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映画・音楽・アート・おいしい料理・そして...  
好きなことを好きなだけ楽しみたい欲張り人間の雑記帖

神と共に

2020年02月02日 | Cinemaを愉しむ
久しぶりに観た韓国映画だが、十二分に愉しめた。あまりに面白かったので、続編まで一気観をしてしまった。

一作目は「罪と罰」。二作目は「因と縁」。どちらも仏教思想を題材にし、死者が地獄で裁かれる過程での冒険や出来事が娯楽要素ふんだんに入れ込まれて作られている。地獄を題材にしたものとしては、ダンテの『神曲』が有名だが、この世界的名著に決して引けを取らない面白さだ。

『猟奇的な彼女』のチャ・テヒョンが演じる消防士が職務の途中で命を落とした。決まりによって、49日以内に地獄で無罪とならないと再びこの世に生まれ変わることなく地獄で永遠の苦しみを受けることになる。消防士を地獄で守るのは、弁護と護衛を引き受ける3人衆。彼ら・彼女らは、千年の間に49人を無罪にすることで、人として生まれ変わることで地獄から抜け出すことが可能となるという業を持つ罪人だ。3人衆の弁護士役でありリーダー(ハ・ジョンウが演じる)はこの世で振舞う際は、マトリックス顔負けだ。アクションしかり、服装も足首まで届く黒いコートを着て、しかもニコリともせずに自らに課された役割を果たそうとする。そう、仏教思想を土台にして『神曲』と『マトリックス』とロールプレイングゲームの要素を入れ込んだ作品、と呼んでいい。

地獄という冥界は7つに分かれており、それぞれを治める王が死者の生前の行いを裁く。ロープレよろしく6つの地獄をクリアすると、最後の点倫地獄を治める閻魔大王というラスボスが登場する。このロープレの過程で、普通なら問題なく無罪となりそうな尊い殉職者の消防士の過去が暴かれてくる。この悲しい生き様が次々と暴かれることが物語りに面白さと深みを与えてくれている。病魔に冒されて直る見込みがないと思われた母親を殺して兄弟ともに心中しようと行動しかけた過去が穿り返される。貧乏のどん底にいた一家の悲惨さ故に起こったことだが、それを切っ掛けに消防士は家を飛び出し、それ以来は必死で働いて家に仕送りをする善人となる。そんな善人ではあっても、母親を殺そうとした罪に問われ、それを3人衆が覆そうと必死の努力をする。

そんな中、弟(キム・ドンウク)が兵役終了間際に謎の失踪をして軍隊から追われる身となる。実は、上官たちに殺され埋められたがために怨霊となり、地獄を彷徨うことで、兄の無罪獲得の大きな障害となっている。

CGを駆使した地獄冥界の描写と7人の治める王たちのビジュアル、そして何よりも7つもある地獄をクリアしないと無罪になって生まれ変われずに永遠の業火に焼かれ苦しむという仏教思想を背景とした地獄の設定、これらに加えて裁かれる人間の過去の行為を絡めながら、ロールプレイングゲームを進めるように物語が振興する流れが秀逸だ。よくもこんなストーリーを考えたものだと感心してしまう。

第二話の『因と縁』は、怨念となった弟を守りながら地獄を回る3人衆たちの過去の業がメインテーマとなっている。千年前にこの3人に何があったのか、彼らが許されて無事に人間として生まれ変われるのかが新たな要素として追加されているところが、第一話の焼き直しで終わることなくバージョンアップした物語としての面白さを倍増させている。

原作は韓国の漫画らしい。漫画が原作となって映画が作られるのは日本だけではなくなったということか。それにしても、普通の冒険や恋愛のありふれたパターンをなぞることなく、想像力豊かでチャレンジングで独創的な作品がアジアから生まれたことに拍手をしたい。
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スター・ウォーズ/フォースの覚醒

2016年01月07日 | Cinemaを愉しむ
確かに面白い。このシリーズならではスリリングかつダイナミックな映像とストーリーが存分に愉しめる。さすがにJ・J・エイブラムス。大のSWファンを自称するだけのことはある。だけど、愉しんではいるものの存分には満たされていない自分に気づく。なぜ???

かつての主人公たちは勢ぞろいする。ハン・ソロとチューバッカ、レイア姫、C-3POとR2-D2、そして最後にちょっとだけではあるがルーク、そして古びて破損したダース・ベイダーの仮面までも。これって同窓会か? 主要な登場人物を上手く登場させるようにストーリーを作った結果、いまや偉大な存在となってしまった前シリーズの「同窓会」になってしまったのではないだろか? そんな感覚が「満たされていない」感につながっているに気付く。

