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sigh of relief

くたくたな1日を今日も生き延びて
冷たいシャンパンとチーズと生ハム、
届いた本と手紙に気持ちが緩む、
感じ。

「チボー家の人々」読書会

2024-10-14 | 本とか
読書会の映画「ジェーンオースティンの読書会」での読書会に憧れてから
mixiのコミュ(サークルみたいなコミュニティ)で古典文学を読む会をやったり、
日本最大となる読書会の京都でのイベントに参加したり、(これは数人ずつのテーブルに分かれ
作家がゲストで来たり、各テーブルにファシリテーターがいる大掛かりなイベント読書会)
やはり京都ベースで安定して20人以上集まることもある真面目な読書会にも時々参加したり、
そしてハンナ・アーレント「人間の条件」を3人で読む会に誘われて半年かけて読んだり
いろんな読書会に参加してきました。
それぞれやり方も人数も読む本もほんとうにいろいろですが
そのあと「苦海浄土」読書会を1年近くかけてうちで3人でやって、
3人いれば立派に読書会になるなぁと思うようになりました。
また、最近よく聴いているポッドキャストは学生時代にリアルに読書会をしていた2人が
中年になってまた今度はリモートで本についておしゃべりする読書会を配信しているもので、
3人どころか2人でも読書会になるやん!と、認識を新たにした。
知らない同士10人20人の会と、よく知ってる相手と2人の会では
全然違うタイプの読書会になるけど、どんな読書会でも本読んで話すのは楽しい。
人が2人いればいろんなことができるものだな。

最近、2年かかった2度目のハンナ・アーレント「人間の条件」zoom読書会が終わり
新訳のでた源氏物語8巻で8回の読書会にも参加してて、
長編小説も読書会なら読めるし、達成感や充実感が生活のアクセントになることも実感した。
それで今度は、大好きな高野文子の「黄色い本」というコミックで気になっていた
「チボー家の人々」を読むことにしたのだけど、舞台は120年前、
書きはじめられたのも100年くらい前という古い本だし、
翻訳も70年前くらいに終わったという古さで、しかも今時はやらないタイプの小説…
一緒に読んでくれる人を探せなくて、結局いつも映画の話をしている友達2人に
頼み込んで読んでもらうことに。
読書会楽しいのになぁ・・・
(まあ13巻あると聞くと怖気付くのが普通か・・・)

そういえばもう10年近く毎月続いている映画の会も、
映画館で各自見てきた課題映画について月に一度集まって話す会で、読書会の映画版と言える。
すごく楽しく続けていますが、この会は最初からずっと会を録音してPodcastにしてたので
今回の読書会も録音してみることにしました。
気楽に脱線しながらのおしゃべりで長くなると聞きにくいので
最初に各自の近況と、最近読んだ本などの話題、そして課題分のざっくり感想など
3人で最初の20分くらいだけ、最初に録ることにしてみます。

第一回を先日行いましたが、
会の最中にノーベル文学賞をハン・ガンが受賞したことがわかり盛り上がりました。 
3人とも大好きな作家だったのでとても喜ばしくて盛り上がりました。
「チボー家の人々」もノーベル文学賞を取っているので、いっそううれしい。

10月から始めたので終わるのは来年の11月かな。
「苦海浄土」読書会の時のようにうちにきてもらってもいいんだけど
ちゃんと座ってメモ取ったりする必要もなく気楽におしゃべりできそうなので、
各回順番で誰か推薦のお店でご飯を食べながらということにしました。
読書もご飯も、毎月楽しもう。

最後に最近読んだ「読書会の教室」という本から少し引用します。
2人いればいろんなことができるなぁと思ったものの、
この本を読んでると少人数のコミュニケーションで気をつけることもあるというのはわかる。
わたしたちは少人数でもクローズなつもりはなく、どなたでも歓迎したいと思ってるけど
読書会に限らずどんなコミュニティでも言えることだなと思ったので以下に引用。
ただ、こういう配慮の背景に置かれがちな、素朴なクローズドネス批判には疑いを持ちます。コミュニケーションはオープンであるべきで、誰でも参加できることこそが大事だという価値観は根強いでしょう。他方で、クローズドなこと自体が悪いわけでもないんですよ。権威主義に陥ってカルト化するのがダメなだけで。内輪であるというのは、私たちは時間と場所を共有してきたし、その歴史があるということです。そういう歴史があるコミュニティでは、安心して言いっぱなし、聞きっぱなしができる。気をつけるべきは。不寛容や無配慮であって、読書会が内輪的になること自体は避けられないし、避けるべきことでもないんじゃないかと思います。

