手打ち蕎麦をする私の徒然日記

2003年1月に手打ち蕎麦に初挑戦。手打ち蕎麦の事ばかりでなく、日常インパクトのあった事柄を思ったまま綴ったブログです。

良いお友達をたくさん持っておくことは良いことだ!!

2020-04-06 19:35:14 | 仲間・友達
午後3時を過ぎたころ、携帯電話にかかってきた電話に出たら、声を聞いてすぐに、斎藤さんだ、と分かった。数年前から一緒に社交ダンスを習ってきた友達だ。私よりも少し年上の彼の話だと、今、車で、私の家の近くまで用事で来ていて、今朝採れたばかりのタケノコを差し上げたい、と言って、近くのコンビニで待っている、と言う。
ちょうど我が家には、昨日打ったばかりの手打ちうどんがあり、それと先日インターネットで取り寄せたタンカンが残っていたので、それらを一緒に自転車に積んで、コンビニに向かった。コンビニの駐車場で、これらを斎藤さんに差し上げたら、すごく喜んでくれた。以前、何度か、ダンス練習が終わって帰宅するとき、手打ちうどんを差し上げたときがあって、後で、私の打つ手打ちうどんが非常に美味しい、と言ってくれたが、今日もそう言われたことが嬉しい。
今年は未だ食べたことがないタケノコ、それに採れたての新鮮なタケノコ。すごく大きな2個のタケノコを喜んで、いただいてきた。料理好きな妻もすごく喜んだことは言うまでもない。
私は、持つべきものは、良き友達だなぁ、としみじみ思う。

電車で席を譲った孫娘が学校中で話題に、それを聞いて お友達も・・

2011-10-21 17:42:08 | 仲間・友達
去る16日は小学校4年生になる孫娘が、仲間と一緒にバレエを踊る、というので、私は前日の土曜日に家内とともに孫娘の家に泊まりに行ってきた。なにしろ、孫娘がトウ・シューズを履いてバレエの舞台に立つのは、今回の発表会が初めてだったので、観る側の私たちも大いに期待し、結果は、すごく上手に踊っていて楽ませてもらった。
さて、バレエを習う孫娘には、小学1年生の妹がいるが、以下に記述するのは、このときに、この妹のほうの孫娘に関して、彼女の母親、つまり私の娘から聞いた話題である。
事の発端は、数日前のこと、小学1年生の孫娘が、通学で利用している電車で、子供連れのお母さんに席を譲った、という事実から始まる。それからまもなく、彼女が席を譲った、という親切行動が、孫娘の通う学校中、1年生から6年生まで全校に知れ渡ったそうだ。どうして、そういうことになったか、というと、孫娘から席を譲られたお母さんが、孫娘の学生服を見て、彼女の通う学校の名前を知ったようで、そのお母さんは、孫娘の学校に電話して、応対に出た先生に、○○線の電車内での親切行動を伝えたようなのだ。こうして、職員会議の席上、親切行動が話題になったそうな。なお、学校側では、親切行動をとった生徒が、孫娘であることは、○○線の電車を利用して通学している生徒は、孫娘のほか、彼女より年長の小学生だけしかいないことで、すぐ特定できたようなのだ。
学校中で話題になったことで、孫娘と仲良しのお友達は、それにあやかろう、としたらしい。で、その後早速、自分が通学する電車の中で、席を譲るのを実践したそうだ。でも、孫娘のときのように、譲られた人からは学校に電話をしてもらえなかったようだ。私も知ってる、その仲良しのお友達のガッカリしている、あどけない様子が眼に浮かぶ。仲良しのお友達が席を譲ったのは、二人のおばあさんだったそうな。

