穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ヘミングウェイ、誰がために鐘は鳴る

2014-08-30 07:34:35 | 書評
# 主人公は成熟、布石はしっかり

ヘミングウェイ「誰がために鐘は鳴る」を最初の1、2章と最後の部分をすこし原文で読んだ。彼の文章がいかなるものなのか知りたかったのである。

軽快ではあるが流麗ではない。読みやすいことは確かだ。ごく若い時に新聞記者として鍛えられた文章と言う。それをベースにその後も精進をかさねたのであろう。

もっとも最近の日本では老年、実年になってもまともな文章の書けない記者が多い。朝日新聞の様に。ま、かの国は違うのか。もっとも日本でも昔は新聞記者の文章というのは一応の水準にあったが。

閑話休題、「日はまた昇る」では主人公達にはどうしても遊民的要素が強い。ロスト・ジェネレイションと気取っていうが第一次世界大戦戦勝国の若者がドルの思わぬ異常高の恩恵を欧州で満喫しているということだろう。

「武器よさらば」では主人公は赤十字のボランテアとして最前線に出ているが、休暇のすごし方や彼を取り巻く人間達は遊民的雰囲気である。「日はまた昇る」はロスト・ジェネレイション別名遊民の群れである。

それに比べると、「誰がために」のジョーダンはずっと落ち着いた成熟したダイナマイターである。まわりの人間もちがう。スペインの山岳部に潜伏するゲリラのなかで橋脚爆破の任務を命じられる。

ゲリラ達はいわば、日本のサンカのような人たちである。カタカナでかけばプレスコードに引っかからないかな。遊民的な要素はかけらもない。発生する恋愛(これがないと小説にならないらしいが)ゲリラの女であり、全二作の女達とはまったく違う。もっと先を読めば明らかになるだろう。またそう展開しなければ小説として破綻するわけだが。

ヘミングウェイは男女関係の三つのパターンを三作で描き分けている。「日はまた昇る」では戦傷による不能な男とだれでもOKな女とのかっこ良くいえば(性なき愛)を描いた。

第二作の「武器よさらば」では重傷もなんのその、種馬のごとき男と看護婦の恋愛がテーマだ。それにしても負傷した箇所が膝でよかった。鼠蹊部だったら小説がなりたたなくなる。トリストラム・シャンデイのトビーおじさんみたいになってしまう。あるいは第一作のようになってしまう。

ゲリラの群れの中の娘とダイナマイターの情事はどうなるか、自ずから前二作とは異なったものとなろう。

## 布石はしっかりしてきた。

前二作には筋というほどのものはない。「武器よ」ではややドラマとしてのメリハリは出てきたが、前半は成り行きまかせで筆を走らせているかんじだ。書いているうちに結末を思いついたという感じである。

「誰がために」では第一章から確りと布石を敷いている。ジョーダンが初対面のゲリラ隊長パブロについて心中の観察を述べている。【どうも彼の悲しげな様子が気に食わない・・・彼が陽気になった時には彼が決断したときだ。裏切りを決意したときだから注意していないといけない】と冒頭から布石を打つ。

また彼が強奪した見事な馬を見た時にジョーダンのガイドであるアンセルモに「あんたは今では資本家になった。奪い、殺すけれども戦わない」と言わせているあたりも見事な布石だ。

最初の20ページほどしか読んでいないからどう展開するか知らないが、これが布石でなくてどうする。英文で500ページ、日本語に訳せば千二,三百ページになるであろう長編である。この布石でぐいぐい最後まで引っ張って行けたらたいしたものである。