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sigh of relief

くたくたな1日を今日も生き延びて
冷たいシャンパンとチーズと生ハム、
届いた本と手紙に気持ちが緩む、
感じ。

「ロバのスーコと旅をする」

2024-02-12 | 本とか
タイトルの通りの本だけど、Twitterでフォローしてた太郎丸さんの本です。
会社を辞めて年単位で旅をする人で、バスの旅→徒歩の旅→ロバと旅と
旅のスタイルが変わってきて、ロバとする2度目の旅のことが書かれています。、
ちなみに今は、日本に戻って、今度は初めて日本をロバと旅してらっしゃる。

わたしがロバを好きなことはここでも度々述べてきて、→テルマエロマエのロバ
一軒家でロバが飼えないかと
結構真面目に考えることもあるので、太郎丸さんをTwitterで知った時は興奮し
本が出るときは予約してすぐに手に入れました。

1度目の旅の後、日本に戻り会社員になったものの、ロバとの旅をもう一度したくてまた
仕事を辞めてイランへ。
>仕事から逃げたいとか、何かを成し遂げたいとか思ったわけではない。私はただ、ロバと共にもう一度、自分の知らない土地を自由に歩き回ってみたかった。
人生の悩みや自分探しやそういったことではなく、なんか淡々としているところがいいですね。

イランでは1匹目のロバはすぐに死んでしまって次のロバと旅をするものの
ロバとの旅は禁止だと言われトルコに行くことにし、
でも国境をロバと越えるのが難しくロバは人に託すことに。
筆者はアフガン人に間違えられやすい風貌なので、
アフガン人を見下し差別心の強い人が多いイランでは何度も間違えられて危ない目に遭ったり
嫌な思いをしたりしたものの、日本人だとわかると友好的になって助かったと書かれています。
この人の好きなところは、そこで日本人でよかったとか、やっぱり日本人は好かれてるとか
さすが日本、とはならずに、親切にしてくれたイラン人への感謝や親愛の気持ちはあっても
同じ人がアフガン人なら手のひらを返して酷い扱いをするのだと思うと
そういう人間には嫌な気持ちになるところです。
なにじんとか関係なく、自分に優しいかどうかだけでなく、
人が人を差別するのはいやだということがはっきりしてる。
当たり前のことだと思うけど、これがわからず日本人に親切でいい人だいい国だ、
日本すごい!と何故か得意になる人が多い昨今だからねぇ。

さて、トルコで次のロバを探し、そのロバと旅している時に初めて
ロバに名前をつけます。
ロバと自分だけの旅では、名前をつける必要もないと思っていたものの
Twitterで何度も聞かれたのでつけてみた「ソロツベ」、
その後のモロッコを一緒に旅したのが「スーコ」です。
(名前の由来は本を読んでみてくださいね)

この名前について書かれているところが印象に残った。
>安くはないロバを失ったというのに、この主人には悲壮感はなく、淡々としているように見えた。聞けば名前もつけていなかったという。なぜか、と私が訊くと、主人は「だって名前を呼んでもロバは来ないだろう」と言った。確かに実利面を考えれば、ロバに名前をつける必要はない。
宿の主人が、ロバに逃げられたのに悲しみを感じていないのは色々な理由があるだろうが、しかし名前がなかったことは一つの理由であるように思えた。愛着というものは、名前がなければ生まれない。


>そんなことはモロッコやイランでロバと旅した時には考えなかった。あの時も良いロバだったが、私はなぜだかそれ以上のことをあまり思い出せない。それはソロツベのキャラクターもあるだろうが、それ以上に名前を与えたことが大きかった。(略…)そうなったのはフォロワーの存在があったからだとも思う。私だけでなく彼らがソロツベ、ソロツベと名前を呼ぶことで、私にはかけがえのない相棒と旅しているのだという思いを強くしていった。
最初の動機はどうであれ、名前を与え、それを他者と共有することで、私はソロツベに「個」としての存在感を覚え、私の中になじんでいった。


名前大事よね。
赤毛のアンが自分の名前を「e」のある「Anne」と必ず言ってたのを思い出したし、
道でよく見る雑草の名前を覚えて、心の中で名前を呼びながら歩くことで
すごく仲良くなった気がすることも思い出した。
物も動物も人も、名前を持って、呼び呼ばれながら「個」としての認識が深まるのだなぁ。
ロバとの旅に全然関係ない箇所だけど、この筆者を好きだなぁと思うところの一つです。

しかしロバはやっぱりいいな〜!

「未知の鳥類がやってくるまで」

2024-01-25 | 本とか
だいぶ前に某SNSでフォローしている人がこの本のことを何か書いてらして、
とても興味深かったのですぐにわたしも買った本を、やっと今頃読んだんだけど(積読の沼が深い)
本当に本当に面白かった。わーっと興奮するのではなく、静かに沁みいるのでもなく、静かに興奮する感じ。

最初の「行列」という掌編は、粗筋というものもないスケッチ風の短い描写なのだけど、
ただただ、まばゆいほどのイマジネーションが次から次へと描写されていき、
この短くも幻想的な話を読んだ後では、もう2度とわたしの空は同じ空ではなくなってしまった。
これからわたしは青く広い空を見る時きっといつも、
金糸銀糸で織った美しい服の小さな子供や黒い毛の猿、異形の動物や動物でない生き物を探してしまうだろう。
この先ずっと、空を見るたびに、そのどこかを横切っている何かが今日は見えないかと探してしまうだろう。
ほんの10ページの小説に、わたしの空を一生変えてしまうようなすごいイマジネーションが詰まっているのです。
私が幻想小説慣れしていないせいでいちいち感動するのかもしれないけど…

