お愉しみはココからだ!!

映画・音楽・アート・おいしい料理・そして...  
好きなことを好きなだけ楽しみたい欲張り人間の雑記帖

初めての座禅体験

2008年11月30日 | ヘルシー生活を愉しむ
朝5時前に起床して座禅体験に参加してきた。場所は世田谷の龍雲寺。まだ空が暗い中、始発から3番目の電車に乗り込み、学芸大学駅から迷いつつも何とか時間前に寺に到着。


すでに数名が座布団の上に座している。初めての人向けの案内があるかと期待したが、そんなものは一切なし。見よう見まねで座禅を開始すると、次第に人が増えてくる。引退したシニア層ばっかりかと思いきや、30代と思われる人もちらほら見かけられる。皆余裕で参加している。

開始時は暗かったので判らなかったが、次第に明るくなると皆靴下を脱いでいる。寒いといけないと思って靴下のほかにレッグウォーマーまで座布団横まで持参していたのは私だけ。

6時半開始で9時終了。その間2回の中座をあるのみで言ってみれば3セッションの座禅だった。最初は良いのだが、次第に背を立てて座っているのが苦痛になってくる。私の前にいた若い男は、身じろぎもせずにずっと座禅を組んだまま。私は途中で足を組み替えたり姿勢を直したりで、多分一番フラフラしていた参加者だったであろう。

2時間以上の座禅で何か変わったかと言うと、実はわからない。ただ、朝に弱い私でもなぜか気持ちがすこぶる良い朝だったことだけは確かな一日だった。
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お前が『もしもし』という声を聞くだけで、心配事があるかどうかぐらいのことはわかるんだよ

2008年11月15日 | パルプ小説を愉しむ
ボブ・グリーンは昔から好きだった。彼の書くエッセイは、ページにすると4・5ページが多いのだろうが、そんな短い文章の中にも、人間、一人きりで生きていく寂しさを持った中にも本来は優しさや思いやりを持った生き物であり、愛情がないと枯れてしまうか弱いけれどの素晴らしい存在であることを思い出させてくれる。

そんなボブ・グリーンが書いた長編小説「オール・サマー・ロング」を読んだ。とっても羨ましかった。40代半ばを迎えてしまった高校時代の大親友3人組が、ひと夏、しかも5月から9月初までのなが~い夏休みを自分たちにプレゼントし、どこに行くかも前もって決めることなく、気の向くままに自由に旅して廻るのだ。

同窓会に集った時に一人が言う、子供の頃は夏になること自体が愉しかった、夏は自由・喜び・冒険・恋の予感すべてを持った贈り物だった。なのに、大人になって、いつしか夏はかつてのような存在ではなくなった。春のあとに来て、秋になるまでの間の期間でしかなくなってしまった。ひと夏だけ、すべてを忘れて昔のように夏を愉しめたら、どんなにすばらしいだろうか、と。

確かに夏は興奮に満ちた時だった。誰にとってもそうだったと思う。一番長い休みだったこともあるだろうが、それ以外にもギラギラ輝く太陽、虫や植物の躍動する生命、そんな説明は後付けでしかない。単純に夏は愉しさ満喫の時期だった。そんな夏休みが大人になっても愉しめるのなら、すぐにでも飛んで行きたい。

そしてこの3人はやっちまった。仕事も家庭も後において(もちろん円満なかたちで)、なが~い夏休みを心から愉しみまくった。オハイオ周辺でぶらぶらしていたのが、途中から飛行機を乗り継いで東海岸から西海岸、南部テキサス、フロリダ。最初の頃は高校時代とは違っていることに戸惑いがあったが、いい大人として3人は心から夏、いま何ものからも自由であること愉しんだ。今の出来ごとの合間には、昔の思い出話が満載。旅の終わりごろには、3人それぞれに自分の人生での岐路となる出来事がおきる。一人は自分の会社の会長職を解任され、TVレポーターである主人公にはロンドン転勤の辞令がでる。もう一人は、かつての親友である実業家から自分の会社に来るように誘われ悩むが、それでも生まれ育った土地で高校教師であり続けることを選ぶ。親友の会社に移れば、年収が大いにあがり、苦しい家計も助かることがよく判っているのだが、それでも愛する家族と今のままであること選ぶ。今のままであることが大事なのではなく、富も名声、世界を飛び廻る華麗なキャリアも、人間一人の存在には関係ない。金持ちという外側、TVレポーターという外側は、内側にあるその人そのものとは関係ない。そんな台詞が、旅の途中で出会い、一時一緒に旅することになった女性の口から発せられる。3人組の一人は、ある日ホテルのバスルームにあった等身大の鏡に映った自分の裸を見て、「人間は皆骨袋だ」という。

ボブ・グリーンの根底にあるのはこんな考え方だったのだろうと思う。それが土台にあるからこそ、3人は皆人生の岐路を懸命に乗り切り(賢明であったかは神のみぞ知る)、日常へと戻っていく。3人の中で誰が一番はない。だが、最も地味でスポットライトを浴びる回数が少ない存在だった高校教師のマイケルの生き方を、ボブ・グリーンは最も優しく描いている。

ボブ・グリーンの文章を読むと、いつも心が穏やかになり、人生が素晴らしいと思うようになる。この長編小説もそうだった。それに加えて、何も心に病むことなどなかった子供の頃の幸せな自分が投影されて、懐かしく思うとともに、二度と戻らない夏の日を恋しく思った。

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主人公が母親に電話した時に、母親が尋ねる、「どこか具合が悪いんじゃないかい?」

たったひと言聞いただけで、その声の調子からこちらがどんな精神状態にあるかを判断できる人間がいることを忘れてしまうとボブ・グリーンは言う。自分の母親だから当然だとは言わない。大きくなるにつれて、そんな人がいることすら忘れてしまうようになることを気付かせてくれる。彼の文章は、愛だとか優しさといった言葉が大上段に振りかざされることはない。誰にもある生活の一断片、暮らしの中の一片から、人々の暖かさや優しさが満ち溢れてくる。「愛が大事」そんな台詞はない。あるのは、ごく普通の人のありふれた暮らしの中の一局面だけ。だからこそ、心がほっと息をして、あたたか~い気持ちになれる。

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邦題は前半が「夏を追いかけて」、後半が「夏がいっぱい」。なぜに前後半で題名が違うのだろか?そう言えば、旅の前半には子供の頃の思い出話があちこちに顔を出している。旅自体ではなく、主人公が思い出す子供の頃の夏の情景の方が話のメインといっても良いくらい。それが後半になると、3人それぞれが何をしたかが話の中心になってくる。やがては終りを迎える長い夏休みを大人3人が精一杯愉しもうとしている。そんなことに気付かされたのが、この前後半で異なる題名だった。当っているかどうかは知らない、でも私はそう思った。
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