植物図鑑

2024-10-12 | 本とか
植物観察の本を読んでたら、その著者が農業大学の造園科で
学内の180種類の木の葉っぱを覚えるのが毎年決まってる1年生の試験だった話を書いてて、
わたしもそういう勉強がしたいしたいしたい。
葉っぱだけでわかる木なんて数本しかないもん。
わたしの究極の夢は植物のロゼット見をただけでそれが何か見分けることなんだけど、
咲いてる花を見てもわからないものがある今は遠すぎる夢です。
ましてや木。
視力が良くないので自分より上にある葉っぱや枝の様子はよく見えないし
歩いててもいつも、これ何の木かなぁと思うことばかり。
木の名前がもっとわかるようになりたいなぁ。

この本、植物愛がすごくてとてもいい本で大好きなんだけど
よく見かけるオレンジ色のケシのような花、ナガミヒナゲシの
種っていくつ入ってるんだろう?と実際に数えたりするところも大好き。

前に木の葉っぱの数を実際に数えた子供たちのことを書いた本や
いちじくの種を調べた子供の詩などにも大変感銘を受けたけど、
こういうことを真面目にコツコツと調べる人が大好きです。

読書ルネッサンスと瞑想

2024-09-30 | 本とか
体調が今ひとつで気分が沈みがちで本も読めない。
こういう時に、どんなメンタルでも読める本というのがあると助かる。
この前モンゴメリーの「銀の森のパット」を読んで、これか!と思ったので、
とりあえず少女時代に読んだモンゴメリーの訳されてる本を全部読み直すことにした。
いい感じ。それを読んでいる間は、なんとかやっていける感じがする。
モンゴメリーの本は楽に読める(子供でも読める)本で、気力・集中力ゼロの時でも読めて
しかも読むと少しいい人間になれる気がするし、美しい自然と善良な人の世界に
気持ちがとても安らいで落ち着くので、かなり疲れている時でも
少しモンゴメリーを読むとその後難しい本を読むことができるようになったりもする。
猫とベッドに並んで寝転んでKindleで少しずつ読むと、これはわたしの瞑想だなぁと思う。
心を静かに沈静させられて、自分を取り戻すようなもの、
そういうわたしの瞑想は他にほんのいくつかあって、
料理をするのも瞑想、編み物も。森の中を歩くのも。それに今回加わったのがモンゴメリーだ。
瞑想のおかげで静かな心を取り戻せるし、心が静かになると本が読めるし
もうこれは私的読書ルネサンスだと思う。

若い頃には本をすごくたくさん読んでいた時期もあったけど、
その後は多分ごく人並みくらいだったと思う。
四十代に入ると鬱で全然文章が読めなくなって本をほぼ読めない時期も何年もあった。
それから少しずつ読めるようになっても中々人並みくらいも読めない時期が長かったけど
最近やっとわたしはわたしなりの読書ルネッサンスを迎えてる気がするのです。

春に体調を崩して体が不自由になって外出できなくなってた時に、
内省の時間がたっぷりあって、これからの人生どういう自分でいたいかを考えた。
それでその時一緒にいた人とも別れて、社交も減らそうと思った。
今の自分は若い頃と違って一人でいるのが全く寂しくないし、
むしろ一人でいる時間がこよなく楽しいし、少々の寂しさこそが一番快適なのだと思う。
そう思うと本を読むのが昔のように楽しくなってきた。
昔よりたくさんのことを考えて頭の中が広がっていくし深まっていきもする。

ちなみに今の4冊は角田光代訳の「源氏物語」と「チボー家の人々」と有吉佐和子とモンゴメリとで、
他にお風呂で読んでる随筆など。
古典長編を少しずつ2種類、なんも努力もなく読めるモンゴメリーを猫とのベッドの読書に、
物語の本を1冊、随筆を1冊、くらい毎日少しずつ読むのが按配いい感じ。

