手打ち蕎麦をする私の徒然日記

2003年1月に手打ち蕎麦に初挑戦。手打ち蕎麦の事ばかりでなく、日常インパクトのあった事柄を思ったまま綴ったブログです。

幼児教育に、昔から歌われている童謡の普及を!

2019-06-25 20:19:46 | 教育

つい最近、毎週土曜日の午前10時から、BS朝日のテレビ番組で「子供たちに残したい美しい日本のうた」というタイトルで、昔うたわれた童謡などが放送されているのを知った。毎回、数曲づつ、そのうたにまつわる時代背景とか作詞、作曲家に関わるエピソードなどが、小宮 悦子アナウンサーの抜群の解説によって紹介されていて、今や私にとって
待ち遠しい番組となった。
小学生のころ、よく口ずさんでいた歌なのに、歌詞の一部しか覚えていなくて、この番組のおかげで今更ながら初めて教わるものもあって、すごく興味深い。
先週放送されたものの中の一つに「あめふり」があった。1番目の歌詞が、

<1番の歌詞>
あめあめ ふれふれ かあさんが
じゃのめで おむかい うれしいな
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

なのは、誰でも知っていると思われる。実際、小学生のころ、この歌詞に出てくるような情景を私自身も味わったものだった。
授業中、雨音に気づくと、いっせいに生徒たちが、教室の窓に目を向けるのが通例だった。なぜなら、その窓には、我が子に傘を持ってきた何人もの母親が、校舎の外塀から、背伸びして、教室の中を覗き込んでいたものだったからだ。授業中、生徒同士で、「君のお母さんは、迎えに来てるね!」など、ささやきあっていたものだった。
ところで今回、私としては、3番目の歌詞が、

<3番の歌詞>
あらあら あのこは ずぶぬれだ
やなぎの ねかたで ないている
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

であるのを知り、今となっては、なんとなく、うろ覚えに聞いた感覚が残っているだけである。
それにしても、この歌には、なんと歌詞が、4番と5番までついているのは、今回初めて知った。と言うよりも、
子供の頃、5番まで習ったのだが、その後、まったく忘れ去ってしまったのかも知れない。
今回、3番に続く、4番と5番の歌詞は、次のとおりになっていることを知った。

<4番の歌詞>
かあさん ぼくのを かしましょか
きみきみ このかさ さしたまえ
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

<5番の歌詞>
ぼくなら いいんだ かあさんの
おおきな じゃのめに はいってく
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

この歌詞からは、子供心の優しさがしみじみと伝わってきて、今回、私は実に衝撃的な感動を受けたものである。
お母さんに傘を持ってきてもらえなかったお友達に傘を貸してあげる、という子供の優しい心を思うだけで胸が揺さぶられた。
今、思うことは、このような素敵なうたこそ、いつの世代でも、今後もずーっと、歌い継がれていくべきものではないか、と思うのだ。
現代では、昔には考えられなかったような、大人による子供の虐待とかいじめ、こども同士のいじめなどが、連日のようにマスコミをにぎわしているが、この原因は、人心の乱れに他ならない。この乱れを無くすには、幼児の教育行政の一環として、上記した「あめふり」のような、昔から唄われてきた多くの童謡をもっともっと普及させるべきだ、と思う。
(参考)蛇足ながら、昔は傘を買ってもらえない子供たちもいて、彼らが学校を休むとき、傘が無い、というのが欠席理由であった。
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なんてこった!!またも起こった「いじめ」による自殺!教育行政は最悪だなぁ

