手打ち蕎麦をする私の徒然日記

2003年1月に手打ち蕎麦に初挑戦。手打ち蕎麦の事ばかりでなく、日常インパクトのあった事柄を思ったまま綴ったブログです。

たった1人きりの土曜の朝もたまには、いいかも

2007-06-30 10:12:04 | Weblog
今日の土曜日は学校の土曜教室はお休みのため、午前8時少し前、ノンビリと起床。家内は、たまたま昨日から娘のところに泊まりでいっていて、私にとってはまったくの自由行動。まずは簡単に朝食を済ませて、新聞をながめながらテレビを見て、くつろいだ。上はランニング、下はズボンの姿の私には、暑くも無く、寒くもなく、ちょうど良い快適な気温だった。で、TV朝日の番組では、TVタレントのマルシアさんが案内する九州・黒川温泉の旅をやっていて、それをゆったりした気分で楽しんだ。阿蘇を旅する彼女がギャグを交えて旅する光景に思わず、吹き出し、ひとりニヤニヤしながら、見入ってしまい面白かった。なんか、今朝は最近になく、すごくリラックスできた朝のように思える。振り返ってみると、今日の朝みたいに、1人で過ごす朝っていうのは、ほとんど無かったように思う。以前にあったかな、と思い出せないほどだ。でも、こんなこと家内に言ったとしたら、きっと「私がいないほうがいいの?」なんて、言われるかも。

子供への接し方---両親と祖父母との格差

2007-06-29 15:48:30 | Weblog
一昨日、孫と一緒に留守番するよう、娘から頼まれて、彼女の家に泊まったときのこと。夕方、娘は来年には小学校にあがる彼女の子供(私の孫娘)に対して、ワークブックを使って問題を解かせていた。孫娘は一生懸命になって問題を解こうと考えているが、けっこう意外と間違え易い問題もあって、ときどき間違える。そんなとき、娘は「これはネ、さっきも教えたでしょう?」とか、大きな声で怒りを込めた口調で早口でまくしたてる。そして、なかなか回答が出せずにいると、「時間が限られているのよ!」と、これまた大きな声で孫娘にお説教。そんな光景に接していて、私は娘に対して「もっと、やさしく接して、教えてあげるべきじゃないの?」なんて、口から出かかったのだが、あえてこらえた。何故って、このときばかりは、逆に私が「お父さんは黙っていて!!」なんて言われて、親子喧嘩になりそうな気配だったから。でも、後で、娘が冷静になったときに、私の考えを娘に伝えようと思う。
こんな場面で思ったことは、一般的に言って、親が子供に接するときの態度と、祖父母が孫に接するときの態度とは相当違っているんじゃないかな、っていうことである。祖父母が孫に接するときのほうが余裕を持った接し方ができる、と思う。祖父母による過度な甘やかしは絶対に禁じられるべきだが、子供の身になって余裕をもった接し方は両親にも必要であることは間違いない。

昨日は18年前(1989年)にこの世を去った美空ひばりの命日だったんですね

2007-06-25 09:39:34 | Weblog
昨日は一日中雨降りだったし外出もままならなかったので、テレビでも見ようと何気なく新聞のテレビ番組欄を見ていたら、NHKの衛星放送で美空ひばりの生誕70周年の特別番組があることを知った。そして、その時刻にテレビをつけて番組を見た。それを見て、昨日が実は、18年前(1989年)にこの世を去った美空ひばりの命日だった、ということを知った。
昨日のブログに関しては、私は昨日の朝の目覚めで美空ひばりの歌「愛 燦々」について書くにいたったのだが、なんと、その昨日=6月24日=という日が、くしくも美空ひばりの亡くなった日だった、とは、今にして思えば実に偶然。まさに奇遇だ。不思議だな、って思う。そんな思いにかられながら、美空ひばりのTV番組を懐かしく楽しんだ。