「銀の森」

2024-09-25 | 本とか
子供の頃、わたしを生かして支えていたのは何よりもモンゴメリーの「赤毛のアン」シリーズで、
当時訳されてたモンゴメリーの本は全部読んでたけど、その中でアン以上に好きだったのは
「銀の森のパット」の2冊だった…めちゃめちゃ好きだったなぁ。
そこでは家庭というものの一番良い姿をこれでもかと温かく見せてくれたので、
そういうものに縁がなかったわたしはすっかり虜になったのだろう。

世界で一番嫌いな場所が自分の家で自分の親だったのに、
世の中にはこんな美しい家族が、世界があるのだと、心から憧れたものです。
すっかりその世界に入り浸り、そこに溢れる愛に憧れながら、
あまりに自分から遠い世界だったので、現実では「家庭」的なもの全てを憎みながら、
パットの世界は美しい美しい夢として大事にしてきた。

古く美しい白樺の森を控えた家に暮らすパットが幼児から少女時代の「パットお嬢さん」と
少女から大人になっての20代30代くらいまでを描く「銀錘のパット」の2冊ですが、
「パットお嬢さん」は定番の村岡花子訳はもうなくて、
(モンゴメリーといえば村岡花子だし、この訳文が身に染みつきすぎてしまった)
どうしてももう一度読みたかったわたしはKindleで別の人の訳を買って今読んだけど、
確かに新しい訳には違和感もあるしちょっとダメなところもある・・・
古風な暮らしや人々を描く話なのに、この言葉遣いはないわと思うところや、
アイルランド訛りの表現の語尾が「〜ちゃ」ってのもひっかかる。
重要な登場人物でわたしも大好きなジュディのアイルランド言葉があんまりなのよねぇ。
でも、それでもこの本を好きだった自分を思い出しながら読んで、
銀の森屋敷の世界にいる間とても幸せな気分になる。優しく素直になれる気がする。
2冊目の方は村岡花子訳がKindleにあったので、やっぱりそっちを読みました。
1冊目より年をとっていくにつれ、パットにとってつらいことも起こるんだけど、
それでもこまごまと書かれた自然描写が素晴らしく、
パットの目に映る大事な大事な銀の森屋敷や、そこの温かい人々の世界がもう、
なにもかも目眩く、幸福を感じて今もやっぱり胸がいっぱいになる。
猫が枕元にいるベッドで、大事に大事に少しずつ読みました。

「赤毛のアン」のプリンスエドワード島サーガとも言える広がりのある多彩な世界に比べると
銀の森の世界の事件は小さく少なく、ほぼパットの家族周辺に限られているし
パットはアンと違って大学に行って広い世界を見たりもしない。
大きな理想に燃え広い世界を夢見て新しいことにも挑むアンと違って
パットはひたすら変化を嫌い、自分の身の回りのものが一切そのままであることを願う、
アンを好きな人にとっては、ちょっとつまらない地味な主人公かもしれません。
でも、想像力豊かで美しい自然を愛し、身近な人々と暖かい時間を過ごし、
自分の周りの幸せを見つけるのが上手く、その価値をわかって大事にできるのは同じ。
アンほど夢や野心が外に向かわないパットの方が
自分に近いかもしれないから好きなのかな。

そういえば、ここに出てくる何十年もこの家で働いている料理人のジュディのことを考えてて、
スタインベックの「エデンの東」の中の、中国人のリーを思い出した。
リーは映画では省かれてた人物だけど一番賢い人物でした。すごく印象深かった。
(「エデンの東」は、ジェームスディーン主演の映画が有名だけど、
 小説がびっくりするほど面白かった。小説の方が100倍面白い。)
ジュディもそうだなと思う。ジュディがいないとこの小説は成立しないだろう。
何を話してもいくらでも物語が次から次へと溢れ出してくる
世界一優しい語り部のジュディを、子供の頃に自分の人生に欲しくて焦がれたものです。

