手打ち蕎麦をする私の徒然日記

2003年1月に手打ち蕎麦に初挑戦。手打ち蕎麦の事ばかりでなく、日常インパクトのあった事柄を思ったまま綴ったブログです。

愁活期の資料整理ー日本のロケット開発草創期の頃の想い出の資料が出てきた!

2023-10-31 17:41:10 | 想い出
 日本のロケット開発は、糸川英夫博士が、東大生研(東京大学生産技術研究所)に在籍時に、その突破口を開いたことは、広く知られている。ロケット開発の初期の頃、ロケット発射場は、最初は、秋田県の道川海岸だったのが、その後、鹿児島県の内之浦へと移り変わった。
こうして、日本初の人工衛星実現は、1970年2月11日に内之浦からロケット「ラムダ4S-5号機」で打ち上げられた人工衛星「おおすみ」へとつながった。
その当時、私も東大生研に在籍していたことで、一連のロケット打ち上げプロジェクトに参加する機会を得たのだった。
ロケット発射が円滑に行えるようにするためには、ロケットを発射台と呼ぶランチャーにセットしたり、ロケットから届けられる姿勢やなどの各種テレメトリー信号の受信、飛翔中のロケットの高度や方位角などを特定するためのレーダー、ロケットに指令信号を発する送信など、いろんな操作が必要で、それらの個々の操作ごとに、数人から成る担当班が決めてられていて、それらは、ランチャー班、とかテレメータ班、とかレーダ班、とかカメラ班とか、と名付けられていた。
 さて、私も、そろそろ愁(終)活の時期に入る頃かな、と思って最近は、昔のいろんな資料を整理する機会が増えた。
   【註】昨日(2023年10月30日)のテレビ「徹子の部屋」で、出演していた毒蝮三太夫さんが、”終活”よりも”愁活”の方が、
      いいんじゃないの、って提案してました。!
それで、昨日、何気なく、本棚とか、押し入れなどから、収容していた品物を引っ張り出して、整理にとりかかった。
その中からは、ロケット打ち上げプロジェクトに関わる資料もぞくぞく出てきて懐かしく思った。
例えば、A3版用紙に印刷された、
SESノート   K-NO114  K-9M=15 タイムスケジュール(決定版)   S41.3.18
とか、
SESノート   K-NO。004  Lー3ー3による観測   昭和40年1月
とか、といったような資料が沢山、出てきた。
すご~く、懐かしい思いがして、ちょっと愁活作業の手を休めて、見入ってしまいました。
さらに、これら資料に埋もれた中からは、リコピーでコピーされた紫色がかった一枚のA4版の紙片も出てきた。
その紙片には、「ロケット五万節」というタイトルの付いた歌詞が手書きで記されていた。歌詞の最後には、
作詞 糸川ブラザーズ、歌 糸研ブラジャーズ (註:糸研:糸川研究室の略称)
と書いてあって、こんな歌って、私は、あの当時、聞いたことがあったかな?、って思った次第だ。
参考のために、紙片に書かれた歌の文句は、次の通りでした。
1、学校出てから十余年
 今じゃ東大のロケットヤ
 東京・鹿児島、駅前に
 見送り彼女が五万人
2、学校出てから十余年
 いまじゃヒマなしランチャ班
 角度角度の明け暮れで
 立てたランチャ五万回
3、学校出てから十余年
 今夜が本番のレーダ班
 上に下にと追いかけて
 とったしらみが五万匹
4、学校出てから十余年
 今じゃ純情なテレメタ班
 今日はあの娘とかみ合わせ
 これが本当ならご満足
5、学校出てから十余年
 今じゃノラクラ計測班
 今日もあの娘にのぼせてよ
 はかったお熱が五万度サ
6、学校出てから十余年
 今じゃハンサムカメラ班
 美人探し明け暮れで
 写した彼女が五万人
7、学校出てから十余年
 今じゃアリャサのキロク班
 今日は高山あす鹿屋
 うつした映画は五万回
8、学校出てから十余年
 今じゃグウタラ総務班
 朝に夕にと金まわり
 飲んだショウチュウ
 五万本
9、学校出てから十余年
 今じゃヨワムシタイマー班
 デイトの時間にまた遅れ
 おじぎペコペコ五万回
10、学校出てから十余年
 今じゃ金持ちID班
 おいらの本命はプローブよ
 握った金の玉五万個よ
11、学校出てから十余年
 今じゃ天下の糸川研
 月へ行こうぜ二人して
 それなら彼女も御満悦

