何かをすれば何かが変わる

すぐに結論なんて出なくていい、でも考え続ける。流され続けていくのではなくて。
そして行動を起こし、何かを生み出す。

神の火を制御せよ

2008-08-09 22:38:03 | 心に残ること
「成果だけ求めた科学者人生恥じる」 原爆開発参加者 悔悟の長崎訪問 米国離れたヒントンさん 西日本新聞 2008年8月9日 00:13

 米国の原爆製造計画「マンハッタン計画」に参加した米国人女性科学者、ジョアン・ヒントンさん(86)が8日、長崎市を初めて訪れた。無差別大量殺りく兵器として原爆が使われたことに憤り、祖国を離れたヒントンさん。爆心地に立ち、自らが生んだ核兵器の廃絶を強く願った。

 ヒントンさんは大学院で物理学の才能を認められ、24歳で計画に加わった。「砂漠に落として威力を知らしめ、ドイツの核兵器使用をやめさせるのが目的と思っていた」という。

 ウラン型原爆の広島投下を新聞で知り「まさか」と思った。3日後、プルトニウム型原爆が長崎に落とされたことも新聞で知り、二重の衝撃を受けた。米国の行為が許せず1948年に中国に移り住み、北京郊外で酪農をしながら核兵器廃絶を訴えてきた。

 ヒントンさんは米国の作家パール・バックの小説「神の火を制御せよ」のモデルとされる。邦訳を発行した東京の出版社の招きで初来日した。関係者によると「長年来日を希望していたが、機会が得られなかった」という。

 広島市に続いて長崎市に入り、長崎原爆資料館などを見学。展示された長崎原爆「ファットマン」の模型を無言で見つめ、熱線で溶けたガラスや重傷を負った人々の写真に「なんてひどい」とつぶやき、うつむいた。

 「私は研究成果だけを求める純粋な科学者だったことを恥じる。若い科学者には、自分の行為が招く結果を考えて行動してほしい」と静かに語った。


原爆開発:女性科学者が初来日 原爆ドームで絶句 毎日新聞 2008年8月6日 2時30分

 米国による第二次大戦中の原爆開発計画に携わった女性科学者、ジョアン・ヒントンさん(86)が初来日し5日、広島を訪れた。数万人の命を一瞬で奪った科学に絶望して米国を離れ、中国へ渡って60年。科学者であることを捨て、酪農に従事したが、苦悩がなくなることはなかった。「自分がつくったものがどんな結果をもたらすのか。それを考えず、純粋な科学者であったことに罪を感じている」。しょく罪の意識から、広島訪問をかねて望んでいた。【平川哲也、黒岩揺光】

 「オーフル(awful、ひどい)……」。5日午後、原爆ドーム。ヒントンさんは鉄骨がむき出しの最上部を仰いだ。ドーム脇の英語の説明文を一語一語かみしめるように読んだ。「私はただ、実験の成功に興奮した科学者に過ぎなかった」

 1945年7月16日、米国南西部のロスアラモス近郊。立ち上る人類初の核実験のきのこ雲に、ヒントンさんは胸を躍らせた。原爆を巡るドイツやソ連との開発競争に打ち勝つため、42年に米国が始めた「マンハッタン計画」。最大時で12万9000人を動員した原爆開発計画が結実した瞬間だった。

 「科学を信じていた」。大学で物理学を専攻した21歳のころ、放射線の観測装置を完成させた才女は44年春、請われるまま同計画に参加した。ヒントンさんはプルトニウム精製を担い、全資料閲覧と全研究施設立ち入りを許可される「ホワイト・バッジ」を与えられた。約100人しかいなかったという。核実験の2カ月前にドイツは無条件降伏しており「研究目的の原爆開発であり、使われないと考えていた」。

 しかし8月6日。広島上空で原爆がさく裂する。新聞で原爆投下を知ったヒントンさんは声を失った。「知らなかった。本当に知らなかったの」と、まゆをしかめて話した。

 戦後は核兵器の使用に反対する動きに加わった。48年、内戦が続く中国・上海に渡った。内モンゴルに移住し酪農を営んだ。消えた足跡に、米国の雑誌は「原爆スパイ」と書き立てた。健在が知られたのは51年、全米科学者連盟にあてた手紙が中国の英字紙で報じられたからだ。それにはこうあった。

 <ヒロシマの記憶--15万の命。一人一人の生活、思い、夢や希望、失敗、ぜんぶ吹き飛んでしまった。そして私はこの手でその爆弾に触れたのだ>

 あの朝から63年。今なお後遺症に苦しむ人がいる。今なお米国を憎む人がいる。「なんと言えばいいか……」。ヒントンさんは絶句し、宙を仰いだ。
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