手打ち蕎麦をする私の徒然日記

2003年1月に手打ち蕎麦に初挑戦。手打ち蕎麦の事ばかりでなく、日常インパクトのあった事柄を思ったまま綴ったブログです。

上野の国立科学博物館を見学した後、アメ横でジャンボ餃子

2008-01-28 17:54:10 | 旅行/散歩/ハイキング
一昨日の土曜日は、午前中は小学校の土曜教室に出席してから、午後にロボット展を見学するため、会場である上野の国立科学博物館に行った。ところが、入り口前には、ロボット展の入場を待つ人々が列を作って並んでいた。近くでは、係員がマイクで、"今から入場しても、閉館までの時間内に、ロボット展を全部見られる、とは限らない" とアナウンスしていたので、ロボット展の見学をあきらめた。このロボット展は、翌日の日曜日が最終開催日のため、急に見学者が殺到したのだろう。
そこで私は、ロボット展の会場のすぐ隣の、国立科学博物館の常設館に入場、見学してきた。ここに入ったことは、おそらく初めてのことだ。数十年もの間、サラリーマンをしてきて、通勤途中に上野駅を経由する関係で、この国立科学博物館の存在は、ある程度知っていた。サラリーマンだった当時、私は、上野駅を通る電車内で、国立科学博物館の建物から、ロケットの先端部分がニョキっと、頭を出しているのを目にしていて、それが日本初の人工衛星「おおすみ」を打ち上げに使ったラムダ・ロケットの実物大の模型だというのに気づいていた。鹿児島県内之浦での人工衛星「おおすみ」の打ち上げには、私も打ち上げスタッフに参加していたので、いつかは、国立科学博物館に入ってみよう、と思っていた。そんなわけで、ロボット展の見学をやめた私の足はすぐに常設館に向いた。
中に入ってみると、私が想像していた以上に、館内には親子連れなどの人たちがたくさん来館していて驚いた。古くからある、地味な博物館だけに、こんなに大勢の見学者が入っているとは思っていなかった。
65歳以上の人は、いつでも入場が無料であることがわかって、私には有難いことだった。館内に入ると、すぐ右手におみやげ物の売り場があったが、見学者がアチコチいろんな方角に散らばって出入りしているので、どういう順序で見学していいのか、私にはサッパリわからない!。仕方なく、私は近くの受付嬢に質問したら、特別に見学順路は無い、という。ちょっとの間、ウロウロしていたら、すぐそばで「フーコーの振り子」が目に入った。これは、地球が自転していることを実証する仕掛けで、私はすぐ、それに見入ってしまった。その後、受付嬢の言葉に沿って、私の足は、まっすぐラムダ・ロケットとその発射台(ランチャー)の実物大の模型の場所に向かった。1970年に人工衛星「おおすみ」を打ち上げるときに使ったの同じ銀色のロケットと朱色の発射台の模型に、しばし、懐かしく見とれてしまった。
それから、館内をじっくり見学したが、私にとっては、あまりにもいろいろ興味を惹くものばかりで、すぐに閉館時間の5時半になってしまった。この日、見学したのは、全体の10%ぐらいだったろうか。今後はときどき、国立科学博物館を見学しよう、と心に決めて博物館を出た。
夕闇せまる時刻となり、ついでに私は、かつて以前、しばしば訪れたアメ横に足を伸ばした。サラリーマン時代にときどき立ち寄っていたラーメン・餃子の店「昇龍」が、まだ、あるかな、と思って探したら、以前と同じ場所-ガード下、上野寄りの場所にあって、そこで、4個セットのジャンボ餃子を買った。タレ付きで450円だが、1個が通常の餃子2個分はある特大のジャンボ餃子である。
昨日、スキーの帰りに我が家に来ていた娘一家に、夕食時、そのジャンボ餃子を出したら、みんなが絶賛、私も1個ほおばったが、昔と変わらずの同じ美味しさだった。特に、孫娘は余程気に入ったらしく、一人で1個半を食べたほどだ。
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娘の家族たちがスキーに出発、やはり一緒に行きたかった

2008-01-26 12:32:17 | Weblog
今日はかねてから、娘やその子供たちが楽しみにしていたスキーに、予定通り、我が家を出発していきました。私は、朝7時前に、家内も同乗して、娘の夫が運転してスキー場に向かう自動車を見送りました。昨日と違って、風もおだやかな晴天です。出発するとき、車の中で、元気に、はしゃいでいる二人の孫娘たちを見送った後で、行きたかったな、っていうのが正直な気持ちです。
土曜日の今日は、私は、近くの小学校で、午前中だけ開催されている土曜教室に出席して、今、帰宅したばかりです。今から昼食をして、昨日、時間がなくて行きそびれた、上野の国立科学博物館で開催されているロボット展を見に行くつもりです。
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米女優スザンヌ・プレシェットさんの訃報に接して悲しい

