Eur-Asia

西洋と東洋の融合をテーマとした美術展「ユーラシア(Eur-Asia)」の開催を夢見る、キュレーター渡辺真也によるブログ。

矛盾の中に生きるということ

2009-04-06 08:34:17 | Weblog
沖縄に入ってから、多くの矛盾を目にしている。矛盾に出会う度、それをほぼ習慣的なレベルで、社会的に解決、もしくは自己解決しようとしている自分がいる。

日本の本土にも多くの矛盾が溢れているが、沖縄にはその矛盾がより凝縮されており、露骨に出ていると思う。そして、東京の人間は、日常生活を続ける上で、ある株の防衛本能として、感受性のレベルを落して生活しているが、沖縄は感受性を敏感に保ったまま生活しているので、その矛盾の個人への浸透度が高い気がする。

矛盾そのものは興味深いことも多々あるが、例えば沖縄にて感じる矛盾を、外部から来た人間が面白がる場合、その「面白がる」という行為の担保として、その矛盾を起こしている事象に対して、何らかの積極的関与をする必要があると思う。それができない人は、その矛盾を「面白がる」資格は無いと思う。

私は、この矛盾をある程度上手く説明する言語的な能力を持っている方だと思うが、その言語的な説明、という行為そのものが、暴力的たりえる。それに対して自覚的である限りは、言葉による表現そのものにも、慎重にならざるを得ない。

昨日、おもろまちの交差点で、一人の老人に話しかけられた。前歯の全て抜けた、長髪の80歳くらいの老人だった。老人は、私を見ると、道を聞きたかったのだろうか、私に話しかけてきた。しかし、この老人の言葉が、きっとウチナ口だったのだろう、一切理解することができなかった。

「すいません・・・」そう言うと、私はその場を立ち去る、という行為を取ってしまった。まず、私は彼が話したことが理解できなかった、そして忙しくしていた、というのもあるのだが、浮浪者にも見えるこの男性の容姿や、私が理解できない言語で話しかけられた時、私は驚き、というよりも、何故か恐怖や不安が先行してしまったのだった。どうして、と言われても、答えようが無い。

「日本国内」で「日本語」で話しかけられる、という考えを、私が前提を持っている時点で、沖縄の矛盾を語るだけの担保を私は持っていない、と思った。しかし、こういった行為を本土の人間ができるのか、そして沖縄の内部の人間は、それが正確なものであった場合、それを受け入れることができるのか、いろいろ考えこんでしまった。


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