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手打ち蕎麦をする私の徒然日記

2003年1月に手打ち蕎麦に初挑戦。手打ち蕎麦の事ばかりでなく、日常インパクトのあった事柄を思ったまま綴ったブログです。

何十年か前の今日 4月10日は、美智子さまの結婚式だった!

2025-04-10 15:18:16 | 想い出
それは、私が日本大学の学生だったときのことだった。この日は国電の神田駅から歩いて数分の所にあった丸石自転車の本社でアルバイトをしていた。そこでは、私は、丸石自転車の4~5人の社員とともに、同社が全国の顧客に向けて発送するための封筒に宛名書きをしていた。40-50代ほどの女性と30歳前後の男性社員2~3人とともに、世間話をしながら、和気あいあいとした雰囲気の中で宛名書きをしていたものである。ちょうど、この4月10日は、正田美智子さんが皇太子殿下と結婚され、その結婚パレードがテレビ中継されたので、当然、宛名書きをしながら、この話題で盛り上がったものである。
このバイトは何日間か続けたのだが、その終わりごろのこと、こんなことがあった。-- ある日のこと、私のいる部屋の隣の部屋に、新人らしい女性が配属された気配があった。そうした中で、トイレとか昼食などで部屋を出入りする際に、偶然に、私は、彼女を何度か見かける機会があった。私には、彼女が、いかにもあか抜けしていない田舎娘らしい女性に思えた。それで、その彼女を一目見たとき、すぐに好きになってしまったのだった。たしか、彼女は、「こんの」さんという名前だったと思う。今、想えば、彼女は私の大学時代の初恋の女性であった。

若き日の想い出:日劇で見た三橋美智也の「たった一人の人でした」

2025-02-17 18:43:03 | 想い出
あれは、大学を卒業するころのことだったか、と思う。そのころ、私は三橋美智也の大ファンだった。当時、彼の歌はしょっちゅうラジオからも流れていて、三橋が歌う当時の彼の持ち歌は、この「たった一人の人でした」をはじめ、「古城」「哀愁列車」「リンゴ村から」「夕焼けとんび」「草笛の丘」など・・があって、どれも大好きだった。それで、聞くたびに歌詞をノートに書き込んで覚えていたものだ。
そして、有楽町の日劇(日本劇場)での三橋美智也のワンマンショウ・ショウのときには、一人で出かけて、朝早くから入場したものだった。当時、指定席券は買わず、舞台前面両脇の袖口一角の部分の空きスペースに陣取って、私のような熱烈な三橋ファンに混じって立ったままで、三橋の実演ショーに見入っていたものだ。と、いうより見とれていたのだった。当時は、一日に2回か3回の同じ公演-実演ショーが行われていたが、指定席以外は入れ替え制となっていなかった。そんなわけで、1回目の公演が終わった後も、三橋美智也の大ファンの私は全く疲れも感じることなくその場所に居残って、立ったまま、同じ公演を見ていたものだ。
あの時の公演の幕開けは、こうだった!--
場内、真っ暗闇の中、幕が開く、と同時に、スポットライトに照らされた中、上下とも純白の背広に身を包んだ、ミッチー、こと三橋美智也が舞台中央に現れ、そして、名曲「たった一人の人でした」を透き通った美声で歌い始めるのだった!!-----この光景は今でも忘れ得ぬもので、ハッキリと目に焼き付いている。
なお、私が大学4年生のときには、こんなこともあった。--卒論研究のための研究室での夕方こと、教授を囲んで仲間との茶飲み会をやることがしばしばあったが、そこでは、毎回きまって、私ともう一人の仲間が指名されて、余興として、歌を唄う、と言う事が習慣になっていた。その席で私が唄う曲は、いつも三橋美智也の「古城」だった。なお、もう一人の仲間の森 伸二君が唄う歌は、きまって平尾昌晃の「みよちゃん」だった!。今、想いだしても実に懐かしい!!

55年前の今日は、日本で初めて人工衛星が打ちあがった日だ!