そういえば、「若草物語」は少女小説というジャンルと思うけど?
数年前グレタ・ガーウィグが素晴らしい映画にした。
モンゴメリーの「赤毛のアン」は何度も映画化されてるけど、
なんとなく少女小説っぽい感じが抜けない。
素晴らしいBBCドラマも多っぱり少女小説の感じは結構ある。
それはそれでいいんだけど、グレタ・ガーウィクの映画のように、素敵な大人の映画にするには
「赤毛のアン」ではなく「銀の森のパット」を映画化すれば良いのでは?
「若草物語」に負けない素晴らしい映画になると思うけどなぁ。
(わたしが銀の森を好きすぎるだけ?)
自然も人も美しい日常を描いた、猫のたくさん出てくる映画、見たいなぁ。
(猫たくさん出てくるんです、銀の森。)

アンとポリコレ

2024-09-24 | 本とか
数年前に放映されてたBBC制作の「アンという名の少女」
今まで見てきたどの「赤毛のアン」よりアンにぴったりの子が演じていて
アボンリーの世界もグリーンゲイブルスも何もかも今まで見た中で一番で、
これを見るだけで幸せになるドラマでした。

うちにはテレビがないので、放映の時に母に録画してもらって
たまに母の家に行った時に1話ずつみているのだけど、もったいなくて一気に見れない。
第3シーズンまであるけど、1、2ヶ月に1話ずつ、大事にちびちび見ているほどです。
DVD買おうかな・・・笑

昨日「赤毛のアン」の世界に潜む自由の余地について書いたけど
「赤毛のアン」シリーズを今読むと、ポリコレ的にダメなところがないとは言えない。
1880年頃のカナダの中心から離れた島でのお話ですから当時の価値観なのか、
「ヤンキー」(アメリカ人)は信用ならないと登場人物にしばしば言わせてるし、
フランス人の雇人に対しても結構冷たい見下した描写があったりで、
人種差別的なところがたまにある。
あとは人を悪くいう時によく「あれは〜〜家の者だからね」という言い方を登場人物にさせています。
血のつながりを最重要視していないからこその物語なのに
「家」意識のような偏見が、全くないとは言えないのかもしれません。
でも、女性差別に対しては、140年前とは思えないほど健闘していると思う。
女が大学などに行ってどうするといく人かの人たちに言われながらもアンは大学を卒業したし、
女性が学問や仕事に目標や野心を持って頑張ることを大変素晴らしいこととして書いている。
そもそも主人公のアン自身が、保守的な村の人は驚いたり顔を顰めたりするような
好奇心と向学心と生き生きとした自由さを持つ型破りな女の子なのだから、
女性の人権に対してこの時代としては随分新しく自由なのは当然なのかも。
そういえば、女性参政権に関しても登場人物にいろんな意見は言わせてるものの
作家自身は肯定的に捉えていたように思う。

読んでいて、この時代の価値観に対してポリコレ的にヒヤッとするところはたまにあるし
人種差別的な描写にたまにチクッと心を刺される気持ちがしても
やっぱりこの本を愛さずにはいられないのは、
時代的背景やその影響によるそういう部分を差し引くと
結局、自由で明るく公平で寛容で善良な人々を描いていることに違いないからですね。
その自由には普遍があると思うし、これからも読まれていく本だろうと思う。

アンとローラと家族のこと

2024-09-23 | 本とか
少女の頃はほぼ「赤毛のアン」に育てられたと言っていいわたしで
「赤毛のアン」は何十回読んだかわからない。
その続編の「アンの青春」も5、6回は読んでるし、その次の「アンの愛情」も3、4回、
その後に続く10巻までも2度以上は読んでると思う。
でも3巻以降は20代以降は読んでないと思うので、
今30年、40年ぶりに読み返してるんだけど、今読んでもすごく面白いし
昔と変わらず、いやそれ以上に惹かれます。
30代40代には、もう興味も失って、おそらく幼稚で退屈に思う気がしてたけど
全然そんなことはなかった。むしろ今の方が色々考えることができる気がする。

たとえば、子供の頃にテレビドラマでよくみていた「大草原の小さな家」との違いだ。
これはテレビドラマとしては楽しんだと思うけど、原作を読んでハマったりはしなかった。
違っていたのは、アンには大きくて強くて家族を守るお父さんという存在はなく、
孤児のアンを育てることになったマリラとマシュウ兄妹と彼女は血のつながりがないこと。
でも無理に擬似親子になろうとすることもなく、
お父さんお母さんと呼ばせるどころかファーストネームでマリラと呼ばせるし、
引き取って育てても姓を変えることもしない。
あくまでアン・シャーリーと保護者である老クスバート兄妹という関係のまま
暖かい絆を築いていき、やがてはどんな家族よりも愛し合う一家となるとこが
「大草原の小さな家」とは違う。

