穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

恩田陸「蜜蜂と遠雷」、韓国市場をあてこむ著者と編集者

2017-05-03 07:01:57 | 直木賞と本屋大賞

 本屋をまわると、村上春樹氏の新著と恩田陸女子の新著がてんこ盛りである。最近は「蜜蜂と遠雷」のほうが優勢である。そこで久しぶりに新著をとりあげる。当ブログの方針である「社会的にニュースになった本」を対象とする。

 例によって最初にポジション・リポート: 400ページまで読んだところ。ただし後で書くが三次予選の描写あたりからぐっと質が落ちたようなので、その辺はほとんど読んでいない(つまり一ページ1,2行読んでだめだとおもうと次のページをめくる)。

 1:布石がいい。ただし叙述が明晰でないところがあるので、100ページ当たりまでは二度読んでから先に進むとよい。とくに高島明石が女性かと思ったり、明人というのが彼の息子であるというのがはっきりしない。

 2:テーマは音楽コンクールの予選から決勝までをおうものだが、音楽の演奏を自然描写とか絵画とかドラマ展開に変換していくので、これが新機軸かどうかは寡聞いや寡読にして知らないが、なかなかうまい。わかった気にさせる。音楽に疎い小筆が読んでも文章としては読ませるという意味である。このスタイルは演奏者、鑑賞者(聴衆と他の共演者の演奏を聴く参加者)の心情描写に使われる。

 読んでいて、疑問に思ったのは(音楽業界にうといので)、音楽評論家も同じ手法を使うんだろうかということ。つまり演奏のうまい、下手をそんな風に評価するのかということ。読んでいくと著者は審査員の記述ではこういう書き方はしていないようだ。つまり演奏の受け止め方が鑑賞者と審査員では違うものとしてかき分けている。おそらく意識的にしているのだろうし、合理的で読んでいて納得できる。

 もっとも、審査員が彼らの弟子を指導するときには自然描写とかドラマ性を曲の演奏指導のtipにすることはありそうだ。

 3:大会は第四次の決勝まであるのだが、第一次、第二次までは読ませる。第三次からは描写の質が落ちるようだ。文章のイキも短く箇条書き的になってきた。意図的に著者が別の観点か手法を用い始めたのかもしれないが、単に質が落ちてきたように思われる。そこ今後は第三次、決勝の箇所はすっ飛ばして最後の2,30ページだけ確認しようかと思っている。

 4:異様に感じたのか、意外に韓国、中国の参加者(コンテスタント)が沢山登場して、皆主演級の扱いを受けていることである。現在の世界の音楽マーケットの状況を知らない小生としては、それが実態なのかどうかは判断できない。第一小説だから実態を反映する必要もないのだが。この辺は著者かあるいは編集者の意識が韓国マーケット、大陸マーケットにあることを示している(のだろう)。村上春樹作品にも全作品に中国マーケットを意識した箇所があるが。恩田氏の作品は40冊以上韓国で翻訳されているという。

 

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