2015-07-08 21:03:29 | 教育
本日(7月8日)生放送のテレビ朝日系番組「モーニングバード!」では、去る7月5日に、岩手県の中学2年男生徒がいじめを苦にしたとみられる自殺の事件について報じていた。岩手県のJR矢幅駅で、町内の中学校に通っていた村松 亮君(13)が、列車にはねられ、亡くなったのだ。亮君は、担任の40歳代の女性教師とやりとりしていたノートでいじめ被害を訴え、死の直前には「もう死ぬ場所は決まっている」などと自殺を示唆していたが、担任からのコメントは「明日からの研修、楽しみましょうね」といったものだった。
同番組では、自殺から1日以上経っても担任に真相を尋ねなかった校長に対して、女性アナが「いの一番に担任から事情を聞くべきだったのでは?」と質問したが、校長は、「いろいろと他のことへの対応が忙しくて・・」などと、まるで他人事のような受け答えをしていて、いたって淡々とインタビューに応じていた。番組を見ながら、私には、悲痛のどん底にいるはずの校長とは思えないような受け答えの態度に感じられた。私の思うに、今回のいたましい事件は、明らかに学校側の不手際が招いたものだ、と思う。
今日の番組を見て、このような担任や校長がいる学校では、いじめによる自殺は、起こるべくして起こってしまったのだ、と思わざるを得ない。
昨日(7日)の保護者説明会では、学校がいじめがあったかどうか調査していることなどを報告したそうだが、保護者は不信感を示したというが当然であろう。このような学校には、親としては安心して学校に子供を預けられないな、と思ったものだ。
思えば、いじめによる自殺は、もう何十年も前から起こっていて、未だに、同じような事件が起こっていて、有効な再発防止策が講じられている、とは決して思えない。学校を管轄する政府・文科省は、何をしているのか?
今回の事件を受けて、町教育委員会は、学校の調査結果を受けて対応を検討する、としているそうだ。私は、このようなやり方は、実に生ぬるいと思わざるを得ない。「死人に口無し」と、ばかりに責任の所在をハッキリさせないまま、ウヤムヤの結論にされかねないような気がしている。学校側に調査を任せるのではなくて、教育委員会そのものが調査に乗り出す、とか、警察に捜査を任せるなど、すべきだと思う。今回、表舞台となった学校では、校長も担任教師も、その対応からみて、教育者としての資質の面で失格だ、と思う。今回と同じように学校側の不手際で、過去に何回となく類似のいたましい事件が発生していることを考えると、教育者としての資質に問題がある人物が、野放図に全国にまだまだ散らばっているように思えてならない。過去の事件を振り返ってみると、ほとんどが、今回登場した担任や校長などのように、学校側の不適切な対応に行きつくものばかりだ。教員免許はどのような基準で授与しているのだろうか?単に学問の知識だけの力量で授与しているとは、思えないが、それよりも、精神面・心の面、人間性の面で生徒を指導するにふさわしい力量を重視した上で、免許を授与すべきだろう。
それにしても、自殺した村松 亮君の気持ち、どんなにか辛かっただろう、どんなにか悔しかっただろう。どんなにか寂しかっただろう。もしも、担任教師が、君がノートに書いた文章に対して、「明日からの研修、楽しみましょうね」なんて、トンチンカンなコメントしか書けないような教師ではなかったなら、と思うと残念でならない。
本日は、村松 亮君の葬儀が行われた、という。例の校長、担任の教師も出席したのだろうが、二人はどんなツラ(面)して、出席したのだろうか。
村松 亮君のご冥福を心からお祈りしている。
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「0」から「-5」を引き算すると「+5」になる、って、子供にどう説明?!

