手打ち蕎麦をする私の徒然日記

2003年1月に手打ち蕎麦に初挑戦。手打ち蕎麦の事ばかりでなく、日常インパクトのあった事柄を思ったまま綴ったブログです。

大ショック!志村けんさんが新型コロナウイルスで亡くなった!!

2020-03-30 12:45:52 | 娯楽
今朝、食事を終えたところで、テレビに突然のニューステロップが流れた。何があったのか見てみると、新形コロナウイルスで入院していたコメディアンの志村けんさんが昨晩11時10分に亡くなった、という。
私は思わずエッ!と驚くほどの大ショックだった。ときどきテレビ放映される、志村けんのバカ殿様シリーズが大好きで、必ず見ていた。
近頃はまあまあ運良く改善されてきたのだが、私は昨年の中頃くらいあたりから何故か(おそらく介護ストレス?)ノイローゼ気味に陥って、以来最近まで、体重も細って、好きな社交ダンスにも行く気力もなくなっていた。そして、家で横になったまま、テレビを見る気にもなれず天井を仰ぎ見て柱時計を見やりながら、ただただ時間が経つのを待って、仕事などで外出している妻が帰宅するのを待っている、という状態であった。しかしながら、こんな状態の中でさえも唯一テレビを見る気を起こさせた番組が、志村けん主演のバカ殿様シリーズであった。この番組だけは、必ず見る気を起こさせてくれた。それだけ、私は志村けんのお笑いが大好きだった。 
思えば、私が30歳から40歳代の頃、私は我が子を連れて渋谷公会堂などに行って、当時のTBSテレビで生放送されていた「8時だよ全員集合!」を何度も観に行ったことがあった。そこでは、志村けんさん、いかりや長さん(いかりや長介さん)やキャンディーズなど、今は懐かしいメンバーを実際に観て大いに笑い楽しんだことが懐かしい。
ついでながら、私が大好きなお笑いタレントといえば、志村けんさん以外には、いかりや長介さん、森川信さん、堺駿二さん(堺正章さんの父)がいる。かつて、新宿コマ劇場に出演していた森川信さんの面白さが今でも目に焼き付いている。それと、映画で観た堺駿二の面白さも絶妙で決して忘れ難い。

今だから話せるーー歯の内側 歯茎の近くに固い隆起物が?!

2020-03-16 18:48:56 | 健康
3日前(3月13日)のことをお話ししましよう。
その日は、ここ2か月近くにわたって治療を受けていた街の歯医者さんからやっと解放されてから、間もない日のことでした。
この日、いつものように、昼食を済ませて、入れ歯を外して、歯磨きをしていた時のこと。この日に限って、私は鏡を前にして何気なく、口の中を覗き込んでみました。すると、右下の歯の内側 歯茎の近くに歯肉の隆起物があることに気がつきました。色は歯肉と同じ色のピンクがかった色で、手で触って押してみると、固いこぶのような感じでした。
ウワーッ!咄嗟に頭の中に衝撃が走ったのは言うまでもありません。口内にできた悪性の腫瘍かもしれない!と思ったのです。私は居ても立っても居られない気持ちになり、今からでもすぐに歯医者さんに行かなければ、と思いました。それで、歯医者さんは、先日まで診てもらっていた、自転車で5分くらいの所の街の歯医者がいいのか、車で15分ほどの所の大病院内の口腔歯科がいいのか、ちょっと迷いましたが、やはり設備が整った病院に行くことにしました。このときばかりは、私の心は大いにビビっていましたから、妻に頼んで一緒について行ってもらうことにしました。
午後2時半を過ぎたころのことで、いつもだったら妻は、JR電車に30分乗って孫の家に家事などの手伝いに行くのですが、この日ばかりは、妻には、その時間帯を遅らしてもらい、病院に同行してもらいました。
病院の歯科は、運よく空いていて、すぐに自治医科大病院から出張していた女性の先生が診察してくれました。
私の口内を一目診た先生は、心配におののいていた私に、“骨隆起”と呼ばれるもので、心配無用と言って、すぐに私の心を和ませてくれました。そして、この隆起は人によってできる人とできない人がいて個人差がある、とのこと。そして、この隆起は噛む時の強い力により、何年もかかって徐々に顎の骨が盛り上がってできるようだ、と説明され、その証拠に顎の部分をCTで撮影したものを見れば、納得できるでしょう、と言われました。そこで、ついでながら、すぐにCTを撮ってもらい、私も妻も、その映像を見て、先生の説明どおりであることを確認、安心したのでした。
病院からの帰途、今から孫の家に向かう妻を、私が運転する車でJRの駅まで送りとどけたのは言うまでもありません。
さて、帰宅した私は、歯茎の近くにできた固い隆起物について、インターネット上で解説があるのか調べたところ、その解説記事を見つけたので、参考にお知らせしておきます。大杉歯科医院のもので、そのURLは、次の通りです。
https://osugi-dc.com/blog/oral-surgery/959/


今年は日本初の人工衛星誕生から50年!

