穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

西村賢太の出世作と言う、

2022-07-26 09:39:44 | 西村賢太

 さて、「どうで死ぬ身の一踊り」は西村の出世作だというので読んでみた。
この作品は藤沢清造を顕彰追憶する仏事や、寺の作法を潤いのない筆で細々と描写する部分と滝野川での同棲女性に対するバイオレンスの二本立てであるが、この二つのハシラの間には有機的関連がない。小川榮太郎氏の「作家の値打ち」では苦役列車73点に次ぐ71点を与えているがまったく的を外している。久世光彦とか坪内祐三とかの「読み巧者」が絶賛している、というが理解不能。この二人の人物がどういう人物か全く知らないが。たしか、「雨滴は続く」で西村賢太本人が「体が震えるほど」感動したとの久世の言葉を誇らしげに引用していたが、この引用が正確だとしてもまったく理解の領域を超えている。
 仏事の話は全く潤いを欠いているし、営業仏教(寺の)の些末な行事を事細かく誇らしげに書いているのには全く西村らしくなく失笑してしまう。西村の作品は読んだのは五指にも満たないが、そのなかでも最低の作品であることは間違いない。
 ところで、西村賢太はあちこちで「どうで」という言葉を多用しているが、これは藤沢静造の故郷である、たしか能登半島のどこかの方言なのだろうか。私は「どうせ」という意味だろうと理解しているが、それでいいのかな。
 ついでに思い出したが、ひっきりなしに「はな」という言葉を使う。これは「はなっから」と同じ意味と受け取っているが間違いないかな。西村が威張る江戸言葉ではないようだが。もっとも江戸と言っても広い、「江戸」=「江戸川区」なのかもしれない。


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