2014-05-09 20:23:33 | 教育
表題の文を、式で書き現わすと 、
0 - (-5)= +5 = 5
ということである。なお、+5 が 5と同じであることは、数学の世界では、正数を表す場合には、符号の + は省略できる、という約束に基づいている。
最近 中学生になったばかりの孫娘が、5月の連休中に数学の宿題に取り組んでいた。それで、私は、「0」から「-5」を引き算すると、「+5」になることを、彼女に分かり易く、うまく説明することが必要になった。
彼女の使っている教科書を見せてもらったが、うまく説明がなされていない。そこで、私はいろいろ考えた末、自己流ながら、仕方なく次のようなやり方で、理解してもらわざるを得ないのでは、と思って彼女に説明した。そうしたら、彼女も、なんとなく納得しているようだった。
さて、私が考えた説明は、次のようなものである。
いま、一例として、
5 - 5 = 0             式a
5 + (-5)= 0           式b
という等式を考える。式aと式bとは、左辺(=記号の左側部分)が異なった表現になっているが、同じことを意味している。例えば、5円のお金を銀行に預金している人が、その後、5円のお金を銀行から下ろした、とすると、残高の金額は、式aのやり方で計算できることは小学生でも理解できよう。ところで、預金額を正(プラス)の数値として扱い、一方、下ろした金額を負(マイナス)の数値として扱うことにしてみると、残高は、式bから計算できて、このように、残高が常に”足し算”という形式で計算できるのである。
ここで、預金額を正(プラス)の扱いとしたときに、下ろした額を負(マイナス)の扱いにする理由は、お金を預ける ということと、お金をおろす ということとは、まったく反対のことであるから、預金額を正(プラス)の扱いにすれば、下ろした額を、負(マイナス)の扱いにする、というのは、容易に理解、納得できることと思われる。
さて、ここで、私なりの思いつきになるが、式bから、その左辺にある(-5)という負数を削除して、左辺が、5 という数だけが残るように、したいとしよう。このためには、式bの左辺から(-5)という負数を引き算する必要がある。
一方、依然として、式bの等式が成り立つためには、左辺から(-5)という負数を引き算したら、右辺からも同じ数だけ、つまり、(-5)という負数を引き算する必要がある。こうして、等式bは、
5 + (-5)- (-5)= 0 - (-5)     式c
という等式に変形できる。この式は、式bの両辺から、-5という同じ数を引き算したものであり、当り前に成り立つ式である。この式cの左辺の中にある + (-5)- (-5)という部分は、-5という負数から、それと同じ-5という負数を引き算する項になっていて、0 になるので、結局、式c の左辺には、5 だけが残り、式cは、次のようになる。
5 = 0 - (-5)            式d
この式の結論は、式dを導いた過程、プロセスから明らかのように、タネも仕掛けもない厳然たる帰結であり、正しい結果と言わざるを得ないことである。
そして、この式dの結論こそ、まさに私が冒頭に書いた、
「0」から「-5」を引き算すると、「+5」になる
という事実を表しているのである。つまり、誰がなんと言おうと、「0」から「-5」を引き算した結果は、5 すなわち +5 になる、と認めざるを得ないのである。
ここで、私にとって、不思議に思い、説明し難いのは、ここで例に出した、銀行に関わる例え話で無理にこじつければ、「0」から「-5」を引き算する、ということは、預金残高0円の状態において、5円を引き出すことを更にもう一度引き出す、ということであり、その結果が、なんと、5円を預金したことと同じになる!という事実である。これって、どうしても考え難い、理解しがたいことである。
なお、式aが式bに書き換えられた事実を応用すれば、式dは、
5 = 0 + (-(-5))            式e
とも書き換えることができる。
式dや式eは、5 という数以外のどんな数に対しても、あてはまる事実である。したがって、私としては、数学の計算式の時に、式の中に、今の場合の、- (-5)というように、負の数の前に重ねて負号(マイナスの記号)が付いているときは、これを無条件に、機械的に、つまり、理屈抜きに、
- (-5)= +5
というふうに、正の数に置き換える! ということを覚えておくことが賢明だ、と思う。
あるいは、別の覚え方としては、正(プラス)に対して反対の概念が負(マイナス)であり、それとは逆に、負の反対が正である、ということを念頭に入れておけば、便宜上、容易かもしれない。ここで、”反対”という概念を表すのに、元の数にマイナス(-)という負符号を付ける、というふうに約束しておくのだ。たとえば、5 という正の数に対して、反対の数が負の数であり、これを元の数 5 にマイナス符号を付けて、-5 と書いて負の数として表すのだ。
一方、負の数の反対の数が正の数というわけなので、このことは、負の数に負(マイナス)符号が付くと正(プラス)の数になる、ということを表わすことになる。例えば、-5 という負数に対して、その反対の数は、正の数5になるというわけだ。このことは、元の数 -5 にマイナス符号を付けて、- (-5)が正の数 5 になる、ということを意味している。今の場合、マイナス符号が二重に付いているのがミソである。正の数にひとつだけマイナス符号が付くと負の数になり、それに更に、もうひとつマイナス符号が付くと、元の正の数に戻る、というわけである。この考え方を推し進めると、
( - ( - ( - 5 ) ) ) という数は、実は、
( - ( - ( - 5 ) ) ) = - ( - ( - 5 ) ) = - ( + 5 ) =( - 5 )= - 5
となるので、- 5 という負数そのものなのであることがわかる。同じようにして、
(- ( - ( - ( - 5 ) ) ) ) = ( - ( - 5 ) ) = (+ 5 )= 5
(- ( - ( - ( 5 ) ) ) ) = ( - ( - ( - 5 ) ) ) = ( - ( + 5 ) ) = ( - 5 )= - 5
- (- ( - ( - ( 5 ) ) ) ) = - ( - 5 ) = + 5 = 5
ということも理解できよう。
このようにして、分かることは、5 というような正数に対して、連続的にマイナス符号が奇数個ついていると、結果は、-5 というように、負の数になり、一方、偶数個ついていると、結果は、正の数になる、ということである。
ここで、蛇足ながら、8 から、(- ( - ( - ( 5 ) ) ) ) という数を引き算する計算、つまり、
8 - (- ( - ( - ( 5 ) ) ) ) という計算をしてみることにしよう。
引く数の (- ( - ( - ( 5 ) ) ) ) は、上記より、- 5 だから、結局、
8 - (- ( - ( - ( 5 ) ) ) ) = 8 - ( - 5 )= 8 + 5 = 13
となる。
あるいは、また、8 - (- ( - ( - ( 5 ) ) ) ) の式を、
8 - (- ( - ( - ( 5 ) ) ) ) = 8 + ( - (- ( - ( - ( 5 ) ) ) ) )
と書き換えることができるので、
8 - (- ( - ( - ( 5 ) ) ) ) = 8 + ( - (- ( - ( - ( 5 ) ) ) ) )
           = 8 + (- (- ( - ( - ( 5 ) ) ) ) ) = 8 + ( 5 )=8 + 5 = 13
となり、当然ながら、同じ結果になる。
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お受験で合格