140年前のカナダが舞台で、コンサバな家父長制の時代のなので、
小説の中でもそういう価値観は否定はされてはいないんだけど、
どこかにそれに縛られない個人の自由の余地がある世界だったから、
わたしはあんなに惹かれたのだろうな。
それから140年後の日本でいまだに苗字が違うと家族の一体感が損なわれるとか、
血のつながりがどうとか言い張る政治家の政党が支持されてるけど、
一体なんなんでしょうかねそれ。

(写真は80年代少女時代のわたし笑

「猫はしっぽでしゃべる」

2024-09-06 | 本とか
数年前、本屋さんに関する本をたくさん読んでいたことがあった。
本屋さんの書いた本、世界の本屋についての本、
本屋を始めることについての本…
「奇跡の本屋をつくりたい」「まちの本屋」「本屋はじめました title」
「本屋になりたい「わたしの小さな古本屋「古くて新しい仕事」
「世界の夢の本屋さんに聞いた素敵な話」 etc...

わたしは本を読めなくなった時期があったし、それが治るまで随分かかったので
若い時以外ではさほどたくさん読んでいる人ではないのだけど
本屋さんに憧れがあったのでしょうね。
本屋さん関連の本をたくさん買って、半分くらいは読んだけど、まだあと10冊弱残ってる。
久しぶりにその中からまだ読んでない本を1冊、お風呂でゆっくり読みました。
熊本の橙書店という本屋さんの方が書かれた本です。

この本を買ってから読むまでの間に「苦海浄土」を読んだし、水俣にも行ったし
京都から熊本に引っ越した本屋さん「カライモブックス」にも行ったし、
気がつくと少し熊本の本や文学や本屋さんの世界が少し身近になっていました。

元々この著者の田尻久子さんは、熊本の地震の直前に「アルテリ」という文芸誌を
数名の有志と創刊したそうなのですが、その発案をしたのが
「苦海浄土」の石牟礼道子さんを支え続けた渡辺京二さんで、
著者は当時ご存命だった石牟礼さんとも交流があったようですね。
熊本で、文学に関わっておられる方は、繋がってるんだなぁ。いい繋がり。

最初は喫茶店をやっていた著者が隣の物件も借りて
喫茶店と行き来できるドアをつけて本屋さんも始め、多くの人が訪れるようになったのですが
その交流範囲は熊本にとどまらず、世界的に有名な写真家の川内倫子さんの話などもあって
地方で小さな店をやることでこんなに広い世界を持つこともできるのは
この方の魅力によるものでしょう、やや淡々としながらしみじみと良い文章を書かれます。

以下少し引用
「物心ついた頃から、たくさんあることが苦手だったように思う。店内を一度に見渡せる本屋さんは、心が安らいだ。どんなに狭くても、不十分な品揃えでも、そこは小さな私にとって無限に広がる場所だった。たくさんあると、そわそわ落ち着かない。あれもあり、これもあると急かされているようで辛くなる。」
わたしのことか!と思った。このブログでも何度も大きな本屋さんや多すぎる情報に
わたしはパニックになってしまうと書きましたね。

著者が武田百合子の随筆集「ことばの食卓」の中で一番好きな部分は、
夫の泰淳が枇杷を食べた時に言った言葉から続くところだで、それは
「こういう味のものが、丁度食べたかったんだ。それが何だかわからなくて、うろうろと落ちつかなかった。枇杷だったんだなぁ」
というところなんだけど、この感慨もよくわかる。田尻さんではなく武田百合子の文章ですが。

言葉を発することのない胎児性水俣病患者の話では、
彼らは言葉だけでなく生活も奪われた、私たちみんなが奪ったのだと言う。
「彼らは、体中でことばを発していたのかもしれない。私たちが使っているよりも、ずっと雄弁なことばを持っていたのかもしれない。猫だって、言葉を持っていないのではなく、彼らの行動がことばそのものだ。その猫たちが最初に水俣病になった。私たちは彼らにも謝り続けなければならない」
猫がここで出てくることを不謹慎だと言う人がいるかもしれないけど違うよね。