国同士が詩で戦う話も、そう聞くと幼稚な設定に思えるけど幼稚なところはひとつもない見事な話になってたし、
何を聞いても答えてくれる人が出てくる話は(いわゆるホラ話なのかもしれないけどすごいイマジネーション)
自分もそういう人と巡り合いたいし、自分自身そういう風に物事の続きや始まりの前を
途方もないイマジネーションで紡ぎ出せる人になりたかったなと思ったりした。
他の短編もバラエティに富んで、不安や不穏の匂いのものもあれば どことなくのどかなものもあるけど、
どれも素晴らしくて、読んでいる間、自分の何かを広げてくれる文学というものに
とっぷりと浸れる至福の時間でした。
帯に書かれている言葉が本当であることに感心するけど
>空想とは無限であるということをしばらく忘れていた(岩井俊二)
>何でできているのかわからない、でも異様においしい謎のアメを、口の中で転がしながら、ずっとずっと溶けないでいてくれればいいのにと願う、そんな本。(岸本佐知子)

わたしが無知で普段ほとんど幻想小説やSFを読まないので知らなかっただけで、
作者の西崎憲さんはうちにも2冊くらいある文学ムック「たべるのがおそい」の編集長で
ファンタジーノベル大賞の受賞もされてる方だったのね。
翻訳と音楽もされる方のようです。

「電車の中で本を読む」

2024-01-22 | 本とか
島田潤一郎さんは夏葉社という出版社を一人でされている人で
彼の本は「古くて新しい仕事」という、一人出版社のことを書いた本を読んだことがある。
平易な文章なので、気楽に読み飛ばす程度の薄っぺらなものかと読み進めたけど
仲の良かったいとこのことを書かれた文章には惹き込まれ少し涙ぐんだ。
その島田さんの本で、大阪の素敵な書店でサイン入りのこの本を手に取ってパラパラめくった時に
彼が読んできた本の数が書いてあるのを見て、それが思いのほか少なくてびっくりしたのだった。
「大学を卒業した翌年から46歳の現在まで1372冊の本を読んでいます」
年平均で60冊くらい、さらに、大学生の頃は年に4、5冊しか読んでない時もあったと。
2000年は80冊、2001年は24冊、2002年は55冊、2003年は31冊。
なんと親近感の湧く数字!
ひとりで出版社を始めるような人は、ものすごい数の本を読むのだろうと思ってたのに
思ったより少なくて、驚いた後になんだかホッとしたのです。
本も映画も数が多ければいいというものではないのは重々承知だけど、
数多く見ることでわかることもあるし、自分は人並み程度には読んでるかもしれないけど
読書家という人々とは別の人種で、知識も教養も貧しくて困ってるので、
その読書家たち以上のはずの人が思ったほどたくさん読んでいないことに、
なんだか自分も許されたような気がしたのでした。

前にブログに「本を読む人と言われる最低圏内」で書いたけど
月に2冊くらいという息子に、たったそれだけ?と思ったのは自分自身に対しても同様で
読みたい本は溜まっていくのに月に数冊しか読めなくて、
死ぬまでに読み終えられそうにないと思って
つらいきもちになるし、そもそも自分の読書量の少なさが恥ずかしくなったりするんだけど
別にいいんだ、
自分のペースでゆっくり無理なく読んでても全然いいんだと、ホッとしたのですね。

本の帯には「楽しむため、成長するため・・・・、
       でも、それだけじゃないんだよなぁ」と書かれています。
島田さんは、音楽やスポーツや恋愛について
「文学、あるいは読書がそれらよりも価値がある行為だとは思えませんでしたし、いまも、そう思っていません」と書きます。
本を読まない人を見下すところが全然ない。でも本への愛情は溢れてる。

この本は書評というか書評エッセイで、彼の従兄弟の話もまた繰り返し出てきます。
高知新聞社発行のフリーペーパーでの連載を元に作られたそうです。
相変わらず平易な文章でサラサラと読めますが、
本を読み慣れない人も、まあまあ読む人も味わえる本だと思います。
さあ、今日も本を読もう。

「わたしのペンは鳥の翼」

2024-01-16 | 本とか
最近は新聞の書評や広告を見て本を買うことも多い。
職場で昼休みなどに新聞を読んでる時に気になって、そのまま同じフロアの本屋へ。
徒歩30秒くらい。近い。
書評になってるようは本は結構おいてあって、そのまま買えてすぐに読めるのはすごく良い。

この本は新聞の下の方にあった小さい広告で見かけて気になったけど、
本屋にはなかったのでネットでポチッと買いました。
最近は本屋の翻訳小説の棚がとても縮小されていて、なんならうちの本棚の方が多いくらいです。
わたしが若い頃は翻訳文学の棚は今よりずっと大きかったのになぁ…

さて、この本ですが短い掌編ばかりなのでお風呂で1、2編ずつ読んで2週間ほどで読了。
アフガニスタンの女性たちの書いた短編集です。
作者は18人で23篇。でも、状況的に作者紹介はできない、という。
2021年にタリバンがアフガン全土を支配する前に書かれた話なので、今の状況はもっともっと酷いけど、
この小説が書かれた頃も女性たちには十分ひどいことがたくさんありました。
現在のイスラム教の全てが女性の現代的な人権を認めていないわけではないと思いますが
原理主義的な政権や、あるいはもっと小さく保守的な村などのレベルでは大きく制限され
抑圧に苦しむ女性は多いように思います。
タリバン復権以前の女性たちのそういう状況を、ここではいくつもの視点と切り口から読むことができます。
でも日常のささやかなスケッチ風の話や希望を失わない話も少しはあって、
どこでも誰にでもそれぞれの日々の生活があるのだということが少し想像できるようになってる。
それって映画で見たムスリムの女たちの生活や姿のイメージを何度も思い出させて、
映画がなければうまく想像できなかったかもしれないなとも思いました。
映画や映像が小説から広がる想像力の邪魔になることも多々あるけど、
現実が想像より大きかったりカラフルだったり不思議だったりすることはよくあって(世界は広い)
フィクションでもノンフィクションでも、イスラム社会の話を映画で時々見てきたことが
わたしの場合、この小説を読んだ時の想像と共感を支えてくれました。

