
ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を
(今更ながら)読んでいるのですが
その中巻の中ほどに1本の葱の寓話と言うのが出てくる。
これは、芥川龍之介の短編の「蜘蛛の糸」と同じ話です。
蜘蛛の糸の代わりに一本の葱。
罪人は生きている時に一度だけいいことをした。
それは一本の葱を困ってる人に与えたというだけのことだけど。
罪人が葱につかまって何とか助かろうと他の人を蹴落とす心理はよくわかる。
必死だったら、そうなるでしょう、多くの人が。
こういう罪人が何のきっかけもなく利己心をなくすはずもないのだから
葱が切れて地獄に堕ちるのは必然でしかないのです。
だから、閻魔様なり神様なりは酷なことをするなぁと思った。
そこで他人を思いやれるほどの人はほとんどいないだろうし、
そんな人は、そもそもこの場にいないことでしょうよ。
これって同じような話が他にもあちこちにあるのだろうか。
天国と地獄、という概念のある地方には
それぞれのバリエーションがありそうですね。
わたしはどうもこの葱の話の方が好き。
蜘蛛の糸より、生前助けた相手が人間なので共感しやすいのかも。
(しかしながら「蜘蛛の糸」は半分トラウマのようにわたしの心を占めていて
虫を殺すたびに、天国への道を失うような罪深い気分になるんだけど。
天国と地獄を信じているわけでもないのにね。)
蜘蛛の糸は、気まぐれに蜘蛛を助けたということより
自分が助かるために他の者を蹴落としたという部分が主眼というかテーマと言うか、
教訓というか、クライマックスのように思えるけど、
葱の話は、その部分より、
あなたは一本の葱を誰かに与えたか、というところが大事に思える。
少なくともドストエフスキーはそのように書いている。
よっぽどの罪人でない限り、生きているうちに、
普通に生きているだけで、いい行いだってたくさんしてるものだと思う。
そのつもりもなくても、うっかりいいことをしているものです、大抵の人は。
そういう点では、自分も大抵の人の中に含まれると思う。
ドストエフスキーは魔性の女グルーシェニカにこの寓話を語らせ
彼女の心の中の純粋な部分を見せるし、
とんでもない悪人たちにもどこかにある崇高なものを愛する気持ちも書き出し
そう云う人達をこそ、一本の葱を差し出した者のように書くけど
100万本の葱も、何もかも人に与えてしまう天使のような登場人物は逆に
自分はそれに値しないと思い続けていたりする。
自覚のあるものには、どこまでも与えることを要求するのが
自分自身なのか神なのかはわからないけど、
正しいものほど苦しい道を選び、
それさえ喜びにしなくてはいけないのだなぁ。
(わたしはキリスト教の神もあんまり信じてないです)
さて、わたしは?
(今更ながら)読んでいるのですが
その中巻の中ほどに1本の葱の寓話と言うのが出てくる。
これは、芥川龍之介の短編の「蜘蛛の糸」と同じ話です。
蜘蛛の糸の代わりに一本の葱。
罪人は生きている時に一度だけいいことをした。
それは一本の葱を困ってる人に与えたというだけのことだけど。
罪人が葱につかまって何とか助かろうと他の人を蹴落とす心理はよくわかる。
必死だったら、そうなるでしょう、多くの人が。
こういう罪人が何のきっかけもなく利己心をなくすはずもないのだから
葱が切れて地獄に堕ちるのは必然でしかないのです。
だから、閻魔様なり神様なりは酷なことをするなぁと思った。
そこで他人を思いやれるほどの人はほとんどいないだろうし、
そんな人は、そもそもこの場にいないことでしょうよ。
これって同じような話が他にもあちこちにあるのだろうか。
天国と地獄、という概念のある地方には
それぞれのバリエーションがありそうですね。
わたしはどうもこの葱の話の方が好き。
蜘蛛の糸より、生前助けた相手が人間なので共感しやすいのかも。
(しかしながら「蜘蛛の糸」は半分トラウマのようにわたしの心を占めていて
虫を殺すたびに、天国への道を失うような罪深い気分になるんだけど。
天国と地獄を信じているわけでもないのにね。)
蜘蛛の糸は、気まぐれに蜘蛛を助けたということより
自分が助かるために他の者を蹴落としたという部分が主眼というかテーマと言うか、
教訓というか、クライマックスのように思えるけど、
葱の話は、その部分より、
あなたは一本の葱を誰かに与えたか、というところが大事に思える。
少なくともドストエフスキーはそのように書いている。
よっぽどの罪人でない限り、生きているうちに、
普通に生きているだけで、いい行いだってたくさんしてるものだと思う。
そのつもりもなくても、うっかりいいことをしているものです、大抵の人は。
そういう点では、自分も大抵の人の中に含まれると思う。
ドストエフスキーは魔性の女グルーシェニカにこの寓話を語らせ
彼女の心の中の純粋な部分を見せるし、
とんでもない悪人たちにもどこかにある崇高なものを愛する気持ちも書き出し
そう云う人達をこそ、一本の葱を差し出した者のように書くけど
100万本の葱も、何もかも人に与えてしまう天使のような登場人物は逆に
自分はそれに値しないと思い続けていたりする。
自覚のあるものには、どこまでも与えることを要求するのが
自分自身なのか神なのかはわからないけど、
正しいものほど苦しい道を選び、
それさえ喜びにしなくてはいけないのだなぁ。
(わたしはキリスト教の神もあんまり信じてないです)
さて、わたしは?
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