手打ち蕎麦をする私の徒然日記

2003年1月に手打ち蕎麦に初挑戦。手打ち蕎麦の事ばかりでなく、日常インパクトのあった事柄を思ったまま綴ったブログです。

50年ほど前のことー鹿児島内之浦での夏の日の想い出

2020-08-17 16:37:32 | 想い出
あの当時、内之浦町の中俣旅館には、電気通信関係だけの職員10人~20人くらいの男性ばかりのメンバーが、東京から出張して宿泊するのが通例になっていた。年齢はみな20歳代から30歳代で、私を含めて、大部分が独身だ。メンバーのうち、大体半数づつが、東京大学の付属研究所である、生産技術研究所(生研)と宇宙航空研究所(宇宙研)にそれぞれ所属している職員である。
中俣旅館には、中俣クニさんという女主人のおばあちゃんが居て、彼女は、サザエさんの漫画に出てくるおばあちゃんそっくりさんだ。私より一歳年下の鈴木君は旅館では、よくふざけて、おばあちゃんが嫌がるのを承知で、人の優しいクニおばあちゃんを背中に背負って、部屋中を駆けずり回って面白がっていたものだった。
旅館には、五右衛門風呂というお風呂があって、これで入浴するのは私にとっては初体験だった。直径が1メートルくらいの鉄製のお椀の形をした風呂で、お湯を張った表面には、お椀の底と同じくらいの直径の木の丸い蓋が浮かんでいて、風呂に入るときは、その木の蓋に片足を載せて、その後、蓋が風呂の底に届くまで、自分の身体を鉄製の風呂に触れないよう、バランスを取りながら、身体を沈めて入浴するのだ。
時期が夏ともなると、夜、寝るときは、各自フトンを敷いて、蚊帳を吊り、当時はエアコンなど無かったので、雨戸は開けっ放しにして寝たものだった。
ところで、中俣旅館では、内之浦の他の旅館と同じように、私たち宿泊者がある度に、近くに住む奥さんがパートのおばさんとして旅館に雇われて、食事作りや配膳、などをしてくれた。
出張時期が8月で、子供たちの夏休みの時期とも重なったこともあった。そんなときは、パートのおばさんの子供たち、二人の女の子が、母を頼って中俣旅館に時々遊びにやって来た。すると、子供好きな私は、すぐに女の子たちと友達になった。一人は小学3年生ぐらい、もう一人は中学生のお姉ちゃんだ。私は、旅館でヒマにしている時は、彼女たちの夏休みの宿題の手伝いをしたり、また、昼間にロケットの打ち上げ作業が休みになったときには、彼女たちと一緒に、バケツと釣竿をもって、川に魚釣りに出かけたものだった。こんなこともあって、お正月には、小学生の女の子から、東京の池尻にあった私の下宿先に、可愛らしい文字の年賀状が届いたものである。たしか吉留洋子ちゃんという名前だった。