アフガニスタンの主要言語、ダリー語とパシュトー語で書かれたものを英語に翻訳されたこの本は
紛争などによって疎外された作家を発掘するプロジェクト「Untold」がアフガンの女性作家を公募し
100人200人の女性が大変な苦労と工夫をして送ってきた作品から選ばれました。
(プリントアウトした作品を持っていると危険に晒される可能性もあった)

窮屈だけど素敵なブーツを買ってもらった少女の話、
仕事に行くのに毎日文字通り命懸けで通勤をするテレビ局の女性、
男性上司に搾取されセクハラされる労働者女性、
最愛の夫を亡くし好きでもない夫の兄との結婚を強要される女性、
自爆テロをした少女の夢と幻想、
夫とその妻にいじめられ折檻される第二夫人、
なんとしても学校に行き学ぶことを励ましあった親友を亡くす女子学生…などなど、
絶望的な状況のつらい話が多いけど、それでも前を向く女性の話も少しだけあります。
昨日も今日もつらく明日なにがあるかわからなくても、それでも生きていく女性たちの短編集。
それぞれの作品は文学的な価値としては、ばらつきがあるように思ったけど
どれにも切実さが溢れ、女性たちの生活や人生を感じさせることに成功していると思う。
この短編集からいくつかをオムニバスで映画化したものが、すごくすごく見たいです。

「死を想う」 石牟礼道子x伊藤比呂美対談

2024-01-15 | 本とか
「苦海浄土」を1年かけて読み終わって、映画「水俣曼荼羅」も見たけど
もう少し石牟礼道子さんのものを読みたくて、目先を変えて対談集を。

これは詩人の伊藤比呂美さんがお母様の介護などをする中で死について考え、
敬愛して行き来のある石牟礼道子さんに申し込んで叶った対談だということです。
前半は、会話が噛み合わない感じもあって、伊藤さんがほしい結論に中々行かないというか、
石牟礼さんが何か語っても伊藤さんは自分の聞きたい結論の方へ誘導しようととする感じがあって
しっくりこないで読んでいたんだけど、
後半で「梁塵秘抄」の話になる辺りから、それぞれがしたい話を語り合う感じになって
いい感じにまとまっていったように思います。

前にどこか別のところでも読んだ石牟礼さんのお母さんのエピソードなんだけど、
お父さんが亡くなってお葬式などの手続きの時に家の番地を聞かれたら
そういうことは全部この人が知ってたので、と言って答えられず泣き笑いしたという話。
なんか好きなエピソードです。何もかも任せていたんだなぁ。
ジェンダー平等の観点から気に入らない人もいるだろうけど、
個人の関係は当事者が良ければうまく分担していいと思うので、
わたしはそんなに任せて安心して生きてきたということがいいなぁと思います。

死んだ人を見た時に「南無阿弥陀仏(ナンマンダブ)」と唱えるのは
他に何を言っても表現できないからで、かわいそうにとか、あわれだとかいろいろあるだろうけど
結局「南無阿弥陀仏」一番がふさわしいんじゃないか、というところは、
なんとなく腑に落ちる感じがした。
家族など近い人を亡くした人にかける言葉で、お悔やみ申し上げますとか、ご冥福をお祈りしますとか
そういう決まった言葉ってなんだか形式でしかないように嘘っぽく感じてしまう。
英語だと日常の言葉で「I'm sorry」という、いい言葉があるのになぁといつも思ってて
人にかける言葉ではないけど、そういう時に言える言葉がないというのはよくわかるし
そういうときに何か唱えるのがしっくりくるのもわかる気がします。

自分が生まれたことは、何かの意味があると思うかと聞かれて
「いや、というよりは、この世に意味のないものは何もない。」
「役割とも違いますね」「ただなんかゆかりがある」
と答えるところは
役割ではないと言われて、なんとなくホッとする自分がある。

「半端な人間ですよ、私だけでなくて生命、特に人間は、生きていくことが世の中に合わないというか」
「どこか無理じゃないかと。生きていることには無理があるなぁという気がします」

そうかも。笑
猫も犬も体一つで生きられるだけを生きているのに、人間は体ひとつの何倍何百倍もの物や機械や場所を作って、
さらには脳みその中も現実の全ても何もかも拡張させてしまって、
生きるということを推し進めようとしてしまう。
生きることに合ってないのを、なんとか折り合いをつけようとしているのかもしれない。

「旅行鞄のがらくた」

2023-12-25 | 本とか
「旅はいつも楽しいことばかりではない。切ない思いをかかえてしまうこともある。人の感情、記憶といったものは厄介なもので、いったん哀しみの周辺に気持ちが入り込むと、自分一人の力で、そこから這い上がることができない時もある。」

フォトエッセイというか、小さいものの写真と文章が多めのこういう本が好きだ。
そういう類の本で一番好きなのはミランダ・ジュライの「あなたを選んでくれたもの」なんだけど
それはフォトインタビュー集と呼ぶにはあまりに読む作品として文学として成立し過ぎている。(褒めてる)
それに比べると、伊集院静のこの本は、あっさりしたとても気楽な読み物である。
「翼の王国」というANAの機内誌の連載だったらしく
機内で旅の予感あるいは余韻の中で気持ちよく読めるものになっています。
「翼の王国」がすごく好きだったことは上のリンク先のブログに書いてあるけど、
この前ANAの国内線に乗ったらもう「翼の王国」は紙の機内誌としてはなくなってて
電子化でデジタル版を読むようになっていた。寂しいことだなぁ。
でもそこでの連載が、こうして紙の本になるのはまだ救いかな。

旅先から持ち帰った「ガラクタ」の写真とそれにまつわる話で、
冒頭に書いたような文章はあるけど、ひとつひとつにちゃんとした物語があるわけでもなく
なんというか文学の香りはあまりしません。あくまで気楽な読み物。