「愛燦々」==小椋 圭さん作詞作曲この唄、いい歌だな、って気づいた

2007-06-24 12:27:07 | Weblog
昨日は、午後、家内が運転する車で、私と母が、母の親戚にお見舞いに行ってきた。母の姉および母の妹のご主人を見舞うためである。本来なら、これら二人の方は先週の土曜日に行われた父の法事に参加されていたはずの方だ。片道45分ほどかかる車の中では、母は、脳溢血を患っている姉さんから泊りがけで彼女の家に来るように、何度も懇願されている旨を私と家内に話ししたので、私と家内とは、母に「是非ともお姉さんのところに泊まりにいってあげたら」、と何度も薦めたのだが、母はイヤダの一点張り。今や87歳でますます元気真っ盛りの母は、病気で今にも死にそうな場所には行きたくないようなそぶりだ。また、小姑たちがひしめいているような場所に行って小さくなっている気分は味わいたくない、と言う。それにしても血を分けた姉妹がどうして寄り添えないのか、私と家内とは母の気持ちをどうしても理解できない。
母の姉の家に着くと、そこの子供(次男)のお嫁さんが私たちを出迎えてくれて、茶の間の部屋に通してくれた。やがて、ゆっくりとした歩調で、奥から姿を現わした母の姉は、顔色が青白く、それに痩せ細っていて、見るからに弱々しい。かつては、肝っ玉母ちゃんそのものだった彼女の面影が無くなってしまっていて寂しい。
次男のお嫁さんは、母の姉の代理で先週の父の法事に出席してくれていて、その時に撮影した写真などを見てもらうなどして、私たち3人と、母の姉、それに次男のお嫁さんの5人で、お茶を飲みながら、ひとしきりいろいろな話題に花を咲かせた。母の姉が住むその家は、次男夫妻、それに次男の息子夫婦および彼らの子供3人の合計8人が住んでいて、結構賑やかそうだ。ときどき、3歳くらいの男の子や5歳くらいの女の子が顔を出して、部屋じゅうを走り回る。子供ってどの子も可愛い。
次男のお嫁さんからは、母の姉への介護の苦労話を聞かされ、つくづくその大変さを思わずにいられなかった。90歳を超えている母の姉さんは、私の母とは違って、ボケも相当ひどいようで、同じ事を何度も言わないと、忘れてしまうなど、大変そうだ。時々、早朝、運動のために母の姉の杖代わりになって散歩にお付き合いしているそうだ。いつ、脳溢血を起こして倒れるかもしれない人を介護するって、実に大変なことだなぁって思う。
我が家に帰宅してまもなく、家内は、私たちが帰る間際になる頃、母の姉さんがポツリと言った一言「もう、こう弱っちゃ、アンタの家には行けないよ」という言葉が今も耳に残っていて悲しかった、と言う。この家内の気持ち、私にも分かる。ついこの間まで1人で電車で元気に私たちの家に遊びに来ていた彼女を想いだす時、たしかに私も悲しくなる。--「あんなに元気だったのに」!!
ところで、今朝はなぜか、朝5時頃、目が覚めてしまって、昨日会った母の姉さん=伯母さんのことを想い出していた。伯母さんが不憫でならなかった。そんな中、ウトウトしながら、何とはなしに、「人生って はかないものですね」とか「人生って 寂しいものですね」なんていう文句が思い浮かんできて、すると、そう言えばたしか、似たような文句があった唄を美空ひばりが唄っているのを思い出した。そして、これって、歌の題名は何ていうのかなぁって何度も繰り返して思い出そうとしていたら、やがて「愛 燦々」だったな、って思い出した。
それから一眠りして、8時過ぎに起床、早速インターネットでこの歌のメロディを聴いた。聴きながら、昨日会った伯母さんのことを想い出して、私は思わず涙が出てくるのを抑え切れなかった。日曜の朝の静かな部屋で聴く、スピーカーから流れるこのメロディは素晴らしかった。が、同時にやるせない気持ちにも駆り立てた。