2025-02-11 10:22:19 | 想い出
私は、当日、この打ち上げプロジェクトに参加していたので、毎年、建国記念日でもある休日の今日はどうしても忘れがたい日だ。
55年前の今日、日本初の人工衛星「おおすみ」が、鹿児島県の大隅半島の内之浦にある発射基地から、ラムダ4S5号機という名前のロケット「L-4S-5」により打ち上がったのだ。
あの日の今頃は、プロジェクトに参加していた私たちは、打ち上げ時刻 X時 に向けて、緊張に満ちたひと時を過ごしていた。
打ち上げ成功までには、いろいろ紆余曲折があった。
ラムダ型ロケットは、人工衛星打ち上げに向けては、最初、その1号機のロケット「L-4S-1」に衛星を搭載して飛ばしたのだが、あえなく失敗。その後、2号機、3号機、4号機と飛ばしたのだが、いづれも衛星打ち上げに失敗してしまったのだった。巨額の国家費用を投じての打ち上げにも拘わらず、このように何度も打ち上げに失敗したことで、打ち上げプロジェクトの責任者だった高木昇先生が国会に呼ばれて、厳しい喚問を受けたこともあった。
その一方で、なんとか打ち上げを成功させよう、との思いから、担当者が近くの神社に打ち上げ成功の祈願に詣で、お札をいただいて来たこともあった。
こうして、5回目の打ち上げとなった「L-4S-5」というラムダ4S型5号機のロケットで、我が国初となる人工衛星打ち上げ実現に漕ぎつけたのだった。
ここで打ち上げに成功した衛星は、3段式ロケットの最先端部分に内臓され、それ自体は長さが数十センチほどで重さが15キログラムほどで、両手で軽々とかかえられるほどの小さなものだったが、これこそ、日本の宇宙開発の夜明けを担った衛星なのだった。ほどなくして、この衛星は、鹿児島の大隅半島から打ち上げられたものとして、「おおすみ」という名前がつけられた。
打ち上げ後、まもなくのこと、衛星「おおすみ」が地球をほぼ一周しながら固有の電波を発信するのを、全国各地の電波観測地点および米国などの観測地点などが、受信したことで、衛星実現が確認されたのだった。
この確認が行われたことで、早速、内之浦の打ち上げ台地で、新聞各社の共同記者会見が行われた。風が穏やかな晴天のこの日の午後2時ころだった。野村民也先生ほか、森大吉郎先生、などが晴ればれした表情をして会見に応じたのだった。

1月30日に、東大生研時代にお世話になった浜崎襄二先生が亡くなった

2025-02-05 20:25:49 | 想い出
私が東大生研(東京大学生産技術研究所)に勤務していた当時、私は浜崎襄二先生が率いる浜崎研究室に所属していて、同研究所を昭和45年12月に退所するまでの約8年間の期間、先生の指導のもとで大変お世話になった。その浜崎先生が、去る1月30日の午前3時半に老衰で亡くなられた、という。
かつて、私は先生の指導のもと、マイクロ波周波数帯におけるパラメトリック増幅器の開発をはじめ、フィルターやリミッターなどの研究・開発に携わった。それ以外にも、先生は、当時の東大生研や東大宇宙研が取り組んでいた我が国におけるロケット開発や、初の人工衛星実現のプロジェクトにも取り組まれていて、私も同プロジェクトにも関わっていて、私にとって先生とのおつき合いは、実に密であった。この当時の先生は、研究の面ではもちろんのこと、日常のあらゆる面でも非常にきめ細かく指導されていて、私は、内心、実に堅苦しく窮屈な思いで、研究生活を送らざるを得なかったのである。そんなわけで、浜崎先生以外の先生から指導を受けていた研究仲間からは、「浜崎先生の指導を受けているのは、大変でしょう?!」って言われ、同情されることがしばしばあった。
しかしながら、私は、そんな厳しい研究指導に必死になって食らいついていったものだった。そのお陰で、マイクロ波帯フィルターの研究開発で、当時の学会誌に先生と連名で論文を発表・掲載することができたのは間違いない事実だ。
前記したように、当時、先生はロケット開発や、人工衛星向けのプロジェクトにも参加していたので、そのために、毎年、数回は鹿児島県大隅半島の内之浦発射場に出張していた。もちろん私も同行したのは言うまでもない。出張先では、先生はロケット打ち上げに関わる通信業務を担当されていた。

神保町の学士会館が免震工事で休館だって!

2024-12-17 12:15:06 | 想い出
今日の東京新聞によれば、12月29日から5年間の休館に入る、という。
私にとっては、神田の学士会館は、いろいろと思い出深い場所だ。
私が富士通に勤務していたころ、私たち技術士仲間(三菱電機勤務の近藤五郎さん、日立勤務の岡本さんら技術士仲間)が、勤務を終えた夕方、学士会館に何度も足を運んで、技術士会の活動方針・運営などいろんなことを話し合ってきたことがあって懐かしい。
それ以外でも、友人の作道君夫妻および橋本君夫妻が結婚式の披露宴を行った場所が学士会館であり、その際、私が披露宴の司会を務めた想い出深い場所が学士会館だったのだ。
なお、ついでながら、私がこれまで、結婚式での披露宴の司会者を務めさせていただいたのは、作道君夫妻および橋本君夫妻のほかに、井上君夫妻、鈴木君夫妻、および、水野君夫妻の、合計5組のカップルである。
新聞によれば、この学士会館では、これまでに7万組のカップルが新たな門出を祝った、という。

夏の猛暑、毎年のように40度超えの気温!、数年後には40度超が普通に?