新小学生を迎えに学校へ出向いた

2011-04-19 21:32:19 | 仲間・友達
先日、女子ばかりの小学校に入学した孫娘を迎えに、母親に代わって、迎えに出むいた。都内にある、この小学校では、入学してまもない今の時期、小学一年生の親族が生徒に付き添って登校・下校することになっているようだ。今日は、孫娘の母親である私の娘が仕事のために都合がつかず、私が代理で小学校に迎えに行ってきた。
午後1時20分に学校の構内の所定の場所に行き、孫娘が出てくるのを待った。周囲には、私と同じく迎えに出向いた人たちでいっぱい集っていたが、大部分がお母さんたちであり、私みたいな、おじいちゃんやおばあちゃんは、ほんの数人、という具合だった。
所定の時間になって、新小学生が、私たちの待っている場所に出てきた。おそろいの帽子、おそろいのランドセル、おそろいの制服を着るなど、みんな可愛い女の子ばかりで、同じように見えて、どの子が我が孫娘なのか、見分けがつかない。
そして、やっと見つけた。見つけた、と同時に、孫娘のほうも私のことを見つけて、いつもと同じような声の大きさで「ムーチャン、ムーチャン」って駆け寄ってきた。彼女の周りには、もうすっかり仲良しになった5-6人の女の子が群がっていて、彼女とは両手を掴み合っていた。
そして、下校。孫娘と5-6人のお友達、それにお友達のお母さんたちと、JRの駅まで歩いた。JRの電車でも、みんな一緒で、同じ車両に乗り込んだ。
電車の中では、新小学生は、まるで、ひよこさんみたいに、ぺちゃくちゃ、おしゃべりしていて、実に嬉しそう、楽しそう。そのうち、お友達の一人が、座席が空いてるのを見つけて、そこに座ったのだが、ほどなく、他のお友達が、おじいちゃんに席を譲ってあげて!と注意して、私のために、すぐに席を立ってくれる、など微笑ましかった。それと、お友達が私のこと見て、孫娘に「おじいちゃん、いくつなの?」なんて質問しているのも、私の耳に入ってきて、可笑しかった。



毎年恒例の忘年会が、いつもの日にいつもの場所で

2009-12-24 09:28:14 | 仲間・友達
天皇誕生日に当たる昨日12月23日に、私が30年以上に亘ってお付き合いしている仲間と一緒の忘年会が開かれた。メンバーは全員で12名いて、昨日は全員が出席した。メンバーは、30年以上も前、六本木にあった国立大学の付属研究所に勤務していた仲間だ。なお、その研究所の建物は、今では国立新美術館に建て替えられている。
当時、私たちの仲間は、電気通信の研究開発の業務をしていたので、私たちの仲間の会の名称は、「ウェーブの会」という名前がついた、という経緯がある。
昨日の「ウェーブの会」の忘年会は、例年と全く同じに、12月23日午後5時から新宿のレストランで開かれた。実は、この23日という国民祝日は、クリスマスの直前でもあり、毎年のように私たち夫婦は、孫娘の家に行って、みんなとクリスマスを祝うイベントを行う日とも重なっている。でも、昨日は、私は、「ウェーブの会」の忘年会のため、孫娘たちとのクリスマス・イベントには参加できなかった。そんなわけで、毎年のように、家内やみんなから、苦情を言われ、私としても、これまで、「ウェーブの会」の忘年会が、どうして祝日に開かれるのか、別の日に設定できないものか、など、幹事さんに不満を漏らしたことがある。でも、相変わらず、毎年同じ日に同じ場所で開かれているので、なんか非常に能が無いなァ、なんて、思っている。
「ウェーブの会」では、毎年、旅行もやっていて、今年は長野方面への旅行が行われたが、その時は私は都合が悪くて旅行に行かなかった。昨日の忘年会では、その旅行の話題も出て、旅先では、手打ち蕎麦をみんなで食べた、と言う。そして、手打ち蕎麦を食べてる時は、私の名前が持ち上がった、と、いうことを聞かされた。と、いうのも、仲間が、私が手打ち蕎麦を打っているのを周知しているからだが、それは、私が手打ち蕎麦を始めた頃に、仲間に蕎麦の話をしたのがきっかけになっている。その後、仲間には、自宅に招待して、手打ち蕎麦をご馳走しましょう、と話しているが、まだ実現していない。来年こそは、是非、実現させたい、と思っている。



