手打ち蕎麦をする私の徒然日記

2003年1月に手打ち蕎麦に初挑戦。手打ち蕎麦の事ばかりでなく、日常インパクトのあった事柄を思ったまま綴ったブログです。

国営ひたち海浜公園や国民宿舎「鵜の岬」を訪問

2009-03-30 18:38:32 | 
孫たちの春休みを利用して、3月27日(金)から、28日(土)にかけて、自動車で、一泊二日での茨城県北部方面への旅行を楽しんできた。千葉県に住む娘一家4人と、私、それに家内の、計6人で、27日の朝9時頃、娘の家を出発、先ずは、国営ひたち海浜公園に行った。回転する観覧車に乗るなど、二人の孫娘たちがおおはしゃぎだった。ここは、私と家内にとっては、今回が3度目の訪問だが、今頃の時期の訪問は初めてことで、噂に聞いていた通り、無数に咲き競う水仙の花は実に見事で、種類の違う水仙がその美しさをまさに競っていた。
夕方近く、日立市十王の県立国民宿舎「鵜の岬」に到着。ここは、去年、私と家内が友人と訪れていて今回が2度目だ。ここの印象がとても良くて、私が昨年12月1日に電話予約して、やっと確保できたものだ。というのも、、この国民宿舎「鵜の岬」は、全国150の国民宿舎の中で、19年連続で利用率第1位に輝いている、とのこと。宿舎の綺麗さもさることながら、従業員の親切な対応など、高感度ナンバーワンと言う感じがする。娘一家は今回が初めてで、すごく気に入っていた。
翌28日は、車で北上し、北茨城市華川町のマウントあかね「ガラス工房シリカ」という場所に行ってきた。ここは、私たち全員初めての場所で、林が林立する山の中に分け入ったところにあって、ガラス細工が体験できる場所だ。既に3組ほどの親子連れが来ていて、ガラスに模様を入れるための型紙を切り抜いたりしていた。もちろん我が孫娘二人も、両親の助けを借りて、チャレンジして、記念となる見事な絵皿が完成した。
午後二時頃、私たちは、ここを出発、途中、太平洋沿岸の土手に車を停めた。そこでは、砂浜に降り立ち、打ち寄せる波しぶきにたわむれてひとときを過ごし、それから帰途に着いた。
当日の土曜日から、ETC付きの車の高速道路の通行料が1000円になる、ということもあってか、常磐高速道は、恐らく普段よりは混雑したのだろうが、娘の自宅には午後6時に無事到着した。


WBC連覇の偉業、天才の陰に努力あり

2009-03-25 16:51:30 | スポーツ
 今年のWBCは、韓国が優勝することは十分にあり得る、と思っていた。決勝戦までに、イチロー選手の最近の打撃が不振だったことや、最近2度も韓国に負けていて、無理かな、と思っていたのだ。昨年の北京五輪での野球で優勝した韓国は、まさか、ここで日本に敗れるとは思ってもいなかったであろう。
 ところが、昨日の決勝戦では、イチロー外野手(35=マリナーズ)が3-3で迎えた延長10回表2死二、三塁のチャンスで、中前へ勝ち越しの2点適時打を放ち、粘る宿敵韓国を突き放し、4時間の死闘にケリをつけたのだ。
 昨夜のテレビ番組では、チャンネルをいろいろ変えて、優勝した時の模様や美酒に酔う選手たちの表情を何度も見て、私までも心地よい気分を味わった。
 それにしても、イチロー選手ってすごい、と思わざるを得ない。人は天才というが、その彼も、WBCの序盤戦では、毎試合、打撃不振だった。でも、その当時も、彼は、試合会場に一番乗りして、黙々と打撃練習に励んでいたことはテレビでも紹介されていた。恐らく、こういう努力が、決勝戦での2点適時打につながったのだ、と思う。
 原監督は、優勝後のインタビューで、イチロー選手が2点適時打を打ったことは、生涯忘れないだろう、としみじみと語っていたが、その気持ちは十分に理解できる。今回のイチロー選手の偉業は、私に「天才の陰に努力あり」という事実を知らしめてくれたものだった。
 もがき苦しんだ先に、最高の結果が待っていた。グラウンドにカラフルな紙吹雪が舞う中、金色のチャンピオントロフィーを高々と掲げたイチロー選手は誇らしげに、頼もしげに、一緒に戦い、支えてくれた仲間を見つめた。韓国との決勝まで通算38打数8安打、打率2割1分1厘と不調だった。だが最後の決戦で4安打と本来の力を発揮したのだ。
イチロー選手は、優勝後のインタビューで、こう言っている。
=あざ~っす。いやぁ、もう苦しいところから始まって。苦しさからつらさになって、つらさが今度は痛みになって、心がね…。でも、最終的にみんなで笑顔になれたし、日本のファンの人たちに笑顔を届けられたことは最高ですね。
=(WBCを振り返ってという質問に少し遠くを見ながら)谷しかなかったですけど、最後は山に登れて良かったです。球場を1周した気持ち?気持ち良かった!ほぼイキかけました。すいません。(言った後にテレビでの発言とあり少し後悔したような表情)。
=決勝打?僕は(強運を)持っていますね、やっぱり。神が降りてきましたね。(打席では)本当は無の境地でいたかったが、めちゃくちゃいろんなことを考えました。今(日本は)ごっつい視聴率だろうなあとか、オレは(ツキを)持っているなあとか。ここで打ったら、日本がものすごいことになってると思って、自分の中で実況しながら打席に入っていって、そうなるといつもは結果が出ないんですけど。いやあ、ちょっと1つ壁を越えられた気がしますね。





WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の決勝戦、ハラハラドキドキ!

2009-03-24 15:38:01 | スポーツ
日頃は全くと言っていいほど野球に興味を感じない私だが、最近行われているWBCの試合は格別、少しは気になり、ときどき結果だけを確かめていた。そんな中、今日行われた、日本と韓国とが争う決勝戦は、試合時間が昼食時とも重なり、時々テレビで試合を観ていた。3-2で日本が勝っている中、9回裏の韓国側攻撃の場面からダルビッシュ投手が起用された。最近の試合でも、韓国戦に登板していた彼は、打ち込まれていたので、私はコリャアダメだ!と不安がよぎった。案の定、9回裏ツーアウト2塁の場面で、ヒットを打たれて、3-3の同点にされてしまった。
ここで、私は、電車の時間が迫り、外出したのだった。電車内では、このままでは日本が負ける可能性は十分にある!と内心思いながら乗車した。アノの場面では、何故、原監督がダルビッシュ投手を起用したのか不思議に思えた。この試合で、日本が負けたなら、原監督の責任問題がクローズアップされるのは間違いない、と思ったものだ。アノ緊張の場面で、若いダルビッシュ投手を起用したのは無謀に思えたからだ。
さて、外出先に着いてから、この試合は、日本が延長戦の末、韓国を5-3で破ったことを知った。
ほんとにハラハラドキドキのWBC決勝戦だった。!





上野動物園は毎週月曜が休日とは知らなかった!

2009-03-17 12:02:59 | 
先週末に小学1年の孫娘が高熱を出し、医者にいったら肺炎を起こしている、というので、家内が急いで娘宅に出かけた。その後、半日もしないうちに今度は娘が具合が悪くなり、日曜日には私も応援に行った。同日夕方は、娘が40度くらいの熱を出し、彼女の夫がその晩、医者に連れて行き検査したら、インフルエンザB型にかかっている、とのこと。
そんなわけで、昨日の月曜日は、娘の夫は会社を休んだ。で、その夫は、孫娘をかかりつけの医者に連れて行き、一方、娘は家内が前晩の医者に連れていった。そこて家に残されることになったのは、幼稚園生の孫娘と私の二人。昨日がたまたま幼稚園が休みだったことと、それに天気も良かったので、私は幼稚園生の孫娘を連れて、電車で上野動物園に出かけることにした。一番先頭部の車両に乗って運転手さんの運転操作とか、前方に広がる線路や景色などを孫娘に見せるなどして、楽しみながら上野動物園に着いた。園の入り口の前まできて、なんと毎週月曜が休日であることが分かってガックリ。ちょうど、私たちと同じように、おばあちゃんに手をひかれた子供も、私たちのすぐそばに来ていて、私もおばあちゃんも思わず顔を見合わせて、「休みだったんだね!」と言って残念がったのは言うまでもない。それにしても、日本中誰でも知らない人がないほど有名な上野動物園ともあろうものが、毎週月曜が休日だとは想像もしていなかった。
そこで、孫娘は動物園の入り口の前の横手の場所に設置されていたブランコや滑り台を見つけて、そこでブランコに揺られたりして、しばし私たちは遊んだ。その後、上野駅に向かう広場を歩いていくと、中国雑技団が曲芸を始めようとしていたので、私たちは、4人のメンバーが繰り広げる曲芸を見て楽しんだ。それから、食堂に立ち寄って、孫娘が好物のカレーライスを食べ、さらに近くのアメ横のお店で、これまた孫娘が大好物の「めんたいこ」を買って、家路に向かった。
孫娘にとっては、この日が、母から離れての初めての外出だったせいもあって、帰り際、ちょっとだけ"ママがいい"なんて、弱音をはいたものの、まあまあの小さな旅だった。