2024-08-14 18:33:24 | 想い出
最近では、毎年のように日本のどこかで40度を超えた気温が観測されていて、このまま推移すれば、数年後には日本の大部分の地域で、連日40度超が観測されることが普通になってしまうと予想され、実に心配だ。最近では、関東地方でも、連日、就寝時には一晩中、クーラーを稼働させていないと熱中症になってしまうのは確実だ。
そこで、今日ふと思い出したのは、約50数年前に公務員をしていた頃のことだ。当時、私は年に数回、鹿児島県大隅半島の内之浦町に出張してロケット打ち上げのプロジェクトに参加していた。あの当時、毎回、「中俣旅館」という名前の民宿のような宿舎に十数人の仲間と共に宿泊した。あの頃、夏場の就寝時には、仲間とともに畳の部屋にふとんを敷き、蚊除けのための蚊帳を吊って、一晩中、雨戸を開けっ放しにして寝ていたものである。当時、部屋には、今のようなクーラーは無かったものの、南国の夏にも拘わらず、結構、涼しい夜を過ごせたものだった。
なお、今でも思い起こされるのは、毎日、早朝、寝室に響き渡るニワトリの「コケコッコウ」の時の声だ。当時、私には、ニワトリ達が、部屋に向かって、”もう夜が明けたよ!早く起きてェ”って、大合唱しているように思えた。

エーッツ!!園まりが亡くなった!!

2024-08-02 11:07:03 | 想い出
今日、朝食後、いつものように何気なく新聞に目を通していたら、「園まりさん死去 三人娘、「逢いたくて・・」」との記事が目に飛び込んできて、驚きのあまり、釘付けになった。記事によると、7月26日に急性心不全で亡くなった、とのこと。
振り返れば、私が大学卒業後、当時、六本木にあった研究所(現在は、その地が国立新美術館に生まれ変わっている)に勤務していた頃、何をおいても大好きだった唯一無二の女性歌手が、園まりだった。もちろん、彼女のレコードは、「逢いたくて逢いたくて」など何枚も買っていて、今でも残っている。
当時、私の”園まり好き”は、私の家族や勤務先の仲間までもが知っているほど有名だった。あの頃、園まりがテレビに出ていたときなど、私の一番下の弟は、「むーちゃん、園まりがテレビに出てるよ!」って、二階にいた私に声をかけてくれていて、今でもその声が聞こえるほだ。
それに、園まりの親族が赤坂見附近くで、確か、お花屋さんをやっているらしい、というのを週刊誌かなんかで知って、実際にその場所に足を運んだこともあって、研究所仲間からも冷やかされたものだった。
最近では、彼女は、テレビにはまったくといっていいほど出ていなくて、そんな中、たまたま、たしか、つい2~3カ月前に、「徹子の部屋」に出演していて、それを見た私は、相変わらずの若さ、可愛さを保っているなぁ、と思ったものである。

愁活期の資料整理ー日本のロケット開発草創期の頃の想い出の資料が出てきた!

