穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ヘミングウェイ、36歳で白鳥の歌

2014-08-11 22:21:54 | 書評
36歳のヘミングウェイはなかなか好調のようだ。短編集2で「マカンバー」と「キリマンジャロ」はいい。マカンバー第一位、二位キリマンジャロというところだ。

ヘミングウェイは自伝的作家のようだ。私小説作家という意味ではない。多くの作品は彼のどの時期の経験の反映か、というのが容易にたどれる場合が多い。

私小説の様に、ルポ風に心理を深刻めかして深堀りするわけではない。うまく料理はしてある。

36歳にしては早すぎるが、キリマンジャロは彼の白鳥の歌のような趣が有る。「日はまた昇る」の始めの方に「ぼく」と友人のユダヤ青年ロバートとの会話で、ロバート(26歳くらいか、)が「知ってるかい、あと35年もすれば、ぼくらは死んでしまうってこと」という。

当時の平均寿命はそのくらいだったのかな。しかし20年とか2、30年と丸めて言わないで、35年と刻むのは妙で引っかかる。

26歳足す35年は61歳だ。実際ヘミングウェイは61歳で猟銃自殺している。自分の(どうもヘミングウェイの)終末を25歳で設定するのは尋常ではない。

「キリマンジャロの雪」は金持ちの妻をもらって、贅沢三昧に暮らしているうちに才能が鈍麻して行く作家の自覚を書いている。実際アフリカにサファリに行った頃の妻の叔父はべらぼうな金持ちでヘミングウェイのサファリ費用、ヨット購入資金、キューバの屋敷の購入資金などを援助している。

アフリカへサファリにいって怪我が元で壊疽にかかり、物理的な死を迎えることとパラレルに書かれている。物理的ではなくて、自分の作家としての生命の終わりを予感した白鳥の歌ととれる。

さて、次は短編集3を読むか、「日はまた昇る」を読むか。




ヘミングウェイ研究者のレベル(視点)

2014-08-11 22:20:40 | 書評
「フランシス・マカンバー」の解説で妙なことが書いてある。視点が四つあるというのだな。フランシス・マカンバー(サファリの客)、その夫人、ガイド、ライオンというわけだ。大胆な説と言わざるをえない。

もっとも訳者独自の大胆な説ではないだろう。解説の末尾に参照したという多数の文献を掲げている。欧米の代表的な評論をコピペ?したのだろう。

フランシス・マカンバーの視点とガイドの視点はいい。それに夫人の存在が絡まってくる構成になっている。視点と言えるからには質量ともに充実した記述があり、常識的に納得できるものでなければならない。

夫人について、最後に夫を故殺(あるいは誤射)したと諸説が出てくる下りで【マカンバー夫人はバファローを狙い撃った】とはっきり書いてあるのが彼女の視点の根拠らしい。【バファローを狙って撃ったようだ】ではどう考えてもインパクトがない。たんなる表現のあやだろう。

また、ライオンについては、一体どこからそんな説が出てくるのかと読み返したが、「ライオンは捨て身の反撃に出る気になっていた」あたりに根拠があるらしい。ここは【・・捨て身の反撃を試みる気配をみせていた】と書いても同じことだ。表現のアヤにすぎない。

おかしいのは獲物にも視点を与えるならバファローにもそういう記述をするのがいいが、バファローについては、そう言う記述はない。要するに訳者の四視点説は全く恣意的な、まるでコンピュターがテクストを機械的に分類するようなやり方で、滑稽と言わざるを得ない。

これが多数列挙した本国のヘミングウェイ研究書の孫引きなら、かの地での研究レベルも相当低いと言わざるをえない。

ところでガイドのウィルスンはよく描かれている。いささか皮肉なコード・マンの趣もある。



今日は、コード・マン

2014-08-11 06:53:39 | 書評
新潮文庫の訳者は高見浩という人だが、どういう人だか私は知らないのだが、訳者解説に時々変なことを書いている。ヘミングウェイの主役、登場人物にはコード・マンが多いという。

コード・マンとは自分の信じるコード(信条、行動規範)に馬鹿正直というか忠実に生きるというタイプという意味で高見氏が使っているとすると、ヘミングウェイの主人公でそういう人物がいるのかな、と首をかしげる。

私がこれまでに読んだ主として短編の主人公でコード・マンだと感じさせる人物はいない。長編の主人公にはいるのか。

コード・マン登場と言うとハードボイルド小説の定番のようだが、くっきりとそういう人物造形をしているのはレイモンド・チャンドラーの登場人物であるフィリップ・マーロウくらいではないか。

マーロウはまさに首尾一貫して自分の探偵としての独自のコード(職業倫理)を持っている。いかなる状況でもそれを堅持している。それは依頼者の秘密と警察への協力の選択である。いかなる場合もマーロウは依頼者のプライバシーを第一に考える(一作例外あり、湖中の女だったかな)。これはハメットやほかのハードボルド作家には見られない特徴である。



フランシス・マカンバーの短い幸福な生涯

2014-08-11 06:49:02 | 書評
さて、ヘミングウェイ短編集2「勝者に報酬はない・キリマンジャロの雪」で(新潮文庫)で経年劣化を確かめる。

このシリーズは概ね年代順に並べてあるようだ。

第二編は印象的な作品が少ない。読んだ後から忘れてしまう。それが全体の半分以上ある。そのまた半分は、あれ、どんな作品だったかな、と冒頭を眺めても内容を思い出せない作品がある。タイトルの作品まで読んだ。まだ有名な「キリマンジャロの雪」は読んでいない。いや大分前に読んだ、だから書棚にあるわけだが、内容はまったく憶えていない。

キリマンジャロの前にあるこの「フランシス・マカンバーの」はいい。この作品は私の読み方が適しているようだ。すなわち冒頭を適当なところまで読んで後は最後の数ページを読んだり、ランダムに開いたところを読んだりしながら通読すると余計興趣がわく。要するにそういう読み方をすると小説の仕掛けというか構成が分かる。分かったから「なあんだ」とつまらなくなることはない。なるほどな、とかえって感心する。

こういう読み方を敵視する書評屋がミステリー業界には多いが、あるいは一般の小説の評論家にも多いかも知れない。これをウロボロス読みという。ウロボロスというのは錬金術の代表的な表象であるが、蛇が丸くなって自分の尾を噛んでいるイメージである。

閑話休題、あるところで評論家の一人がヘミングウェイの作品は完全に直線的に、つまり時系列的に記述していく、と書いていたが、まったく違うね。この作品でも記述は前後する。他の作品でもフラッシュバックは多い。それも予告なしにというか、いかにも時系列に書いているようで、いつの間にか過去のことを書いていたりする。高等テクニックなのかもしれない。それで評論家諸君はだまされたのかな。