とはいえ、こういうガラクタを眺めるのはとても楽しい。
これは競馬の馬券で、でも武豊のサインがあって、武豊との関わりが少し書かれている。
ゴミになるようなこういう半券、映画や美術館や切符や、そして馬券を
捨てないで持っていることの、その意味は「ガラクタ」ではないのよね。
わたしにも、そして誰にでもそういうものってあるよね。

お風呂で読んでいたこの本を読み終えた翌日に作家が亡くなったことが記事になっていて驚きました。
伊集院静は昔、雑誌かエッセイかなにかで、女の人が年を取って、体もこころもだらしなく弛んできても
そのだらしなさも、かわいいじゃないかと思う、というようなことを書いていたのをずっと覚えてる。
ああ、また食べちゃった、まあいいか、というような、自分に甘い女の人のダメさもかわいいじゃないか、と。
だらしなさなんて、もう人生の敵!でしかなかった超ストイック志向わたしには驚きの言葉だった。
そこまで許しちゃうのか、かわいいと思えるのか、大人の男ってすごいなぁ。
そりゃ、モテるわ、この人、と思いましたですね。(そう言いながら彼の妻たちは美女だったけど)
いつの間にかわたしも少しは大人の女になって、
自分のでも人のでも、敵!と思ってたそういう緩さ、だらしのなさを、
かわいいではないかと思えるようになってきたようにと思う。
だからって、別にモテてないけど。笑

「愛しい小酌」

2023-05-22 | 本とか
料理のレシピ本も料理や食にまつわるエッセイも好きだけど、
写真の小さい本はあまり買わない。
老眼で小さい写真は見にくいというだけですが、
見えにくさがこんなに本の読み方や選び方に影響するとは若い頃は思ってもみなかった。
精神が同じなら多少のハンデや体調や条件の変化は大したことないと思ってた。
いやぁ、年はとってみないとわからないものですね。

でもこの本を買ったのは、ぱらっとめくった前書きのような文章がすごくよかったからです。
「小酌、よき。」と題した冒頭の寅さんの飲み方の文章から心を鷲掴みにされたけど
その後の酒を飲む理由には三種類あるように思う、というところからがもうすごく好き。以下引用。
 ひとつめは、自然に誘われて。桜の下でプシュッと缶ビール。海の家のハイボール。ぬくい部屋で雪を眺めながら飲む燗酒。日本だけではなく、世界のどの国にも、こうした季節の誘いがあるだろう・
 ふたつめは、心が熟したとき。小さな節目を迎えた褒美や、祝いの席に参列する時なんかもこれにあたる。誰かを見送る別れの日にも、酒は欠かせない。
 みっつめは、心が乾いた時。つまり、寂しいときだ。そんな日は多くないほうがいいが、寂しさがまったくない人生も、軽すぎる。舌を潤すことで、心の渇きは確かにいくぶんか紛れるし、胸の深いところをあたためることもできる。

ここだけでも素晴らしいけどこの先がまたいいのです。
 ふたつめとみっつめの間にある、なんでもないようなお酒が、いちばん身近で自分の日という気がする。
 そうしたとき、冷蔵庫を除いて、手を動かし、あるものでちょっと飲む。それは料理というより、薄く切ったり、残ったおかずをまっすぐ盛り付けし直したりといった、”ととのえる”程度のこと。人生のところどころに、こうした小酌の小休止を挟んで今日を締めくくろうと思う同士が、この本を手に取るのだろう。

ああ、てにとらずにおれようか!同士よ!

基本的にレシピの本で、そっちは自分が普段使わない食材や組み合わせが多いけど
ヒントになるアイデアもいくつもあって良かったです。
さつま芋と茗荷のかき揚げやパクチーの根っこの天ぷらなどは、自分では絶対思いつかないし、
余ったワンタンの皮を茹でて、オリーブオイルとアンチョビ乗せて胡椒かけて
台所でシャルドネと立ち飲みとか、
生のピーマンとおかかのタルタルにウィスキーとか、
冷蔵庫にあるものでどこまでも広がる小酌の可能性の広さに
気持ちがふわーっと大きく温かくなる。
白菜の昆布茶あえにマグカップに入れたシャンパンを合わせるのは、
シャンパン好きすぎるのでわたしはいいシャンパンはグラスで飲みたいけど
こういうさりげないセンスと日常の姿勢はこころから共感するし
同士よ!と叫びたくなる。

「出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと 」

2023-05-20 | 本とか
何かで見かけて解説が岸政彦さんだしでKindleで読んでみた。
Kindleでは難しい本は読めないのだけど(反応が遅くて鈍くて数ペーじ何かを探すことさえ大変なので、すらすらと読めるエンターテイメント系の小説や気軽なエッセイ向き。あるいはすごく重い大きな本はKindleだと持ち運びが楽なので、不便があっても便利が勝つ)
この本はすいすい読めました。

こういう長いタイトルが今風なのか、よくわからないけど内容はこの通りです。
でも出会い系サイトと言っても恋愛や結婚や、
ましてやワンナイト狙いの人ばかり集う感じのサイトではなく、友達を求める人もいて、
今この駅にいて次の約束まで2時間空いたので誰かお茶しませんか、とか
同性同士も恋愛目的でなく会ったりするようだし(作者も女性とも会っています)
タイトルの印象ほど出会い系っぽさはないです。
どっちかというと、たとえばmixiのコミュの中で人との出会いを求める感じです。
もちろん、ワンナイト狙いの人も中にはいますが、そういう人たちもさほど露骨ではなく
こちらがそういうのを求めていないとわかると和やかにお茶や食事と会話をしてくれいい人たち。

作者はヴィレッジヴァンガードの店長をしていた人で
でも会社が自分の理想と違う方向に変わっていく中、
仕事や人生への迷いを抱えている状態で、この活動を始めます。
この作者は自分を元は人見知りだったと書いているけど
しょっぱなからの対人コミュ力、コミュニティ内での発信力など優れていて驚く。
(世の中の大体の社交的で感心する人が自分を人見知りだと言うのはなんなんだろう?)
ヴィレッジ・ヴァンガードの店長を務めていた人だから
そりゃ元から知識もあり魅力もある人だったのでしょうね。