2008-01-23 16:46:10 | Weblog
昨日の新聞に、アメリカの女優のスザンヌ・プレシェットさんが亡くなった、ことが報じられていた。彼女は、1月19日にロサンゼルスの自宅で呼吸不全で亡くなった、という。70歳だった、とのこと。
彼女は、私が大学を卒業して、まもない頃に見た映画「恋愛専科」に主演で出演していて、いかにも理知的な顔立ち、その素敵な表情、溌剌とした動作に、私はうっとり魅了されてしまった。それ以来、私は熱烈な彼女の大ファンになってしまった。私が外国人の女優さんのファンになったことは、今までに、彼女だけだった。そんなわけで、ビデオの販売店に行ったときなど、今でも、映画「恋愛専科」が収録されたビデオとかDVDを探している。
この「恋愛専科」は、相手役の男優トロイ・ドナヒューさんと共演、たしか、スイスとかイタリアなど雄大な風景を背景にした作品だった。そして、この映画共演がきっかけで、彼女は、トロイ・ドナヒューさんと結婚したようだが、その後、破局したようだ。
とにかく、スザンヌ・プレシェットさんの存在は、私にとっては、青春時代を彩る一つの想い出であるだけに、彼女の訃報は実に悲しい。
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自動車のナンバープレートって、見えなくてもいいの?

2008-01-21 10:05:26 | 社会
に乗っていて、ときどき不思議に思うことがある。通常、前を走っている車のバックナンバーって、いやでも目に入ってくるが、なかには、このナンバープレートを故意に見えにくくしている車を見かける。そして、最近は以前にも増して、そのような車を多く見かけるようになった。
時として、ある種の事件に関与した車が、それを目撃した人が、そのナンバープレートを記憶していたことで、事件が解決した事例を聞くことがあって、ナンバープレートの存在は非常に重要である。そもそも、ナンバープレートを車体に取り付けることが義務付けられているのは、それが人に見えるように、ということのはずである。
私は、ナンバープレートって、その車を特定するもの、つまり、車のアイデンティティであって、その数字はとにかくとして、車の顔といっても過言ではない、と思っている。それで、私は、いつも洗車のときに車体のどの部分よりも、最も注意を払ってよく洗っている部分は、車のナンバープレートであり、誰が見てもすぐ読み取れるよう心がけている。
でも、車に乗っていると、前述のように、ナンバープレートを故意に見えにくくした車を実に多く見かけるようになったのは、どうしたことなのか。乗用車の場合、薄くスモークのかかったプラスチック板をナンバープレートに重ねたものが多いみたいだ。また、トラックでは、ナンバープレートが、あたかもドロを被ったため、見えなくしたようなものや、ドロ除けのための鉄板などが、偶然にもナンバープレートを隠してしまって、結果として、それが見えないように細工したもの、など、いろんな事例を見かける。
私は、表示義務のある、車のアイデンティティを、あえて見えにくくしている人は、どう見ても、その車のアイデンティティを見られたくない、という人である、としか思えず、明らかにモラル違反であって、その運転者の人間性を疑ってしまう。こんなわけで、最近、モラルに欠けた人が多くなったのだ、と思わざるを得ない。本来、表示義務を謳っている以上、警察署など所管の機関は、はっきりとした表示義務の意識を徹底させるべきである、と思う。例えば、ナンバープレートは交付されたものそのもの自体を車体に取りつけるよう指導して、プラスチック板などとの併用設置を認めない、など、徹底させるべきだ。そして、ナンバープレートを故意に見えにくくしている車の運転者には、罰金や罰則などの措置を講ずるべきだ、と思う。
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のどから出かかった人の名前など、後になってふと思い出す

