地域経済の再生のためには、地域の自立的な活動を支える人材の育成が基本になる、と誰しもがいう。
それには、中央政府からの下請け的な活性化政策を押し付けるのではなく、地域発の提案型政策を中央で補助金を出して、進めさせるのが良い、との発想だ。
ところが、このやり方では、確実に中途で行き詰まり状態になり、計画は停滞するか放棄される。
提案の具体策の中身がナマニエのママに、中央政府の意向をかざして進めると、何か障害が生まれるとすぐに、政府のせいにして責任を転嫁してしまう。
従来の歴代政権は、活性化策の中身は地域、地元に任せると言いながら、中央官僚の裁量が効く様な補助金の使い道の枠を決めて地方に渡すのが常だ。
曰く、国民の税金を使うのだから、責任を持てる使途、使い方に制限を設けるのは政府の責任を果たす上で、当然の措置である、と。
これで、補助金をアテにした「地域活性化策」は、中央官庁のその度ごとのスローガンに枠をはめられて、中央の官僚の意向に沿う中身にさせられる。
計画がスタートしても、2年も経てば担当官庁の官僚たちは別の部門に移動して、それを引き継いだ後任者は、形だけは従来の路線を維持する姿勢をする。
しかし、地域の方では2年で成果が出るわけでなく、5年、10年と地道な積み重ねが必要である。
ところが3年~5年も経つと、当初の様には順調に進まない難しい状況時に、中央官庁の重点政策は、次の目玉となる権益目的に関心が移っている。
従来路線の予算は絞り込むか中止して、地域の力だけに依存させる方針に転換してしまうのだ。
そこで、地域の熱意が継続していれば、中央政府の支援がなくても進展を図れるのだが、ほとんどはその段階で、中央政府の方針転換に従ってしまう。
これが、ひも付き補助金の成果なき使い方の典型で、中央官庁も、地方自治体も責任を負わないで、うやむやの結末にしている。
これを防ぐ方策は、初めから、使い道を中央政府の方針から切り離し、すべての責任を地方自治体に移管して、自由に使える交付金として支給するのである。
中央政府のその場限りの「人気取り政策」に乗った「地方への補助金」は、すべて、自由に使える交付金に転換してしまう。
これならば、地方自治体にすべて「成果の出る責任」は、移管されるのだ。(続)