一人一人に合いそうな本を薦めながら、自分も少しずつ変わっていく様子が
読みやすい文章で書かれていて、一気に読みました。
タイトルは刺激的だけど内容は至極まじめで面白いエッセイでした。

そして解説がやっぱりよかったな。以下、抜粋。
「私たちはどうやって出会ったらよいのか。さみしい夜というものがある。だれかと軽く飲みにいきたいなと思う。でも、ややこしくなるのは嫌だし、深入りしたくもない。そもそも、軽く飲みながらお喋りをするだけで面白いひと、というのがめったにいない。だいたいのひとは喋ってもつまらない。だからすぐ恋愛とかセックスとかになっちゃうんだと思う。ちょっとだけなんか喋りたいのにな、という夜にぴったりの友人、という存在は、希少だ。もちろん、「その先」を求めるのは自由だし、自然なことだ。でも、なんかちょっと喋りたいだけのときに、私たちには意外に選択肢がない。」

「人間というものは、仲が良ければ話をする、ということはなくて、むしろいちばん親密なひとに限っていちばん大事なことが言えない、ということがある。だから、大事なのはその中間の領域なのだろうと思う。」

「まったく知らない、と、よく知りすぎている、の中間のところで、いつも語りというものが生まれる。」


『出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと (河出文庫)』花田菜々子 著

井伏鱒二と江戸人形の作家

2023-04-18 | 本とか
昔、近所を歩いていたら小さなギャラリーがあって江戸時代を舞台にした人形がたくさん展示されてた。
作家が在廊してて、その頃落語を聴き始めていたわたしは作家と少し江戸時代の話などをした。
その時の話で、強く記憶に残っているのは井伏鱒二のことだ。
その人形作家は井伏鱒二が大好きで、わたしに熱心に勧めたのだった。
「山椒魚」はわたしも読んでいたけど「黒い雨」を勧められた。映画にもなっている。

それだけのことだけど、電車の中でなんとなくKindleにダウンロードしていた
井伏鱒二の短編を読みかけたら、10何年ぶりかにそれを思い出したのでした。

読みかけた短編小説は冒頭の酒飲みについての文章があまりにあるあるで苦笑するしかない。
皆と散々飲んで別れた後もふらふらと次の店に行ってしまうという話から、
持っていたものが見当たらなくて前夜の飲み屋に確かめに行くと
ちゃんと持って帰って箪笥にしまっていたことを思い出すくだりとか…全く他人事ではない。笑

このごろ自分は、深酒をした翌日には、以前にも増してなさけない気持に襲われる。とりわけ、不行儀な飲みかたをした翌日は、やりきれなさを通り越して肉体的に胸がむかむかする。  しかるに、会合などに出かけても、そろそろ酒がまわるというと、ほどほどにして然るべき心得を失って来る。自分は、こんな会合の第一次会よりも、みんな大いに酔った二次会の方が好きなんじゃないかというような気持になって来る。二次会にだけ出席した方がいいと思ったりする。つい帰りには飲屋に足が向く。その店を出ると、もはや連れが一人もいないのに、夜ふけの営業を許されている鮨屋または蕎麦屋で飲む。翌日になると、例によって二度と酒は飲むまいと思う。いや、ほどほどに飲むことにしたいものだと思う。  今回も私は不行儀な飲みかたをした。一昨日、武蔵野市関前住宅の大沼君のところへ書物を借りに行き、ついでに将棋をさして四対零で勝ったので、全勝記念に大沼君を誘って吉祥寺の飲屋で飲んだ。その店を出てから大沼君とわかれ、電車に乗ると阿佐ケ谷まで乗りすごしたので駅前の飲屋で飲んで来た。ところが昨日、目がさめてみると、大沼君のところから借りて来た書物の風呂敷包みが見つからない。」(『白鳥の歌・貝の音 (講談社文芸文庫)』(井伏鱒二 著)より)」


井伏鱒二を少しでも読んだのは高校生くらいで、その人形作家に勧められた後も結局読んでないから、
もう40年ぶりくらいに読んでいるんだけど、高校生でこれ読んでもこんなに可笑しくなかったよね。。
でも年をとってダメな酒飲みになって、今はわかりすぎて苦笑している。面白いなぁ。

最近は人に個人的に勧められるとなんでもすぐ試すようにしてるけど、
その作家と話した頃(15年ほど前か)はそうじゃなかったということも思い出す。
この15年で自分の中身もいろんなところが随分変わったと思うけど、
人に勧められたものはすぐに試してみるという姿勢が今は少しは身についていて、
人間が変わる時は、中身が先か姿勢が先かわかんないなとも思う。

「村に火をつけ、白痴になれ」

2023-04-01 | 本とか
伊藤野枝の評伝「村に火をつけ白痴になれ」読了。
前半は野枝好きすぎる著者の文章の勢いだけで読んでたけど、
ラストの方でわたしの気持ちも一気に盛り上がった。呆気なく殺されたけど…
6歳の子供まで一緒に殺されたけど…
殺した甘粕憲兵大尉は懲役10年を宣告されたのに3年で出て来て満州で出世したけど…

伊藤野枝は大正時代のアナキスト。1895-1923。
14歳で親戚に頼み込んで上京。縁談がきて結婚させられるけどすぐ逃げて、女学校時代の恩師と暮らす。
平塚らいてうの雑誌「青鞜」の編集長になって、21歳で大杉栄と出会い、ドロドロもつれた恋愛関係となる。
5人の子供を抱え、赤貧の中、欲しいものはなんでも強く要求し、やりたいことを諦めず、
マイルールに従って好き勝手に生きて28歳で憲兵隊に「国家の害毒」として虐殺される。
・・・という人です。