「涙腺は、ゆるくなるのではない。よく、年をとって涙もろくなったと老化現象のように言われるが、泣く筋力がつくのだと思いたい。本を読み映画を観る。誰かに会う、言葉を交わす。たとえひどい出来事を経験したとしても、人は必ず何かを得ている。経験は想像力を与えてくれ、泣くツボを日に日に増やしていくのだろう。」





聴く

2024-08-06 | 本とか
個人的老化問題の一つですが、去年はなんとか読めてた文庫本の文字が
今年はとうとうほぼ読めなくなった。
字はなんとか認識できるけど、本を読んでると、去年は2、30分くらいは読めたのに
今は数十秒でもぼやけるものを見続けたせいで頭が痛くなる。
あきらめてあちこちに置いてる老眼鏡を増やしたけど
老眼鏡もずっとかけてると頭痛がするので、いまさらですが聞く方に少しシフトしようと思う。
それでYouTubeやPodcastを聴き始めました。

なんか昔から雑音を拾いがちな耳で、聴力検査をすると問題なくても、
みんなは聞こえてる声がわたしにだけは聞こえないということがとてもよくあるくらい
声を聞き取るのが苦手だったので、BGM的に音楽を聴く以外に何かを聴くという習慣がなかった。
でも読むのがしんどくなった時って料理などをして目を休めることも多いし、
そうでなくても食いしん坊で台所にいる時間が長いので
そういう時、音楽じゃないものを聴いてみると案外いい感じに聞こえるし、過ごせるのがわかった。

文学系のものをいくつか聴いてます。
あまりちゃんとは聴いてなくて、ラジオを聞き流すより少しちゃんと聴いてる感じだけど
目が疲れた時と、料理の時の過ごし方が楽しくなりそうです。
ポッドキャストは20年近く前から友達はよく聴いてたし勧められたのに
人の声を聞くのが苦手で避けてたけど、なんとか工夫してやってみるものですね。
(相変わらずなんでもノロい)
いくつか聴いて、もっと聴きたくなったらアマゾンプライムのオーディブル登録しようかな。


写真はDAISOの千円のイヤホン。(税込1100円)
数年使ってたワイヤレスのイヤホン、AirPods Proとambieがどっちもダメになった
間に合わせに買ってみたけど、ポッドキャスト聞くだけなら音は特に問題がないし
ワイヤレスのペアリングもスムーズにできました。
白い小さな象さんにしか見えなくてかわいい。
ワイヤレスのイヤホンも千円で買えるんだなぁ〜

「ショウコの微笑」

2024-06-28 | 本とか
2020年に読んだチェ・ウニョンの短編集「ショウコの微笑」のこと。
(書きかけの続きを随分経ってから整理してアップすることの多いブログです)

最初短編の表題作はあらすじ知った時から食指が動かないなりに、よかったけど、
2編目の短編「シンチャオ、シンチャオ」で、ボロ泣きした。
ドイツが舞台で、仲良くなって親しく付き合うベトナム人家族と韓国人家族の話。
アメリカの現代小説を読んでいるような趣があった。
ベトナム戦争は遠い歴史ではなく、関係ない人たちまでいつまでも傷つける。
どんな戦争もそうか。

この短編を数年後、2度目に読んだ時には、やっぱりすごくいいと思ったのと同時に、
ジュンパ・ラヒリのある短編作品を思い出したので、こちらも読み返してみた。
クレスト・ブックスの堀江敏夫編アンソロジー「記憶に残っていること」の中の
「ピルサダさんが食事に来た頃」です。
二つの話の共通点は、欧米先進国でのアジア人移民家族同士のひとときの交流、という点だけで、
ストーリーも背景も時代設定も全然違うのだけど、その家の中の雰囲気に同じものがあるのです。
マイノリティの者同士がつつましく交流を深める夕食の時間のほっとする暖かさの中に隠されている
それぞれの悲しみ。それがあるゆえに、お互いに対してより優しくなれるのですが、
その悲しみはどちらもそれぞれの国の背景や歴史につらいものがあるところからきています。
前者はベトナム戦争、後者は1971年のバングラデシュ独立時の内乱と大量虐殺の悲劇。