2010-11-05 17:40:54 | 教育
昨日のブログで書いた我が孫娘のお受験では、2番目に受験した小学校の結果発表が今日行われ、合格だったそうです。今朝、9時3分に、家内が私の携帯に電話してきて知らせてくれたのです。
昨晩、家内は、今朝がた早く、娘の夫が、結果発表を見に行く、と言ってましたので、その結果の知らせが家内のもとに届けられたようです。娘の夫からは、合格を伝える携帯メールが私のパソコンにも送られてきていました。
今日発表になった小学校は、3つ受験した中では、もっとも入学難度の高い有名小学校、ということのようで、娘からはあまり期待しないよう言われてきました。でも、その意中の学校に合格できたのです。
今回のお受験では、3つのうち、どれか一つでも合格してほしい、と願って、心中穏やかでない日々を過ごしてきた娘にとっては、まさに肩の荷が降りた、という感じであろう。
今夜から、彼女は、やっと、枕を高くして眠れるに違いない!
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浦島太郎とアインシュタイン

2009-12-02 17:45:38 | 教育
先日、娘夫婦一家が我が家に泊りがけで来訪した際、私が、先だって5歳の孫娘に話しした昔話の"浦島太郎"が話題になった。そのとき、30歳代半ばの娘は、浦島太郎が、亀の背中に乗って、龍宮城から、自分の住んでいた街に戻ったときに関して、「どうして、自分の友達たちが、おじいさん、おばあさんの姿になって年老いていたのだろう?」とか、「どうして玉手箱を開いてしまったのだろう?」って、私に疑問を投げかけてきた。
私は、この2つの疑問に対して、私なりに勝手に推測して、その理由を、以下のように考えて、娘に答えておいた。
最初の疑問--浦島太郎が、自分の住んでいた街に戻ってみたら、そこで目にしたものは、なんと、自分のお友達たちがみんな、おじいさん、おばあさんの姿になって年老いていた、という点。このことは、浦島太郎が龍宮城に行って過ごしていた期間は、浦島太郎が光の速さで進んでいるロケットに乗っていた状態に相当しているのではないかな、と思われるのだ。現代物理学に出てくるアインシュタインの相対性理論では、光の速さで進んでいるロケットに乗っている人は、トシを取らない!という理論があるからだ。
二番目の疑問--乙姫様から「玉手箱を絶対に開けないでね!」って言われた浦島太郎は、通常の人間とまったく同じ気持ちを持ち合わせていたのではないかな、と思う。普通誰でも、"絶対に開けないで!"と言われると、大抵の人がそうするように、なんとなく開けてみたくなってしまうものなのだ。
・・と、まあ、このように考えると、"浦島太郎"の話って、意外と現在の世の中でも十分に通用する内容になっているんだなあ、って考えられるのだ。