2008-01-18 10:34:04 | Weblog
先日居間でコタツに入ってテレビを見ていたら、画面の中で、かつて私が訪れたことのあるロサンゼルス郊外の海岸に触れていたので、私は"アア、あの海岸か!"と思って、となりの家内にその名前を口に出そうとしたが、すぐには口から出てこなかった。のどもとまで出かかっている、と感じて、少しの間、何度も思い出そうとしたのだが、どうしても思い出せず、あきらめたことがった。
そして、その後も、別のテレビ画面では、映っていた登場人物が、有名俳優に似ていたので、その俳優の名前をスグに口に出そうと思ったのだが、このときも口から出てこなかった。あせって思い出そうと試みたのだが、その場では、どうしても思い出せなかった。
それから、1日か2日後になって、先刻忘れていた、どうしても思い出せなかったことが、まったくの突然に、ふと思い出されてきて、口から出てくるようになった。そうそう、あの時に言おうとしたのが、ロサンゼルス郊外のサンタモニカ海岸だった、ということ、とか、有名俳優の名前が小林稔侍さんだった、ということが急に思い出されてきたのだ。こういうことって不思議だな、って思う。思い出してくるまでの間、そのことをしょっちゅう考えていたわけでもないのに、どうして、突然思い出せたのか、不思議、としか言いようがない。
昔、どこかで、"途切れていた記憶が、なんらかの弾みで、繋がって思い出されてくる" のだ、という解説を耳にしたことがあるのだが、それにしても不思議だ。
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「チューしてあげるから、早く来て!」という言葉に誘われ孫娘の家へ

2008-01-14 22:44:24 | 
今日は成人の日で祝日です。昨日とは、うって変わって風はほとんど無く、晴天に恵まれました。朝方、電話の呼び出し音に目が覚めて、電話に出たら、千葉に住む、我が娘の子供である、今年小学生になる長女の孫娘からで、「きょう、遊びにきて!」という電話でした。私は、仕事も残っているし、日帰りになることもあって、「お仕事があるので行けたら行くネ」といった気の無い返事で電話を切りました。
実は一昨日の夕方、千葉に住む次女の孫娘が40度近い熱を出したため、家内が昨日の早朝、車で千葉に出かけており、家内は昨晩は娘宅に泊まりました。で、その後、私は、孫娘の熱も下がって元気になった、ということを聞いていて安心していました。
さて、今日は、正午頃、またまた、孫娘から「きょう、遊びにきて!」という電話がありました。そして、こんどは、この言葉に続けて、彼女は「チューしてあげるから必ず来てね!」と言いました。私はこの言葉には勝てず、電車で1時間半くらいかけて、孫のところに行きました。高熱を出した孫娘も元気に遊んでいて安心しました。私は、千葉では、少しは仕事ができるかな、と思って資料を持参しましたが、その予想は甘く、いつもと同じく、二人の孫娘の遊び相手にされてしまいました。それに、「チューしてあげる!」と言った孫娘は、私の手の甲にチューしてくれましたが、ほんとは"ホッペぐらいにはチューしてもらえるかな"って思っていただけに、私のこちらの期待も甘かった、ということでした。
今日の夕食は、家族みんなが大好きな手作りのにぎり寿司を食べて、その後、家内の運転する車で、私たちは自宅に帰ってきました。
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愛が生んだ奇跡のドラマに感動!-昨晩のテレビ番組を見て

2008-01-10 10:40:27 | 家族
たまたま昨日は、仕事の途中で夕食を摂る時間になり、その時、TBSテレビで午後7時頃から放送されていた番組「有名人壮絶介護日記!」を見ました。迫力あるドラマを見た思いがする素晴らしいドキュメンタリー番組で、感動しました。
痴呆になった母を、息子のお嫁さんが必死に介護する、とか、娘とそのご主人が手を携えて懸命に介護する姿、などが紹介されていました。そのほか、余命6ヶ月と宣告された乳ガンの妻を夫が必死に看病した結果、奇跡的に5年以上長生きできたものの、その後ガンの転移の為についに力尽きた姿、も放映されていて、私は食事が済んだ後も、放送終了時刻の午後9時近くまで、仕事を後回しにしてテレビに見入ってしまいました。
番組のラストでは、有名人ではありませんでしたが、ある日突然、階段を踏み外して致死率90%以上という脳の傷を負った働き盛りの夫を、妻が献身的に自宅で介護する様子が紹介されていました。当初は発声すら不可能だった夫が声を出すようになり、また、失われていた昔の記憶も奇跡的に回復した姿なども紹介されていました。そして、孫を含めた家族全員が車で「うなぎ」専門の料亭に出向いて、夫が大好物だという「うなぎ」料理を前にしたシーンでは、父に向かって「しあわせだよね、おとうさん!」て、お嬢さんがにこやかに語りかけていましたが、このシーン、今でも私の脳裡に焼きついています。
私は番組を見ていて、愛というものの素晴らしさに感動しました。お金では買えない愛というものの偉大さを見せつけられた思いを感じました。
ゴールデンタイムの時間帯に、このような素晴らしいテレビ番組を放送していたのは非常に価値ある、と思いました。
なお、番組の中では、介護を終えた人が、「臨終のときには、手を握りしめてあげることが大切です。」と語り、臨終を迎えた人には、温かい手のぬくもりが大切であることを強調されていました。--思えば、私はこれとそっくりの場面を体験したことがあります。20年以上も前のことですが、たまたま私は、病に侵された家内の父のそばにいて、その臨終の時に、手を握りしめてあげていた思い出があります。
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お正月、私の子供達の家族のほか弟2人が我が家に来訪