「ビルサダさん」は、ピルサダさんを親しい友人としての訪問を受け入れる家族の間には、
一貫して心からの優しさと思いやりがあって、最後までその優しい交流は消えないんだけど、
ただそれぞれの人生が交差した後にもう2度と会うこともなくなった人の話というところに
一抹の寂しさがある話です。
一方「シンチャオ、シンチャオ」には、あんなに仲の良かった家族同士なのに、
結局、ベトナム戦争由来の不協和が生まれてしまい、
個人間の思いやりは残っているのに、わだかまりが居座りし、解決しないままになるのが哀しい。
舞台がドイツの寒い地方なので透明感があるというか、悲しさが透明で、
透明な風が胸の中を吹くような短編小説でした。

ソフィーになった

2024-06-09 | 本とか
8年前、息子がストラスブールで撮った写真をアップしたら「ハウルの動く城」の原作の話になって、
それを薦められて読んですごーく良かったのだけど、
アニメも原作も、若い女の子が突然おばあさんになる話ですね。

先月からわたし体調を崩してというか不自由になって、
座ったり歩いたりに苦痛が伴う状態が長く続いていました。
痛みの場所は複数あって、ほぼ寝たきりの日が数日あったあとは、少しずつゆーっくり動けば
イタタタタと言いながらも日常生活だけはなんとかなったけど、
動き方とか動ける範囲とか急に90歳くらいのあちこち痛むおばあさんになった感じかなと思って、
この本の中のソフィーを思い出していました。
痛みが激しい間はソフィーのように状況を受け入れて前に進む気持ちの余裕はなかったけど
ひと月以上経って痛みがだいぶマシになってきたので、
今は90歳の「まあまあ元気な」お婆さんくらいの感じかな。
年相応に戻るのにはもう少しかかるけど、90歳の自分がイメージできたのは良かった。
作って食べて飲んで猫撫でてるのは今も90歳でも多分変わらない笑

「苦海浄土」

2024-06-01 | 本とか
2020年に書いた「本を読むと言われる最低圏内」のブログに「苦海浄土」を読みたいと書いたけど
結局途中までで止まったままで、やっと読み終わったのは2023年の10月。
2022年の11月から友達二人とうちで「苦海浄土」の読書会を始めたおかげで
1年かけて読み終えることができたのだった。
月一回くらいの頻度で、7、8回集まったかな。
飲みながらというのも好きなんだけど飲めない人もいたのでお茶とスイーツをお供に
毎回決めた課題分(100ページずつくらい。小さい字で2段組の本なので結構な量です)について
気楽におしゃべりする会。
この部分が好きだ、この文章がたまらない、この描写の美しさ悲しさよ、
このシーンはあの絵を思い浮かべた、などという感想から
国の隠蔽体質や大企業の狡さに怒ったり、
同じ被害者同士の中にもある差別の悲しさに人間とは…と深くため息をついたり、
以前はさほど関心がなかった水俣訴訟を戦うというような運動について考えたり、
ジョニー・デップ主演の映画「MINAMATA」の話をしたり、の1年間。

本当に素晴らしい本で池澤夏樹さんが世界文学全集を編む時に
日本からはただ一冊これを入れたというのに納得できる最高の読書体験だったのだけど
それでも一人では読みきれなかったと思う。
深く広すぎて、濃く強すぎて、すぐに疲れてしまって、この長さについていけなかっただろう。
長年読みたかった本を読書会として読み終えることができてよかった。
本の内容は(水俣病の問題はまだ終わっていないので)ともかく、幸せな読書でした。

熊本の美しい漁業の街、水俣で、まず猫から始まりそして人間たちが次々と病に倒れる。
それは水俣の大企業チッソが流した汚染排水のせいだったが、
国も企業もなかなか認めず、また大企業のお陰で潤った街の人々は
水俣病に苦しむ貧しい漁師の村の人々を差別し糾弾する。
その記録と同時に、そこに住む人々の貧しくとも幸せだった過去の漁師としての日々が
それは美しく描かれ、だからこそその後の病に倒れ、それを認めてもらえぬ苦しみや
その後の訴訟の日々の苦しさがより強く浮き上がる本です。