2023-10-31 17:41:10 | 想い出
 日本のロケット開発は、糸川英夫博士が、東大生研(東京大学生産技術研究所)に在籍時に、その突破口を開いたことは、広く知られている。ロケット開発の初期の頃、ロケット発射場は、最初は、秋田県の道川海岸だったのが、その後、鹿児島県の内之浦へと移り変わった。
こうして、日本初の人工衛星実現は、1970年2月11日に内之浦からロケット「ラムダ4S-5号機」で打ち上げられた人工衛星「おおすみ」へとつながった。
その当時、私も東大生研に在籍していたことで、一連のロケット打ち上げプロジェクトに参加する機会を得たのだった。
ロケット発射が円滑に行えるようにするためには、ロケットを発射台と呼ぶランチャーにセットしたり、ロケットから届けられる姿勢やなどの各種テレメトリー信号の受信、飛翔中のロケットの高度や方位角などを特定するためのレーダー、ロケットに指令信号を発する送信など、いろんな操作が必要で、それらの個々の操作ごとに、数人から成る担当班が決めてられていて、それらは、ランチャー班、とかテレメータ班、とかレーダ班、とかカメラ班とか、と名付けられていた。
 さて、私も、そろそろ愁(終)活の時期に入る頃かな、と思って最近は、昔のいろんな資料を整理する機会が増えた。
   【註】昨日(2023年10月30日)のテレビ「徹子の部屋」で、出演していた毒蝮三太夫さんが、”終活”よりも”愁活”の方が、
      いいんじゃないの、って提案してました。!
それで、昨日、何気なく、本棚とか、押し入れなどから、収容していた品物を引っ張り出して、整理にとりかかった。
その中からは、ロケット打ち上げプロジェクトに関わる資料もぞくぞく出てきて懐かしく思った。
例えば、A3版用紙に印刷された、
SESノート   K-NO114  K-9M=15 タイムスケジュール(決定版)   S41.3.18
とか、
SESノート   K-NO。004  Lー3ー3による観測   昭和40年1月
とか、といったような資料が沢山、出てきた。
すご~く、懐かしい思いがして、ちょっと愁活作業の手を休めて、見入ってしまいました。
さらに、これら資料に埋もれた中からは、リコピーでコピーされた紫色がかった一枚のA4版の紙片も出てきた。
その紙片には、「ロケット五万節」というタイトルの付いた歌詞が手書きで記されていた。歌詞の最後には、
作詞 糸川ブラザーズ、歌 糸研ブラジャーズ (註:糸研:糸川研究室の略称)
と書いてあって、こんな歌って、私は、あの当時、聞いたことがあったかな?、って思った次第だ。
参考のために、紙片に書かれた歌の文句は、次の通りでした。
1、学校出てから十余年
 今じゃ東大のロケットヤ
 東京・鹿児島、駅前に
 見送り彼女が五万人
2、学校出てから十余年
 いまじゃヒマなしランチャ班
 角度角度の明け暮れで
 立てたランチャ五万回
3、学校出てから十余年
 今夜が本番のレーダ班
 上に下にと追いかけて
 とったしらみが五万匹
4、学校出てから十余年
 今じゃ純情なテレメタ班
 今日はあの娘とかみ合わせ
 これが本当ならご満足
5、学校出てから十余年
 今じゃノラクラ計測班
 今日もあの娘にのぼせてよ
 はかったお熱が五万度サ
6、学校出てから十余年
 今じゃハンサムカメラ班
 美人探し明け暮れで
 写した彼女が五万人
7、学校出てから十余年
 今じゃアリャサのキロク班
 今日は高山あす鹿屋
 うつした映画は五万回
8、学校出てから十余年
 今じゃグウタラ総務班
 朝に夕にと金まわり
 飲んだショウチュウ
 五万本
9、学校出てから十余年
 今じゃヨワムシタイマー班
 デイトの時間にまた遅れ
 おじぎペコペコ五万回
10、学校出てから十余年
 今じゃ金持ちID班
 おいらの本命はプローブよ
 握った金の玉五万個よ
11、学校出てから十余年
 今じゃ天下の糸川研
 月へ行こうぜ二人して
 それなら彼女も御満悦

想い出話—海外出張の帰途、タイ・バンコクでタイ人女性を一夜妻に

2023-08-21 11:10:29 | 想い出
会社員時代のこと。同じ職場の3人の上司とともに、バングラデッシュに出張したことがあった。約一週間の同国での暮らしは、そのお国柄、非常につましいものだった。
その帰途、飛行機便の都合で、タイで一泊した。私たち4人は、ホテルに宿泊。夕食を済ませた後、私は先輩の一人のDさんとともに、その夜の一夜妻を求めて、外出し、タクシーを拾った。運ちゃんの案内で、とあるホテルに連れて行ってもらった。そこのホテルのロビーには、約30人ぐらいの女性がいて、記念撮影するときの様相で、ひな壇の上で整列していた。彼女たちは胸に番号が付いたワッペンを付けていた。
大体20歳代から30歳代ほどの女性ばかりだった。容姿や顔から、いかにも男好きのするような女性などいろいろな女性がいたが、先輩が勧めたので、私は、16番のワッペンを付けた女性を一夜妻に選んだ。その女性は、白っぽい大きめのロングのワンピースを着た、見た目、すぐに真面目と思えるような女性だ。容貌も風貌も、女優の石田ゆり子さん似の女性だ。
さて、先輩は、どうかといったら、今夜は一夜妻は遠慮しておく、と言う。それで、結局、帰りは16番の女性と私、それに先輩の3人が同じタクシーで、私たちの泊まるホテルに戻ってきたのだった。
ホテルで私の部屋に入った彼女は、ほどなく、入浴した。彼女とはお互い、カタコトの英会話で結構、意思疎通ができた。思ったとおり、彼女は、落ち着いた感じの女性で好感が持てて、彼女を選んで良かった!と、しみじみ思った。。
彼女の話では、学校の先生をしていて、幼い子供がいるが、離婚している、という。
その晩、私たちは、午後11時頃と翌朝午前2時頃と、2度にわたる愛の交換をしたのだったが、彼女は私の求めに素直に応じてくれた。スキンを付けずに生で挿入。挿入後、まもなく私のペニスは、彼女の膣の中が粘り気の少ない水飴のような状態になっているのを感じたので、これってタイ人女性特有のものなのかなあ、と思ったものだ。もちろん、私は激しいピストンを浴びせたのは言うまでもない。しかしながら、彼女はほとんど興奮する、といった反応を示さず、されるがままな状態を保っていて、これが私にとっての唯一の不満だった。激しいピストン運動にも関わらず、ペニスがギュッと締め付けられる、といった超気持ちいい感覚を味わえない状態で射精せざるを得なかったことだけは残念だった。でも、その柔らかな秘肉と十分な愛液に浸って、まるで宇宙遊泳しているような感触を味わって楽しんだ挙句、ラストは2度とも中出し、思いっきり射精できたことは無常・無上の喜びだった。
翌日の早朝、彼女は私の部屋を出て帰宅したのだが、その別れ際、私は彼女から、彼女自身に対して「幸せになってね!」って、言ってほしい、とせがまれた。もちろん、私は彼女に「幸せになってね!」と言ってから、「ハッピーになることを祈っているよ!」とも付け加えた。
こうして彼女は部屋を出て行ったのだった。朝食前の6時頃のことだった。