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すべての人が見てほしい、近く再放送されるテレビ番組-特に学生必見!!

2009-01-28 11:45:50 | 教育
先日、たまたま偶然にも、NHKテレビで放送されていた"課外授業 ようこそ先輩「死の実験と生きる役割」"という番組を見た。最初は、なにげなく見ていたのだが、見てるうち、その中身に惹かれていき、食い入るように見いってしまった。内容は、ヒット曲「千の風になって」を作った作家の新井満さんが母校の中学校を訪ねて、後輩たちに課外授業を2日間にわたって行ったときの様子が描かれている。「死ぬとはどういうことか」、「生きる役割ってなに?」、「死を通して生を考える」など、を、新井さんなりの考え方で、率直に生徒たちに考えさせていて、非常に迫力のある、そして説得力のある、素晴らしい番組だった。もし、いま私が学校の先生だったら、この番組こそ、生徒に見せたい、と思いながら、見ていた。もちろん、子供や孫たちにも見せたい、と思って、急遽途中からビデオに収めたのは言うまでもない。
見終わってから、すぐ、再度この番組を見てみたいと思った。そして直ちにNHKに電話して、再放送の予定を伺ったら、今度の日曜日、2月 1日(日)の深夜に、NHKテレビの総合チャンネル(関東では第1チャンネル)で、再放送される、という。2月 1日(日)の深夜なので、正確には、2月2日(月)になるが、午前1:15~翌日午前1:45に、30分間に亘って、再放送されるはずだ。



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何か変!東京・両国中学校の受験対策に塾講師

2008-12-29 21:30:38 | 教育
昨日のテレビのニュースで、東京・両国中学校が受験対策に塾講師を招いて、生徒に教えている光景が報じられた。希望した生徒に対して、数学など、数日間に及ぶ講座が行われたようだが、有料で、2万数千円の費用だ、という。参加した生徒の感想は、「要領よく教えてくれるので良かった」など、非常に好評のようだったようだが、受講しなかった生徒も相当数いたようだ。
でも、ここで、問題が2つある。
1つ目は、受講しなかった生徒の中には、有料ということで、受講しなかった生徒もいるはず。なので、ここで、生徒間で学力差がついてしまうことが気になる。義務教育である中学校が主催した今回みたいな対策は、無料にするべき、と思う。
2つ目は、両国中学校の先生方は、その教え方が塾講師より下手なのか、という疑問が出てしまう。参加した生徒の感想からすると、どうしてもそう思えてしまう。塾講師は両国中学校の先生より教え方が上手いようなので、両国中学校の先生には全員、塾講師を雇ったらどうか?、なんて、そんな風に思えてならない。