ロケットOB/現役の仲間たちとの懇親会に出席し、生きて在ることの幸せを実感

2009-11-01 11:16:26 | 仲間・友達
昨日、「ロケットOB及び現役懇談会」が東京のホテルで開かれた。午後1時から4時までの3時間に亘って、開かれた会には、もう40年以上も前から、国産ロケット開発に向けて携わってきた多くの諸先輩などに混じって、私も参加した。
日本のロケットは故 糸川英夫先生が先陣を切って開発に取り組まれ、昭和45年2月11日には、日本初の人工衛星「おおすみ」を実現、その後、開発体制が現在のJAXAに至るまで、幾多の変遷を経て、育ってきた。
私は、昭和37年(1962年)4月から45年(1970年)12月まで、公務員として国立大学付属の研究所(註:当時のこの研究所の建物は、現在解体され、現在は国立新美術館になっている!)に勤務していた折、ロケット打ち上げ時のレーダーやテレメーター絡みの作業に従事してきた。私が研究所にいた頃は、糸川英夫先生をはじめとした大学の先生方が中心になって、ロケット打ち上げを推進していた関係もあって、昨日の会合でも、大学の教職員が大勢出席していた。
昨日のような会合は、今までも、3年おきとか不定期的に行われてきているが、会を重ねるごとに、会員の高齢化で、亡くなる方や病気で療養されるなどで、出席人数が減ってきているのは寂しいかぎりである。
昨日は、約150人くらいが列席した中、私はいろいろな人たちと言葉を交わすことができて、楽しかった。
かつて、郵政省からの諮問を受けて、現在の地上デジタルテレビ移行の推進の答申を行った、というY先生、とか、かつて、南極越冬隊長をされたEさんなどとも言葉を交わした。Eさんとは、かつて4人ほどの仲間と伊香保温泉に一泊旅行して、ホテルで「星影のワルツ」を熱唱したことがあった。彼もそのことをよく憶えていて、近況を聞いたら、今は毎日、朝風呂に入って、体重管理に気を配る一方、4人の孫娘(たしか、4歳の孫娘と2歳の孫娘3人(3つ子ちゃんだそうだ!))と遊ぶのが日課だ、ということをニコニコしながら語ってくれた。
会場では、研究所時代に私を指導してくれた二人の恩師とも親しく話をさせていただけた。最初に指導してくれた、今でも最も尊敬するK先生、それと、その後、指導してくれたH先生だ。H先生は、研究や仕事に非常に厳格・厳密に取組まれる先生で、周囲から恐れられていた方で、私も当時非常に苦手意識を持ちながらも、研究作業に明け暮れたものだった。昨日、先生にご挨拶したら、H先生自ら、手を差し伸べてこられて、堅く握手。そのH先生は終始ニコヤカな顔で、当時の苦労話などを懐かしみつつ、笑いながら語り合うことができた。
また、会場で、私に声をかけてきた人がいたが、お顔を拝見しても、最初どなたか思い出せず、胸の名札を見て思い出せた方にも出逢えた。Nさんとわかった彼とは、昨日がなんと約40年ぶりの再会だった。彼は、研究所時代に私が、よく研究用の部品などを発注していた商社(たしか田丸商会と言った)の社員だった方で、あの当時よりも、ずっと横に太っていて貫禄たっぷりだ。彼は、柏に住んでいて、今は週2回ほどピアノのレッスンに通っていて、時々ピアノ発表会にも出ている、と顔を輝かして話してくれた。
懇親会が済んだあと、私は同じ研究所時代を過ごした友人二人とともに、近くのロッテリアに入って、コーヒーをすすりながら、しばし、いろんな話題に花を咲かせた。その中のひとつとして、私が日頃疑問を感じている問題--円の周の長さは、どうして直径に円周率を掛けたものなのか?--なども含まれている。
以上のように、そんなわけで、昨日の会合では、当時の仲間と久しぶりに再会し、旧交を温めることができて、すごく楽しかった。こういうことも、健康で長生きできているからこそ、であり、生きて在ることの幸せをつくづく実感できた一日であった。