  雨 潸々(さんさん)と この身に落ちて
  わずかばかりの運の悪さを 恨んだりして
  人は哀しい 哀しいものですね
  それでも過去達は 優しく睫毛に憩う
  人生って 不思議なものですね


  風 散々(さんざん)と この身に荒れて
  思いどおりにならない夢を 失くしたりして
  人はかよわい かよわいものですね
  それでも未来達は 人待ち顔して微笑む
  人生って 嬉しいものですね


  愛 燦々(さんさん)と この身に降って
  心密かな嬉し涙を 流したりして
  人はかわいい かわいいものですね
  ああ 過去達は 優しく睫毛に憩う
  人生って 不思議なものですね


  ああ 未来達は 人待ち顔して微笑む
  人生って 嬉しいものですね 

今や、この  小椋 圭さん作詞作曲この唄、すごく好きになった。実は今まで、美空ひばりのこの歌、あまり関心がなく、好きなほうではなかったのだが、いい歌だな、って今頃になって気がついた。
なお、いままで美空ひばりの唄では、あの後楽園ドームで彼女が絶唱していた「人生一路」がダントツ好きだった。あの時の力強い熱唱ぶりと歌詞とがマッチして私は力をもらえる唄だな、って感じた。
もし、私がこの「愛 燦々」の歌詞の一部分に付け加えるとしたら、「人生って はかないものですね」とか「人生って 寂しいものですね」。

小学生を対象とした、今日の土曜教室でのこと

2007-06-23 23:50:15 | Weblog
先週の土曜日は父の法事があったため、私は土曜教室での講師を休ませていただいた。今日は天候も良く、久しぶりに自転車を漕いで、土曜教室に登校した。午前9時半から始まる授業に対して、私は午前9時10分くらいに小学校に到着、講師控え室で、出席簿への印鑑捺印をしたり、他の講師たちとの雑談をしていた。窓の外には土曜教室に出席する生徒たちが登校する姿が見える。と、その時、廊下を歩いていた2~3人の女生徒が私たちの講師控え室を覗いて、私たちを見かけてニコニコ微笑んでいる。彼女たちの方に目を向けると、そのうちの1人が、すぐに「あっ、△○先生だ!お早うございます」と、私の名前を口にして挨拶してくれた。--私はなんかしら「スター?!」になったような,ちょっとした有名人の気分。
さて、今日も、時間分割式で4つの教室の授業を受け持った。その中のある教室では、前回の授業に写真を見せた「ピサの斜塔」に関する、万有引力のお話をした。斜塔から、軽い物と重い物を同時に落とした時に、何故、同時に地面に着くのか?について、解説をした。私の話によく耳を傾けてくれた生徒は、なるほど、と納得してくれていた。1人でも理解してくれた生徒がいるということはほんとに嬉しいことだ。

"永く生きていることは「淋しい事」が多い"・・気になった手紙

2007-06-22 11:46:16 | Weblog
先日、私が公務員時代にお付き合いしていた大先輩からハガキをいただいた。私もその先輩も、先月、新宿のホテルで行われた会合に出席し、その時に会場で私が撮影した写真を先輩に郵送したのだが、その返礼としてのハガキだ。私たちはともに、かつて昭和45年2月11日に、鹿児島県内之浦で日本初の人工衛星を打ち上げたときのメンバーで、ホテルの会場には、このようなロケット関係のメンバーが集まっていた。
いただいたハガキには、あの日本初の人工衛星を打ち上げた時に実験主任をされていた野村先生の訃報が記されていたほかに、"永く生きていることは「淋しい事」の体験が多いです"としたためられていた。この文面に接して、当時からずっと周囲の誰からも慕われておられた大先輩の心の寂しさが伝わってきて、私はやるせない気持ちになった。この先輩の言葉、私には非常に気になっていて、何かにつけて思い出す。===永く生きていることは「淋しい事」が多い===ちょっと考えただけでも、私も確かにそうだなァ、って思う。私は最近、いろんな楽しかった時を過ごしてきた友人・知人があっけなくこの世を去って行ってしまう、という現実に遭遇していて、その度に、この世の無常感を味わう。
今年91歳を迎えられた大先輩が、今後ともお元気で過ごされていくことを祈っている。

