう自己紹介をしている、「ウェストモーランド伯の推定相続人、投資家見習い、そして1920年のヘンリー・レガッタで負けたケンブリッジのクルーのバウマン」 こっちは投資家見習いという職業を口にしているが(時代のせいか)、スポーツをやっていたことが自己紹介の中で言うべき要素の一つとして鎮座している。 紳士とは、余暇の時間を過ごすための趣味たるものをしっかりと持っており、それが職業以上に大切な自己アイデンティティであることが見て取れる。古き良き時代の名残ということだろうか。

このロストフ伯爵、故あってロシア革命直後にフランスからロシアに戻ったために裁判にかけられる。罪状は貴族であること。労働者が貴ばれた革命だから仕方がないよね。でも、この伯爵が若い頃に世に出した詩集が党上層部の人々から指示されているがために、殺されることなく滞在しているホテルに軟禁状態のまま一生を過ごすという罪状が課される。ホテルを一歩でも出たら銃殺が待っている。ホテルの部屋も、それまでのスイートルームを追い出されて屋根裏の小さな一部屋に追いやられることになる。気位高い貴族はどう生きていくのか? 判決が出た時び伯爵は32歳、その後の32年間がこの小説が紡ぎだす物語だ。

この伯爵、肝っ玉が太いというか楽天的というか、それとも人間としての魅力がゆえか、軟禁状態が続くホテルでの生活が非常に愉しく、かくありたいと思ってしまう日々が続くことになる。隠していた金貨が助けになったのは当然としても、それだけではなく伯爵の人柄が周りの人々を感化し、べた付くことのない、だがしっかりとした親密な友人関係を作り上げていく。何があってもめげず、落ち込まず、諦めない(一度だけ自殺を試みようとしたが、生きることの素晴らしさを友人から示されて断念している)。深い教養に裏打ちされた知識、礼儀正しさと正しい言葉遣い、相手への思いやりと配慮、見栄を張ることのない自然体な生きざま。そして、良いものを認識できるセンスと一人でいることを苦にしない生き方。これらすべて人生100年時代と言われる日本で生きる成熟した男が持つべき要素だ、と羨ましく思いながら読み進んだ。

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「王女さまは年配者に敬意を払うように育てられる。ここでの原則は新世代は旧世代のすべての人々に一定の感謝をすべきだ、ということだ。お年寄りは田畑を耕し、幾多の戦争で戦った。彼らが芸術は科学を推進し、我々のために犠牲になった。だから、たとえ身分が高くなくても、彼らはその努力によって我々の感謝と尊敬を得て当たり前なんだ。」
ホテルに幽閉されるようになって間もない頃、9歳の少女ニーナと仲良くなる。お茶に招かれた際に、少女から王女さまになるために必要なことを質問されて、伯爵がこう答える。その時代の躾の一つでもあり伯爵の信じる哲学でもあるのだろう(王女になるためのルールの一つとして敢えて挙げるからには)。この種の、人としての哲学を語れる人物であること、まさに教養と良い躾が身に付いたジェントルマンらしさなのだろう。そして、このニーナとの関係が伯爵に新しいことに目を向けるキッカケとなり、時がたってから娘を親がわりに育てる試練(悦び)をもたらすことになる。

「新しい人生が手に入るのは確かに魅力的だが、故郷や妹や学校時代の思い出を捨て去ることはとてもできませんね。この記憶をどうして捨て去ることができますか?」
伯爵の故郷に伝わる言い伝えでは、故郷の森の奥にある特別な林檎を食べると人生を一からやり直すことができると言われていた。恋仲となった女優にその林檎を食べたいかと訊かれて、こう答えることができる大人は素晴らしい人生を歩んできた証拠だ。こう言える伯爵に完敗であり乾杯したくなる。

伯爵の学友の大半は教会に背を向けたが、ほかに慰めを見出しただけのことだった。科学の明晰さを好んだ者はダーウィンの考えに執着し、ことあるごとに自然淘汰の痕跡を見つけた。一方ではほかの者たちは、ニーチェとその永劫回帰や、ヘーゲルとその弁証法に傾倒した。いずれの手段もまことに賢明である-彼らの著作の千ページまでたどりつけたら、の話。
ピリッと皮肉のスパイスを交えた教養の仄めかしが、人物像に味を与えてくれているとともに、読みやすいパルプ小説の類とは一線を画す上質な読み物なのだと訴えてくる。確かに、平易な出来事だけではなく、この手のちょっと小難しいことも言及する方が、読み手にとってのチャレンジでもあり考えさせてくれるネタにもなるので歓迎だ。

