手打ち蕎麦をする私の徒然日記

2003年1月に手打ち蕎麦に初挑戦。手打ち蕎麦の事ばかりでなく、日常インパクトのあった事柄を思ったまま綴ったブログです。

今日の夕食は外食、でも不味かった!!

2010-02-27 20:07:30 | グルメ
今日は、最近、孫娘のところに行ってないので、家内と一緒に数日前から、泊まりに行こう、と決めていた。でも、昨日の朝頃から喉が痛んで、風邪気味になってしまっていて、今日は、その症状がもっと悪化したので、涙を飲んで行かない、ことにした。それで、家内一人が車で、孫のところに行った。
で、今日の夕食は、私ひとり、地元で外食することにした。JRの駅のすぐそばにある、高層マンション一階にいくつかの飲食店が入っていて、その中の和食の店に入った。風邪を治すためにも、肉食を食べることにして、トンカツ定食を注文した。でも、不味かった。ゴハンは水分の抜けたパサパサ状態だし、カツのころもは分厚くて、固い。その上、カツの肉も、脂肪部分が多く、筋肉の部分も入っていた。もう、二度とこの店には入らないが、でも、よくもまあ、駅の近くで、このような不味いお店商売をしているもんだなあ、とあきれてしまった。それと、田舎の街だからかもしれないが、お客さんが味にうるさい人が少ないせいで、やっていけているのかも知れない。
一方で、日頃、自宅の食卓に並ぶ、家内の手料理はすこぶる味もよく、文句のつけどころがない。長年に亘って家内の料理に舌がなじんできたからではなく、結婚当初から、旨く感じてきた。彼女が、大学で栄養科を専攻したから、かも知れないが、どんな種類の料理を作ってもらっても、不味い、と思ったことは一度もなかった。
今日のすごく不味かった外食が、日頃の家内の料理の旨さを、思い出させるきっかけとなった。我が家の二階のものすごく狭い台所のことで、いつも不満をもらしている家内だが、その料理さばきは、実に、お見事、と言うほかない!。

高所の作業事故や階段など、日常にも危険がいっぱい!

2010-02-19 11:01:17 | 人生

ちょうど一週間前の今日、私は、今思い出してもゾッとするような、まさに奇跡的な出来事を経験した。
それは、その日の午前での出来事だった。食事やテレビを見るなど、いつもメインに使っている和室の部屋の蛍光灯からぶらさがっている紐を引いた時、点灯の具合が悪いのに気づいた。蛍光灯のサークライン・ランプ自体は、たしか、1年ぐらい前に交換したばかりなので、もう20年以上も使い続けている蛍光灯本体が寿命なのかな、と思って、とにかく、天井からぶら下がっている蛍光灯本体を取り外してみよう、と思った。
蛍光灯は、いつも足を入れているコタツの真上にぶら下がっているので、私は、コタツの上に乗って、取り外すことにした。外すには、天井板ギリギリのところにある留め金具に手をやって、力を入れて少し金具をひねらないといけなかった。コタツの上で背伸びしてやっと天井まで手を伸ばした私は、力を入れて金具をひねって蛍光灯本体を外したのだが、途端に本体重量があまりにも重かったので、爪先立ちしていた私は体勢を崩してしまい、蛍光灯を手にしたまま、コタツの上から、一瞬にして、ドドーッと、畳の上にダイビングする形で転げ落ちていってしまった。
ほんの一瞬の出来事で、畳の上に投げ出された私は、茫然自失の状態だった。その後、痛みのあるところがどこなのか、骨折はあったのか、などを思って、ほんの少しだったが、身動きしないでじっとしていた。手を口にあて、口の中を切っていないか、なども確かめた。口の中はなんでもないようだったが、右手の中指から血が出ていた。それと、右ひざのあたりが打撲気味で少し痛みを感じたが、骨折はしていないようだ。
やがて、起き上がって、あたりを見渡すと、コタツの上に乗っていたノートパソコンも畳の上に転落していた。蛍光灯の中の大小2個の蛍光ランプは、不思議にもそのサークライン・ガラスは割れていなかったが、ソケット部分の白いプラスチック部分だけは、割れていた。また、蛍光灯本体のプラスチック・カバーが一部分割れたり、ヒビが入ったりしていて、指の傷は、どうも、この部分で切ったのかもしれない。打撲気味だった膝下の部分は、ズボンをまくりあげて調べたら、膝の下のあたりに両足とも血が出ていたものの、骨折はしていなかった。
この事故のことを弟に話したら、彼が経験した類似の偶発事故のことを話してくれた。彼は、大きくて重いダンボール箱を両手いっぱいに抱えて、会社の螺旋階段を下りる途中に、足を踏み外して、前につんのめって、荷物もろとも5-6段下に転落してしまった、という。その時は、大きいダンボールのせいで足元が見えなかったのが、転落の原因だったそうだが、転落して着地したときに、昔習い覚えた柔道のワザ-受身-が幸いしたのだ、と言っていた。一方で、昨年だったか、一昨年だったか、のこと、弟が住んでいる家の近所の人は、脚立に乗って植木の手入れをしていた時に、転落して、亡くなってしまった、という。
そういえば、有名な女性歌手の松尾和子さんは、たしか、階段から転落して亡くなった、ということを思い出した。
今回の私の事故の体験は、日常なにげないところにも危険がいっぱい潜んでいることを教えてくれた。今振り返っても、よくもアノとき、テレビの角などに頭を当てる、などのこともなく、ほんの軽傷で済んだものだ、と思わざるを得ない。九死に一生を得た、と言っても決して過言ではない、と思う。それにしても、不思議に思えるのは、今回の私の事故、それと、弟が階段の踏み外し事故、両方とも、大事にいたらずに済んだ、ということである。まさに運が良かった、としか言いようがない。とにかく、良い運をもたらせてくれた、目に見えないモノ-神仏なのか先祖の皆さんなのかな、と思う-には、心から感謝したい気持ちでいっぱいである。



今日は何の日?