ブルトレの運転手さん、乗務員さんの気持ち

2009-03-14 11:42:59 | 想い出
寝台特急「富士」/「はやぶさ」が昨日で姿を消したことで、東京駅を発着するブルートレインはすべて無くなったが、勿論、今朝の新聞にもこのことが報じられていた。
最終便の乗車券が発売された2月13日には寝台席券320枚が、10秒で完売した、というし、同列車のラストランを見届けようと、昨日の東京駅ホームには約3千人のファンが集まったそうだ。
昨日の午後6時3分、汽笛とともに青い客車がゆっくり動き出すと、ホームには、「ありがとう」「お疲れさま」「さよなら」などという歓声が上がり、拍手で包まれた、という。
こんな記事やニュースに接していると、懐かしい昔が思い出されてきて、ジーンと胸が熱くなり、涙が込み上げてくるのを覚える。中でも、長い間に亘って、同列車にかかわってきた運転手さんや乗務員の方々の気持ちは、いかばかりであろうか。これまでのいろんな想い出や、懐かしさに、おそらく胸がはちきれんばかりの気持ちを抱いていたのではないか、と想像する。
昨晩、多摩川河川敷では、鉄橋を通過する同列車に向かって約100人のファンが「ありがとうブルートレイン」と書かれた長さ約20メートルのボードを掲げ、ペンライトを振って見送ったそうだが、各地で似たような光景を目にしたであろう運転手さんたちには、感慨ひとしおのものがあっただろう。
3/14付 西日本新聞朝刊には、こんな記事が掲載されていた。--熊本発東京行き寝台特急「はやぶさ」の運行最終日となった13日午後5時すぎ、鉄道ファンでにぎわうJR鳥栖駅のホームに、かつて「はやぶさ」の車掌を務めた穴見三人(みつと)さん(81)=鳥栖市古野町=の姿があった。1番ホームに列車が入ると、穴見さんは青い車体をいたわるように、そっと手を触れた。 旧国鉄に入ったのは、終戦間もない1948年。博多車掌区に所属し、83年に定年を迎えるまでの大半を「はやぶさ」とともに過ごした。「はやぶさは私の人生そのものです」。東京から1人で九州旅行に向かう途中、体調を崩した男子高校生を静岡駅で降ろし、東京に戻る手配をした。「感謝されましてね。現在も手紙のやり取りが続いています」と話す。
 退職して26年たつが、自宅近くを走る「はやぶさ」の存在は思い出以上のものがあった。「明日(14日)の下りを最後に見られなくなるのは、何とも寂しい」。走り去る「はやぶさ」の記憶を胸の奥に刻むように、じっと見送っていた。
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ブルトレ「はやぶさ」がいよいよ今日でお別れ、寂しい!涙がにじむ!

2009-03-13 10:05:45 | 想い出
若かりし頃、九州に出張の折、よく利用した寝台特急列車のブルトレ「はやぶさ」が今日で、運転を辞めることになる、というのを、今朝のTV番組で報じていたのを見て、涙が出そうになった。
かつて、東京を出発してまもなく、友人と連れ立ってその食堂車に行き、ビールを飲みながら、若くて可愛いいウエイトレスさんの品定めをしたり、ひやかしたりして楽しんだこともあった。
かと思うと、結婚のための見合いで知り合った女性が、ブルトレに乗車する私を見送りに東京駅に来てくれていたのだったが、結婚に乗り気でなかった私は彼女に気づいていながら、あえて声をかけずに彼女を無視して東京駅を出発してしまったこともあった。思えば、実に罪なことをしてしまったものだ。出発のベルが鳴る中、ホームで私を探そうとあせっていた彼女の心情を思うと、今でも胸が痛くなる。恐らく、こういうことは生涯忘れないだろう。




奄美大島から取り寄せた"たんかん"、美味しかった!