人生の熟年期に入ると、時の経過はまことに儚く、我々の記憶にほとんど足跡を残さない、すなわち、まるで何も起きなかったかのように記憶から抜け落ちている。
こちらは、熟年期(老年期とも言える)に入った我々にはとても心優しい優美な表現であり、労わりでもある。こんな台詞が小説の中にあるだけで、物語のクオリティが上がって見えるよね。

伯爵が娘として育てたソフィア(ニーナが伯爵に託した)がピアニストとして自立する際に、伯爵は二つの助言をする。これは伯爵自身の信念といってよいものだろう。
ひとつは、人は自分の境遇の主人とならなければ、その人間は一生境遇の奴隷になるということ。そして二つ目がモンテーニュの金言-叡智のもっともたしかなしるしは、常に朗らかであること-だった。

特に一つ目の「自分の境遇の主人になる」というのは、まさに伯爵が32年間の軟禁状態を愉しく充実したものに変えてしまった魔法の心得だと思う。これがこの小説の一番のテーマなのだろうと思う。

伯爵の人生をより充実したもにしてくれたのは二人の女性、それもどちらも少女、だったと思う。ホテルに軟禁状態になった当初に知り合った9歳のニーナ。黄色が好きな女の子として登場して以来、ホテル内探索に伯爵を連れ出すことで、伯爵が見ようともしていなかった世界の存在に気付かせてくれた恩人。そしてもう一人はニーナの娘のソフィア。強制収容所送りになった亭主を追いかけるニーナから託された6歳の少女が、58歳になった伯爵の生活を変えた。

目を覚ますと、彼女は起き上がって服を着、黙ってベッドを整えた。伯爵が朝食を用意すると、トラピスト修道会士さながら黙ってビスケットをかじった。そのあと、自分の皿を静かに片付け、伯爵の机の椅子によじのぼって両手をお尻の下に挟み、黙って伯爵を見つめた。その目力の強さといったら。瞳は濃く、寄せ付けぬ深みを湛えていて、人を怯ませた。はにかみも苛立ちもなく、その目はただこういっているようだった。”次はどうするの、アレクサンドルおじさん?”
さすがの伯爵も、この少女の扱いに苦労する。朝食の後でやることを思いつかない伯爵は、ひたすら12時の昼食までの時間を待ちわびることになる。フリードリヒ大王がプラハ包囲を解いた時のプラハ市民の安堵、カルパンティエがデンプシーとボクシング対決した際の第三ラウンド終了ゴングを聞いて感じた安堵すら、伯爵のそれにはかなわなかったと表現しているくらいに。

ここに、著者の優れた知恵とアイデアが見受けられる。世慣れた伯爵と相対するには、並大抵の人物では不十分だ。そこに、少女という尋常でない相手役を設定することで、意外感を醸し出すとともに、二人の少女の強烈な個性が伯爵の教養、上流階級ならではのマナーや非常に魅力的な人柄に負けない存在感を生み出し、物語の厚みを出すことに成功している。特に、ソフィアは伯爵に育てられて一人前の魅力的な女性に成長していく様は、それまでの物語とは別の愉しみと悦びを生み出している。

最後は、ソフィアがピアニストとして渡仏するタイミングに合わせて、二人でソ連から脱する手はずを整えるところで物語が終わり、二人のこれからは読者の想像次第というエンディングを迎える。

禅が教えてくれる美しい人をつくる「所作」の基本 (枡野俊明著)

2019年05月28日 | 読書雑感
曹洞宗の住職にして庭園デザイナーの坊さん、枡野さんが禅の教えの中から人として美しく、そして正しく生きるためのヒントを教えてくれている。
例えば...

