手打ち蕎麦をする私の徒然日記

2003年1月に手打ち蕎麦に初挑戦。手打ち蕎麦の事ばかりでなく、日常インパクトのあった事柄を思ったまま綴ったブログです。

3歳の孫娘から千代紙で兜の折り方を教わる

2007-08-29 16:58:18 | Weblog
千葉県に住む娘一家のところでは、現在幼稚園で年長組の6歳の孫娘に加えて、つい最近は、今年5月に3歳の誕生日を迎えたばかりのその妹である孫娘も、幼稚園の年少組に途中入園することになったが、一昨日の8月27日は、その幼稚園の夏休み中での登園日になっていた。私と家内とは、前日から彼女たちの住む千葉県の娘宅に泊まりこんでいて、翌日の登園日に、幼稚園のバスに乗って6歳と3歳の孫娘二人が登園するのを見送った。その日、午前8時10分を過ぎた頃、幼稚園のバスが娘の家の玄関前に停車、二人の幼稚園児はお揃いの夏用の幼稚園の制服に身を包み、かわいいお弁当の入ったランドセルを背負い、それに麦わら帽を被って、喜び勇んでバスに乗り込んだ。
バスを見送ってから、私たちは、3歳の孫娘は教室で泣いているのでは、と心配していたのだが、帰宅した彼女は元気そのもの、折り紙をやったり、歌を唄ったり楽しかった、という。私は帰宅した彼女と遊びに興じたが、そのとき、私は彼女から千代紙での兜の折り方の指南を受けた。小さなチャブ台を前に、彼女は自分用のほか、私用にも1枚の千代紙を渡し、私の傍らで彼女はチャブ台の上で、私に話しかけながら、1回千代紙を折るたびに、丁寧に兜の折り方を説明した。私は兜の折り方は全く知らないので、ウソかマコトはわからないながら、彼女の言う通りに折っていったら、なんと見事な兜が完成したのである。もちろん彼女のも見事な兜になっていた。すごく感心した。この兜の折り方、きっと日ごろから、お姉さんの孫娘から伝授されていたのに違いないのだが、それにしても、感心した。

浅草サンバ・カーニバルで元気をもらった

2007-08-25 22:24:14 | Weblog
今日は、毎年のように、8月最終の土曜日に浅草の観音様のすぐ近くの大通りで行われるサンバ・カーニバルを久しぶりに目のあたりにした。去年もその前の年も、最近は見ていなかったのだが、そのダイナミックなサンバのリズムや踊りは、いつもながらに、見ている私たちにものすごいエネルギーを与えてくれるように思える。
今年は全部で20チームが参加していた。私が浅草に着いたのが午後3時を過ぎていて、半分以上のチームが沿道での踊りを終了していた。例年と変わらず、沿道の両側の歩道は数百メートルに亘って観客で一杯で、この頃の時間帯には、大通りの沿道を超陽気に踊りながら進むサンバチームを、観客の頭越しにやっと、かすかに見るのが精一杯という状態だった。
今日見たところでは、数年前のサンバカーニバルに比べて、内容的にはすごく手の込んだものになっていて、見ていてすごく楽しいショーだった。老若男女だれでもが楽しんでいるようだった。子供たちも十分に楽しんで見ていたようだ。
目の前をサンバカーニバルの一団が通り過ぎるときの、その耳をつんざく強烈な打楽器のリズムは、私にはウルサイというよりも、元気を与えてくれるように感じる。そして、私の中の血潮もまた踊ってしまうみたいだった。こういう底抜けに明るい、陽気なリズムって私は大好きだ。私が見ていた場所の近くには、ブラジル人2世みたいな人たちが陣取っていて、彼らの5,6歳くらいの女の子たちがサンバチームの踊りに合わせて腰を上手に振りながら踊りだしたりしていたが、こういう風景ってごく自然だった。それに驚いたことには、私の隣にいた、見るからに上品で、物静かにみえた初老のご婦人までもが、意外にもサンバチームの踊りや打楽器のリズムに合わせて、ときどき声を出して、手拍子やら手を振ったりして楽しんでいた。
私が思うに、もし、重病人やら落ち込んでいる人などが、こんな雰囲気のサンバカーニバルの一団を目にしたなら、きっと病気とか落ち込みなんか、いっぺんにきれいさっぱり忘れて元気を回復するんじゃないかな、って思える。もし、心臓の不整脈な人がいたなら、その人の心臓が強烈なサンバのリズムにシンクロナイズして、自然に治ってしまうんじゃないかな、なんて想像してしまう。
カーニバルのチームに参加している人たちはもちろん、見ている誰もが、活力というか元気、エネルギーを身体いっぱいにインプットされたのを感じたのではないだろうか。アッ、そういえば、こんな感じを抱いたのは、阿波踊りを見ていたときもそうだった。
午後5時を過ぎたころ、最後の20チーム目の一団が私の目の前を通過して、カーニバルが終わった。
私は、帰り際、近くの(浅草の)観音様に参拝して、浅草を後にした。
今日のカーニバル見物で、百薬のクスリにもまさる健康の素を手に入れることができた。
来年は孫たちを連れて行ってみたい、と思う。

