夏といえば、思い出すものの一つに、私が公務員をしていた頃の想い出がある。かれこれ40年近く前のこと、私は東京大学の付属研究所が打ち上げる観測ロケット実験のことで、数年間をその実験チームの一員として参加していた。日本で初めてロケットを手がけた、あの糸川先生も、もちろん参加しておられた。あの当時、打ち上げは年に数回あって、その度にロケット発射基地がある鹿児島県大隈半島にある内之浦町に出張していた。1回の出張期間は大体10日から2週間くらいで、その期間、私たち実験班チームは、町内のいくつもの旅館に分かれて宿泊した。チームの中で私の所属するレーダーやテレメーターといった電気通信関係の役割を受け持つチームは、中俣旅館や川崎旅館に宿をとった。
当時の内之浦町は、陸の孤島といった感じで、旅館の宿泊客はいつも私たちロケット実験班関係の人ばかりだった。そんなわけで、旅館では私たちが泊まる日程に応じて、宿泊客に食事などを出してくれるお手伝いさんを臨時に雇い入れているのが普通だった。
ある年、打ち上げの期間が夏だったことがあり、私の泊まった旅館には、町内に住む主婦の方がお手伝いさんをしてくれたことがあった。夏の暑いさかり、太平洋を眼下に見下ろす実験場で仕事をして、大型バスに揺られて、夕方、旅館に戻ると、私たち15~16人がワイワイガヤガヤ言いながら楽しく夕食、そして、五右衛門風呂で入浴、その後、蚊帳を吊った部屋で寝泊りする、というのが一日の行動だ。
ときどき、お手伝いのおばさんの子供が、旅館に遊びにきていることもあった。おばさんの小学2年生くらいの女の子と中学3年生くらいの女の子の姉妹二人が来ていて、配膳などを手伝ったりして、私たちとも親しくなった。そのうち、彼女たちが夏休みの宿題なども持ってきたりして、私は勉強を教えるなど手伝ったりした。たまに、実験場での仕事がまる一日休みになる日曜日には、彼女たちと一緒に、釣竿とバケツをぶら下げて近くの海べりまで釣りに行ったりして楽しく過ごしたものだった。こうして、仲良しになった彼女たちからは、翌年のお正月に、東京・池尻に住んでいた私のところに年賀状が送られてきた。たどたどしい筆使いで書いてくれた小学生からの可愛い年賀状のこと、今でも脳裏に刻まれていて懐かしい想い出になっている。吉○洋子ちゃんという名前の彼女、今頃、立派な主婦になっていることだろう。
当時の内之浦町は、陸の孤島といった感じで、旅館の宿泊客はいつも私たちロケット実験班関係の人ばかりだった。そんなわけで、旅館では私たちが泊まる日程に応じて、宿泊客に食事などを出してくれるお手伝いさんを臨時に雇い入れているのが普通だった。
ある年、打ち上げの期間が夏だったことがあり、私の泊まった旅館には、町内に住む主婦の方がお手伝いさんをしてくれたことがあった。夏の暑いさかり、太平洋を眼下に見下ろす実験場で仕事をして、大型バスに揺られて、夕方、旅館に戻ると、私たち15~16人がワイワイガヤガヤ言いながら楽しく夕食、そして、五右衛門風呂で入浴、その後、蚊帳を吊った部屋で寝泊りする、というのが一日の行動だ。
ときどき、お手伝いのおばさんの子供が、旅館に遊びにきていることもあった。おばさんの小学2年生くらいの女の子と中学3年生くらいの女の子の姉妹二人が来ていて、配膳などを手伝ったりして、私たちとも親しくなった。そのうち、彼女たちが夏休みの宿題なども持ってきたりして、私は勉強を教えるなど手伝ったりした。たまに、実験場での仕事がまる一日休みになる日曜日には、彼女たちと一緒に、釣竿とバケツをぶら下げて近くの海べりまで釣りに行ったりして楽しく過ごしたものだった。こうして、仲良しになった彼女たちからは、翌年のお正月に、東京・池尻に住んでいた私のところに年賀状が送られてきた。たどたどしい筆使いで書いてくれた小学生からの可愛い年賀状のこと、今でも脳裏に刻まれていて懐かしい想い出になっている。吉○洋子ちゃんという名前の彼女、今頃、立派な主婦になっていることだろう。