栃木県矢板市の郊外でりんご狩りを楽しむ

2008-12-01 17:15:33 | 仲間・友達
先週の金曜日から土曜日にかけて、矢板市の友人のUcさん宅にうかがった私と家内は、その土曜日にりんご狩りをしてきた。当日は、午前中は風もなく穏やかに晴れ渡った天候だった。当初、りんごの木にリンゴが鈴なりにぶらさがっている光景を写真に撮りたい、という私の希望で、Ucさん夫妻の車に同乗して、4人でりんご園に出かけた。りんご畑は10分もしないところに散在していて実に近い。実は、先だって、私が電話でりんご10Kgを宅配便で送ってもらうよう注文した農家もこの界隈にあった。いくつかのりんご園を廻ったが、どこもりんごが鈴なりの状態で見事だ。写真を撮りつつ眺めながら、私たちはりんご狩りをすることになった。りんご畑に分け入って、鈴なりのりんごを目の前で眺めながら、"このリンゴには蜜がたくさん詰まっていて美味しそう!"なんて、ワイワイ品定めをしながら、時にはキャタツに登って、りんごをもぎ取っていった。実に楽しい。もぎとったりんごを篭に入れ、販売所に持っていき、りんごの目方を量ってもらい、相当額を支払って、私たちは、友人宅に帰宅した。
友人宅では、私が田舎蕎麦粉100%を使った手打ち蕎麦を打ち、みんなして、それで昼食をした。その後、コーヒーを飲みながら雑談など団欒。周囲が樹木に覆われた、古民家の部屋ならでは、の落ち着いた雰囲気の中、さすがに、ここでは時の流れがゆったりと感じられる。まさに至福のひとときと言える。私は、こんな素敵な空間に住む友人を持って、幸せだな、と思う。それから、近所の寺山観音寺を参拝を兼ねて散策。その後、私と家内は、Ucさん夫妻の車で、JR矢板駅まで見送ってもらい、帰宅した。帰宅に際しては、Ucさんの奥様から、近所の農家から分けてもらった、という新米が私たちにプレゼントされた。実は、昨日の朝、その新米を食べたが、その美味しいこと、絶品だった。


満天の夜空に輝く星たちに感動

2008-11-30 09:07:02 | 仲間・友達
一昨日から昨日にかけて、家内と一緒に栃木県の那須近くの矢板という所に一泊で出かけてきた。そこの郊外で、鬱蒼と生い茂った森林の小道を車で分け入ると、数年前から、かつて仕事仲間だった私の友達が、ご夫婦で住まわれている。ご夫婦の住む家は、なんと100年以上も前に新潟で建てられた古民家を、この場所に移築したものだ、とのこと。古民家の作りは、幅が50センチもあろうか、と思われる何本もの真っ黒い柱が、縦横にはりめぐらされていて、その部屋は、今どき、ものすごく素敵な空間だ。ここを訪れるのは、一昨年、去年に続き、3度目だ。友達によると、家の近くには、たまにイノシシとか、カモシカなどが姿を現すそうだ。
一昨日は、私たちは電車で約1時間半ほどの、JR矢板駅に到着。そこに出迎えてくれた友達の車で、約15分ほどの、その古民家に到着した。700坪以上もある敷地に建てられている、古民家は、その周囲が、畑や樹木で溢れている。この日は、日中こそ、雨が降っていたが、夜には、晴れ渡り、食事の頃、家の外に出て、空を見上げたら、満天に輝く星たちを目にした。オリオン座やカシオペアなど、私の知ってる星座が、燦然と煌いていて実に素敵だ。真っ暗な夜空に、こんなにも無数の星たちを眺めたのは、何時の頃だったろうか。多分、30年以上も前の、富士山への登山以来のことだと思う。しばしの間、何もかも忘れて、星たちに見とれていた。