想い出話—海外出張の帰途、タイ・バンコクでタイ人女性を一夜妻に

2023-08-21 11:10:29 | 想い出
会社員時代のこと。同じ職場の3人の上司とともに、バングラデッシュに出張したことがあった。約一週間の同国での暮らしは、そのお国柄、非常につましいものだった。
その帰途、飛行機便の都合で、タイで一泊した。私たち4人は、ホテルに宿泊。夕食を済ませた後、私は先輩の一人のDさんとともに、その夜の一夜妻を求めて、外出し、タクシーを拾った。運ちゃんの案内で、とあるホテルに連れて行ってもらった。そこのホテルのロビーには、約30人ぐらいの女性がいて、記念撮影するときの様相で、ひな壇の上で整列していた。彼女たちは胸に番号が付いたワッペンを付けていた。
大体20歳代から30歳代ほどの女性ばかりだった。容姿や顔から、いかにも男好きのするような女性などいろいろな女性がいたが、先輩が勧めたので、私は、16番のワッペンを付けた女性を一夜妻に選んだ。その女性は、白っぽい大きめのロングのワンピースを着た、見た目、すぐに真面目と思えるような女性だ。容貌も風貌も、女優の石田ゆり子さん似の女性だ。
さて、先輩は、どうかといったら、今夜は一夜妻は遠慮しておく、と言う。それで、結局、帰りは16番の女性と私、それに先輩の3人が同じタクシーで、私たちの泊まるホテルに戻ってきたのだった。
ホテルで私の部屋に入った彼女は、ほどなく、入浴した。彼女とはお互い、カタコトの英会話で結構、意思疎通ができた。思ったとおり、彼女は、落ち着いた感じの女性で好感が持てて、彼女を選んで良かった!と、しみじみ思った。。
彼女の話では、学校の先生をしていて、幼い子供がいるが、離婚している、という。
その晩、私たちは、午後11時頃と翌朝午前2時頃と、2度にわたる愛の交換をしたのだったが、彼女は私の求めに素直に応じてくれた。スキンを付けずに生で挿入。挿入後、まもなく私のペニスは、彼女の膣の中が粘り気の少ない水飴のような状態になっているのを感じたので、これってタイ人女性特有のものなのかなあ、と思ったものだ。もちろん、私は激しいピストンを浴びせたのは言うまでもない。しかしながら、彼女はほとんど興奮する、といった反応を示さず、されるがままな状態を保っていて、これが私にとっての唯一の不満だった。激しいピストン運動にも関わらず、ペニスがギュッと締め付けられる、といった超気持ちいい感覚を味わえない状態で射精せざるを得なかったことだけは残念だった。でも、その柔らかな秘肉と十分な愛液に浸って、まるで宇宙遊泳しているような感触を味わって楽しんだ挙句、ラストは2度とも中出し、思いっきり射精できたことは無常・無上の喜びだった。
翌日の早朝、彼女は私の部屋を出て帰宅したのだが、その別れ際、私は彼女から、彼女自身に対して「幸せになってね!」って、言ってほしい、とせがまれた。もちろん、私は彼女に「幸せになってね!」と言ってから、「ハッピーになることを祈っているよ!」とも付け加えた。
こうして彼女は部屋を出て行ったのだった。朝食前の6時頃のことだった。

