穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

オカルティスト哲学者ヘーゲルの「佐世保女高生殺人者」の現象学的解釈

2014-08-03 22:01:00 | 書評
人間は訳の分からないことが起こると理屈をつけて理解しようとする。これは人間の業といっていい。週刊誌やテレビのモーニングショーはこの業の上に営業している。

そんでもって、今話題の佐世保事件、ああでもない、こうでもあった、と報道合戦である。

筆者も分からないのであるが二つほど参考になると思われる点を指摘したい。持っているのはテレビ、週刊誌からの二次情報のみであるからズバリと指摘する訳にはいかない。

一次情報の手持ちがないので思い切ってアカデミックにいこう。まずはオカルティスト哲学者ヘーゲルの精神現象学からである。

平凡社版によるが、B 自己意識 四 3 「自我と欲望」というところだ。「自己意識は、自分に対して独立な生命として現れる他者を廃棄することによってのみ、自己自身を確信している」。

つまり相手をバラバラにして廃棄してしまうことによってのみ知りたいという欲求を満足させることが出来る。意外に真実だ。というのは、ここまで「真理」がむき出しになることはまれではあるが、特定の個人の全体のOSが壊れてしまった場合、このような本源的な規範態が露呈するという訳である。

何れにしても、佐世保女高生はOSが完全にこわれてしまっているからこと、人間の本性が露呈したともいえる。

つぎにドストエフスキーといこう。「地下室の手記」に男女愛情関係で一方が他方を奴隷の様に完全に支配し、虐待し、屈服させるということで成り立つ愛情があるということだ。相手もそれを当然のこととして愛情がなりたつ。

ま、という場合も有るということだから誤解の無い様に。わたしも昔間近にこのような例を見て悲憤に耐えなかったが、年を取ってみると、こういう男女関係もあるんだな、と思う様になった。だからドストエフスキーを読んだときに、彼はさすがに、よく観察しているなと思った次第である。

以上でありますが、参考になりましたかな。

ドストの場合、ストレートにはつながらないが、父親に対する暴行といい、彼女によれば父親を尊敬しているそうだし、非常に近しい間だ。また殺された女子生徒も数少ない、仲のいい友達だったというし。だからこそ対象になったという見方が出来る。

もっとも、別解もある。遺体の腹部を切り裂いていたというし、これは彼女の再婚した母親に子供を作らせないという類感魔術(本能的、無意識的な)だったという全く異なった解釈も可能である。