妙に耳に残っている、おばあさんの生きがい、に関する話

2008-04-15 18:23:56 | 仲間・友達
私が川崎の会社に勤務していた当時、上司であるKさんから聞いた話が、今でも妙に耳に残っていて、ときどき思い出すことがある。そのKさんは、私の結婚式の時、乾杯の音頭をとってくれた方で、飄々としたその物腰は、昔の良寛さんそっくりなイメージで素晴らしい方だ。
たしか青森県出身だった、と、私が記憶している、そのKさんは、以前、彼のお母さんに関して、こんな話を私に聞かせてくれた。--
当時、Kさんのお母さんは、青森の実家で、ひとり暮らししていて、毎日のように、家の周りに生える雑草を刈り取るのに、忙しく過ごしていて、結構、そのことが、お母さんの生きがいになっている、との、ことであった。
で、お母さんは、家を取り囲むように生えた雑草を、端から毎日、少しづつ刈り取っていき、翌日には、それに続く、となりの雑草を刈り取る、というやり方で、過ごしていて、1周分ぐるっと刈り取るのに、一ヶ月くらいかかる、という。ところが、一ヶ月くらいかけて、1周分刈り取るのが終わる頃になると、最初に刈り取り始めた場所には、再び雑草が生えていて、お母さんは、その後も毎日のように、額に汗して「忙しい、忙しい」を繰り返して、雑草取りを繰り返ししているそうな。
こうして、いつになっても終わらない、お母さんの雑草取りは、その後も毎日のように続いていて、結構、お母さんは、充実感に満ちた、「生きがい」ある生活をエンドレスに送っているのだ、という。
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この話、何故か今でも、妙に耳に残っていて、ときどき思い出す。でも、Kさんは、67歳の若さでこの世を去ってしまい、実に残念である。

忘年会で出た話題(2)--マイクロソフト社の新版office等にブーイング

2007-12-26 16:20:30 | 仲間・友達
忘年会では、いろんな話題が出て、時間を経つのも忘れて盛り上がった。その中では、今年マイクロソフトから発売されたOSである「Vista」や「Microsoft office 2007」も話題に上がり、この話題では、誰もがマイクロソフトの横暴に腹を立てていた。これには、私も同じ意見である。
例えば、私は10年以上、Microsoft officeのソフトを使ってきており、最新バージョンの「Microsoft office 2007」を購入して、その中のWordを使おうと試みたのだが、操作法が以前のバージョンに比べてものすごく違っていて面食らった。これでは、恐らく私ばかりではなく、他の多くのOfficeユーザーにとっても、今までいろんなワザを身につけてきた操作法や知識がまったく、といっていいほど役立たないハズだ!第一、今までのWord用に販売されてきた解説本や雑誌のWordの連載記事の内容は、全く使い物にならず無用の長物そのものに過ぎないのだ。
従来のMicrosoft officeソフトの場合には、バージョンが新しくなっても、機能が新規に付け加わるくらいで、基本操作法自体は古いバージョンを使っていた時に身につけた知識が、そのまま通用していたものだった。それが、2007年版では、かくも違っているのは、どうしたわけか?そして、どうして、こうまで違わせる必要があるのだろうか?
かくして、2007年版で操作法が激変したのは、パソコンのOSソフトやオフィス用ソフトで世界の超メジャーな地位を不動なものにしたマイクロソフト社による横暴そのものだ、と言いたい。この横暴で益するのは、パソコンハードメーカーや、マイクロソフト社のVista対応のソフトを売ろうとするソフトメーカー、それに、新しいバージョンに対応したMicrosoft officeソフトの解説書を販売する出版業界であり、一般ユーザーには、何らメリットが無いばかりか、余分な神経と出費を強いるだけである。
忘年会の席では、東京大学名誉教授のFさんも口角泡を飛ばして腹を立て、非難の言葉を吐いていたが、そのお気持ちは十分に理解できる。