調身、調息、調心」という禅の心得。姿勢(=所作によって成り立つ)が整うと呼吸が整い、呼吸が整うと心が整ってくるという所作・呼吸・心が三位一体として結びついていることの教え。

折り目正しさ」は、形の美しさをつたえるだけではなく、心の豊かさや素直さといったことを余すことなく伝える言葉。挨拶すべきときには挨拶が出来る、感謝が必要な場面では感謝の言葉が出てくる、敬わなければいけない相手には謙虚な態度で接する。これが折り目正しい行動。

愛語」美しい言葉はそれそのものが美しくなるための大きな武器。慈しみの心から発する愛を持った言葉には力がある。いいたいことを思いついたまま語るのではなく、その言葉を相手がどう受け取るのかということにまず思いをめぐらせる。一旦自分が相手の立場になってみて、その言葉をなげかけられたら、どう受け止めるだろうかと考えてみる。自分のなかに愛語かどうかを見分けるフィルターを持ちましょう。

良因良果、悪因悪果」が教えるものは、すべての事柄には「原因」があり、そこに「縁」という条件がそろって始めて「結果」が生まれるという仏教の考え方。キュウリの種は「原因」、それが育ち実りを収穫するという「結果」を得られるためには、途中に土地を耕したり肥料を畑全体にいきわたらせて種を植え、毎日水をやるといった「縁」が必要。良い「原因」を心がけると、良い縁が生じて良い結果となる。

語先後例。」相手をきちんと見て、まず挨拶をしてその後に丁寧に頭を下げる作法。言葉とお辞儀を同時におこなうより、言葉のはるかによく相手に伝わりますし、所作全体も綺麗になる。

著者は単なる坊さんではなく、庭園デザイナーでもあり、禅から離れて日本料理についてもこのように教えてくれる。
西洋料理と日本料理の違いの一つに、使う器の種類の多さがある。器と料理が相まって食事のおもてなしになる。日本料理では素材そのものにも秘密がある。旬の素材を7割、旬が過ぎ去っていく名残の素材を1割5分、これから旬を迎える素材を1割5分、といったように旬のことなる三品をそろえるのが最高のもてなしとされている。これは過去、現在、未来という時間の流れを意識したもの。食事をいただく時間は限られるが、その限られた時間の中であっても、過去から未来に流れる永遠の時間があり、ゆっくりと愉しんでください、という思いがその食材選びに込められている。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

この本を読んだら、むしょうに座禅を組みたくなったので、表参道にある永平寺別院長谷寺に行って来ました。昨年12月に一回目の座禅を組んでから二度目の座禅だったのですが、二回目は二柱、それぞれ30分ほどの生涯で最も長い座禅の体験でした。一柱目の途中、組んでいる足の付け根が痛む、背中が痛むのを我慢しながら腹式呼吸を意識していたら、「無」の境地になったのか寝てしまったのか分からない瞬間が二度ありました。眠りに落ちると姿勢がガクッと落ちるはずなのに、そんなこともなかったので「これは?!」と思って臨んだ二柱目、足の付け根と背中の痛みしか感じませんでした。それでも、終わりの鐘が鳴った時には飛び跳ねるかと思うくらい体が反応していたということは、座禅にそれなりに集中していたのでしょう。

思い起こしてみると、スポーツジムで最初に体験した気功のクラス。インストラクターの動きについて行こうと必死になっていると、突然右と左の手のひらが磁石のように反発しあった経験がありました。それが、「気」というものは確かに存在しているんだということを実感した瞬間でした。そんな経験があったので、ひょっとしたら二回目のまだ訳が分からない時にひょっとしたら「無」を体験できたのかな?と少しの期待をしている自分がいます。

『コンサルタントの秘密-技術アドバイスの人間学』 G・M・ワインバーグ

2019年04月14日 | 読書雑感
著者によると、最古のコンサルタントはエデンの園にいた蛇なのだそうだ。蛇はイブに対して、林檎を食するといいことがあるというコンサルティングをした。尤も、副作用を警告することを怠ってしまったが。

