穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

実存考

2017-01-06 09:09:31 | 哲学書評

上か下か、といっても体位の話ではない。前か後ろかといってもいいが。

現代哲学の本では理解不能な訳語がある。いわく実存。これ日本語?支那語?

漢語として正当な解釈はなんだろう。実と存に分けて考える。存はわかる。存在の存だろう。実がわからない。シナ古典に典拠があるのか。普通に考えれば実のあるの実なのか、充実の実なのか、はたまた真実の実なのか。何の実なのかさっぱり分からない。

ヤスパースやハイデガーの訳書に出てくるからと調べてみると、もとはexistenzらしい。英語ならexistenceだ。もとはラテン語から来た語である。

ラテン語でこの語はキリスト教古代教父時代から使われている。エッセンス(本質)に対する現実という使われ方をしている。カント、ヘーゲルあたりまでは大体その延長線上にあるようだ。カントの場合は現実態というほどの意味でモードの一つである。そしてexistenzと同じ語を使っている。 

キルケゴール、ヤスパース、ハイデガー、サルトルその他のウゾウムゾウ(有象無象)の「実存主義者」も同じ語を使っているが、この辺りから日本語では実存と翻訳されている。

ヤスパースあたりから原語ではexistezと古代から変わらない言葉を実存と訳すようになったらしい。一体誰がこんなに馬鹿馬鹿しい造語をひねり出したのかと調べたら、西谷啓治とか九鬼周造あたりかららしい。また九鬼周造が出て来た。まったくいい加減な言語センスである。

これは翻訳者の不法越権行為である。してはならないことである。存在と訳して古代教父やカントと違うこういう意味であるというのは訳注で示すべきである。

ところで冒頭で触れた上か下かであるが、いわゆるキルケゴール以降、彼らの先入観と言うか、その意識のなかに共通したヒエラルキーがあるようで、それに触れようかと思ったが、今日は時間がなくなった。

つまり

1:存在(自然界を含めた客観)、

2:ダーザイン(人間の、なんというか反省前の存在、キルケゴールなら自然性とでもいうか)、

3:実存、

4:存在(神、包括者、根源にある普遍的なものなど表現は哲学者によって色々だ)という暗黙の位階ね。

3と4はチョネチョネできる。恩寵によって、啓示によって、たえまない問いかけによって、というわけだ。 

いっている哲学者本人は気が付いていないかも知れないが。したがって哲学教師、フォロワーにはなおさらよく分かっていないのだろう。