昨夜の反町ジャパンのサッカーの試合、面白くなかった

2007-08-23 18:52:53 | Weblog
今のJリーグが始まるずっと前から、私はサッカーの試合を観戦するのが大好きだ。サラリーマンとして会社に勤めていた頃は、しょっちゅう試合会場に足を運んでいた。観戦するのは、高校生、大学生、の試合のほか、もちろん、Jリーグになる前の社会人のサッカーの試合もそうだ。特に、多く足を運んだのは、全国高校サッカーをめぐるサッカー試合が行われた埼玉県の大宮サッカー場と、大学サッカーの対抗試合が行われた西が丘サッカー場だ。それに次いで多く通ったのは国立競技場だ。
これまで見てきた数々の試合では、脳裏に焼きついている、いろいろな印象的な場面が数多くあった。
中でも、正月の全国高校サッカー出場に関連して争う、高校生サッカーの試合を見るのが最も好きだ。見ていて若き血潮をみなぎらせて全力でぶつかり合う彼らの姿はまさに感動的だ。埼玉県代表の高校を決めるのに、準々決勝レベルまでの試合は、その予選の試合会場が関係する高等学校のグラウンドで行われるのだが、かつてはその予選会場の、伊那学園や大宮東、市立浦和などの高等学校まで見にいったものだ。
大学サッカーが行われる西が丘サッカー場に行くのに、JR赤羽駅からサッカー場まで、徒歩で往復したのは、数え切れないほどだ。それに、勤めで川崎に通っていたときは、帰宅時によく等々力のサッカー場にも足を運んだものだ。
こんなわけで、だいぶ昔から、サッカーの試合を見てきていた関係上、Jリーグが発足してからは、大抵の所属選手の経歴みたいなものは頭に入っていた。
ところで、昨夜、国立競技場で行われた、反町監督率いる日本代表とベトナム代表とのサッカーの試合は、テレビで見たが、つまらなかった。日本が勝ちはしたものの、消化不良で非常に物足りないものだった。選手に連携が見られないのと、それにフォワードの平山選手の出来が非常に悪いのには、ガックリした。テレビで解説していたセルジオ越後さんの言葉の端々からも、途中で、何をしゃべっていいかわからないほど最低の試合だ、ということが察せられた。昨晩のような日本代表の出来ならば、次回アウェーでサウジアラビアと戦う試合で勝利を得るのは絶望に近い、と感じた。選手ひとりひとりのガッツが足りない、と感じたのは、私ばかりではないはずだ。試合が終わってから、私は家内から、私の機嫌が悪い、ことを指摘されたが、仕方ないことだった。

夏の日の想い出-ロケット実験にまつわる想い出(2)