青春時代の忘れ難い想い出ーー童貞を失った事件?!・・「トルコ・ブロ」での想い出

2022-03-25 12:55:56 | 想い出
人間、誰しも10歳代~20際代くらいになると、セックス、つまり性交に興味を持つようになるものだ。私の場合も、例外ではなかった。
男性の場合、生まれて初めて女性と性交をする、ということ、つまり、童貞を失う、という「事件」は、生涯一度きりのことであり、生涯忘れ難い想い出であろう。
このことはまた、女性の場合も同じであろう。女性の場合は、生まれて初めて男性とセックスすることを 処女を失う、とか、バージンを失う、というが、その想い出は、その女性にとって、生涯忘れ難いものとなるのではないか、と思う。
そんなわけで、私の場合もまた、童貞を失った事件は、今もよく覚えている。
私の場合、10歳代は、セックスをするほどの親しい間柄の女性がいなかった。しかし、20歳代になっても、その状態が続いていて、このころになると、セックスへの興味が居てもたってもいられないほど旺盛になった。そんなわけで、私が童貞を失ったのは、当時、東京都内の盛り場のあちこちに存在していた「トルコ・風呂」(現在、「ソープランド」と言われるもの)に頼るしかなかったのだ。
私が童貞を失った日、それは、今から数十年も前になるが、それは5月初旬のことだった。5月の7日だったか、9日だったか、忘れたが、たしか月曜日だったことは確かで、その日の夕刻、7時半ぐらいのことだったことだけは覚えている。
その日は雨が降っていた晩だった。渋谷から、そんなに遠くない「池尻」にあったアパートに住んでいた私は、傘を持って部屋を出て、当時走っていた路面電車ー通称、玉電に乗って渋谷に向かったのだった。
そして、あらかじめ、入ることに決めていたトルコ・風呂のお店 「渋谷トルコセンター」へと急いだ。このトルコ風呂は、渋谷駅を背景として道玄坂の右手側にあって、道玄坂の道端からは少し奥まったところにあり、結構、大きな店構えだった。この店の入口には、当時の大物政治家だった大野伴撲氏の名前入りの大きな花輪がデンと飾られていた。
お店に入ると、すぐにお世話してくれる女性、つまりトルコ嬢と初対面した。彼女は、素足にビーチサンダルを履いていて、簡単な衣服を身にまとっているだけだった。30歳代前後、身長150センチ代くらいで、どちらかというと痩せ気味な女性だった。
この時の私は、まもなく生まれて初めてのセックスができる、という興味、ワクワク感もあって、胸が張り裂けんばりぐらいに心臓がドキドキものだった。
やがて、彼女が自分の持ち場の個室へと招き入れてくれた。そこは、スチーム風呂が設置された小さな個室だった。
彼女と二人だけになった私は、早速、彼女の名前を伺ったら、「西尾光子」と言っていたが、私の童貞を奪った女性として、この名前は、これからも生涯、忘れ得ないものになっている。
彼女は、セックスが初めてという私のために、親切に性交をリードしてくれたことで、スムーズにコトが運んだのだった。

これぞ、演歌の真骨頂!香西かおりさんが熱唱する「岬宿」

2022-03-06 12:04:05 | 想い出
約一か月前にYouTubeの画面で、香西かおりさんが唄う「岬宿」という曲に出会った。そのとき、初めて聞いて衝撃を受けたが、あまりにも演歌の神髄をついた作品だと思わざるを得ない!その日以来、毎日のように何十回も聞いている。
香西かおりさんの透き通った歌声と丁寧な唄いっぷりは、実に見事だが、歌詞を作った星野哲郎さんの才能の素晴らしさには脱帽ものだ。更には、その歌詞を、より迫力に満ちた曲へと仕上げた作曲家の叶弦大さんにも心から感銘を受けている。

1番から3番までの歌詞は、後述するが、歌全体の要旨は、
雨が降る晩、かつて相思相愛だった男女が岬のある宿で、久しぶりに再会し、お酒を酌み交わす、というシーンが女性の視点から描かれている。

1番の歌詞では、男性からお酌をされた女性は、夢心地で、酔いたい・泣きたい気持ちになり、その心境が、「小さな胸が波を打つ」という絶妙の表現で描かれている。

2番の歌詞では、その晩、街を離れることになっている男性の乗る船の出船が、雨のために延期になるよう、翌朝まで雨が降り続いてほしい、と願う女心が描かれている。その一方で、二人して炬燵の中で手を握り合い、熱く心が燃える中、汽笛が遠くから聞こえてくるのだが、この表現も実に絶妙だ!。

3番の歌詞では、膝を寄せ合って、男性からお酌された女性が、うれしいわ! 甘えてもいいかしら? と語った後て、髪を乱れたままにして、「惚れているんだもん」と口走り、まさに、女性の可愛らしくもすさまじい愛の感情が一気に表現されている。すごく、女性のいじらしさがにじみ出ていて、胸にジーンと迫ってくる。実に、その場に居合わせていることを実感させてくれる。!


私は、この曲を聴いていると、昔、別れた女性のことが思い出されてきて、涙が出そうになり、胸が熱くなります。渋谷の井の頭線の改札口で、手を振って彼女と別れたのが最後です。今から50年ぐらい前の午後のことでした。当時、独身だった私は、毎晩のように鹿児島出身の彼女のアパートに泊まって、翌朝、そこから会社に出勤していました。
私が、この歌を好きな理由は、きっと、この歌に出てくる女性が、昔の女性に重なって見えているからかも知れません。あれ以来、あの女性はどう過されているか、知るよしもありませんが、いつも思うことは、幸せで過されていてほしい、ということです。