父の7回忌法事を無事に終えることができた

2007-06-17 22:29:22 | Weblog
昨日16日(土)の法事は、無事に済ますことができた。下館のお寺で午前11時から始まる予定の法要が、何らかの手違いからか、11時半を過ぎた頃から始まった、というハプニングがあって、施主の私は、集まってくれている親族の方たちの手前、少なからずハラハラした、ことは事実だ。でも、その後の進行はまあまあの出来かな、と思っている。お寺での僧侶による読経の際は、法事に参加して集まった41人の中には赤ちゃんや3歳くらいの子供たちもいて、お寺での僧侶による読経の際、相当騒々しくなるかな、なんて心配していたが、みんな静かにしてくれていた。焼香のときもそれぞれの親たちに連れられて祭壇に進んで、慎ましくて手を合わせている姿が、とっても可愛いく、ほほえましかった。
お寺での法要が済むと、近くにあるお墓に全員が移動して、参拝した。その後、料亭に移動して、会食が始まったのは、午後1時10分を少し回っていた。私の挨拶に続いて、親戚の方に、献杯の音頭をとってもらい、食事の宴が始まった。--そして、宴は子供たちが、飽き出した頃合いの、午後2時半頃、私の挨拶で締めくくり、お開きとした。なお、お開きに際して、参加した皆さんに配った引き出物のお菓子について、その由来を皆さんに説明した。・・私の父の家系の遠い親戚にあたる京都の八坂神社近くのお菓子やさんから取り寄せたもので、引き出物のお菓子は奈良時代から伝わる伝統あるものを採用した、という旨、解説した。
法事に参加したすべての皆さんは、お墓や料亭など自動車での場所移動だったが、事故もなく、スムーズに移動もできて、ホッとしている。

強引なお年寄りには参った!

2007-06-13 12:03:56 | Weblog
恥ずかしいことだが、ときどき母の強引さにはホトホト参っている。一昨日の夕方、私は母から、近くに迫った父の法事の為、前もって13日(今日!)にお墓に行ってお掃除をしたいので、片道1時間弱のお墓まで車で乗せて行ってほしい旨、頼まれた。そのとき、私は、13日の午前中は法事の引き出物が宅配便で代金引換で届くことになっているので、届けられたらその後すぐにもお墓に行くことができ、午後なら確実に出かけられることを話しておいた。
ところで、私は今日はたまたま午前8時過ぎまで寝てしまって、起床したら、そのときは既に母は外出した後だった。会社勤めをしている家内に聞いたら、7時半ころには母は家にいた、というが2階に住んでいる私たちには声をかけずに外出したらしい。
午前8時半過ぎ、例の引き出物が宅配便で届いた。今や時刻は正午になり、未だ帰宅しない母はおそらくJRの電車で、1人でお墓に行ったことは間違いない。今までにも、母は、私からみれば強引に、自分の強い思いで、心に決めたことを実行に移すことが何度もあって、今日、お墓に行ったことも当然考えられることだ。
数日前の夕方、母はどうしたわけか、血圧が180以上にもあがっていて当日は風呂を控えて早寝してもらったことがあるだけに、今日の蒸し暑い中を出かけた母のことが心配だ。