2007-08-22 10:02:30 | Weblog
鹿児島県の内之浦町に出張していた当時、決して忘れられない人の中に、白崎孫志さんというおじさんがいる。70歳を過ぎた感じの方だ。甑島(こしきじま)で生まれたという、そのおじさんは、小さな内之浦町では、ほとんどの町民から知られている有名人で、みんなから「マゴじいさん」と呼ばれていた。たしか若い頃、漁師をされていた、と聞いているので、きっと昔は、ツワモノ漁師だったに違いない。
私たちが、出張で中俣旅館に泊まって、みんなが食事してるときなど、きまって私たちの前に姿を現して、だれかれとなくみんなに親しみを込めた眼差しで話しかけてくる。腰が前かがみに曲がりそうながらも、上体をできるだけピンと直立にさせた姿勢で、縁側の庭先に毎朝のようにスッーと現れて、挨拶される姿が今でも目に浮かぶ。子供たちと同じように、このようなおじいさんも好きな私は、すぐにマゴじいさんと親しくなった。
あるときの出張の時など、旅館にいた私に、マゴじいさんがいろんな芸術的な形をした木の根っこを持ってきてくれたことがあった。ロケット実験が無い期間に、私のために、マゴじいさんがロケット実験場近くの山林で、生け花の飾りつけに使えそうな、これらの木の根っこを採集して持ってきてくれたのだった。今でも、我が家にはそれらを保存してあって、それを見るたび、もちろんマゴじいさんのことを想い出す。
それから、もう一つ忘れ得ない想い出がある。私はマゴじいさんから、前もって、ロケット実験に関わる作業が無くて休みになる日に、「漁船に乗ってみないか」と誘われたことがあった。こうして、私は同僚一人を誘って、数人の漁師さんと共に小さな漁船に乗せてもらったのだ。そのとき、漁師さんたちは、焼酎のほかに、醤油や包丁やお皿やなども船に積み込んでくれたのだが、これって、マゴじいさんからの要請でそうしてくれたのは明らかだ。走り出した漁船は内之浦湾のほぼ真ん中あたりに停泊、その船上で、マゴじいさんをはじめ私たちは、その場で獲れた獲物をツマミにして、酒盛りを開いたのだ。獲れたてのイカを漁師さんが手早く料理してくれて、みんなして食べたのだが、そのときのイカの美味しかったこと、生涯決して忘れ得ない。まさに獲れたての新鮮なイカの白さは透明に近く、透き通っていたことが強く印象に残っている。
マゴじいさんは芋焼酎が大好きだ。で、私はあるとき、ロケットの実験期間が終わって東京に帰るとき、マゴじいさんに一升瓶入りの芋焼酎をプレゼントしたこともあった。
でも、その後、どのくらい後だったろうか、半年ぐらい後だったろうか、私が内之浦町に出張したとき、マゴじいさんを見かけなくなっていた。ウソかホントかわからないけれど、聞いたところによると、マゴじいさんが内之浦の町医者にかかっているとき、診察を待つ間に、焼酎を飲みながら、その医者の待合室の窓から転落して亡くなった、という。このことを聞いて、私は心底、寂しくなった。で、それに、もしかして、そのとき飲んでいた焼酎って、私が差し上げたものだったのかな、なんて思ったりして、責任も感じてしまう。

織田裕二さん出演の「世界陸上のTV-CM」はルール違反では?

2007-08-21 10:50:50 | Weblog
今日もTBSから、あと4日後に迫った世界陸上のテレビコマーシャル(TV-CM)が流されていた。その中で、俳優の織田裕二さんが「ちょっと触らせてもらっていいですか?」と言って、スターターピストルを借りて、空に向けて引き金を引いて発砲させる場面がある。私はこの場面はルール違反ではないかなって、思う。あくまでも織田裕二さんはスターターピストルを借りただけであって、空に向けて発砲させることは貸し手との間で約束されていない。つまり、織田裕二さんは借りたスターターピストルを、無断で、引き金を引いたわけで、明らかにルール違反だ、と思うのだ。
細かいことだが、私には、CMを見ていてそう思い、このようなTV-CMを流すと、これを見た子供たちに悪影響を与えかねない、と危惧している。例えば、このCMを見た子供は、人から借りたものを、貸した側が思っても見なかったような使い方を無断でしてしまう危険性がある、と思うのだ。
そこで、このCMを放映しているTBSテレビに私のコメントを述べるべく電話してみた。まず、新聞のTV番組欄に掲載されているTBSテレビの電話番号に電話した。最初に受付の女性が応答。そこで、用件を尋ねられたので、「世界陸上のTVコマーシャルに関して意見があるので」と言ったら、その女性から、具体的にどんな意見なのか内容を伺いたい、とのこと。そこで、CMの中での織田裕二さんの行動に対する私の意見をしゃべったら、やっとのことで、担当の部署に取り次いでくれた。その部署で応対してくれた若い男性にも、先ほどと同じように私の意見をのべたら、彼氏は「あのCMは短いバージョンなので、長いバージョンなら、(私が抱いたような)問題は起こらなかったハズ・・」と、そそくさとに応えて、「じゃあ、その件、伝えておく」みたいなことを、いかにも面倒くさそうな感じで話されたので、すぐ電話を切った。
電話を切った私は、TBSテレビ側のつっけんどんな応答に対して、ガッカリ。マスコミってこんなもんなのかな、と思った。