2010-02-11 19:45:54 | 想い出
昨日も書いたように、日本で初めて人工衛星が打上げられた日です。40年前の今日、打ち上げチームの、私たちは、午前3時頃起床して、鹿児島県内之浦町の旅館から、大型バスに揺られて、大隈半島の打ち上げ実験場に到着したのでした。快晴となった当日は絶好の打ち上げ日和だったことを覚えています。
ロケットが発射されてから、1~2時間後ぐらいだったろうか、ロケットに搭載された衛星が人口衛星として地球周回軌道に乗ったことが確認されると、実験場は、喜びにつつまれました。報道陣による記者会見なども行われました。
旅館に戻ると、私宛に、中学校時代の同級生の赤坂さんから、祝電も届けられていてビックリしたことを、いまでも覚えています。



日本初の人工衛星誕生から、明日で40年

2010-02-10 16:35:42 | 想い出
明日2月11日は、建国記念日である、と同時に、日本で初めて人工衛星が打ち上げられた記念日でもある。明日は、打ち上げられてから、ちょうど40年目にあたる。
40年前の1970年2月11日のあの日、私も打ち上げチームの一員として、参加していた関係で、毎年2月11日は思いで深い日だ。打ち上げられた人工衛星は、その打ち上げ基地のあった鹿児島県の大隅半島の名前をとって、「おおすみ」と名づけられたのだが、衛星打ち上げ成功にいたるまでには、4度の打ち上げ失敗もあった。打ち上げに使ったロケットはラムダ4S型と名づけられて、その5機目のラムダロケット-----L-4Sロケット5号機の打ち上げで、やっと成功したのだった。
日本初の人工衛星 「おおすみ」
「おおすみ」誕生秘話(1)
「おおすみ」誕生秘話(2)
打ち上げに使ったロケット発射台(ロケット・ランチャ)は、現在、国立科学博物館裏に実物が展示されていて、たまに、見に行っているが、実に懐かしい。




息子の自宅の新築祝いは超楽しかった!

2010-02-08 10:12:29 | 家族
大安吉日の昨日は、我が息子の自宅の新築祝いが行われた。晴れた日の昨日、埼玉に住む息子の家の新築祝いが行われた。家は、私たち夫婦が長年住んでいた家を建て替えて作られたものだ。そして、建設にあたった大工さんが、息子のお嫁さんのお父さんでもあるので、家の室内外には、いろいろと工夫がちりばめられていて、息子夫婦ご自慢の家だ。家の屋上にはバルコニーも設けられていて、そこに上ったら、快晴の昨日は、雪をかぶった真っ白い、富士山がクッキリ美しく眺められた。
午後から始まった新築祝いには、私たち夫婦のほか、千葉に住む娘一家4人、それと息子のお嫁さんの両親も参加した。息子のお嫁さん手作りの沢山の料理などを前にみんなで乾杯。我が娘一家の子供二人、息子の子供二人を合わせた4人の子供たちは、主にテレビゲームを賑やかに楽しだりした。私は、息子のお嫁さんのお父さんと、手打ち蕎麦の打ち方などに花を咲かせた。それから、今月13日に誕生日を迎える、現在小学3年生の、息子の2番目の子供の誕生祝いも行われて、ケーキも振舞われた。
こうして、昨日は、賑やかで、笑いのたえない、楽しい一日だった。みんなが元気で、楽しく過ごせた、こんな幸せな日が、これからも、ずーっとずーっと長く続いてほしい、と心から思った。



幼稚園の発表会で初めて知った素晴らしい曲「マイ バラード」

2010-02-06 13:12:27 | 
昨日は以前から知らされていた、孫娘の通う幼稚園の音楽発表会だった。朝方、家内の運転する車で、彼女の家に行き、昼食を急いで食べた後、午後から始まった発表会に出席した。大勢のお父さん、お母さん、赤ちゃんや子供たち、おじいちゃん、おばあちゃんたち、が見ている中、年長さん、年中さん、年少さんの各クラスの園児たちが元気に楽器を演奏したり、大声で合唱するのを見て、いつもことながら、沢山の若さ・元気をもらえた。それと、子供たちって、どの子も、みんなほんとに可愛いな、って、心から思ったものだ。これからも、みんな元気に幸せに育って、いつまでも楽しい毎日を過ごしてほしい、って、心から願わずにいられなかった。
園児たちが唄った中には、私が初めて耳にした歌もあって、中でも、特に、この日、最後に唄っていた、「マイ バラード」っていう曲は、素晴らしかった。
♪ みんなで歌おう 心をひとつにして
悲しい時も つらい時も
みんなで歌おう 大きな声を出して ・・♪
で、歌が始まるこの曲には、何故か、胸を打たれた。聴いていて、愛の賛歌の歌、ひいては、世界の平和を希求する歌にも聞こえた。
マイ バラード
私にとっては、東京学芸大学附属国際中等教育学校教諭である松井 孝夫さんが作詞・作曲された、という、この曲を知ったことは、音楽発表会に出席しての、思いもよらない、大きな収穫だった。