午前中は第4日目の土曜教室、午後からはピアノ発表会に出席

2007-06-09 21:17:14 | Weblog
今日の土曜教室では、各教室で生徒たちに、クイズ形式で、"これ、なんだか知ってる?"って具合に、「ピサの斜塔」の写真を見せてみた。これは、あらかじめインターネットからダウンロードした写真をインクジェットプリンターで印刷したものだ。4年から6年までの生徒の中では、"どこかで聞いたことがある"、っていう程度の生徒が2~3人ぐらいだった。1600年頃(なんと、日本では関が原の戦いが行われていた当時!!)、ガリレオが、重い物と軽い物とを、この高さ55メートルの斜塔のてっぺんから同時に落下させて、どちらが早く地面に落下するかを実験した、という言い伝えがあることを、話すと、生徒の多くは目を輝かせていた。
土曜教室の学校から帰宅して、そそくさと昼食としてのパンなどを食べてから、PM0時半くらいの電車に飛び乗った。杉並公会堂で行われる孫娘のピアノ発表会を見るためだ。途中、大宮で乗り合わせた家内と一緒になり、JR新宿駅で乗り換え、発表会が行われる東京の荻窪に向かった。
新宿から乗り換えた中央線では、車窓には「日本電子学校」が見え、また、中野駅も経由したのだが、これらにまつわる思い出が脳裏をよぎる。「日本電子学校」といえば、かつて技術士仲間の近○さんが一時勤務されていた学校だ。当時は、まだインターネットが出現する前で、BASICプログラムを組んで、2地点間を結ぶパソコン通信の実験をするのがやっとの時代だった。その近○さんは三菱電機在職時代もそうだったようだが、日本技術士会の中でもいろいろ積極的に活動されていて、常に私たちをリードしてくれていた。ところが、10年くらい前にゴルフ場で心臓病で倒れてからは、自宅療養されていて、毎年のように"今年こそはお会いましょう"、との年賀状をいただいていたのだが、その後、亡くなった、との悲しい知らせが奥様から届いた。
JR中野駅と言えば、私の叔父さん(私の父の弟)が、駅近くで「あんみつ会館」という名のお店を経営していたことがあり、私はそこにお邪魔して、ご馳走してもらったことを覚えている。叔父さんは誰に対しても、すごく賑やかで口達者な人で、周囲にはいつもいつも笑いが絶えなかった。その後、その叔父さんは店をたたみ、87歳という現在は、自宅にこもっていて、不自由になった身体をいたわる生活、と聞いている。ほんとに寂しい限りだ。
やがて、JR荻窪駅に到着。ここは、かつて日産自動車荻窪工場に通っていた時の下車駅だ。当時、私は駅前からバスに乗り、青梅街道を下って、月に一度の割合で同工場に足を運んでいたことがあるのだ。かつて、技術士仲間からの紹介を通じて、同工場のエンジニアから「宇宙通信」に関する講義をしてほしい、と頼まれて、私は10人ぐらいの社員に対して定期的に講義をしていた。
さて、私と家内とは、荻窪駅前の青梅街道に沿って歩いて下る。歩道は広い方なのだが、休日のせいか人通りが激しく、それに歩道上を自転車も往き来していて歩くのに結構気を遣う。駅からゆっくり歩いて10分もしないうちに杉並公会堂に到着。新装なって、ちょうど1周年を迎えた同公会堂に入ると、そこは天井もすごく高く、広々としたゆったり空間でリラックスした気分になる。正面玄関を入ってすぐに、鬼ゴッコをしている愛しの2人の孫娘が目に飛び込んできた。彼女たちもすぐに私たちに気づいて、3歳の孫娘が早速「オジイチャン、オジイチャン」て言いながら、笑顔で駆け寄ってくる。私はおどけて柱の影に身を隠すがすぐ見つかってしまう。
-----ピアノ発表会は地下2階のホールで定刻のPM2時半ピッタリにスタート。私と孫娘のパパは、いつもの通り、例によってビデオの撮影を担当。娘によると、今日は朝からの自宅での特訓のおかげで、6歳の孫娘が弾いたピアノ演奏はマアマアの出来だったようだ。

