手打ち蕎麦をする私の徒然日記

2003年1月に手打ち蕎麦に初挑戦。手打ち蕎麦の事ばかりでなく、日常インパクトのあった事柄を思ったまま綴ったブログです。

建国記念日、45年前の今日は日本初の人工衛星が飛んだ日なのだ

2015-02-11 21:33:44 | 想い出
45年前(西暦1970年、つまり昭和45年)の今日は、日本で初めて人工衛星が打ちあがった日だ。あの日、私たちロケット打ち上げに関わる関係者-当時は、「ロケット打ち上げ実験班」と呼んでいた-は、鹿児島県の大隅半島にある内之浦町に陣取って、そこの発射場から、ラムダ4S-5号機と名付けられたロケットから、手に抱えられるぐらいの小さな人工衛星を打ち上げ、地球の周回軌道に投入することに成功したのだ。この日が、折しもちょうど建国記念日だったので、その後、建国記念日が来るたびに、私はいつも、この人工衛星のことを想い出してしまう。
ところで、その後「おおすみ」と名付けられた、この人工衛星は、それから何年間も地球を周回し続け、その後、大気圏に突入して燃え尽きたそうだ。
この日本初の人工衛星成功は、人工衛星打ち上げを目指して日本で初めて打ち上げられた第1回目のロケット発射で、成功したものではなく、第5回目にして初めて成功したものだ。成功までの、ラムダ4S-1号機からラムダ4S-4号機にいたる4機のロケットでの衛星打ち上げには失敗しており、実験班には苦難の日が続いた。当時、人工衛星打ち上げが無事、成功するよう神社に祈願していたことも行われていて懐かしい想い出である。
なお、「おおすみ」の打ち上げが成功したときの、実験班の総リーダーは、野村民也東京大学教授だった。
また、ラムダ4S-5号機というロケットの打ち上げに使った発射台(「ランチャー」)は、今も現存しており、東京・上野にある国立科学博物館の屋外に陳列されている。JRの山手線あるいは、京浜東北線に乗車しているとき、国立科学博物館の方向に目をやると、朱色に塗られた発射台を見ることができるが、これこそ、日本初の人工衛星を誕生させたロケットの発射台の実物なのだ。



心痛む、イスラム国による後藤さんたちの殺害

2015-02-05 10:45:32 | 社会
パソコンを操作しているとき、たまに、手前に置いた紙の上をちっちゃな蜘蛛がちょろちょろと歩いているのに気付くことがあります。こんなとき、いつも私がしていることは、ティッシュペーパーを取って、その蜘蛛をテイッシュの上を歩くように優しく導いてやるのです。そして、それから、そのティッシュを窓の外に出して、蜘蛛さんに戸外に出てもらうようにしているんです。このように私は、たとえ蜘蛛でも殺生をするのはイヤなんです。そんな私にとって、最近のイスラム国が起こした殺害に関わる事件は、あまりに惨い残酷なものです。
今まで考えつかなかったような、イスラム国による極悪非道な残虐さには、ただただ驚くばかりで、なんと言って表現したらいいのか考えつきません。
私は、後藤さんが戦地に赴いて、厳しい苦しい生活環境にさらされている子供たちの現状を撮影してきた写真やビデオが、テレビで紹介されているのを見ました。画面を通して、あどけない子供たちの可愛い姿やキラキラ輝いた大きな瞳を見るにつけ、後藤さんの心の優しさがものすごーく伝わってくるのを感じます。後藤さんは、あえて危険な戦地に行って、戦争に苦しんでいる子供たちの姿をカメラにおさめ、それらを世間に知ってもらうことによって、戦争の愚かさや平和の尊さというものを世間に訴えたかったのではないでしょうか。そんな愛情に満ち満ちた後藤さんが、想像を絶する恐怖の中で、どうして殺害されなければならなかったのでしょうか。後藤さんの心情を思うにつけ、実に無念だったろうに、胸が熱くなるのを感じます。この世には、神はなかった、ということなのでしょうか?
後藤さん、湯川さん、ヨルダン人パイロット、ほか、イスラム国によって殺害された人たちのご冥福をただただ心より祈るばかりです。
ただ、今になって言うのも「アトのマツり」なのですが、湯川さんと後藤さんのお二人が殺害される前に、日本政府に対して、2億ドルの身代金と引き換えに二人を解放する、としたイスラム国からの要求がありました。もし、日本政府がこの要求を受け入れていれば、お二人は殺害されずに済んだわけであり、この点、実に心に引っ掛かるものを感じます。ただ、ここで政府が身代金を支払った場合は、日本の同盟国アメリカの意向に反するものであり、一方で、身代金は税金からの支出ということでもあり、政府は苦渋の判断をして、要求を蹴った、というのが真相だと想像されます。