かつての主人公たちに代わって物語を進めていくのは新しい世代。女性ながらも勇気溢れるレイと悪から善へと心を入れ替えた元ストームトルーパーのフィン。そしてお約束事として、この2人の前に立ちはだかる、悪の帝国を象徴するダークサイドのフォースの遣い手、レン。レイも実はフォースを使う能力を秘めていることが分かり、善と悪のフォースの闘いになっていく。強大な武器と勢力を持つ悪の帝国に対して正義の闘いを挑んでいく善の抵抗組織。SWらしい善対悪の闘いの図式がしっかりと継承され、見事な映像と重厚な音楽は観ている我々を ”血沸き肉躍る” 状態にしていく。

今回のダークサイドのフォースの遣い手は、ルークにフォースを仕込まれた後にダークサイドに転落しているのだが、なんとハン・ソロとレイア姫の間に生まれた子供という設定になっている。なんてことだ。JJの奴、ダース・ベイダーとルークとの関係を逆にしてハン・ソロ&レイア姫と子供のレンに当てはめ、新しい隠れテーマを入れ込みやがった!! 「親と子の確執」というか「親の因果が子に報い」 っていうやつだ。

次回からは、レイの出生に秘密が物語の展開上大きなカギになってくるに違いないと見た。何せ、フォースの潜在能力を持っているという只者ではない存在である上に、幼いころに親に捨てられたという伏線がしっかりと張られているのだ。

新しい主人公が女性と黒人となっていることに世の移り変わりを見る人たちのいるようだ。確かにそうかもしれない。でも、我々東洋人がヒーローとして銀幕に登場することは相変わらずない。これには大いに不満だね。21世紀はアジアの時代と言われているのに、ハリウッドは人種的偏見をいまだに克服できていない!!!!

不満とがっかりはあるものの、このSW最新作は面白い映画であることには変わりがない。


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007 スペクター

2015年12月20日 | Cinemaを愉しむ
シリーズ何作目になるのか数えることすら難しくなってくるほど続いている最強スパイのジェームス・ボンド シリーズの最新作。さすがにこのシリーズは外すことなく面白く愉しめました。

右から左に動く銃口の中を歩くジェームス・ボンドがこちらに向かって発砲すると画面が上から下へ血を流したようになるお決まりの冒頭シーン。ここから続くのがメキシコのカーニバルでのド派手な大立ち回り。すべてCGなしで広場を埋め尽くすあれだけの人数を集めて収録したのだとすれば今までに無い程のスケールにまずは度肝を抜かれる。今までの中で一番のお気に入りは10作目の「私を愛したスパイ」の雪道をスキーで滑り降りながら迫ってくる敵を倒した瞬間に崖から飛び降り、「どうなる???」と思った瞬間に開くパラシュートがユニオンジャック柄。こんな粋な導入部に負けないくらいに気に入った。これから先が期待できる!?

この映画を一言で表すとすると、迫力がハンパない大爆発。でも今までに無い程の規模の爆発に頼りすぎているのでは?

アフリカの砂漠の中のスペクターの秘密基地があの程度の銃撃で全滅するの?最後のスペクターの親玉がヘリで逃げようとするのを、モーターボートから銃で(ライフルでもなく)撃ち落せるというのもあり得ない。折角の対決シーンを安易に終わらせててしまうところが残念、星一つ減点。

付け加えると、ボンドガールがちょっといただけない。年増でももっと魅力ある女がいるだろう。それにヒロイン役のレラ・セドゥが私にはヒットしなかったな。過去のダニエラ・ビアンキやクローディーヌ・オージェのような目の覚めるような美女にして欲しかったな...星半分減点。

不満点もいくつかあるものの、全体としては十分に愉しめること間違いのない映画ではある。それに、ボンド役のダニネル・クレイグのスーツ姿はイカしていた。チャコールグレーやカーキ色など、どれも見た目がすばらしく美しいスーツばっかり。一番のお気に入りは、ローマでの葬式シーンにクレイグが着ていた黒のチェスターフィ-ルドのコート。このコートは普通は貫禄が醸し出される(下手をするともっさりしている)コートなのだが、ウェストに少しばかりの絞込みがあるこのチェスターフィールドは気品があってしかも艶っぽい。ボンドのイメージにぴったり。

スーツやコートの美しさを書きながら、ネクタイは全く記憶に残っていないことに気づいた。これは一体何なのだろうか?自己主張を抑えたネクタイばかりだったのか、それとも地味タイばかりだったせいだろうか?普通はスーツとネクタイのセットで目に焼きつくものなんだけれど...

