穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

カメラとカメラマンしかいない時

2017-01-08 10:47:36 | 哲学書評

カメラとカメラマンしかいない時にカメラマンを理解することが可能だろうか。

カメラマンが自分を分析する、反省することしか方法が無いような気がする。そして反省の結果を正しいと判定するのは誰なのか。 

カメラマンは自分の頭蓋骨を剥がして中に電極を差し込み計測するということだろうか。しかしそんなことが出来るとして誰が観測分析結果の正しさを判定するのか。

現象学というのはカメラを使かわなくても同じ結果が得られる、それはカメラを使わないことだ、という訳である。そこでも「正しさ」を検証する方法が皆無である。

実存開明あるいは分析あるいは把握あるいは理解、ということはカメラマンそのものを把握出来るという思想らしい。そんなことが可能なのか。そしてその確認は実存同士の相互承認ということらしい。共主観性とか実存と実存の交わりとか、古くはソクラテスのディアレクティケーというのがそれを保証するらしい。

カメラマンが自分で自分を生体解剖すれば正解が出るというのが、ハイデガーなどの考え方らしい。一方で自分を生体解剖したらなにかよく分からないものが出て来た。それを生体解剖すると、また分からない物が出て来るという主張もある。ヤコーブ・ベーメ等の無底という考え方である。どこまで言ってもきりがない。ヘーゲルなら悪無限とでもいうのだろう。

なにかこうやっていれば井戸の底に付く筈だと確かめもしないで主張する哲学者もいる。スピノザなんかがそうだろう。一般に、なんで、なんでと止めどなく聞く子供は両親が知恵おくれとして心配するものである。