ウラジミール・タトリンが1923~24年にデザインした男性用レジャースーツ。そう言われても、レジャーな感じはしないなぁ。 learn.columbia.edu/courses/russia…
専業主婦にも給料を払うべきではないか?という議論があるけれど、ヨーゼフ・ボイスは1972年のドクメンタにて、北ライン-ウエストファーレン地方の主婦たちの仕事をちゃんと行政が仕事として認めて給料を支払うべきだ、と“Hausfrauengehalt(主婦給料)”の制定を提案していた。
ヨーゼフ・ボイスのパトロンだったFranz Joseph van der Grintenは、ボイスはドイツ人というよりもブルグンド人だと言う。このブルグンド族がフン族によって滅亡させられる歴史を謡ったのが、ニーベルンゲンの歌だ。 ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96…
ボイスの実家であるクレーフェのシンボルは、シュヴァネンブルク城(白鳥城)で、聖杯王パルジファルの息子である白鳥の騎士ローエングリンがベースになっている。白鳥の騎士の神話と言うと、私はどうしても死んで白鳥になったヤマトタケルの話を思い出してしまう。
このクレーフェのシンボルだった白鳥の騎士ローエングリンの像は、第二次世界大戦中に破壊された後、再建されていない。ローエングリンがワーグナーの作品モチーフとなり、ヒトラーに愛されたことは事実だけれど、それが理由で地域の神話が廃れてしまうのは問題だし、極めて残念なことだと思う。
ヘンリー8世の妻となったアンは、ボイスと同じクレーフェの出身だった。クロムウェルがハンス・ホルバインにアンの肖像画を描かせた所、あまりに上手く描き過ぎ、実物と違うと激怒したヘンリー8世はホルバインを解雇、クロムウェルを斬首刑に。 ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2…
板茂のプリツカー賞受賞は本当に良いニュースでした。よく、「別の解」とか簡単に言うけれど、根源に遡って解を見つける、という点で、板茂にかなう建築家はいないかもしれない。
すごくうれしい。ちょっと、ウルッと来ちゃった。
国家が教育に口出しするのって、どうなんだろう?私はアメリカに留学してから、義務教育として小学生の頃に毎日やっていた漢字の書き取りが強力なネーションビルディングだったことに気付いたけれど、子供達への教育を、国家の視点ぬきに、あくまで対個人のものとして捉えられないか?
オリンピックも教育も、国家が介入することの弊害が大きい。オリンピックは国と国とではなく、あくまで個人と個人が競技をする場であって欲しいし、教育も国の為の国民を教育するのではなく、あくまで個人の創造性や可能性を引き延ばすための手段を、国が提供しているという形であって欲しい。
ちなみに義務教育とは、子供が国家から教育を受ける義務を追っているのではなくて、国家などの行政や子供の保護者が、子供に教育を受けさせる義務を追っているということ。私たちは、子供たちにその義務をちゃんと果たせているだろうか?
日本があるから世界があるのではなく、世界の中に日本がある。自分がいるから世界があるのではなく、世界の中に自分がある。そしてこれらは表裏一体の関係にあり、自分が無くなったら世界は今のままでは無くなってしまうし、一人一人が今を生きている、その重要さを説いたのが仏教の天上天下唯我独尊。
オリンピックは国と国とではなく、あくまで個人と個人が競技をする場であり、国家はその機会を提供しているだけに過ぎない。主権者である国民の公僕である行政の人が、競技参加者である個人に対して「お国の為に」と言ってしまった時点で、その人はもうアウトだろう。
国家内外の利害関係と完全に切り離した教育システムを確立するのが、私達の義務になる日が近づいているのではないか?そうしないと現在世界が抱えている問題は解決できないと思うのだけれど、どうだろうか?
六歳児がソファに座りノートPCを膝に載せ、興味あるMac miniをGoogleで画像検索してブラウズしてて、軽く21世紀を感じた。
1923年に撮影された少女時代のマザーテレサ(左)の写真。
アルバニア生まれの彼女は、コソボ南部プリスレンのアルバニア人の衣装を身につけている。 pic.twitter.com/fMhvrQyQeM
@gattoparda57 本来であれば、それが一番理想的な形なのではないでしょうか?ただ、そういった形に成り難いからこそ、ボイスの様な提案が出て来たのではないかと思います。
参加したアスリートが国に感謝することは良いのですが、国がアスリートに向って「感謝せよ」と要求することは間違いかと。同様に子供が親に対して親孝行をするのは良いことですが、親が子供に「親孝行せよ」と言ってしまえば、それは親子間の無償の愛を否定する暴力でしょう。 @sayuri0243
個人の尊厳を無視し、命を軽く扱うという日本の軍部の悪しき文化は、果たして克服されたのか。東京裁判というかたちで、「他者」によって糾弾されてしまったために、日本人が自身で戦中の愚か者たちの支配を反省するという機会が、必要以上に複雑なものになってしまっている。
小津安二郎は、最後の作品『秋刀魚の味』の中で、「でも、負けてよかったじゃないか」「そうかもしれないな。馬鹿なやつらが威張らなくなっただけでもね」という珠玉の台詞を書いている。今後の日本がどのようになるとしても、「馬鹿なやつらが威張る」国だけは、ごめんこうむりたい。
@kenichiromogi 本当ですね。あくまでも前向きに、少しずつ努力して行きましょう。
今空港行きのバスに乗っていたら、60歳くらいのおじいさんが65歳くらいのお婆さんに席を譲っていて、ドイツ人細かいなぁ!と思いつつも、なんだか微笑ましかった。