<1番の歌詞>
いつのまにやらチラチラと
ともる灯りがつつんでくれる旅の町
徳利片手に貴男のお酌
夢かしら
酔いたいな泣きたいな
久しぶりだもの
小さな胸が波を打つ
岬宿

<2番の歌詞>
いっそ朝までシラジラと
降って出船を伸ばしてほしい結び雨
やぐら炬燵のフトンの下で
手を握り
燃えたいな焦げたいな
二人だけだもの
汽笛が遠く呼んでいる
岬宿

<3番の歌詞>
膝を寄せ合いあなたのお酌
うれしいわ
甘えてもいいかしら
惚れているんだもん
乱れた髪でそのままに
岬宿

今日の徹子の部屋は、昔大好きだった園まりがゲストだった

2021-05-31 18:44:36 | 想い出
コロナ禍で家に閉じこもることが普通にならざるを得ない現状において、定年をとっくに迎えている私と同世代の人たちは、それぞれの家庭でどのように過しているのだろうか、と、しょっちゅう疑問に思っている。無職の私の場合、昼間、食事の時間を除いたすべての時間がひまなのだから、これ以上贅沢な生活というものは無い。時間がもったいない、と言われればまさにその通りだ。
私の場合、どんなことして、暇を過しているかと言えば、新聞の興味ある記事を切り取って、スクラップブックにしたり、サラリーマン時代に書きためた、技術資料を整理したり、歌謡曲など好きな曲のCDを聴いたりしている。それと、週に2回ほどは、10年以上前から取り組んでいる社交ダンスを気の合った仲間と一緒になって楽しんでいる。また、家内のお手伝いと運動不足解消を兼ねて、自転車で近所のスーパーまで買い物に出かけている。娯楽番組としてのテレビを見るのは、興味ないのだが、それは、ほとんどの民放テレビが流す番組では、お笑い芸人がただ単にお笑いを取るためのおしゃべりとか、バカふざけをしているばかりなので、見るに堪えないからだ。
さて、今日、昼過ぎのこと、CDで歌謡曲に聴き入っているとき、なにげなくテレビをつけたら、「徹子の部屋」の番組をやっていて、園まりがゲストとして出演していた。私が結婚する前から、大好きだった彼女だったので、当然、テレビに釘付けになって、見入ってしまった。聴けば、現在77歳だという彼女にしては、昔とあまり変わらない、可愛い顔立ちには魅了させられたし、すぐに、後で再度テレビ画面で見られるように、すぐに録画の設定をした。
思えば、私がまだ、結婚前で、公務員として、六本木にあった研究所に勤務していた当時、私の園まりに対する熱烈ファンぶりは、先輩にも知れ渡っていたし、そんな先輩を誘って、あの当時、地下鉄・赤坂見附の駅からほど近くにあった園まりのお花屋さんに出向いたこともあった。
また、当時、自宅2階の部屋で過していた私に、「むーちゃん、今、テレビに園まりが出てるよ!」って、20歳年下の弟が、階下から、大声で私に知らせてくれたことが度々あったことも、今思い出されて懐かしい。

50年ほど前のことー鹿児島内之浦での夏の日の想い出

2020-08-17 16:37:32 | 想い出
あの当時、内之浦町の中俣旅館には、電気通信関係だけの職員10人~20人くらいの男性ばかりのメンバーが、東京から出張して宿泊するのが通例になっていた。年齢はみな20歳代から30歳代で、私を含めて、大部分が独身だ。メンバーのうち、大体半数づつが、東京大学の付属研究所である、生産技術研究所(生研)と宇宙航空研究所(宇宙研)にそれぞれ所属している職員である。
中俣旅館には、中俣クニさんという女主人のおばあちゃんが居て、彼女は、サザエさんの漫画に出てくるおばあちゃんそっくりさんだ。私より一歳年下の鈴木君は旅館では、よくふざけて、おばあちゃんが嫌がるのを承知で、人の優しいクニおばあちゃんを背中に背負って、部屋中を駆けずり回って面白がっていたものだった。
旅館には、五右衛門風呂というお風呂があって、これで入浴するのは私にとっては初体験だった。直径が1メートルくらいの鉄製のお椀の形をした風呂で、お湯を張った表面には、お椀の底と同じくらいの直径の木の丸い蓋が浮かんでいて、風呂に入るときは、その木の蓋に片足を載せて、その後、蓋が風呂の底に届くまで、自分の身体を鉄製の風呂に触れないよう、バランスを取りながら、身体を沈めて入浴するのだ。
時期が夏ともなると、夜、寝るときは、各自フトンを敷いて、蚊帳を吊り、当時はエアコンなど無かったので、雨戸は開けっ放しにして寝たものだった。
ところで、中俣旅館では、内之浦の他の旅館と同じように、私たち宿泊者がある度に、近くに住む奥さんがパートのおばさんとして旅館に雇われて、食事作りや配膳、などをしてくれた。
出張時期が8月で、子供たちの夏休みの時期とも重なったこともあった。そんなときは、パートのおばさんの子供たち、二人の女の子が、母を頼って中俣旅館に時々遊びにやって来た。すると、子供好きな私は、すぐに女の子たちと友達になった。一人は小学3年生ぐらい、もう一人は中学生のお姉ちゃんだ。私は、旅館でヒマにしている時は、彼女たちの夏休みの宿題の手伝いをしたり、また、昼間にロケットの打ち上げ作業が休みになったときには、彼女たちと一緒に、バケツと釣竿をもって、川に魚釣りに出かけたものだった。こんなこともあって、お正月には、小学生の女の子から、東京の池尻にあった私の下宿先に、可愛らしい文字の年賀状が届いたものである。たしか吉留洋子ちゃんという名前だった。