青春時代の忘れ難い想い出ーー童貞を失った事件?!・・「トルコ・ブロ」での想い出

2022-03-25 12:55:56 | 想い出
人間、誰しも10歳代~20際代くらいになると、セックス、つまり性交に興味を持つようになるものだ。私の場合も、例外ではなかった。
男性の場合、生まれて初めて女性と性交をする、ということ、つまり、童貞を失う、という「事件」は、生涯一度きりのことであり、生涯忘れ難い想い出であろう。
このことはまた、女性の場合も同じであろう。女性の場合は、生まれて初めて男性とセックスすることを 処女を失う、とか、バージンを失う、というが、その想い出は、その女性にとって、生涯忘れ難いものとなるのではないか、と思う。
そんなわけで、私の場合もまた、童貞を失った事件は、今もよく覚えている。
私の場合、10歳代は、セックスをするほどの親しい間柄の女性がいなかった。しかし、20歳代になっても、その状態が続いていて、このころになると、セックスへの興味が居てもたってもいられないほど旺盛になった。そんなわけで、私が童貞を失ったのは、当時、東京都内の盛り場のあちこちに存在していた「トルコ・風呂」(現在、「ソープランド」と言われるもの)に頼るしかなかったのだ。
私が童貞を失った日、それは、今から数十年も前になるが、それは5月初旬のことだった。5月の7日だったか、9日だったか、忘れたが、たしか月曜日だったことは確かで、その日の夕刻、7時半ぐらいのことだったことだけは覚えている。
その日は雨が降っていた晩だった。渋谷から、そんなに遠くない「池尻」にあったアパートに住んでいた私は、傘を持って部屋を出て、当時走っていた路面電車ー通称、玉電に乗って渋谷に向かったのだった。
そして、あらかじめ、入ることに決めていたトルコ・風呂のお店 「渋谷トルコセンター」へと急いだ。このトルコ風呂は、渋谷駅を背景として道玄坂の右手側にあって、道玄坂の道端からは少し奥まったところにあり、結構、大きな店構えだった。この店の入口には、当時の大物政治家だった大野伴撲氏の名前入りの大きな花輪がデンと飾られていた。
お店に入ると、すぐにお世話してくれる女性、つまりトルコ嬢と初対面した。彼女は、素足にビーチサンダルを履いていて、簡単な衣服を身にまとっているだけだった。30歳代前後、身長150センチ代くらいで、どちらかというと痩せ気味な女性だった。
この時の私は、まもなく生まれて初めてのセックスができる、という興味、ワクワク感もあって、胸が張り裂けんばりぐらいに心臓がドキドキものだった。
やがて、彼女が自分の持ち場の個室へと招き入れてくれた。そこは、スチーム風呂が設置された小さな個室だった。
彼女と二人だけになった私は、早速、彼女の名前を伺ったら、「西尾光子」と言っていたが、私の童貞を奪った女性として、この名前は、これからも生涯、忘れ得ないものになっている。
彼女は、セックスが初めてという私のために、親切に性交をリードしてくれたことで、スムーズにコトが運んだのだった。