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当世の学習塾は、ますます生徒の能力格差を助長するばかり

2008-12-02 18:16:42 | 教育
私がかつて毎週土曜日に、小学校の先生役になって、生徒に勉強を教えていたとき、学習塾に通っている子といない子とでは、授業に臨む態度で、すぐに見分けがついたことを覚えている。通っている子は、新しいことを教えるときにも、先回りして積極的に発言したり、黒板に出て行ったりなど、でしゃばった行動をしていたので、教えづらかったものだ。このような授業環境では、塾に行っていない子は、ともすると自信喪失に陥り、あとあと勉強嫌いになったりする恐れがある、と思わざるを得ない。世の中が不景気な今時、家庭の経済事情で、塾に行かせたくても行かせられない家庭が相当ある、と思われる。このような各家庭の経済格差が、子供たちの将来に反映してしまう状況は、まさに中国の現状そっくりだ。
私は、極論だが、ある意味では、小・中学生世代を対象にする学習塾って、それが存在しない方が子供たちにとって平等ではないか、とさえ思えてしまう。
実は、数日前に訪れた矢板市に住む友人Ucさん宅にお邪魔していた時、現在、公文の学習塾の先生をされているUcさんの奥様もまじえて、「昔は、たしか、学校で落ちこぼれそうな子供たちが補習の意味で、学習塾があったのではないのかな」、とか、「今は、勉強のできる子ほど塾に通っていて、塾に行ってる子と行ってない子の能力格差がますます、拡大してしまう」なんていう話題にも、花咲かせて過ごしたのだった。

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モノを大事にする心--家庭と学校とでの躾けが大事

2008-11-04 16:52:54 | 教育
昨日までの3連休、我が家には、4人の孫たちが来ていて賑やかだった。このうち、小学校に通っている3人の孫は勉強道具を持って来ており、彼らに娘が漢字の問題を出していた。私は、こうした勉強の様子を脇で見ていて、特に、男の子は筆箱に消しゴムや鉛筆がまともに揃えらえていないことに、驚いた。鉛筆は、と見たら、芯がほとんど出てなかったり、先が折れていたり、そして、消しゴムが入ってない、など、これでは、勉強をする姿勢そのものが始めから出来ていない。これと似たような事態は、私が土曜教室の講師を務めていた時にも、遭遇したのだが、こうしたことが起きないようにする為、家庭と学校とで厳しく躾けてほしい、と思わざるを得ない。
戦後まもない時期を小学生で過ごした私の時代には、鉛筆一本、消しゴム一個も貴重であったが、これらのモノがあふれかえっている現代では、子供たちが、こういったモノをあまりにも粗末にしすぎている。モノを大切にすることを親も教師も、日頃から躾けてほしいものである。もっとも、モノが満ち溢れた豊かな時代に育った今の教師には、このようなことに気づき難いのかも知れないが、非常に重要なことである。
筆箱の中身を見るだけで、子供の勉強への取り組み姿勢がわかる。
また、子供たちが、ともすると、教科書などの教材を平気で、足で踏んづけたり、投げたり、など、これまた粗末に扱っているのを見かけることもあるが、これなど、言語道断の行為である。
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小学生に鶴亀算を出題して活性化した授業

2008-10-30 17:46:19 | 教育
昨日の読売新聞をパラパラとページをめくって見ていたら、「鶴亀算 答えより解き方」という大見出しの記事が目に付いた。この記事は、同新聞が、"教育ルネサンス"として、ほぼ連日のように連載してきているシリーズの一環だ。
「鶴亀算」といえば、かつて私が、街の土曜教室の講師をしていたときに、中学校や小学校の生徒たちに、この鶴亀算を出題したことがあって、当時、生徒たちが非常に興味を持って、問題に取り組んでいた時のことを思い出す。
さて、昨日の新聞記事によれば、東京都の御茶ノ水小学校の先生が、戦前に使われていた小学校算術の教科書に紹介されていた「鶴亀算」にヒントを得て、子供たちに「考える算数」を経験させたい、として特別授業に臨んだ、という。そして、その結果は、子供たちから「考えるのが楽しかった」など、好評だったようだ。
なお、同新聞によると、ここで取り上げた戦前の教科書は、表紙の色から「緑表紙」と名づけられ、1935年から10年近く使われ、当時は、その斬新さから大きな反響を呼んでいたそうだ。そして、この伝説の教科書を見直すことが「考える力」を育てるのに有効だとして、昨秋、大阪の出版社「啓林館」が復刻版を出した、という。
で、私は今日、早速、その復刻版「緑表紙」を手に入れるため、近くの書店に取り寄せてもらうよう頼んできた。

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