2008-01-09 10:48:49 | Weblog
2008年のお正月の連休は、ほとんどのところで1月6日までだったようです。この期間には、私の娘と息子のそれぞれの家族が、みんなして我が家に泊まりに来て、賑やかに過ごして行きました。でも、彼ら以外では、私の弟-3男と4男の二人が日帰りで訪れただけで、例年に比べて静かなお正月となりました。
母と同居する長男の我が家では、離れて暮らす3人の弟と3人の妹がいるので、かつては、弟、妹たちや彼らの家族が大勢してお正月に押しかけて賑わったものです。これって、時代の流れかもしれません。核家族化の進展も影響しているのかもしれません。彼らの家族も大きくなり、孫も成長するなどして、彼らは彼らなりにお正月を祝うなど、我が家に来る余裕もなくなってしまったのかも知れません。お正月に我が子たちと賑やかに過ごしたいであろう母にとっては、今年はさびしい年明けと映ったかもしれません。
ところで、現在87歳の母は、今朝は午前3時半くらいには起床して、朝7時ごろには電車で、いつも行っているお寺に張り切って出かけて行ったようです。2階の寝室で寝ている私は今朝も5時半ごろ、階下のテレビの騒音で目が覚めてしまいました。と、いうのも寝室の真下が応接間になっていて、母は、いつものように、そこのテレビをつけた状態で、朝食の準備やらお寺に行く準備をしているのです。テレビを見ているわけでもないのに音を大きくしているので、ときどき私は母に苦情を言うのですが、聞き入れてもらえないのが現状です。
母は我が家の菩提寺となっているお寺に毎月のように2~3回くらいは電車に乗って出向いており、同寺でのボランティア活動とかクラブ活動みたいなことをして楽しんでいるようです。今では、これが彼女の生きがいの一つになっているみたいです。昔の若い時分から、お寺やお坊さんが好きだ、と豪語している母にとっては、お寺に出向くことが健康の源泉になっていることは確かです。
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イチロー選手の素顔を知ってファンになった。昨日のNHKテレビを観て

