穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

カントの悪文を弁護する

2016-03-05 08:33:15 | カント

カントの文章が悪文であるというのは共通認識であろう。少なくともエステティシュにいえば「美しくない」ことは間違いない。

 彼の評伝を読むと、一般人(庇護者の貴族等)との会話、座談は非常に巧みであったという。また、講義も学生がついて行けるような物であったそうだ。そうでなければ、あれだけ、学会で勢力をうることなど出来ない相談である。学会で勢力を伸ばすには学生の支持が重要なのは古今東西同じである。

 ではなぜ出版物の文章がちと首を傾げるような物だったのか。

 一つには彼は原稿の清書をしなかったのではないか。彼の文章は非常に長い。これはドイツ語の構文から一般的に言えるようだが、それでも長い。挿入句がやたらに多い。関係代名詞、指示代名詞で受けながら延々と続く。

 これが誤訳、首をひねる日本語訳を読むと頻出する。一体どれを受けた代名詞なのか判然としないことが多い。

 おそらく、印刷所に渡す原稿には後で付け足したこういう追加、修飾、言い訳(弁明)が清書、推敲されずに非常に多くて、あのような長文になったのではなかろうか。また、ドイツ語の文法上の特徴がそれを許しているのであろう。複雑な格関係とか冠飾句、関係代名詞の多用など。

 最初の原稿執筆であれだけ、挿入句が出てくることはあり得そうもない。最初はさらさら要旨を流して書いて、あとで読み返し、弁明、反対意見を想定した防御的条件付け、概念のより明確化など、あるいは例示などをあとで付け加えたのであろう。

 普通なら、原稿を書き直して文脈も整理する。いわゆる第二稿をおこすのが普通である。カントはその整理をしなかったのだろう。

 次は、上記の推測が正しいとして、なぜ文章の明確化や整理をしなかったのかということであるが、以下次回で。



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