生まれて初めて119番に電話、弟に付き添い救急車に乗る

2007-06-07 12:44:05 | Weblog
3日前のことだ。去る6月4日、その日は午前中の比較的早い時間に、久しぶりに3番目の弟から長兄の私に電話がかかってきて、2番目の弟を含めた3人で久しぶりに昼食をすることになった。そんなわけで私は急いで支度して、JRの電車で大宮に向かった。正午頃、大宮に着いて弟の会社に向かう道すがら、偶然にも3番目の弟のところで働いている私の家内とバッタリ遭遇、「2番目の弟が急病になった」旨の知らせを聞いた。そこで、すぐ西川口に1人で住んでいる2番目の弟に電話したら、"目が回って立てない状況"だ、という。彼は一昨年は脳梗塞を患い、昨年は大腸がんを患っている前歴があるのだが、家族と離れて一人住まいしているため、心配になり私と家内が急遽、西川口の彼の自宅に行った。ベッドで仰向けに横たわる彼は、青白い顔をしていて上半身を起こすこともできない状態だった。血圧を計ったら170くらいあった。私は弟を説得し、救急車を呼んで、一昨年に彼が脳梗塞を患ったとき診てもらった病院へ行くことになった。で、私は生まれて初めて119番に電話し、家内とともに、弟に付き添い救急車に乗って病院に行った。救急車内で青白い顔をして横たわる弟を見ながら、私はなんか息が詰まりそうな感覚に見舞われた。救急隊員が車内で彼に装着した血圧計を見ると、177の数値が表示されていた。「ピーポー、ピーポー」というサイレンを鳴らしながら走る救急車は赤信号をも優先して、どの交差点でもノンストップで走りぬけているわけで、この時ほど、救急車に道を譲ってくれている一般車両のドライバーに心からの感謝の念を抱いたことはない。やがて、病院に到着。すぐ救急処置室に通され、弟は頭部のCTスキャン検査などを受けた。一通りの検査が終わるまでの間、私と家内そして救急隊員の方が廊下の待合用ベンチで過ごしたが、その間、手持ち無沙汰の私は、ときどき救急隊員の方に質問し、苦労話などを伺った。やがて、1時間以上かかった頃、待っていた私たちが、医師に呼ばれ、CTスキャン検査のフィルムを見せられながら診断結果を伺った。それによると、弟の病状は、脳梗塞のものではなくだ単なる一時的な過労によるもの、ということだった。私も家内も弟の入院を覚悟していたので、その必要もない、と言うことを聞いて安堵した。この頃は、弟の顔色も生気を帯び、立ち上がって歩けるようになっていた。その後、私たちは、薬をもらい、弟と共に、タクシーで西川口の彼の家に戻った。彼の元気回復を見届けてから、私と家内とは夕方6時近くに、彼の家を出て帰途についたのだが、途中、この日の非常に遅い昼食をとった。この日は、家に帰って疲れがどっと出た一日だった。
ところで、実は私も救急車で病院に担ぎ込まれたことがあるのだ。私が初めて救急車のお世話になったのは、まだ会社勤めをしていたころで、当時、埼玉県に住んでいた時分で、朝方、救急車で病院に運ばれたことがある。思い起こせば、もう数十年も前のことになるが、ある日の朝方、6時ごろだったが、起床してトイレに立ったら、目が回り、立っていられない状況だった。その後、フトンにもぐってもますます眩暈がして気分がおかしくなり、顔面蒼白で、足も冷たくなっていて、額には冷たい脂汗が浮かんでいたように思う。そんな中、かつて看護婦をされていたことがあるという近所の奥さんが、急遽、我が家に来てくれて、私の様態を気遣ってもらったことを今でもハッキリ覚えている。彼女は近くのマンションに住んでいて、現在では岩手県にお住まいの重○さんの奥様だ。当時の私の病気も、今回の弟の場合と同様に、たしか過労による身体の平衡感覚に異常をきたした一過性の病気だったようだ。