なんやかんや書き連ねましたが、日ごろの憂さを忘れて映画に没入するには、ボンド映画はうってつけ、そんなシリーズ最新作でありました。
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「愛、アムール」

2014年02月09日 | Cinemaを愉しむ
フランス人て、なんで楽しいはずの映画をつまらなくしてしてしまうのだろう。お金と時間を使って愉しもうとしているのに、その気分をぶっ壊してしまう才能は世界イチだね。それが「芸術」とありがたがっているのだろうが、そんなものは芸術だとは思えないよ。「老い」や「介護」、「痴呆」なんてそもそも醜いものなんだから、それをツマラナーク撮って「芸術的に見せる」ことに価値があるなんて思えない。

撮りようによっては、介護に疲れた老いた夫が今まで愛を持って献身的に介護してきた妻を殺すシーンから始めて、愛しているにも拘わらずそうせざるを得なくなった心理状況の変化を、時間を逆回しにして描くことだってできたはず。少なくとも、その方がドラマ性があり、観る方も納得がいく。元々醜いものをそのまま見せること自体に芸がないよね、と思っちゃう。殺すしかないほどの深い愛を描きたかったのなら、もっと工夫してほしいもんだ、ミヒャエル・ハイネ監督よ。

でも、このフランス映画『愛、アムール』は、突然妻を襲った痴呆から、右半身不随、そしてほとんど寝たきり状態になっていくさまを、淡々と順番に、何の起伏もなく描いていくだけ。宣伝コピーは、「静謐なまでの映像の美しさ」なんて嘘ばっか。確かにバックに流れる音楽は全くないが、それが「静謐」なの?何も言うべきことがないから「映像の美しさ」なんて言葉の誤魔化しに走ったとしか思えないよね、この映画は。

一番醜いなぁと思ったのは、あのジャン=ルイ・トランティニアンが、『男と女』や『暗殺者の森』でクールな大人の魅力イッパイだったトランティニアンが、かくも老醜をさらしていること、これが映画の中身以上に、老いというテーマを見事に表していたのはキャスティングの妙か。

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美女が二人だと二倍愉しめる 映画『ルームメイト』

2013年11月24日 | Cinemaを愉しむ
北川景子と深田恭子が出ているというので『ルームメイト』を観て来た。何の事前情報も無しに観にいったのだが、ホラーだとは思いもしなかった。



深田恭子は『恋愛戯曲 私と恋におちてください』を観て好きになった女優だ。氷細工のような冷たさを秘めた美貌がある。その美しさはどことなく人工的な美なのだが、それが触れがたさを感じさせる美しさを生んでいるのだろう。そんな深田恭子だからこそ、『恋愛戯曲』よりもこの『ルームメイト』の方が向いていた。

入院中に親切にしてくれた看護婦(深田恭子)とフームシェアを始めた北川景子が、一緒に暮らすうちに深田恭子の存在に怯えるようになる。深田恭子扮する元看護婦は二重人格っぽく設定されており、悪女の方の深田恭子が北川景子を追い詰める。でも観ている内に「何だこの感覚は?」と思うようになり、それがデジャブだと分かると、この映画は一種の『ファイトクラブ』モノなんだとネタばれしてしまった。

ただ、二重人格では『ファイトクラブ』と同じになってしまうので、北川景子扮する春海は三重人格にしている。その上で、似たような境遇の女子高校生を登場させることで、春海が四重人格だと思わせるようなトリックさえ仕込んでいるが、これは余計だ。

ロケ場所も少なく登場人物も限られているから、大した予算を掛けていないことが見て取れるが、作りはしっかりとしていてチープな感じはまったくしない。二重人格のお話はヒッチコックの『サイコ』と『ファイトクラブ』という名作があるので、これらを超えることはとても難しいことだろう。お話としては合格点はあげられない映画だが、北川景子と深田恭子の二人の綺麗な顔を観ているだけで私はハッピーだったことは認めます。
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本格的時代劇映画『蠢動』

2013年11月06日 | Cinemaを愉しむ


この時代劇は、今まで観た映画と全く違う文法で作られている。違和感と戸惑いがあまりも大きかったため、観たその日(11月1日)に書き込みが出来ず、自分の思いを自然発酵させようと思って待った。待っている間にも、纏まらない自分の思いをまとめる手助けにしようとyahoo映画や映画.comなどのレビューを読んでみた。レビューにはこんなことが書かれていた。

パンやズームなど使わず、フィックスで撮影されていることが映像を印象深くしている
 -そうなのだろう。でも、私の頭の中で巣食っていた得体のしれないものはこんな技法論ではない。

何人もの追手と切りあった者と、雪道を必死で走りぬいて来た者との対決の場で、両者の顔には汗ひとないのが不自然
 -そんなことはどうでもいい。

壮絶な切り合いにも拘わらず、積もる雪を血しぶきが染めないのが不自然
 -こんな重箱の隅をつつくようなことを言って何になる

武士道とは何か?藩の思惑に翻弄される武士たちの不条理さ
 -これだ、これが腑に落ちない理由だった。

その昔に隠し田発覚による藩取り潰しを回避するために一人で罪を負って自決した武士がいた。城代家老を始め藩の者は皆、口には出せないがその男に救われたことに深い感謝の念を抱いている。しかし、公儀から遣わされた剣術指南役兼スパイに隠し田を発見され、再度藩取り潰しの危機に陥った時に城代家老が採った秘中の策は、剣術指南役を暗殺し、恩ある武士の一人息子を暗殺者として仕立て上げた挙句に抹殺することだった。しかも、犯罪遂行後の逐電という状況証拠を作りあげるために、本人が望んで止まない他藩での剣術修行として送り出すという一種のだまし討ちの体裁にしながら。