2020-03-12 17:13:01 | 想い出
毎年迎える2月11日。この建国記念日という日は、日本で初めて人工衛星が打ち上げられた記念日と重なる日でもある。このブログでも、10年前の2010年の2月に、衛星誕生から40年として言及した。
50年前のあの日 1970年(昭和45年)2月11日、鹿児島県の大隅半島に位置する内之浦のロケット発射場は快晴だった。そこから発射された「L-4S-5(ラムダ4S5号機)」と名づけられたロケットが自身の頭部に抱いた衛星を、日本初の人工衛星として地球を周回する軌道上に載せたのである。当時は、我が国には、今のようなJAXA(宇宙航空研究開発機構)といった、打ち上げとか研究開発に関わる組織は無く、それに代わって、東京大学の付属研究所によって、研究・開発が進められていた。その当時、付属研究所に勤務していた私は、ロケット打ち上げのたびに、研究所の教授や仲間の研究所職員と共に内之浦に出張して、みんなして打ち上げに参加・協力してきた。そんなわけで、私が偶然にも我が国で初めて成功した衛星打ち上げの際に居合わせ、ほんのちょっぴりながら成功に協力できたことは、私の人生にとって大きな記念となっている。
なお、このロケット打ち上げに伴なった出張などでは、いろいろな想い出が沢山あるので、折を見て、このブログに書いてみようと思う。
あれから、早くも、ちょうど10年が経過したが、あの人工衛星を打ち上げるときに、実際に使われたロケットのランチャー(発射台)は、相変わらず現在も、国立科学博物館裏手の所の屋外に設置されていて、その雄姿をさらし続けている。私は、JRの宇都宮線とか山手線や京浜東北線に乗車中に、電車がJR上野駅近くにさしかかったところで、いつものクセで、国立科学博物館の方角に目を向けて車窓から、その雄姿を眺めている。胴体に L-4S-5  と書かれたロケットは、人工衛星を打ち上げるのに使ったロケットの模造品だが、これを載せているオレンジ色をした発射台は、50年前に使ったもの、そのものである。

9年前の東日本大震災の当時、私はダンスを習っていた

2020-03-11 16:02:31 | 想い出
地震が起きた当時、渡良瀬川近くの「リバーサイド」体育館で行われていた社交ダンスの講習会に出席していた。八木下先生のクラスで、たしか、サンバの講習中だった、と記憶している。
地震が発生したとき、体育館が大きく揺れたので、私たちは、非常口の扉を開けて、外に出た。そして、渡良瀬川の土手の草むらに腰をおろして、体育館がユッサ・ユッサと左右に大きく揺さぶられているのを眺めていた。
地震がおさまって、しばらくしてから、車で我が家に戻った。
自宅2階の10畳の洋間では、壁際に設置された食器棚は倒れてはいなかったものの、その観音開きの扉は、開いていて、中に収納されていたワイン・グラスやコップや、数万円したコーヒーカップなどが棚からこぼれ落ち、コナゴナに割れていた!、
今日は、例年なら、政府主催でその大震災の追悼式典が行われるところだが、最近、世界を揺るがしている新型コロナ・ウイルスによる病気拡大を防ぐため、中止された。ただ、それに代わって、大震災発生時刻の午後2時46分に、政府による簡単な黙祷の式典が行われた。この時の1分間にわたる黙祷の模様は、NHKのテレビチャンネルで放映された。私もこのときばかりは、炬燵から抜け出て、座敷に正座し、東北方面に向かって、合掌して黙祷した。
なお、この式典と同時刻に大震災に関わる報道を行っていたのは、民放TV局では、6チャンネル(TBSテレビ)と8チャンネル(フジ・テレビ)の2局だけだった。今後、時の流れとともに大震災のことが忘れ去られ、風化しつつあるのかなぁ、と思うと、寂しいと同時に残念なことである。