忘年会で出た話題(1)--息子夫婦と別居している親たちの嘆き

2007-12-23 23:39:15 | 仲間・友達
昨日の22日(土),新宿で昔の仕事仲間12人で構成する忘年会があり、私も出席してきた。その名を「ウエーブの会」という。昭和37年~40年の頃、東京六本木にあった国立大学の付属研究所(その建物は現在は取り壊されて、国立新美術館に様代わりしている)に勤務して、電気通信関係の研究業務についていた仲間で作った会である。12人で構成されているが、昨日の忘年会では、珍しく全員出席だった。当時から大分、年月も経っているぶん、仲間で最高齢の方は82歳で、大部分は70歳代、それでも私ともう1人の二人だけが、かろうじて60歳代である。
12人のメンバー全員は皆、研究所生活を経験してきた関係もあって、大学の教授となった人も5人ほどいる。
ところで、昨日の忘年会では、私の隣に座ったOさんといろんなことを話しているうちに、たまたま、Oさんが別居している息子夫婦のことを私に話してくれた。--Oさんは、別居して暮らす息子夫婦は、親であるOさん宅には、全くといっていいほど来てくれない!、孫の顔も時々は見たいのに、見ることもできない!と、こぼしていた。それに続けて、Oさんは、近頃の息子夫婦っていうのは、息子の親元には行かない代わりにお嫁さんの実家にはしょっちゅう入り浸っている、というのが一般的傾向だ、って力説していた。Oさんによると、これまで、息子夫婦を持つ数多くの親たちと意見を交わしてきて、ほとんどの場合、このような傾向にある、と語っていた。Oさんから、この話を伺いながら、私も、その傾向は確かなようだ、と納得して聞いていた。そして、私の家内からも、以前に、家内の複数の友人もまた、自分たちの息子の夫婦が自宅に寄り付かず、孫の顔も見られない!といって、息子のお嫁さんに関して不平不満のグチを言っていた、という話を聞かされた、ことを思い出した。
更に、今日も、たまたま、昨日の忘年会とは関係ないが、現在も特許庁で審査官をしている友人Sさんと10年ぶりぐらいに久しぶりに電話で話す機会があって、彼の近況を伺ううち、彼もまた偶然にも、別居して暮らす彼の息子夫婦の話におよんだとき、Oさんとまったく同じく、こぼしていた。また、こんな話もときどき聞く。--親が、車に食料品やらお土産などを積んで、仕事で出張中の息子の家に届けたら、たまたま奥さんが留守だったので、隣りの家の人に、渡してくれるようお願いして預けてきたそうな。でも、その後、息子のお嫁さんからは、品物を受け取った、との連絡がなかった、という。そしてその後も、このようなことが一度ならず何度もあったそうだ。--
以上のような、息子の親たちの不満・嘆きって、昔からこれほどまでにあったのだろうか?私には、そうは思えない。最近の若いお嫁さんの育ち方は、昔と違ってきているのだ、と思う。あるお嫁さんは、用があって夫の実家まで車で孫を乗せて連れてきても、孫を下ろすことなく、用事が済み次第、そそくさと車で帰ってしまい、夫の親は、あっけにとられた!、なんて話を聞いたこともある。
このような態度のお嫁さんて、なんか変だ、と思う。人間としての常識、それに血の通った温かさがあっていいはずだ。将来、嫁ぐことになる娘さんを持つ親は、温かい人間愛に満ちた過ごし方をできるような、そんな娘さんに育ててほしい、と思う。