この本は、副題が『技術アドバイスの人間学』となっているように、高い報酬を得て企業に知恵や戦略を恭しく授ける憧れの職業コンサルタントとしてデビューし成功する秘訣が書いてあるのではなく、コンサルティングの現場で起こる色々な軋轢や生き延びるための知恵、つまりクライアントと上手くやっていくための人間学が書かれている。そして、そこには著者ならでは経験だけでなくユーモアが存分に盛り込まれている。例えば、こんな風に:「最近まで私は心理学という学問が50%の誤りと50%のでっちあげから成っていると疑っていた。」つまり、この本は、コンサルタントになるための参考書というより、人生を愉しく生きるための参考書と考えた方がしっくりくる、人生の大先輩の金言集と考えるべきものだ。

第一章:コンサルタント業はまぜ大変か -ラズベリージャムの法則
冒頭からコンサルタントとして身に着けるべき法則が出てくる:
 第一法則:依頼主がどう言おうとも、問題は必ずある。
 第二法則:一見どう見えようとも、それはつねに人の問題である。
 第三法則:料金は時間に対して支払われるのであって解答に対して支払われるのではなく、ということを忘れてはならない。

そして、米国と日本におけるコンサルタントの数と求められているものの違いがあるにせよ、「誰の手柄になるかを気にしていたら、何も達成できない。」という、これこそ人間学の最たるものだと思える法則が出てくる。そしてトドメは、ラズベリージャムの法則だ:「広げれ広げるほど薄くなる。
つまり、頭をさんざん捻って考え出した解決策を伝える先が広げると、その分影響力が減って収入も減ってしまうと著者は言う。皿洗いのコンサルタント、皿洗いについてのトレーナー、皿洗いについての講師、皿洗いについての著作をモノにする作家。対象が広がれば広がるほど、与えられる影響は減じてくる。影響は富か、二つに一つ、というのが著者の経験から生まれた法則だ。

第二章:逆説的思考育成法-オレンジジュース・テスト
ほとんどのことは達成できる、時間とコストを掛けさえすれば。この当たり前のようなことが実社会では忘れられることが多い。依頼主や上司は、いとも簡単に「これをやれ」「あれをやれ」と命令し、従順に従うコンサルタントや部下を求めるが、実際にはすべてがトレードオフなのだ。大事な考え方は、「それはできますよ、で、それにはこれだけかかります。」ということを忘れずに、横暴で欲深な依頼主に対処することがコンサルタントとして生き抜く方策。

第三章:わからないことをしているときでも有効であるの法-ゴーマンの法則
医者によると、実はすべての病気の90%までは医師の手当てなしに自然に治るのだそうだ。このことからコンサルタントが学ぶべきことは、
・自ら治癒できるはずのシステムは穏やかに扱おう
・自らを治せるシステムを無理くりに治療していると、ついには自ら治せないシステムが出来上がる
・どんな処方には2つの要素がある:一つは薬、もう一つは薬が正しく使われることを保証するための方法

そして、成功するコンサルタントが知っておかねばならない秘訣は
・もしこれまでしてきたことが問題解決にならないのなら、違ったことを勧めること
つまりは、人は自分が今までやってきた方法や方策に拘ってしまう思い込みがある。それを解き放ってやるのが優れたコンサルタントなのだ。
そして、最も大切な秘訣は、なおせなかったら機能にしてしまえ。例えば、黄ばんだバナナは見栄えがよくないから買われることはない。これを逆手にとって茶色のソバカスが出たころがバナナの食べごろ、と言ってしまえ、ということ。

第四章:そこにあるものを見るの法-金槌の法則
クリスマスプレゼントに金槌をもらった子供は、何でも叩きたがる
。実は大人も同じことが言える。そしてこれから次の法則が生まれる:我々はたいがい商品ではなくレッテルを買う。
人は思い込みや今までの経験、先入観から問題そのものではなく、刷り込まれたレッテル(イメージと言ってよいかもしれない)によって判断したり行動したりする。その結果、依頼主は自分たちの問題を解き方を実は知っていて、その解答を最初の5分の間に口にしている。外部の人間で思い込みのない中立的で、レッテルに誤魔化されないコンサルタントであれば、この最初の5分間を大事にして耳を傾けるのだそう。

第五章:そこにないものを見るの法-ブラウンの素晴らしき遺産
言葉と音楽が合っていなかったら、そこに欠けた要素がある。
この素晴らしい法則は、人間の第六感を信じろということだろうか。つまり、依頼主側が言葉で言っていることと態度や情緒などの違いに注目せよ、そしてそのためには不調和を洞察できるようになることが成功するコンサルタントの必須条件ということになる。例えば、お客様の安全のためにお風呂の段差にご注意ください!という警告文を目にしたら、風呂桶の設置の仕方が正しくないことをカモフラージュするためのものである、ということに気付くということ。