ストーリーから見ると、藩のためなら犯してもいない罪に問われて殺されることが許されるのかという武士道のあり方に疑問を投げかけた物語と思えるかもしれない。最初は私もそう思った。だが、腑に落ちなかった。個を犠牲にする武士道の理不尽さを描いた映画なのだ、とはどうしても思えなかった。

ノーブレス・オブリージュ。私が真っ先に思った疑念はこの言葉から生まれたものだった。

多くの人を救うためであれば、自ら犠牲になることを尊い行為だと思う。この武士の父親はそれを持っていた。でも、その息子は持っていなかった。父親が藩の犠牲になったという被害者意識と、それゆえに自分は剣の道を究めていきたいという強烈で折れることのない一念は持ったが他人を思いやる高貴な精神までは受け継がなかった息子の狭了さ。それは、年輪を重ねたことで生まれる余裕・悟りと若さゆえに廻りが見えない未熟さの違いかもしれない。この映画が描いたもの(と私が思ったもの)はこれであって、決して個に犠牲を強いる封建社会の不条理さではなかった。

自分の会社を売り払ってこの映画制作の資金を捻出したという三上康雄監督の思いはどうか分からないが、私はそう思った。作り手の思いは尊重する。でも、それとは違った思いを観客が抱くことも自由であるはずだ。それを発見させてくれたのもこの映画が初めてだった。
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日韓映画対決『白夜行』

2013年10月27日 | Cinemaを愉しむ
日本制作と韓国制作の映画「白夜行」を連続で見終えて考えさせられたことがあった。映画としての出来とは別の次元でのビジネスの面、それも今クールジャパンという名の下で急務となっている日本制作コンテンツの海外展開という観点で。





好き好きはあろうが、映画のクオリティという面では私は日本版の方に軍配を上げる。不幸な宿命を負った男女2名の物語として、未解決事件を追う元刑事としての性の描き方として、心無い大人が幼い子供の心に残す無残な傷跡が生む悲劇として、そして何よりもミステリー作品であることを意識させることなく画面に引きずり込んでくれる上質なミステリー作品として。

しかし、事業としての海外展開を考えた場合には韓国版の方が一般受けするだろうと思った理由は幾つかある。

一つ目が主演女優の差。堀北真希とソン・イエジンを比べると、堀北真希の方が文句なしに美形だ。個人の趣味にもよるだろうが私はそう思う。でも幼すぎるのだ。演技の巧拙ではなく、幼く見えるヒロインを起用したことでこの作品は損をしている。このことは、主としてF1狙いでここ10年以上作品が作られてきたテレビ番組と映画に言える欠点と私は思う。主演が若いことで、大人が観ると作品が『学芸会』のように見えてしまうのだ。

思い起こせば、私が日本ドラマよりも韓国ドラマを選んだ切っ掛けとなったのも日韓それぞれが制作したテレビドラマ「ホテリア」だった。この時も、主演の2人の若さと幼さゆえに日本のドラマが『学芸会』に見えてしまったことに愕然としたものだった。

二つ目がエンタメ性。日本版の暗さが気になる。人間の救いようのない業というか性を上手く描いている分だけ日本版は暗い。映画祭などでは受けるであろうが、一般層に訴えるにはエンタメ性が欠けている。韓国版が上手だと思ったのは音楽の使い方と主演男女の間の屈折した愛情の形。『白鳥の湖』をオープニングとエンディングのみならず映画の中でも使っている。事件を追う刑事は、2人を「背中がくっついた双生児」と呼んだが、これを白と黒の白鳥に置きなおして映画のテーマとして掘り起こし、その象徴としてチャイコフスキーの名作を印象的に使っている。これは音楽が分かる人には簡単に通じる暗号であり、このネット社会では音楽に詳しくない人たちにも簡単に伝わる結果、薀蓄として一緒に観にいったデート相手と語れるちょっとしたネタになる。興行面でのプラス要因だ。

主演男女の間に愛情があることには、日本版も韓国版にも差がない。でも、それを目に見える形にしているのが韓国版で、「冬のソナタ」以来日本の女性の心を鷲掴みしている韓国コンテンツならでの観客(女性層)を意識した作品作りが上手であることに一種の伝統芸を感じる。日本版では主演男女が子供の頃に「これからは会わないようにしよう」と言ってから会うことがないのに、韓国版では2人が何度もすれ違っている。すれ違いでしかないのだが、2人の間では「会っている」と満足感を感じていることが観客に十分に分かる。その象徴が、2人が隣り合ったブランコに乗っているのを、ちょっと離れた場所においたポラロイドカメラでタイマー撮影させるシーンだ。ポラロイドカメラから吐き出された写真が次第に像をなし、2人が背中をくっつけるようにしてブランコに乗っているかのように見える。こんな形でしか会えない2人だが、それでも2人の笑顔は幸福感に満ち溢れている。しかもこれがエンディングだ。悲劇のラブストーリーとして要素をしっかりと目に見えるように入れ込んでいる。こんな演出は日本版にあった記憶がない。つまりはラブストーリーの仕立てにはなっていないのだ。