猛暑===2階で寝る時には一晩中クーラー必要

2007-08-16 20:08:35 | Weblog
昨晩もまた熱帯夜だった。昨日、午後9時半だというのに、ランニング姿で2階で歯磨きしてるとき、汗がダラダラ、頬や背中をつたって流れ落ちる有様。以前、こんなに暑くなった、ということがあっただろうか?私には、今年の暑さは、史上最高の暑さとしか思えない。歯磨きしながら、こう暑いと、熱中症で死亡する人が相当数、出るのではないかな、と思う。
実は私は、数日前、毎晩いつもするように、寝室では、寝る時だけは1時間くらいクーラーをかけて、その後は、窓を開けたまま、2階のベッドで寝ていた。ところが、その翌朝、あまりもの暑さに目を覚ましたら、気分が悪く、起き上がったら、めまいがひどくして、とっさに私は熱中症だ、と判断し、すぐにスポーツドリンクをガブガブ飲んだり、好きなトマトをかじったり、スイカを食べたりした。こうしてやっと、2時間くらいしてやっと、めまいがとれたのだった。
それ以降、昨日みたいに2階で寝る時は、一晩中クーラーをかけっぱなしにして、氷まくらをして寝ることにした。一晩中クーラーをかけるなんて贅沢だとは思うのだが、生きるためには仕方ない自衛手段だ。この話をみんなの前でしたら、「命が大事だもんネ、電気代よりは」と言って賛同してくれた。
そういえば、昨日、親戚宅に行ったとき、そこの奥さんも、2階で寝る時は一晩中、クーラーをつけっぱなしにしている、と言う。そうしないと、暑くて熱中症になってしまうのは目にみえている、と断言していた。
私は、今年の熱帯夜は過去に経験したことがないほどの異常な暑さだ、と思う。
今日は、送り盆の日で、午前11時ころ、1時間ほど車を運転してお寺まで行ってきたが、車内ではクーラーをかけても、あまり効かず、汗が噴出し、運転中、何度も持参した手ぬぐいで顔をぬぐったものだった。
まさに、蒸し風呂なんてもんじゃあない。前代未聞の暑さだ。

今日も暑い--23人分のうどんを打って親戚宅へ

2007-08-15 19:39:33 | Weblog
送り盆を明日に控えて、今日は車で1時間のところの親戚宅に行き、お線香をあげてきた。親戚宅には千葉に住む娘夫婦なども来ることが、事前に分かっていたので、私は朝方、手打ちうどん2.3キログラム、つまり23人分のうどんを打って、持参した。というのは、その親戚宅の近くに住んでいる息子のお嫁さんやその子供たちも来ることが分かっていたためである。
午後0時半ほどに、親戚宅に到着。そこでは、4人の孫たちも来ていて、相変わらず賑やかそのものだった。到着してすぐ、私は男の子の孫たちに加わって、蝉取りをした。親戚宅の広い庭には、沢山の樹木が生い茂っていて、多くの蝉が今を盛り、と鳴いている。あまりにもたくさんの蝉がアチコチの木にとまっていて、私は手掴みで簡単に蝉を捕獲できた。2匹ほど捕まえて、女の子の孫に見せて、観察してもらってから、もちろん放してやった。その後、家内たちが茹でてくれたうどんをみんなして食べた。

夏の日の想い出-ロケット実験にまつわる想い出(1)