というのはなんとなく知ってたけど、この本は友達が面白い!とおすすめしてたので読んでみた。
いや、ほんと、面白かったです。
最初は、なんだか妙にテンションの高いノリに、大丈夫かな?と不安になりつつ読んでたんだけど
伊藤野枝のめちゃめちゃぶりには、これくらいのテンションがあってるのかもしれません。
そして筆者がすごく伊藤野枝を好きなことも伝わる文章でした。
だって彼女が何をしてももう全肯定。モラルなんか吹き飛ばして全肯定。
わがままでも自分勝手でも欲望に忠実過ぎても全肯定!
(あ、文体が少し移ってしまった…笑)

以下引用。これで文体の感じがわかるだろうか?
セックスは、やさしさの肉体的表現である。ひとつになっても、ひとつになれないよ。それが真に愛情をはぐくむということだ。
でも、人間というのはおかしなもので、そういう愛情をこわがったりしてしまう。相手をまったく異質な存在としてあつかうということは、なんどあっても相手のことがわからないということであり、はじめてあっているようなものだからだ。不安だ、さびしい、たえられない。だからこそ、ひとは結婚制度に逃げ込もうとしてしまう。(略)だいたいこれで、みんな家庭という一つの集団に同化されてしまうのだ。(略)性的役割分担。それは奴隷根性でがんじがらめになるということだ。


次第にそれが許せなくなってきて、結婚生活が暗くなってきます。もしも大して暗くならないならば大抵の場合に、その一方のどちらかが自分の生活を失ってしまっているのですね。そして、その歩の悪い役回りをつとめるのは女なんです、そしてその自分の生活を失くしたことを『同化』したといってお互いによろこんでいます。そんなのは本当にいいBetter halfなのでしょうけれど、飛んだまちがいなのですね。(野枝)

ひとがほんきでなにものにも同化されずに、主人と奴隷の関係からぬけだしたいとおもうならば、そうじゃないひととひととのつながりをつくっていくしかない。友情とは。中心のない機械である。(略)そろそろ、人間をやめてミシンになるときがきたようだ

(ちなみに野枝はミシンに夢中ですごく縫っていたらしい。)

わがまま。友情、夢、おカネ。結婚なんてクソくらえ、腐った家庭に火をつけろ。ああ、セックスがしたい、人間をやめたい、ミシンになりたい、友達がほしい。泣いて笑ってケンカして。ひとつになってもひとつになれないよ。


私どもは、無政府主義者の理想が、到底実現することのできないただの空想だという非難を、どの方向からも聞いてきた。中央政府の手をまたねば、どんな自治も、完全に果たされるものではないという迷信に、皆んなが取りつかれている。
ことに、世間のものしりたちよりはずっと聡明な社会主義者中のある人々でさえも、無政府主義の『夢』を嘲笑っている。
しかし私は、それが決して『夢』ではなく、私どもの祖先から今日まで持ち伝えて来ている村々の、小さな『自治』の中に、その実況を見ることができると信じている事実を見出した。
いわゆる『文化』の恩沢を充分に受けることのできない地方に、私は、権力も、支配も、命令もない、ただ人々の必要とする相互扶助の精神と、真の自由合意による社会生活を見た。(野枝)


じゃあやっぱり資本主義的な生活様式のほうがいいのかというと、そんなわけはない。資本主義もふくめて、ひとのふるまいにこれが標準だという尺度をもうけて、それ以外のものを排除する「社会」。あるいは「秩序」が問題なのである。もしも田舎の村にも、この「社会」があるのでればあらゆる手をつくしてぶちこわさなくてはならない。

こまったときにひとをたすけようとするのが、アナキスト。殺そうとするのが。官憲だ。すでに中国人、朝鮮人の虐殺は始まっていた。(略)「大杉、殺す、殺す」といきまいている輩もいたそうだ。それなのに大杉は乳母車を押しながら外でフラフラとしているから、(略)
それから二、三時間のあいだに、三人ともぶっ殺されてしまった。








「ひとりになること 花をおくるよ」

2023-03-01 | 本とか
写真家の橋本一子と小説家の滝口悠生の往復書簡集。
近所に住んでいて、それぞれパートナーと子供がいて
わたしから見ると同じ時代の同じ国の人間と思えないくらい自由に生きてるように見える人たちで
(この人たちがそんなに自由なのではなく、わたしが異常に自由がなかっただけですが)
前半は読んでて、なんだかモヤモヤすることが多くてつまらなかったけど
後半にかけて良くなってきました。
特に小説家の人の言葉がよかった。
子供に結構依存している写真家と違って、小説家の方は
地に足がついていて考え深く自分も家族も子供もフラットな姿勢で見ている。
言葉への感性や、怒りとの距離、それの問題、家事についてなど
なるほどと思うところが多かった。
以下、引用。

「呼び方の問題といえばそれまでだけど、やっぱりさびしさとかなしみは違うと思う。さびしさにくらべて、かなしみはどこか過去形の、過ぎ去った経験という感じがします。「かなしい」は「かなしさ」にも「かなしみ」にもなるけれど、「さびしい」は「さびしさ」にしかならず、「さびしみ」とは言わない。「み」がつくと自分の感情からより離れた、自分と一旦切り離された感情になるような気がします。」

「僕は感情的であることをきらうようなところがたぶんあって、実際自分自身も感情の発露は喜怒哀楽いずれにおいても少なく、抑制的な方だと思います。(略)たとえばフェミニズムであるとかそれ以外のアクティビズムにおいて、しばしば怒りは重要な表現になり紐帯となりますが、怒りの感情がそれらの活動において前傾化しているとき、その発言や主張にうまく距離が取れなかったり及び腰になることがままあって、その理由を自分の怒り耐性のなさに求めてしまう(略)別に一緒に怒らなくちゃいけないというわけでもないし、怒りの表現方法について違和感を持ったっていいんですが、それを理由にそこにある問題から遠ざかるべきではない。」