主演の男女2人の間には、誰もが入り込めない強い愛の絆があることは、この作品の核の一つだ。韓国版はラブストーリーの面を表に出したのに対して、日本版は物語の下敷きとしてのみ描いている。

ミステリー作品としての質を追求する姿勢は、もの作りニッポンを支える職人業を彷彿とさせる。クオリティーは天下一品。でも分かる人にしかわからない。技はあるけどブランドになっていない。だから一般消費者には伝わらず、事業として拡大しない。「良いものを作ればいいのだ」という職人気質は否定するつもりはないが、これに事業として考える視野とビジョン、ノウハウされあれば日本はもっと強くなるのだろう。

最後は「見てくれ」。船越栄一郎が不細工な男だとは決して思わない。でも、刑事としての性を演じきっている分、見てくれが下がる。「事件に取り付かれた刑事はこんな感じだろう」と十二分に思わせてくれる分だけ損をしている。主演男女が幼い分を脇役が名演技でカバーせざるを得ないのだろうが、これも職人技に入り込みすぎているだけに、海外展開に問題が残る。なぜなら、イメージ戦略として失敗しているからだ。「クールジャパン」を演出するなら格好良くなければダメだ。憧れを生じさせなければソフトパワーにならない。日本が狙っているソフトパワー戦略は、

 日本に対する憧れ⇒日本製品の購入&日本への観光客の呼び込み

であり、憧れを生み出すのは人間の性を演じきることではなく格好良さでなければいけない。韓国版は、刑事役以外は「見てくれ」の良い俳優で揃えている。映画単体としてのクオリティでは負けていない日本は、コンテンツを戦略的に使って国力を上げていこうという闘いにおいて根っこが定まっていないのだ。『相撲に勝って勝負に負け』ているんだと言えば分かってもらえるのだろうか。

こんなことを映画を見終わった時に考えてしまった。




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ビル・カニンガム&ニューヨーク

2013年07月21日 | Cinemaを愉しむ
GREEDYという言葉がこれ上に似合う街が無いNYは野心と上昇志向と金の匂いがプンプンする街だが、そこにこんな爺さんがいるとは夢にも思わなかった。50年以上もNYの街中でファッションのトレンドを写真に収めている変人だが、この人なりのファッションセンスがある(らしい)。彼のお眼鏡に適ったファッション(人はどうでもよい)だけが被写体になるという栄誉を勝ち得るのだと。



"We all get dressed for Bill"と「ヴォーグ」アメリカ版編集長のアナ・ウィンターがコメントしているが、本心なのか腕利き編集長ならではの即興のcomplimentなのか分からない。でも、その言葉が本当なのだろうと思えてしまう。

かく言う私も若き頃にアメリカには計6年暮らし、NYタイムズも何回か目を通したはずなのに、この有名なファッションコラムは全く記憶がない。ファッションと言えば、パリでありNY5番街の洒落た店のものだと思っていたのだが、この変人爺さんはストリートの中にファッションを見出していく。

冒頭は、彼のファッションを見出す眼力の凄さを納得させる構成で、その後は彼自身と彼の哲学に入り込んでいく。私的には、彼の認めるファッション、彼が時代を見出したストリートファッションをこれでもか!という位に見たかったのだが、そこは映画としてこの爺さんを追っていくためには彼自身に踏みこまざるをえない。当たり前なのだが、ここが私の期待に反したところ。

住んでいる所はカーネギーホールの上というNYのど真ん中。そんな素晴らしいロケーションとビルなのに、部屋は写真のために人生を捧げた人のもの。トイレとシャワーは共同で、部屋は写真を保管するためのキャビネットが一杯。キッチンもなし。本人はパリのごみ収集人が着る青の上っ張りを着て、自転車でNYを廻りながら写真を撮り続ける。すべてをファッショントレンド撮影のために生きている。その成果はNYタイムズにコラムとして読者の眼にとまることとなる。

朝から晩まで、ストリートのみならずあちこちのパーティをはしごしてコラムを纏め上げる。相当な体力がないと勤まらんぞ。

「野暮ったい」とか「センスがない」といった否定的な眼で見ることは無く、その人なりのファッションの中に見るべきものを瞬時に嗅ぎ取ってフィルムに写し出す。誹謗や中傷、人を貶めることとは無縁の彼の生き様は、映画を見ている内に伝わってきて、彼なりの純粋な生き様に共感するようになる。上から目線のメディアばかりの中で、そのままに時代を伝えようという無私の心にいつのまにか感動してしまっていた。

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「俺に小便を掛けておいて、雨だなんて言うな」

2007年10月21日 | Cinemaを愉しむ
映画『レイヤー・ケーキ』の中で、姿を現わさない殺し屋が主人公のチンピラギャングに携帯電話で警告する上品とは言い難いが凄みがある台台詞。