2009-03-11 13:26:38 | グルメ
数週間前の土曜日、テレビ朝日の朝の番組で、某映画監督が奄美大島を訪問したときの模様が放映されていた。そこでは、地元名物の果物である「たんかん」の畑を同監督が訪問した場面もあった。ちょっと見ると、「みかん」に似た「たんかん」だが、それを輪切りにした映像や、それをジュースにしたものも紹介されていて、実に美味しそう。是非食べてみたくなった。近くのデパートに足を運んだら、たまたまそこでは九州の物産展が開かれていて、「たんかん」が5個入ったものが1000円で売られていた。もっと安いものがあるはず、と思って、インターネットで、奄美大島の「たんかん」の農園やら販売業者を探してあて、早速業者に注文した。10kg入りの「たんかん」が5000円ちょっとの値段で送られてきた。50個ほど入っていてやはり割安だ。その果肉は濃いオレンジ色、タネは1~2個ほどしか入ってなくて食べやすい。口にしてみると、想像していたとおりに甘く、その上、コクがあり、すっぱさはまったく感じられなかった。その後、日頃お世話になっている人にも料金別払いで直送してもらおうと業者に依頼したら、もう時期的に遅いので、品切れ間際だったと言われ、やっとのことで確保できた。業者に伺って、「たんかん」は2月始めから3月始め頃が最盛期らしいことがわかった。なので、来年からは、「たんかん」の注文時期を忘れないようにしようと思う。
私にとっては、夏は「すいか」、秋には「豊水の梨」とか「サンふじりんご」といったお気に入りの果物メニューの中に、今回また、冬は「たんかん」という項目が加わった。









法事で懐かしい面々とご対面

2009-03-09 10:48:39 | 想い出
昨日は、昨年の今頃に亡くなられた親戚の叔父さんの法事としての一周忌が行われた。お寺での法要が済んだ後、お酒が出るのが慣例なので、私は、自動車ではなく電車ででかけた。電車で1時間もかからない場所にあるお寺では、11時から法要があり、その後、参加した30人~40人くらいがお墓参りをして、お線香を手向けた。それから、すぐ近くの料亭に歩いて移動、昼食の席に臨んだ。このような親戚の法事では、私の若かりし昔のことを想い出させる人たちと会うことになり、懐かしい。昨日、食事の席で私の左隣に座ったのは、亡くなった叔父さんの次男の息子のTさん、そして右隣はそのTさんの息子さんだ。二人とも現役の社会人で、いろいろと話が弾んだ。Tさんと言えば、私が大学生になって間もない頃に遊びに伺った日のことが今も目に焼きついている。あの時、私は大学の角帽を被って彼の家にうかがった。そうしたら、当時、まだ幼稚園か小学に入ったばかりぐらいのTさんが、私を見て「お巡りさん」だと勘違いして、大声で泣き出したのだ。周りにいた彼の両親たちも大笑いしたものだった。きっとあの頃、"イケナイことしたら、お巡りさんに連れていかれるからネ!"なんて、両親から聞かされていたのかも知れない。で、この件を昨日、Tさんに話したら、彼は覚えていない、という。今は無き彼の両親とも私には思い出がたくさんある。一周忌を迎えたTさんのお父さんは、以前から誰からも聖人君子として慕われた評判の方で、8年前に亡くなった私の父は、よく将棋を指しに叔父さん宅に伺っていたものだ。今頃、天国で父と将棋でも指しているのであろう。
さて、私の右隣のTさんの息子さんは、20才台の若さで、叔父さんに似て、誠実そのもの、現在は会社で、社内向けに、主に使用言語JAVAを使ってのITシステム作りを担当しているそうだ。最近私は、若い人たちの中で、IT関連の仕事に就いている人たちが多い、と感じているのだが、今また、それを実感させられた。





ブルトレ「はやぶさ」の引退で寂しい気持

2009-03-04 18:42:59 | 想い出
ブルトレ(ブルートレイン)としておなじみの、寝台特急「はやぶさ」(東京-熊本間)が、今月(2009年3月)13日を最後に運転終了になる、という。思えば、私が公務員時代、今から40年以上も前に、東京から西鹿児島まで出張でよく乗車していたものだ。あのころは西鹿児島駅が終着駅で、日本のロケット打ち上げが九州で行われるようになってまもない頃だった。ロケット実験班の一員だった私は、大隈半島の内之浦町にあるロケッ発射場に行くのに、東京駅を夕刻に乗車、終点の西鹿児島へは翌日のお昼ごろ到着して、そこから垂水まで船に乗車する、という順路で、内之浦に向かったものだった。
この「はやぶさ」のほか、東京から九州へは、
「みずほ」
http://www.youtube.com/watch?v=lxmimuVnwPA
とか
「あさかぜ」
http://www.youtube.com/watch?v=Yo5p85cxww4
といったブルトレも利用したことがあり、今は引退しているこれらの列車も実に懐かしい。
今は新幹線の出現で、ブルトレの引退は時代の波といえるだろうが、想い出がいっぱい詰まっているだけに、どうしても感傷的になってしまう。
「はやぶさ」が引退する翌日の3月14日からは、新幹線「のぞみ」が大増発されるそうだし、更にその車内では、無線LANが利用できるのだそうだ。