2008-01-03 12:20:15 | スポーツ
昨日は夕方、三男の弟が一人で我が家に新年の挨拶に来た。で、私は彼と家内と3人で近くのスーパーに行き、とびっきり美味しいそうなマグロの刺身などを買ってきて、一階の応接間で、母を囲み、コタツに入って夕食をともにした。想像したとおり、マグロの刺身は超美味しくて、今までに食べたことないほどのように思えて、また食べすぎ気味になってしまった。
テレビを観ながらしばらく歓談したあと、私は、普段過ごしている二階の居間に戻った。そこでは、一足先に戻った家内が、コタツに入ってテレビを観ていた。ひと目みて、テレビ画面に映しだされているのが、メジャーリーガーのイチロー選手だということがすぐわかった。私は、スポーツでは野球はほとんど興味なく、少しの間、見るともなく何気なく見ていたのだが、すぐにその画面に釘付けになった。
番組は、NHKから放映されている「イチロー・スペシャル」で、野球界で超スーパースターのイチロー選手に関する長期間の密着取材記録だった。スーパースターの彼が、いかにしてスーパースターになりえているかが、十分に垣間見えるすごさが、ヒシヒシと伝わってくるものがあった。
人気を背負う彼が、人知れず苦悩を抱えて、努力する姿、素顔の姿が、リアルに捉えられていて、見ていて彼が好きになった。彼が日本の野球界を離れてアメリカのシアトルマリナーズに移籍してから久しい。その当時から間もない時期に、私は家内や娘夫婦とともに、シアトル郊外に住む妹の所に観光旅行する機会があって、妹の息子の好意に甘えて、みんなして、シアトルのセーフコ・スタジアムに野球の試合を観に連れて行ってもらったことがあった。その時の試合はシアトルマリナーズとデビルレイズの試合で、もちろんイチロー選手も出場していたし、また、佐々木投手も出場していた。
番組では、イチロー選手が縁起をかつぐ、といったような、意外な面も知らせてくれていた。セーフコ・スタジアムの場合、打者として野球場のダッグアウトからグラウンドに出てくる際に、そのダッグアウトから地上に出るまで5段ぐらいの階段を上るそうで、彼はその階段を上る時に、最初の一歩を必ず左足から先に踏み出すそうだ。そして、ヒットを打てたときは、次回の打席のときも同じく左足から先に1段目を踏み出して上ることにしているそうだ。もし、ヒットがでなければ、次回の打席は右足から先に1段目を上って階段を上るそうで、こうして、その時、ヒットを打てたときは、次回の打席も右足から先に1段目を上って階段を上るそうな。
2007年のメジャーリーグでは、最後の最後まで、イチロー選手が首位打者になれるかどうか、ライバルの選手とデッドヒートを繰りひろげて、スポーツニュースでも大きく取り上げられていたことは、サッカー好きの私も知っていた。しかし、彼が頼みの綱として期待をかけた最後の打席で、ヒットを打てず、ついに、ライバルに首位の座が確定してしまった。テレビでは、その直後、彼がライトの守備位置に付いたばかりの姿をアップで捉えていた。その時の彼の動作は首を下向きかげんにして、身体を1回転したようだ。よく注意してみると、彼の目に、うっすらと光るものが見てとれた。男泣きをしているようだったが、この光景からまさに彼の悔しさがまざまざと伝わってくるのを感じとれた。
番組の中で、イチロー選手は、こんなこともしゃべっていた。--"大勢の野球ファンがわざわざスタジアムまで足を運んで観にきてくれている。それに応えるために、自分も最善を尽くさねばならない"と。私は、彼の真摯なひたむきな姿に、感動、ファンになった。
テレビのラストの場面は、イチロー選手が奥さんと愛犬と一緒に散歩している風景だった。
彼は今年も活躍してくれそうだ。
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2008年の年明け-青空・無風で素晴らしい

2008-01-01 22:18:00 | Weblog
2008年の元旦、午前7時過ぎに起床、既に外は明るい陽光で雲は一点も見当たらない。今日は、いつもの元旦と同じように、千葉県の中山寺に初詣に出かけた。家内と二人で午前8時半にJRの駅から乗車。途中、車窓からは、筑波山が見え、それに、雪を被った富士山もくっきり、
今年がこんな天候のように素晴らしい年でありますように願った。
中山寺には、午前10時20分に到着、奥の院で御祈祷を受けるため、受付の用紙に祈願の願い事を記入するが、大勢の参拝客が列を作って並ぶため、受付をしてもらうまで約1時間かかった。
こうして、無事、参拝を済ませて家路につき、昼食を取らず、午後2時過ぎに自宅に到着した。
さて、今日、元旦の新聞は、普段配達される新聞紙面に加えて、新年特別版が別紙として付属している関係で、分厚く、その上、スーパーマーケットなどの新年の売り出しの折込広告などもいっぱい入っていて、量ってみたら全体では、なんと重さが1.35Kgもあった。今日、新聞配達をした人は、こんな新聞を30部配達するとしたら、それだけで40Kg以上の重さとなって相当な負担になっていたはずだ。元旦のこんな分厚い新聞を見るとき、きまって思い出すのは、かつて私が中学生時代に新聞配達をしていた時のことである。当時、元旦の朝日新聞一面トップの大部分は金色インクで印刷された富士山の写真だったのを今でもハッキリ憶えている。元旦のその日、私は、分厚い元旦号の新聞を100部以上、肩にまわした布製ベルトにくるんで徒歩で配達していた。当日は、雪が降った朝で、深さ30センチほども積もっている中、配達していたのだが、配達の途中で、分厚い新聞の束がベルトからズレて、大量の新聞の束を雪の上に落としてばらまいてしまい、困りはてていたことがあった。幸い、そのとき、友達の新聞少年が近くを通りかかり、彼に手伝ってもらったことが想い出されて、懐かしい。
さて、午後7時半、我が家には、娘夫婦、息子夫婦、それに孫たち4人も勢ぞろいして、泊まりに来た。てんやわんやの賑やかさ-幼稚園とか、小学校にいるような賑やかさになった。揃って夕食、楽しく過ごした。夕食後は、娘の主人が、4人の孫たちをお風呂に入れてくれた。
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