麻薬取引で一攫千金を目指してサラッと足を洗おうを考えていたギャングが、ボスから二つの頼みごとをされる。どっちも罠であることが後で判るのだが。一つは、麻薬中毒になった友人の娘を探し出すこと、もう一つはあるディーラーと麻薬を取引すること。このディーラーが持っていた麻薬は、ベルギーを根城として麻薬取引している東欧の国際犯罪者というやばいことこの上ないディーラーから盗んだもの。早速殺し屋が差し向けれるが、本来は関係のない主人公も取引しようとしていることから殺し屋に狙われる。

麻薬中毒になった友人の娘探しというのも、アフリカの政治家に騙し取られた金を取り戻させようとギャングのボスを脅すための餌として娘を探そうようとしているのに知らずに加担させられていた。どっちが上手くいっても、上手くいかなくてもボスが彼を殺して、貯めている金を取上げる気でいることを知った×××(これが主人公の名前。エンドロールにちゃんとそう出ている)は、ボスを殺す。

ハリウッド映画と違って、イギリス映画は犯罪ものと言っても犯罪者たちがとっても人間くさい。主人公は、初めて人を殺したことで、精神的に参ってしまう。また、ボスを殺したことが仲間たちに漏れて、その一人からボコボコに殴られる様はとってもアンチヒーローではない。ハリウッド映画だったら、この主人公はジョン・トラボルタだったろうな。「フィッシャー・キング」の役柄のように、いつも冷静沈着。先の先まで読みきって行動するので、失敗がない。そして心の動揺がなく、何よりも仲間からボコボコに殴られるなんてこともない。それに比べて、この×××は何て様だ。

この映画の凄いところは最後の15分の話の進展。主人公なのだから最後は上手く切り抜けるに違いないとずっと思っていたところが、違うかもしれない、これは犯罪に失敗してまう話なのかと思わせ、次の瞬間にはやはり上手く切り抜けるやり手ギャングというキャラに戻る。そのまま終わるかと思うと、最後の最後には何てことはないチンピラに撃たれてしまってお仕舞。ジェットコースターのような、上げたり下ろしたりの15分で、見応えを作ってしまっています。

映像の作りもお気に入りでした。一つのシーンでカメラが止まるんだが、再び動いた時には全く違うシーンがそこから始まる。例えば、ボスに罠に掛けられたと知った主人公がベットに寝そべって思案にくれている顔にカメラが寄ってアップ、カメラが引くと全身黒尽くめとなってボスの屋敷に忍び込んだ主人公となる展開。または、ボスを殺した後で精神的に参って薬に走るが、バスルームの棚の薬を手探りでさがす手が止まって、その手が鏡を戻すと回復した主人公のさっぱりとした顔が鏡に映っているという具合。

ボスのボスが忠告する台詞:「ビジネスで成功してければ、仲介役になれ。」
仲介役って大物になるための必須な役割なんですかね?オリジナルでは何て言っているか英語版を見たら"middle man"と言っていた。やはり仲介役なんだ。犯罪そのもにに手を染めている間は下っ端てことかな。

こんなのもあった。友人から銃を借りるのだが、それは昔人殺しに使って捨てずに取っておいた銃。なぜ始末しなかったのか、と聞かれたその男は「お気に入りだったんだ」などという。それへの突っ込みが「他の銃が嫉妬しないか?」

犯罪者とは言えども持っている人間臭さや弱さが普通の人間らしくてリアリティ感ある物語だったし、映像の作りも良好な佳作でした。
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『雨あがる』

2007年03月04日 | Cinemaを愉しむ
『雨あがる』は巨匠黒澤明が映画化を暖めていた企画で、ラストシーンのみを撮影したところで事故死した後、弟子とも言える小泉堯史監督が引き継いで完成させた映画。脚本はもちろん黒澤明。

『博士の愛した数式』もそうだったが、小泉監督の得意は名も無き市井の人々の清く正しい小さな幸せを取上げて、善良なるものこそ幸せであると言わんばかりのスモールワールドを描くこと。観終わった時に、大したことのない自分の人生もそれなりに素晴らしいことがあるのかな、正直に生きていればそれないに幸せなのかなという、ポワっとした何とない幸福感を感じさせはするのだが、この手のひらの上でのママゴトのような幸福感がなんとも平和ボケしている極楽トンボのように感じてしまった。縮こまろう縮こまろうとする意識とでも言ったらよいのだろうか、それが鼻につくのですね。映画を観た後で幸福感に浸れるものの。

欲を出すまい、大それたことをすることもない、毎日を必死に生きようという意図だけでは人間が善良であるということにはなるまい。「どんな悪事であっても行為がなされた理由は善意だったのである。」これは塩野七生が『ローマ人の物語』の中で喝破した言葉。私にはこちらの方がシックリくるのです。人間生きていくからには社会に対する何がしかの責任がある。それを果たすことこそがこのご時世に必要なことではないかと思う。ただただ、欲を出さず大それたことを望まないというだけでは社会は良くならないだろう。
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バートン・フィンク