「家事の中で肝心なのは、料理とか洗濯とか掃除といった作業よりも、それらがスムーズに運ぶための準備とか段取りとか、そういう目に見えない作業だなと感じます。」
「家事のやり方なんてどうでもよくて、問題なく家のなかのことが回ればそれでいいじゃないか、と言われれば、まったくその通りだと思うのですが、毎日家事するものの目や手には、細かな下ごしらえや段取りこそが円滑に家をまわすという信念が宿っており、日々の積み重ねによって構築され磨き上げられた私の方法こそ最良の機構である、みたいな自負があるので、これまで自分が担っていた家事を自分以外の人がしたときに、違和感や抵抗を覚えるのではないでしょうか。(略)家族がいれば家事の大半は家族のために行う仕事でもあり、なのに家事に努めれば努めるほど家族に不寛容になってしまう、というのは皮肉なものです。」


この本は自転車を持って名古屋に輪行したときに言った本屋さんで買ったサイン入りの本ですが
実は作者の二人を全然知らなかった。きれいな本でパラパラっとめくった言葉が軽やかで
気持ち良い本なのでは?とジャケ買いのような買い方で選んだ本です。

本を読むときに、あまり面白くなくても頑張って最後まで読んでしまうのは貧乏性だからだけど
読んでるうちに面白くなる本もあるし、これはちゃんと最後まで読んでよかった。

「いい日だったと、眠れるように」

2022-08-14 | 本とか
料理は好きじゃないから一切しないという知り合いがいるけど、それもかっこいいと思う。
「正しい」ことから自由になるというのはかっこいい。
ただわたしが料理をするのはそれが「正しい」からじゃなく、
単に途方もない食いしん坊だからなのと、ものを作るのが好きだから。
ペンキを塗ったり粘土を捏ねたり工作をするのが好きなのと同じこと。

料理をする時は、それはそれはいろんなことを考える。
冷蔵庫にあるもの、食品の賞味期限、今の気分、合わせるワイン、摂取カロリー、
タンパク質や糖質、昨日の残り物、明日のお弁当に入れるもの、
こういうことを全部同時に考えてから、何を作るか決めてから、やっと
手順や段取り、足りない食材について考える。
料理をするまでに考えることも多いけど、料理の最中に考えることも多い。
温かいものと冷たい物を同時に仕上げるための手順、あらかじめしておくべき下拵え、
つくりながらもその隙間隙間で少しずつやっていく洗い物。
いい感じに頭も心も使うし、手も足も舌も目も鼻も使うし、
なんて奥深くて複雑で素晴らしい活動!しかも作った後には食べられるなんて、
ホント素晴らしい楽しみではないですか!としみじみ思う。

でもそういう、そもそもが大変な食いしん坊で、物を作るのが好きだからという以外にも
料理をする時のしあわせにはもっと別のものもあって、
それは自分が自立できていると思えるしあわせかなと思うのです。

長い間、誰かの娘や妻や母親をずっとしてて、経済的には自立できてなくて
家で料理をするのもそのどれかの役割を背負った自分だった。
料理は誰か人のためにしなくてはいけない無償の役割で、
料理自体はクリエイティブなことのはずなのに何かに囚われた気持ちでずっとやってきた。
親にも元夫にも、生活力のないお前に何ができると言われ続け、
社会で仕事をしてお金を儲ける機会を与えられずに惨めな気持ちで生きてきたけど、
ひとりになってやっと、家のことをちゃんとできて、美味しいご飯を作って食べて
居心地良く暮らしていけてるのって、十分自立できてることじゃないかと気づいたのです。
お金を稼げる以外の何一つできない元夫より、ただ一つお金儲けができないだけのわたしの方が
ずっと自立してる、よね。

そういうわけで一人暮らしになって食事の支度が義務でなくなってから
料理はわたしの大事な一部になって、それはますます大きな一部になってきています。
そういうわたしがそうそうそうそう!と何度も頷いた前書きの本がこれ。
何度も繰り返し読みました。、以下引用。

私は食べることと同じくらい、料理をすることが好きです。
それは作るという行為が好き、というのとは少し違います。食べたいものを、自分の手で作れるという「自由」が好きなのです。
料理ができるというのは、何もお魚がさばけたり、天ぷらを上手に揚げられる人のことを指すのではありません。自分のお腹や気持ちに合わせて、ご飯を支度できることを言うのではないでしょうか。
人によって、食べる量も好みの味も違います。当たり前のようなことですが、自分の料理ならそれも調整できます。たとえば小腹が減った時に、ちびっこいおにぎりを作って頬張ると、それはそれは幸せです。少しだけ梅干しをちぎって入れて、海苔なんてパリッと巻けば最高のおやつ。一口でぱくりと食べられるサイズがちょうどいい。これが私の「自由」なのです。

炊事の火を消し、食卓につくと、ああ良かったと、毎日思います。自分の料理を食べる時に、「おいしい」としみじみ感じます。今日も無事に1日が終わる。その事実にほっとします。

そう、自由。自由ですよ。
作るということのクリエイティビティ、生活力、自立、全部含めて「自由」。
料理をするのは、今の自分の「自由」も一緒に味わうことになるから、
こんなに満ち足りた気持ちになるのだな。
だからわたしは料理をしない自由よりする自由を楽しみたい。

「いい日だった、と眠れるように」今井真美

新聞小説というもの

2022-06-20 | 本とか
春に、531回にわたって続いてきた池澤夏樹さんの新聞連載「また会う日まで」が終わりました。
同じ新聞で彼の小説を読むのは2回目。前の「静かな大地」は何年前だっただろう?
今回は軍人の話だったので、戦争や軍隊の話が好きじゃないわたしは
小説としては前回の「静かな大地」の方が好きだったけど、これも読み応えありました。
主人公は軍人とはいえ海軍の水路部で海図の製作などをする科学者で、
自由な心と真面目な信仰を持つクリスチャンでもあり、わたしにの苦手な軍人っぽさもなく、
軍人としての自分と信仰や世界観などとの矛盾を柔軟に抱え込める魅力的な人でした。
この人は池澤夏樹の大叔父だそうです。
また主人公の妻も当時にしては大変進んだ人で、とても素敵な夫婦関係が描かれていて
戦争の話でもあるのに読んでいて気持ちが暗くなることは少なかった。