第六章:わなから逃れるの法ータイタニック効果
タイタニック号という名前から連想されるように、この効果は、惨事はあり得ないという考えはしばしば考えられない惨事を引き起こす。ということを意味する。大惨事を招かないようにするには、無視できないような引き金のシステムを作っておくこと。

第七章:インパクトを「ふくらますの法ー盲人に教える話
数人の盲人が象を触って、皆違うことを言う。それぞれが言うことは事実だが、真の象の姿を言い当てることはない、という有名なお話がある。コンサルタントと言えども万能ではない。成功する秘訣は、依頼主のちょっと先を行くだけのこと。柔道の高段者のようにこくわずかの力を加えることで相手の体重にものをいわせることができればいいのだ。実務において、ちょっとした揺すりを掛けてやること。今まで当然と思われていたことを揺すってやることで、相手に考えるように仕向けられればシメたもの。

第八章:変化を飼いならすの法ーホローマの法則
これが意味するものは、何かを失うための最良の方法はそれを話すまいともがくこと。イヤなことでも継続していると好きになったり、本当はやりたかったことをやるために他のことを準備としてやっているうちに、本当にやりたかったことが実は愉しく思えなくなってしまう、そんな傾向を言っている法則。ここから変化についてコンサルタントとして気をつけておかなければならないことがある:
・差がほとんどない、差がほとんどない、を繰り返していくと最後は大きな差となっている。
変化を感じるため、または変化を起こす処方箋をどうしたら信じることができるかは、自分自身の命やお金、生活、つまりは自分自身をそこに置いてみること、つまりは自分の身をさらせば真剣に判断できるはず、というのがワインバーグの法則だ。

第九章:変化を安全に起こすの法-ロンダの悟り
新しいものはけっして上手く働かない。だから新しいものは2つではなく一つにすること。
逆にいうと、新しいものが決して上手く働かないから、いつも希望というものがある、とも言える。

第十章:抵抗に出会ったら-バッファローブレーキ
「抵抗」というのはコンサルタントの立場の言葉で、依頼主からみると「安全性」という言葉になる。依頼主が「抵抗」するには理由がある。だから抵抗の無意識的な源泉を明るみにだすための方法として、代案をどのくらい魅力的か見る、と言う方法がある。「この計画の中でどこか一箇所だけかえるとしたら、あなたにとって一番大きな違いが出るも名どこですか・}や「「コストを30%減らすことが出来るとしたらこの案はより魅力的になりますか?」そして究極がこれだ「私はあなたがこの計画のどこを変更したいか全く思いつかないということは分かっていますが、もしあなたがそれを思いついたとしたのなら、それはどこでしょうか?」逆説的な質問で問題の核心をさらけ出すことができるかもしれない。

第十一章:サービスの売り出しかた-マーケティングの第九法則
コンサルタントが陥りがちな状態は、忙しすぎる状態か仕事がなくて暇な状態のどちらか。そうならないために、
・週に少なくとも一日は人目に触れるために使おう
・一人の依頼主の仕事が全体の四分の一よりも多くならないようにしよう
・マーケティングのための最良の道具は満足した依頼主だ
・全部自分だけでやろうとは思わない。最良のアイデアは依頼主にやってしまって自分でやらせろ
マーケティングは量のためではなく質のためにしよう。

第十二章:自分に値段をつける法
価格は単なる事物ではなく、交渉によってもたらされる関係である。人はたくさん払えば払うほど、受取人を愛する。
だから、価格を高めにつけること。

淑女のためのセンスのいい話し方 上月マリア著

2019年03月18日 | 読書雑感
● 好感を持たれるあいづちの打ち方
相手が話しやすい環境をつくる
相手の言葉を真剣に聞いていることを態度で示す
共感していることを伝えるために相手の感情に相応しい表情で返答する
相手が話を進め安いように次の言葉を促す言葉をかける
終始穏やかに