2006年10月14日 | Cinemaを愉しむ
カンヌ映画祭で3部門を掻っ攫ったというコーエン兄弟の作品なのでDVDを借りてきたのだが、理解を超えている映画だった。

NYで売れっ子になった劇作家がハリウッドに招かれてB級レスラー映画のシナリオを書くことになったが、筆が進まない。ひょんなことから仲良くなった安ホテルの隣部屋の太っちょ男とは心の通う話し合いができるが、他に知る人もいない見知らぬ土地で、事件に巻き込まれる。筆が進まないので助けてもらおうとして呼んだ敬愛する作家の秘書と出来てしまった直後に、なぜが彼女が彼のベッドで死んでいる。隣部屋の太っちょ男は殺人鬼だと訪ねてきた刑事が言う。太っちょ男が戻ってくると刑事2人をショットガンで撃ち殺す。

ホテルの暑さの描き方は濃厚で、太っちょ男のワイシャツはサスペンダーで肌と接しているところが汗で濡れ、暑さのあまり壁紙をベロリと音を立てて剥げ落ちる。しかも何度も。観ている方がうんざりしてくるような湿った暑苦しい空気が感じられる。殺人鬼の太っちょ男が2人の刑事を殺すシーンは、ホテルの部屋や壁が炎で包まれ、殺人鬼が心中するためにホテルに火を放ったのかと思ったが、太っちょ男は何もなかったように部屋の鍵を開けて入り、バートン・フィンクは荷物を持ってチェックアウトしていく。ここにいたって、やっと行き詰った作家の精神が病んできている、現実と夢想世界がゴッチャになっていることが分かる。でも、どこまでで現実でどこからが夢想の世界なんだ?

映画のラストシーンは、浜辺でバートンと挨拶を交わした金髪の綺麗な女が、ビーチに座り込んで太陽のまぶしさを手でさえぎるシーン。これは、バートンが借りていた部屋に飾ってあった写真と同じもの。これで映画が終わるのだが、ここでまたどこまでが夢想なのか、この映画は何を言いたいのかがこんがらかって分からなくなりました。

ラストといい、ホテルが炎に包まれるところといい、いくつかとっても印象的ではっとするシーンがあるんだけれども、観終わった後にとってもフラストレーションが溜まる映画でした。

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「男は嫌いだ。だから俺は女と付き合うんだ」

2006年10月08日 | Cinemaを愉しむ
『心みだれて』はメリル・ストリープとジャック・ニコルソンの大女優・俳優が出演している、決して派手ではない映画です。『卒業』の監督であるマイク・ニコルズであることを見て、三連休のこの週末はこれを観よう、とレンタルすることにしました。

夫(ジャック・ニコルソン)の浮気を見つけ、怒って実家に帰った妻(メリル・ストリープ)が父親に泣きついた時の父親の台詞が冒頭のものです。この父親すでに妻を亡くしており、他の女と遊んでいるという。言う台詞が憎い。

「私は今買い手市場にいるんでね」

それを聞いた娘はシラッとした気持ちになってしまうのです。

この映画は一体何をテーマとしているんだろうと考えてしまう映画でしたね。離婚歴ある女がコラムニストと出会って結婚、かわいい子供ができたが夫の浮気が発覚して別居、夫は謝罪して復縁。二番目の子供が生まれた直後、再度夫の浮気が発覚(しかも一回目と同じ相手の女)。気の置けない友人たちとの夕食会の席上で、妻は手作りのパイを夫の顔にぶちまけて去っていく。エンディングは二人の子供をつれて飛行機に乗り込むという場面で終わります。

最近離婚した共通の友人が実はレズビアンだったことが理由だった、結局は人は一緒に暮らしていても本当は理解しあっていないのよね、との他愛ないゴシップから、突然メリルの深刻な独白に移ります。

相手を愛しすぎていることから自分も愛されていると思い、日々の生活の変化の積み重なりが突然破局になる、夢に生きていたことに気付き、後は夢の残骸にしがみ付くか別の夢が探すしかないのよ、

といった非常に重苦しい独白が始まるのだが、この時のニコルソンの表情がとってもニコルソンらしい演技です。何かまずいことが起こっているぞ、という気配を顔中に表わすのだ。当惑して顔をしかめつつも回りの反応をそっと伺う、そんな疚しい男の顔が、たった数秒しかないシーンなのだがしっかりと演出されています。キアヌやデカプリオのような若い俳優だったら、ぶすっとした表情か呆れ顔になるかしかできないようなシーンでも、しっかりと顔の表情だけで演技できるところがニコルソンの真骨頂ですね。お話はメリルを中心に展開し、タイトルにはメリルの名前が上に載ってはいるものの、メリル以上の存在感がニコルソンにはありました。