50年ほどの前の想い出、ーー出張先の内之浦で、船上で酒盛り!

2020-05-24 15:55:15 | 想い出
ロケット打ち上げの作業が休日になった、ある日のこと。内之浦の街をぶらついていた私は、孫志おじさんと出会ったことがあった。おじさんが言うには、内之浦湾に船を出してもらって、一杯やろう、という。近くには、たまたま井上さんという、私と同じロケット打ち上げ関係者もいたので、彼も参加することになった。その井上さんは、丸顔で目が真ん丸なので、仲間からはキューピーさんと呼ばれていた。
さて、私と井上さんは、孫志おじさんの先導で、3人で内之浦の漁業協同組合のところに足を運んだ。孫志おじさんは、その漁協の人たちとも顔が効くようで、すぐに私たち3人は漁船に乗せてもらえることになった。漁船には、焼酎や醤油などのほか小皿や料理道具なども持ち込んだことはいうまでもない。それで、3~4人の漁協の人も乗り込んで出発!。
晴天だったその日の昼頃、波静かな内之浦湾の中ほどに船を停めて、早速、船上で、獲れたての魚やイカをの調理して、みんなで酒盛り!。獲れたばかりの新鮮な魚やイカなど、その味は、まさに格別、天下一品とはこんなことを言うのだ、と思う。私にとっては、透明に近いくらいに透き通ったイカの刺身は、今でも目の奥に焼き付いている。そしてまた、その食感は、生涯忘れられない味覚だ。
出張先で、こんな贅沢な機会に恵まれた私って、ほんとについてるなぁ、運がいいなぁ、と思う。


午後の昼下がり、ベッドに寝転んで聴いたナツメロに青春時代の淡い恋が蘇って胸キュン!

2020-05-08 19:43:18 | 想い出
今日は、風もなく、穏やかな午後のひととき。家内はJR電車で片道30分かけて、孫娘たちの住むマンションに出かけています。
私は、ベッドに寝転んで、実に久しぶりに、CDプレーヤーで、昔の懐かしい歌謡曲、いわゆるナツメロを聴いていました。
聴いているうちに、昔、50年ほど前に、まだ私が東大の付属研究所に勤務していたころ、新宿コマ劇場地下のダンスホールで出会った女性のことが想い起されて、胸が熱くなりました。
秋田県出身の彼女は、見るからに古風な感じのする、色白で、物静かな女性でした。晴れの日の午後、日比谷公園で、デート・散歩をしたり、JR渋谷のハチ公側出口の前の地下街階段の降り口付近で待ち合わせしたりなど、いろんな思い出があります。それと、JR有楽町駅の日比谷公園側出口から少し歩いたところの大通りにあった「タクト」という純喫茶店で待ち合わせたこともありました。
その間、彼女からは手編みのクッションをプレゼントされたこともありました。
今にして思えば、どうして、あの当時、「好きだよ!」って、言わなかったのか、実に残念です。彼女とは1年以上も、付き合いが続いてたのに、キッスすらできなかったんです。
当時、私は彼女を心底好きだったはずなのに、何故、あの一言を言わなかったんだろう、言えなかったんだろうか?
これって、私の青春時代の忘れられない、苦い、くやしい、情けない、悲しい、想い出になっています。


