昨日はNew Museumにて、私の好きなBoris Groysによる、ソビエト崩壊以降のロシア芸術に関するレクチャーを聴いてくる。そのせいか、今日は、細部に見える文化ギャップに、やたらといちいち反応してしまった。
今日は友人の引越しを手伝ってくる。ブルックリン内での引越しだったのだが、NYの住宅事情の悪さには本当に閉口する。ブルックリンの奥地のこんな狭い部屋が、この値段なの!と聞くと、本当に驚く。当分、私は引越しはできなそうだ。
ヨーロッパ人の友人と、その友人のアメリカ人が一緒に部屋をシェアして生活することになるそうなのだが、引越し中の些細な出来事に、文化ギャップを感じてしまう。配線工事などで引越し中の2人が忙しい中、私が気を利かせて「3人分のランチを買ってくるよ」と言うと、ヨーロッパ人の友人は、「この辺りで、良いお店を知らないから、ちょっと待ってて」と返答する。そういった点においてはプラグマティックな私とアメリカ人は、「ランチなんて食べれれば良いじゃない」といった風に、不思議な一致を果たしてしまったりする。しかし、ヨーロッパ人にしてみると、皆で食べるランチは、もっと重要なものなのだろう。そういう細部が、会話をしているうちに、どんどん浮き彫りになる。しかし、そんなことでは喧嘩にならないのが、NYの吸引力だろうか。
近所を歩いていると、そこには小さなメキシカンレストランの小屋があった。そこには、涙が出て来そうなくらい、ピカピカに光ったジーザス・クライストが壁に「これでもか!」という巨大サイズで描かれている。ずっとその壁に向かって、英語の通じないメキシコ人女性に一生懸命タコスを注文し、出来上がりを待っていると、なんだか胸がいっぱいになってくる。
家に帰ると、ハイデラバード在住の友人から、メールにてyoutubeにアップロードされたビデオレターが送られて来る。この友人は、インドの貧しい人向けの投資銀行をやっており、現地でスタッフとして働いているのだ。彼も、本当に頭の下がる苦労をしている一人だ。
そのビデオを見て驚いたのだが、インドの町の人たちの顔が鮮やかなのだ。彼らは、私よりも「生」を生きている印象を受けた。裏を返せは、私は「生きて」いないのかもしれない。
最近、友人のアーティストに「あなたにとっての幸せは何?」と、そんな事を最近考えても見なかったことに気づいた。自分のやっている事にいっぱいいっぱいで、周りも、自分も見失いかけていたかもしれない。
生におけるとても単純なものを、大切にしてみたい、そんなことを考えていた一日だった。
今日は友人の引越しを手伝ってくる。ブルックリン内での引越しだったのだが、NYの住宅事情の悪さには本当に閉口する。ブルックリンの奥地のこんな狭い部屋が、この値段なの!と聞くと、本当に驚く。当分、私は引越しはできなそうだ。
ヨーロッパ人の友人と、その友人のアメリカ人が一緒に部屋をシェアして生活することになるそうなのだが、引越し中の些細な出来事に、文化ギャップを感じてしまう。配線工事などで引越し中の2人が忙しい中、私が気を利かせて「3人分のランチを買ってくるよ」と言うと、ヨーロッパ人の友人は、「この辺りで、良いお店を知らないから、ちょっと待ってて」と返答する。そういった点においてはプラグマティックな私とアメリカ人は、「ランチなんて食べれれば良いじゃない」といった風に、不思議な一致を果たしてしまったりする。しかし、ヨーロッパ人にしてみると、皆で食べるランチは、もっと重要なものなのだろう。そういう細部が、会話をしているうちに、どんどん浮き彫りになる。しかし、そんなことでは喧嘩にならないのが、NYの吸引力だろうか。
近所を歩いていると、そこには小さなメキシカンレストランの小屋があった。そこには、涙が出て来そうなくらい、ピカピカに光ったジーザス・クライストが壁に「これでもか!」という巨大サイズで描かれている。ずっとその壁に向かって、英語の通じないメキシコ人女性に一生懸命タコスを注文し、出来上がりを待っていると、なんだか胸がいっぱいになってくる。
家に帰ると、ハイデラバード在住の友人から、メールにてyoutubeにアップロードされたビデオレターが送られて来る。この友人は、インドの貧しい人向けの投資銀行をやっており、現地でスタッフとして働いているのだ。彼も、本当に頭の下がる苦労をしている一人だ。
そのビデオを見て驚いたのだが、インドの町の人たちの顔が鮮やかなのだ。彼らは、私よりも「生」を生きている印象を受けた。裏を返せは、私は「生きて」いないのかもしれない。
最近、友人のアーティストに「あなたにとっての幸せは何?」と、そんな事を最近考えても見なかったことに気づいた。自分のやっている事にいっぱいいっぱいで、周りも、自分も見失いかけていたかもしれない。
生におけるとても単純なものを、大切にしてみたい、そんなことを考えていた一日だった。