思い立って四大悲劇といわれるものを読み返している。いまハムレットを読み終わったところだ。あとオセローが残っているが。
リア王とマクベスがリニアに一気にドラマを盛り上げて行くのにくらべてハムレットは趣が違う。リニアはリニアだがあちこちで寄り道をしている。また脱線している所も多い。
新潮文庫、福田恒存訳でいずれも読んだが、ハムレットの描写には抜け、飛びも多い様に言われているようだ。ようするに、ハムレットの性格に一貫性が無いとか、矛盾しているとか。
この点について福田氏は解題で論じている。ハムレットは演戯として取れるべきだという趣旨のようだ。あまり説得力があるとも思えない。オリジナルの原稿に何回も変更を加えられて伝えられているからというのがこれまでの通説らしい。
それもそうなんだろう。もっとも福田氏の説(これはウィルソン某氏の説らしいが)はよく分からないが、私はカット・アンド・ペーストのせいじゃないかと思う。現代でも映画なんかでよくあるが、前後のつながりがはっきりしなくてもインパクトのある画面を張り合わせるでしょう。映画の観客は論理的に考えないからね。次から次へとスクリーンの上を飛んで行く画面を追うだけで精一杯だ。シェイクスピアも各場面場面で印象的な場面をつくることに腐心したのではないかな。推測です。
あくまでも舞台上演時の効果を積み上げて行ったのではないかな。他の三作とことなり、ハムレットには、また、喜劇的なペイソスを盛り込んでいる。劇の流れは早くないが、これが独特の雰囲気を出しているのだろう。
今回再読して、そう言う意味で注意を引いたのは墓掘り人夫とオズリックです。墓掘りのふざけぶりにはよく言及されているようだが、ちょいの間で出てくるオズリックにもシェイクスピアの趣向があるように感じた。それとオフィーリアね、彼女はもっぱら悲劇のヒロインと考えられている準主役であるが、狂言回しというかトリックスターの要素が強い。性格の矛盾といえばハムレットより彼女の方がある。両方とも狂気の犠牲ということで辻褄を合わせているが。
私は翻訳物で注釈を嫌うが、これだけ古い500年前のもので、後世の研究者の考証が無数にあるとすれば、それらも読んでみたい。岩波文庫にあるが、これは新潮文庫に比べると倍くらい厚い。注が多いせいだろう。今度目を通してみるか。どんな注があるか。