● いい声
いい声と感じるには、「やさしさ」、「明るさ」、「広さ」、「深さ」を持つ。最高に美しい声と言葉は、口の中を大きく開けた状態のときに生まれる。口とのどの広がりを維持しながら声が頭の上から抜けていくイメージでのびのびと出す。

● 褒め方
相手の人を直接ほめるのではなく、身に着けているものを通して伝えるのも知的な社交の会話術。

● 自分をしっかりとつたえるには
「はっきりと」、「ゆったりと」、「ていねいに」。

『人生を変えるクローゼットの作り方』(A LIFE IN STYLE, WITH A TWIST) ベティ・ホールブレイシュ著

2019年03月16日 | 読書雑感
横浜市の図書館で借りて読みました。予約待ちが何十人もいて、2ヶ月ほどかかってようやく到着した人気本です。

題名からは、人生が愉しめるようになるために、どのように服を揃えたら良いかのヒントがうんと詰まった本かな、と想像していたのですが、何と、NYの超高級老舗デパートであるバーグドルフ・グッドマンに勤める有名パーソナルショッパーの物語でした。本人が生きているうちに出版されているので、回顧録とは言えないと思うのだが、一緒の回顧録といってもよいものだと思います。

シカゴの裕福な家庭の生まれた一人の女性(ベッティ・ホールブライシュ)が、どのように育ち、そして当初は幸せな結婚生活が破綻し、精神を病み、そこから見事に回復してNYのデパートで有名セレブの顧客を持つパーソナルショッパーとして成功していく、というお話です。決して、「貴方のクロゼットにあるワードローブをこうすればいいですよ!!」といったことが書いてある指南書ではないのです。

読後の感想として、成功したアメリカ人ならでは自分を上手くPRすることに長けているなぁ、と感じます。決して悪い意味ではないのですが、他の面、例えば不仲になった旦那の側から見たら、どうなのだろうか?ということも読みながら感じることが多かったのは事実です。

精神を病んでから見事に立ち直り、パーソナルショッパーとして成功するまでの間の記述が少なく、色々とあったと思う努力や苦労がサラッと書かれているだけで、突然と成功物語に変わっていくのがこの本の中ごろで、ここが物語の転機です。彼女が言っている成功のヒントは、顧客に合う衣服や小物を自分の感性を十二分に使って選ぶこと。決して値段が高いものを売りつけるのではなく、特定のブランドに偏ることなく、単に新しいからという理由ではなく、真に顧客一人ひとりが際立つようなモノを自分を信じて選んでいくこと。この感性がどんなものなのか、どうして得られたのかを知りたいと思うのだが、企業秘密なのだろう、決して教えてくれることはない。(尤も、このような感性は本にチョコッと書いたぐらいで伝わるものではないとは思うのだが...)

デパートで働く売り子たちはプロの売り手だが、コミッション制ゆえに値段の張るものを薦めがちだし、複数のブランドを組み合わせるなんでこともなかったことが、パーソナルショッパーとしての成功の下地としてあったようだ。ジーンズとタイトなトップに合うようなシンプルなレザーコートをIT企業のエグゼクティブに薦めたり、ヒップの大きな顧客のために数少ないサイズの品々と取り置きしたり、顧客との何気ない会話を通して得られた顧客一人ひとりのスタイルを完全に理解した上で、彼女たちにピッタリの服を選んでいく。大統領夫人、映画女優、TVタレント、超富裕階級の女性たちに止まらず、映画で使われる服や小物選びまで協力する。一種のスタイリストとも言うべき存在がベッティ・ホールブライシュ。

彼女の働く姿は映画『ニューイーク・バーグドルフ 魔法のデパート』で紹介されているのだそうだが、今度観てみよう。どのような感性なのかは一見にしかずだ。

原題にある 「IN STYLE」 には、「流行の」という意味の他に、「はなやかに、堂々と」という意味があると辞書にありました。著者の選ぶ服は、最新の流行のものではなく、流行に左右されずに顧客一人ひとりの生き様や個性といった一人の人間としての独自のスタイルを引き立てるに相応しい華やかさと堂々として佇まいがあるモノが選ばれていたのだろうと思うと、是非彼女がどんなものを実際に選んでいたのかをこの眼で見てみたいものです。