新聞の連載小説を読むようになったのは大人になってからで
子供の頃は毎日少しずつ読んで、面白いかどうか好きかどうかがわかるまでにも
時間がかかる新聞小説はもどかしくて読めなかったけど、今はむしろそれが楽しい。
途切れ途切れに読む、でも毎日読む、というのも面白い読書体験のひとつだなだなと
新聞の連載小説を読み終わるたびにいつも改めて思います。

どんなに少しずつでも必ずしもいつか終わるし、その頃にはこちらも世界を一つ飲み込んでる。

今は、情報は速く多くどんどん流れて流行っては廃れて行くけど
531回の新運小説を読むのには531日かかる、こういう時間感覚は中々他では味わえない。
新聞を読む人は少なくなってると思うけど、わたしはずっと読むと思う。

池澤夏樹さんの次、今は多和田葉子さんの小説です。
言葉やものごとに微妙なこだわりのある女性が主人公で、彼女の思考が綴られている
随筆っぽさもあるちょっと不思議な感じの説明しにくい小説で、
池澤さんの大河的小説とは全く違うけど、

「山とあめ玉と絵具箱」

2022-05-15 | 本とか
山の本で、近くの気のおけない山に朝登る話を読んだ。
山の本でこんなに身近に感じた本は初めてでした。感じ方が近いのかな。
電車で30分くらい、数分で登山口、そこから小一時間で頂上につき
9時頃に簡単なご飯を食べて戻るとその日は
「山を持ち帰ったような午後を過ごすことができる」ってところがすごく好きだな。

うちから電車30分足らずで数分で登山口で、そこから頂上まで一時間くらいと言えば、
先週登った山がまさにそれじゃないか!
急な坂に続くガタガタの石段がつらくて、もう行かないと思ってたけど、
もっと仲良くなるといいよね、と考え直す。

他にもうちから行けるそれくらいの気楽な山はいくつかある。
友達みたいな馴染みの低い山がいくつかあると、もう大体それでいいやと思う。
わたしには征服欲も向上心もあんまりなくて、山に登るのは
人のいない森の中にすっぽり入っていたいだけなのです。
近くの山に行く時は、昼前くらいにゆっくり出かけて午後に帰ってくることが多いけど
今度は朝早く出かけて昼には帰ってきて、「山を持ち帰ったような午後」を過ごそう。
冬の山の、葉っぱのない木が白くふわふわ見える様子も好きだったけど
これからの青々とした緑の美しい季節の新しい楽しみに、
朝の山と、その山を持ち帰った気持ちの午後をすごすことを加えよう。

>「アルプスの懐に入ると、その大きさと自然の強さに怖くなることがある。でもそう感じるほどに、一歩ずつしか進まない小さな歩幅で、いつの間にかこんな遠くまで辿り着いてしまう人間も、すごいなと思う」
ほんと、山や森を歩くと、一歩一歩こんなに小さいのにこんな遠くまで!って来た方を見て思う。

(川原真由美「山とあめ玉と絵の具箱」)

「ウィステリアと三人の女たち」

2022-05-13 | 本とか
小説を読むと面白い現代アート見たくらい気持ちを動かされることがある。
写真見てこんなに気持ちをざわざわさせられることってもうあんまりないけど、小説はあるなぁ。
映画も、どちらかというとその出来栄えに感動したりするけど
自分の内側を一番かき回されるのは、わたしは小説かもしれない。
不安で怖くて美しい小説にどこか壊される感じは、心地よくはないけど
読み終わってからどこか自分を立て直せて、新しくなったところがあるような気は少しする。

この本には4つの短編が入ってます。
短編でよかった。イメージの重さと描き込みが多くてふうふう疲れる。
『彼女と彼女の記憶について』
これはなんか気持ち悪い話。気持ち悪いことが起こるわけじゃないけど
田舎の同窓会から帰り損ねてホテルに泊まる時に、
一緒に泊める羽目になった飲み過ぎの子との距離とか居心地悪くて気味が悪い。
『シャンデリア』
これはちょっと好きな話。デパートですごく買い物をする老婆も面白いし
主人公の弱さと強さもわりとくっきりとわかりやすい。
『マリーの愛の証明』
でも証明できないからって、それが存在しないことにはならない。人が何かを信じるのは、それが証明されているからじゃないもの。想像できるから信じられるの。つまりーー神さまも愛も、ただそんなふうに信じることができるのよ。自分にしかわからない方法で。誰にも伝えられないあり方で、知ることができるのよ。
ねえ、人は、本当は、何もないところから愛を生みだすなんてできないんじゃないかしら。どこかにある大きな愛の一部を自分のものだと錯覚して、そしてそれをやりとりできているような気がしているだけなんじゃないのかしら。ちょっとした光の加減や、風向きでそう思ってしまうけれど、愛じたいは、わたしたちの存在を超えて、最初から最後まできっとどこかにあるもので、愛っていうのはっきっと、わたしたち個人のものなんかじゃなくて、どこかにあるものなのよ。どこかにあるそれに、わたしたちはときどき触ったり触らなかったりしているだけなのよ。たぶん。
『ウィステリアと三人の女たち』
夜中に空き家に入ってじっと気配を見る女の話。
自分の世界のあまり噛み合ってない感じの夫との生活から一時離れて
空き家の中でそこに暮らした老女の過去を見る。
ウィステリア(藤)と呼ばれた老女の好きなヴァージニア・ウルフの一説を聞く。
ほのかなとてもほのかな恋の行方も見る。
自他の境界が溶けて滲んでなんかいろんなことが遠くなって、同時に近くなって、
どうでもよくなって、どうでもよくないことにほっとして、
ちょっとしばらく考えます。という感じ。