50年近い遠い日の想い出-出張途中に鹿屋に寄り道しキャバレーに入る

2020-04-12 17:39:46 | 想い出
50年ぐらいも前のこと。ロケット打ち上げにともなう出張で、鹿児島に出張する機会が何度もあった。まだ独身だった頃のこと。あるとき、私はひとり、出張現場までの道中の途中で寄り道して知らない街などを見物するため、出張する日を予定より1日だけ早目にして東京を寝台車で出発して、いくことがあった。
その日は、鹿児島県の鹿屋というところで寄り道をした。昼間は鹿屋の街を散策した後、夜も遅くなってきて、泊まる旅館も決めていない状態で、敢えて、若い女性が男性を接客する、いわゆるキャバレーに一人で入ったのだった。その当時、私は、東京では、たまに友人とキャバレーに入っていたことがあるので、鹿児島という地方のキャバレーが大都会の東京と違って、どんなものか知りたい、という好奇心があったからだ。お客に女性が接待していろんなよもやま話をするのは、東京の場合と同じで変わらない。ただ、この当時の鹿屋では、この日の私のように、東京からのお客が来る、というのは、滅多にないようで、大都会の話題などで盛り上がった。私は遊び心も手伝って、お店の閉店までねばった。そして、私の脇に座った、私お気に入りの女の子に、その夜の泊まり場所は決めてないことを話したら、その若い田舎娘の女性が、「ウチに泊まってもいいわよ」と、私の期待していたとおりのことを言ってくれた。
閉店後、彼女が下宿している民家の2階に案内され、私は彼女と一夜を共にしたのだった。
その翌日のこと。私は出張現場まで、定刻に到着しなければならないため、当日朝は早めに起床、午前7時頃に鹿屋のバス停から始発のバスに乗り込んだ。その際、驚いたことに、昨夜を共に過した娘さんも一緒にバス停まで見送りに来てくれて、バスの窓越しに朝食のための食物を手渡してくれた。
そして、バスが出発したとき、彼女は、見えなくなるまで手を振ってくれていた。あの日の光景は今でも忘れられない。娘さんのことを思い出すたび胸が熱くなる。この想い出もまた、生涯忘れられない、大切な想い出だ!!
世間では、鹿児島の女性(薩摩おごじょ)は情けに非常に篤い!という評判を耳にすることがあるが、確かにそうだと思う。結婚するなら、鹿児島の女性がいい、という噂は本当だと思う。

今年は日本初の人工衛星誕生から50年!

2020-03-12 17:13:01 | 想い出
毎年迎える2月11日。この建国記念日という日は、日本で初めて人工衛星が打ち上げられた記念日と重なる日でもある。このブログでも、10年前の2010年の2月に、衛星誕生から40年として言及した。
50年前のあの日 1970年(昭和45年)2月11日、鹿児島県の大隅半島に位置する内之浦のロケット発射場は快晴だった。そこから発射された「L-4S-5(ラムダ4S5号機)」と名づけられたロケットが自身の頭部に抱いた衛星を、日本初の人工衛星として地球を周回する軌道上に載せたのである。当時は、我が国には、今のようなJAXA(宇宙航空研究開発機構)といった、打ち上げとか研究開発に関わる組織は無く、それに代わって、東京大学の付属研究所によって、研究・開発が進められていた。その当時、付属研究所に勤務していた私は、ロケット打ち上げのたびに、研究所の教授や仲間の研究所職員と共に内之浦に出張して、みんなして打ち上げに参加・協力してきた。そんなわけで、私が偶然にも我が国で初めて成功した衛星打ち上げの際に居合わせ、ほんのちょっぴりながら成功に協力できたことは、私の人生にとって大きな記念となっている。
なお、このロケット打ち上げに伴なった出張などでは、いろいろな想い出が沢山あるので、折を見て、このブログに書いてみようと思う。
あれから、早くも、ちょうど10年が経過したが、あの人工衛星を打ち上げるときに、実際に使われたロケットのランチャー(発射台)は、相変わらず現在も、国立科学博物館裏手の所の屋外に設置されていて、その雄姿をさらし続けている。私は、JRの宇都宮線とか山手線や京浜東北線に乗車中に、電車がJR上野駅近くにさしかかったところで、いつものクセで、国立科学博物館の方角に目を向けて車窓から、その雄姿を眺めている。胴体に L-4S-5  と書かれたロケットは、人工衛星を打ち上げるのに使ったロケットの模造品だが、これを載せているオレンジ色をした発射台は、50年前に使ったもの、そのものである。