2007-08-14 22:13:06 | Weblog
夏といえば、思い出すものの一つに、私が公務員をしていた頃の想い出がある。かれこれ40年近く前のこと、私は東京大学の付属研究所が打ち上げる観測ロケット実験のことで、数年間をその実験チームの一員として参加していた。日本で初めてロケットを手がけた、あの糸川先生も、もちろん参加しておられた。あの当時、打ち上げは年に数回あって、その度にロケット発射基地がある鹿児島県大隈半島にある内之浦町に出張していた。1回の出張期間は大体10日から2週間くらいで、その期間、私たち実験班チームは、町内のいくつもの旅館に分かれて宿泊した。チームの中で私の所属するレーダーやテレメーターといった電気通信関係の役割を受け持つチームは、中俣旅館や川崎旅館に宿をとった。
当時の内之浦町は、陸の孤島といった感じで、旅館の宿泊客はいつも私たちロケット実験班関係の人ばかりだった。そんなわけで、旅館では私たちが泊まる日程に応じて、宿泊客に食事などを出してくれるお手伝いさんを臨時に雇い入れているのが普通だった。
ある年、打ち上げの期間が夏だったことがあり、私の泊まった旅館には、町内に住む主婦の方がお手伝いさんをしてくれたことがあった。夏の暑いさかり、太平洋を眼下に見下ろす実験場で仕事をして、大型バスに揺られて、夕方、旅館に戻ると、私たち15~16人がワイワイガヤガヤ言いながら楽しく夕食、そして、五右衛門風呂で入浴、その後、蚊帳を吊った部屋で寝泊りする、というのが一日の行動だ。
ときどき、お手伝いのおばさんの子供が、旅館に遊びにきていることもあった。おばさんの小学2年生くらいの女の子と中学3年生くらいの女の子の姉妹二人が来ていて、配膳などを手伝ったりして、私たちとも親しくなった。そのうち、彼女たちが夏休みの宿題なども持ってきたりして、私は勉強を教えるなど手伝ったりした。たまに、実験場での仕事がまる一日休みになる日曜日には、彼女たちと一緒に、釣竿とバケツをぶら下げて近くの海べりまで釣りに行ったりして楽しく過ごしたものだった。こうして、仲良しになった彼女たちからは、翌年のお正月に、東京・池尻に住んでいた私のところに年賀状が送られてきた。たどたどしい筆使いで書いてくれた小学生からの可愛い年賀状のこと、今でも脳裏に刻まれていて懐かしい想い出になっている。吉○洋子ちゃんという名前の彼女、今頃、立派な主婦になっていることだろう。

昨日の蝉は・・・・・・・・

2007-08-14 10:00:56 | Weblog
今朝、起きてすぐ、昨日の蝉を置いた場所に行ってみた。周囲には一匹の蟻もいなかった。しかし、残念ながら、蝉は力尽きていた。私は、シャベルで植木の中の日陰の部分をシャベルで掘り、蝉を葬った。あと7年後ぐらいに、この蝉の赤ちゃんがどこかで誕生してくれればいいなあ、と思いながら。

蝉さえダウン、この猛暑

2007-08-13 20:10:12 | Weblog
最近の猛暑たるや、ある程度トシとってる私には、非常に厳しい。なんか、私のこれまでの人生の中では、今年の暑さが、最も暑い、と思う。買物に出かけようと思い、酷暑が過ぎ去ると思われる午後5時まで待って、その後、自転車で出かけることにした。でも、その時間帯になっても太陽がギラギラ輝き、その直射日光にあたっただけで皮膚が焼きつくされるように感じるほどだ。道端まで自転車をひっぱりだす際、我が家の縁側の軒下を見たら、なんと一匹のあぶら蝉が背中をみせてじっとしていていた。きっとこの炎天下を避けて日陰の軒下で休息をとっているのであろうか?それとも、この猛暑でダウンしたのだろうか?私は自転車を停めて、その蝉に触れたら、羽はバタバタさせないものの、足を活発に動かしているので、植木の植えてある場所で、しかも日陰になる場所に蝉を移動してやった。そして、近くの水道栓をひねってそれにつないだビニールホースから水を霧状に噴射させて、蝉の身体にやんわりとかけてやった。眺めていると、なんかしら蝉の動きが以前より活発になっていた。
私はその後、蝉に早く元気を取り戻してほしい、と願いつつ、自転車で買物に出かけた。
買物から帰宅した午後6時半を過ぎた頃、先刻の蝉がどうなったかな?と思って、その場所を覗いたら、おびただしい数の小さな蟻たちが蝉に群がっていた。私はすぐに蟻を取り払い、蝉を掴みその様子をみたら、足をバタつかせるものの弱弱しかった。そこで、今度は蟻が来るとは思えないような、大きな置石のてっぺん部分のへこんだ場所に蝉を移動させた。そして、前と同じく、水を霧状に噴射させて、蝉の身体にやんわりとかけてやった。私は、蝉が元気を回復し、明日朝までには無事どこかへ飛び立ってほしい、と願いながら、家に入った。