「偽善の医療」 里見清一・著、新潮新書306、2009年3月20日
p.19 そもそも「教わる」側は、それは金を出して教えてもらうにしたって、「教えてくれる」側への尊敬がなくて、何が身につくものか。また、「教える」側の目的が、「教わる」側からの報酬のみ、になったとき、その職業倫理は保たれると考える方が不思議であろう。
p.19 医療者の最大のモチベーションは、患者に感謝されたいということである。
p.47-8 (生命維持装置である人工呼吸器を)最初から「つけない」のと、あとで「外す」のとは「普通の診療」と「殺人罪」ほどの差があるのだろうか。
p.61-2 もし、回復の見込みがない、医学的に適応がない蘇生術を思考しないことによって医療者が責任を問われることがあるとしたら、それはもはや日本の医療が崩壊している時しかない。
p.90 (死亡率削減の)数字を目標にすると、みなリスク回避のあまり、あえて高いリスクの診療を拒否するようなことが今は起こっていないし、これからも起こらないと、そうしていえよう。だからこのような数字は高くてももちろん、低すぎても、そういう回避行動が起こっていないかどうか検討すべきである、と。
p.146-7 そもそも日本人は、本邦になかった概念を、カタカナ語とともに導入してしまうと、それのみで安心して問題が解決したように感じてしまう、というのも、どこかで目にした覚えがある。
p.160 もう八十歳を越された大先輩の外科医は、「インフォームドパターナリズム」がいいのではないか、とおっしゃっておられた。患者には説明する。その過程で、まあこいつに任せてもいいかと思われるくらいに信じてもらう。その上で、「良かれと思って」、医者が決断する、というのである。
うーん、説明はする、そのうえで「良かれと思って」あるものを勧める、というのは、それで同意が得られたとしても「同意を得る」ことにはなっていないのだろうか。ある方向性を推薦したのは、選択したことにはなっていないのだろうか・・・。
p.19 そもそも「教わる」側は、それは金を出して教えてもらうにしたって、「教えてくれる」側への尊敬がなくて、何が身につくものか。また、「教える」側の目的が、「教わる」側からの報酬のみ、になったとき、その職業倫理は保たれると考える方が不思議であろう。
p.19 医療者の最大のモチベーションは、患者に感謝されたいということである。
p.47-8 (生命維持装置である人工呼吸器を)最初から「つけない」のと、あとで「外す」のとは「普通の診療」と「殺人罪」ほどの差があるのだろうか。
p.61-2 もし、回復の見込みがない、医学的に適応がない蘇生術を思考しないことによって医療者が責任を問われることがあるとしたら、それはもはや日本の医療が崩壊している時しかない。
p.90 (死亡率削減の)数字を目標にすると、みなリスク回避のあまり、あえて高いリスクの診療を拒否するようなことが今は起こっていないし、これからも起こらないと、そうしていえよう。だからこのような数字は高くてももちろん、低すぎても、そういう回避行動が起こっていないかどうか検討すべきである、と。
p.146-7 そもそも日本人は、本邦になかった概念を、カタカナ語とともに導入してしまうと、それのみで安心して問題が解決したように感じてしまう、というのも、どこかで目にした覚えがある。
p.160 もう八十歳を越された大先輩の外科医は、「インフォームドパターナリズム」がいいのではないか、とおっしゃっておられた。患者には説明する。その過程で、まあこいつに任せてもいいかと思われるくらいに信じてもらう。その上で、「良かれと思って」、医者が決断する、というのである。
うーん、説明はする、そのうえで「良かれと思って」あるものを勧める、というのは、それで同意が得られたとしても「同意を得る」ことにはなっていないのだろうか。ある方向性を推薦したのは、選択したことにはなっていないのだろうか・・・。