音楽はカーリー・サイモンの歌。赤ちゃんがクシャミしてママの顔がほころぶ、という日常の1コマを扱った歌詞なのですが、この映画には合っています。ホッと気を楽にさせてくれる音楽に併せてカーリー・サイモンならではの優しい声色で、お話がシリアスになり過ぎないようなブレーキ役になっています。カーリー・サイモンと言うと、「007私を愛したスパイ」を思い出したのですが、この映画の主題歌の方が彼女の持ち味を十分に出していて好きですね。
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「富の再分配をするのが仕事でね」

2006年10月01日 | Cinemaを愉しむ
泥棒が自分の仕事の説明として使った表現です。モノは言い様という代表例みたいな台詞ですが、こんな言い換えができることはスマートだと思う。

『イギリスから来た男』は、これといった盛り上がりが無い映画です。刑務所から出所するとロサンジェルスに行っていた実の娘が事故で死んでいた。事故とは信じない男は単身LAに乗り込み、娘が死ぬときに同棲していた元音楽プロデューサー(実は麻薬取引に関わっている)の身辺を探る。刑務所に入るくらいだから法に反することなど平気。それに度胸も据わっている。こんな男に身の周りをウロウロされるピーター・フォンダ扮する元音楽プロデューサーも災難。話はいい方にころがり、ちょっと都合が良すぎるんじゃないの?と言いたくなるストーリー展開。最後は、麻薬取引現場を見られ娘が殺され、事故死に見せかけられたことが判明する。

途中途中に昔のシーンが挟み込まれ、男がLAにやって来るシーンや、ちょっと前のシーンが効果的に挟み込まれているところが、視覚的に新鮮。シュワちゃんが出るような派手さは全くなく、全体的に平坦なストーリー展開だが、商業映画には無い、そこはかとない男の純粋さと虚無感、大向こうを狙おうとしない手堅さと視覚的な新鮮さが売りの中級クラスの佳作といったところでしょうか。
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『イーオン・フラックス』

2006年08月19日 | Cinemaを愉しむ
愉しめなかったね、この映画は。映像のテンポは速いし、アクションはあるし、その中に恋愛もある。舞台は、ウィルスで人類の99%が死に絶えた2400年代。主人公のイーオンは、「全身武器の美しい戦士」というコピーのとおり、バイジェニック・ジェニーとワンダーウーマンを足したよりも強い女。これが、派手な立ち廻りを演じて、次から次へと人を倒していく。ここに時の政府要人の陰謀と裏切り、突然ながらイーオンの恋愛が入り込んできて、ひっちゃかめっちゃか。B級アクション映画と呼ばれるジャンルに入るのだろうが、でも観ていて愉しめないんだな、この映画。

製作したのは、かのMTV。コテコテ派手で見栄えのする映像いっぱいだが、ストーりーがない。無いというよりもストーリーを観せることに失敗している。単にアクションと派手さのみ。一瞬の見栄えのみを映像に求めるMTVの映像感の浅さが見えてくるような映画でしたね。
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幸せになるためのイタリア語講座

2006年04月02日 | Cinemaを愉しむ
久しぶりにヨーロッパ映画を観ると不思議な感じがする。フランス映画はともかくとしてデンマーク映画ともなると映画の作法に違和感がある。筋の進行具合がスローで、かつスムースではない。登場人物の身の周りを描くのだが、それぞれに直接的な関連が少ないために、ひとつの映画でありながらバラバラで不統一感がする。

デンマークのの小さな町で8人の男女がイタリア語を習う。それぞれが別の人生と仕事を持つ者たちが、なぜかイタリア語講座に集う。講座は彼らの社交場であり、日常生活を忘れるための象徴な場。ある者は人に薦められて、ある者は自分の生活に変化を求めてクラスに参加する。彼らには彼らの生活があるが、それぞれが講座内外ですれ違う。

2人の女性は、葬儀で自分たちが姉妹であることを知り、妹は牧師に仄かな恋情を持つ。不器用なホテルマンは親友のレストランで働くイタリア女性に好かれ自分も好ましく思っているのだが、相手を誘う勇気が出ない。これらのお話一つずつは決してそれだけで見栄えのするシーンでも見所ある場面でもない。これらが渾然一体となって物語りが進むのだが、恋愛もののハリウッド映画とは違って大団円に向かって行く大きなうねりとも異なる。細々した脈絡のない出来事から人々の毎日が出来上がっているように、ただただ出来事としてつながっていく。

あくまでも主役は全員であり、彼らの恋心と心のふれあいがメイン。スタープレーヤーはいないが、全員で攻めて守る昔のオランダサッカーチームのようで、まとまった全体として物語が成立する。事件とも無縁であり、淡々と物語が進むのだが、それでもなぜかほのぼのとした気持ちとなる。

常日頃見慣れた映画の作法から離れて、漢方薬みたいに、ゆったり、ほんわか、じんわりと幸福感に浸れる映画でした。
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