Eur-Asia

西洋と東洋の融合をテーマとした美術展「ユーラシア(Eur-Asia)」の開催を夢見る、キュレーター渡辺真也によるブログ。

ピクチャレスクな高天原 - 周縁としてのアイルランドと日本

2010-07-07 17:13:46 | Weblog
英語版はこちら
Picturesque Takamagahara - Ireland and Japan as a Periphery

July 7, 2010
http://parrhesia-shinya.blogspot.com/2010/07/picturesque-takamagahara-ireland-and.html


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「ピクチャレスク」について調べていたら、面白い記述に当たった。

ピクチャレスクというロマン主義的な審美の理念は、18世紀イングランドにて確立するのだが、そこには行き過ぎた理論重視の近代美学に対する反省があった。



ピクチャレスクの問題を扱うなどして、美学者としてデビューした哲学者バークは、審美経験は単純な合理判断ではなく人の基本本能の問題であり、自然とやってくるものだ、としている。祖先の叡智が堆積した古来からの「制度」に比べれば、人間の知力は、矮小で欠陥だらけのもの、と考えるのである。バークは、そういった美学的アプローチで、デカルト的な理性主義への過信を根源的に危険視し、慎慮を提唱したとされるが、これを大陸合理論(=デカルト)とイギリス経験論(=アイルランド人のバーク)と考えると理解しやすくなる。また、バークはフランス革命を全否定したことで有名だが、それはバークが、フランス革命にて提示された「社会契約」ではなく「本源的契約」を重視しているからである。

興味深い点は、佐藤優が、バークの思想は高天原思想と近い、と述べている点だ。クリスチャンであり、ロシアを通過した佐藤優氏だからこそ指摘できた達観と言えよう。



ジョイスやベケットなどのアイルランド人のアーティストたちが、20世紀の大陸に衝撃をもたらすことができたのは、大陸にて作られた合理的芸術が行き詰まりを見せた頃、ローマから見た周縁にあったアイルランドが本源的な破綻をもたらすことができたからではないか、と私は考えている。フィネガンズ・ウェイクしかり、「ゴドー」しかり、フランシス・ベーコンの絵画しかり。そして、これらの本源的な破綻を、大陸の合理論者が上手く文脈化したと思うのだが、私はそれを、カールスルーエにあるZKMの常設展での現代美術の黎明期のコーナーにて、パリにて演じられたゴドーのビデオが展示されている所に感じることができた。ローマから見て地理的に距離があり、キリスト教化が比較的遅れた地域に、合理主義ではなく、本源的かつ経験論的な傾向が強いのは容易に想像がつく。

また、ピクチャレスクの概念が確立したイギリスでは、フランス式の理性的な平面幾何学式庭園に対して、自然の景観美を追求したイギリス式庭園が誕生するが、その中で廃墟の庭園など、「廃墟」の美学が生まれてくる。私は、今日本に起こっている廃墟ブームは、「近代的」土壌におけるピクチャレスクな「自然回帰」なのかもしれない、と思うのだが、この廃墟の美学の一つの原型が、東山文化の象徴である銀閣寺にあるのでは、と考えている。



足利義政は、応仁の乱真っ最中の文明5年(1473年)、将軍職を幼少の息子義尚(よしひさ)に譲り、文明9年(1477年)に応仁の乱が治まると、隠居所として文明14年(1482年)から銀閣寺こと東山殿の造営に着手している。寛正元年(1460)の 2ヶ月間で約8万2千人の餓死者が生まれ、京都は地獄絵図の状態。そんな体たらくの京都で、義政が進めた東山文化と呼ばれる作庭、書画、和歌、連歌、能楽、生け花、茶の湯などの美学、もっと言えばわび、さびの美学が、私には「経験的」美学、かつ「廃墟」の美学に思えるのだ。



メディアがこれだけ広がっている今、こういったテーマを大陸を俯瞰して多言語にて考えることが求められているのではないだろうか。

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