病院や裁判の記録の硬い文章と、そこに住む人の魂の語りが交互に綴られていき、
語りの部分は一応フィクションということになっていますが、
そこにいる人の心の声はきっとこの本に書かれた通りだったろうと思われます。
でも「苦海浄土」は水俣病問題に関する知識やメッセージだけでなく、何よりまず
文学を読む喜びを感じさせてくれる本で、
石牟礼道子さんの文章の濃度と強度と柔らかさに読むたびに酔いしれました。
柔らかく優しく、この世のものでないような記憶の中の世界の美しさは
とにかくすごく濃厚で、一度にたくさんは読めないほどの豊穣さに包まれます。

「苦海浄土」に出てくる貧しい貧しい漁師の家の描写の美しさの圧巻!と書いたのは
映画「小さき麦の花」の感想の中ですが
途方もなく貧しく何も持たない人の家の中の描写が、それは美しくてもはや聖性を感じさせるのでした。
持たざる人というだけでなく、さらにまだ奪われる人たちの、その言葉や家の中の様子を
その薄い壁の一間しかない家の内側から光が見えるように美しく書かれていて言葉を失います。

一人では読みきれなかった本なので、人にはお勧めしにくいけど
わたしにとってはこれから生きていく上で時々めくるべき本だと思っています。

「RURIKO」

2024-05-31 | 本とか
浅丘ルリ子はわたしより25歳年上で、わたしが彼女をテレビや映画で見た頃はもう
堂々とした貫禄のある中年女優だった。
美女ではあったし、綺麗な顔なのだろうと思ったけどわたしが思春期を過ぎる頃には
彼女のようなゴージャスな顔はやや古臭く感じて、特に気になったことのない女優さんだった。

少し前、もう毎月続けて100回以上になる映画の会の旧作課題が「高原児」という
1961年の日活アクション映画になって、若い浅丘ルリ子がすごく可愛かった記憶があったので、
本屋さんで文庫本を見かけた時になんとなく買って読み始めた。

林真理子はその人となりに批判したいところも多いけど、小説は面白いし、
題材が昭和の大女優なので面白さは保証されてる。
でも、浅丘ルリ子の父親の話から始まって、その後彼女が主役になっても、
彼女自体は非常に淡々とした人に描かれていて、想像したタイプの面白さとは少し違った。
とはいえ、わたしは登場する昭和のスターたちを少しは知っている世代だし、
映画業界の衰退やテレビの台頭、スターたちの人間関係などすごく興味深く読んで、
そして後半、夫となる石坂浩二がでてくるあたりから面白さがぐんと増した。

日活のスターたちにはいわゆる知性派な人はいなくて、
雑な脚本で雑な映画を量産するシステムの中におさまっていたけど、
テレビ時代になってテレビからスターになった石坂浩二はインテリで、
ルリ子にぞっこんになって結婚するものの結局うまくいかなかった。
その夫婦の対比が面白い。
ルリ子は難しいことはわからないと言い、石坂浩二の膨大な知識からの話を聞きながら
心の中では別のことを考えながら別の風景を探しているような女だった。
演技論や社会の話には興味がなく教養や知識は持たないけど、
なんというか存在というか魂が飛び抜けている女。
もちろんその飛び抜けた美しさもあってのことだけど、
彼女は知識とは別の賢さを持っていたのだろう。
石坂浩二が滔々と喋る蘊蓄の方がむしろ薄っぺらく見える描写だった。

ルリ子は不思議な人で物や人に執着せず、「今」「ここ」しか考えないみたい。
だから嫉妬もしないし人と自分をくらべたりすることもなく、
自分の元恋人だった小林旭と、結婚してすぐに別れた美空ひばりからは
何故かその後もずっと心の親友のように頼られるし
世の中の流れには逆らわず「仕方ないじゃない」と納得して生きていく。
でもそれは弱気な諦めでは全然なくて、もっと淡々とした受容で、
だから泣き言のようなことも一切言わないというか、思いもしない囚われることがない。
一人の孤独を嘆いて酒に溺れる美空ひばりとは対照的に、一人で普通に生きていて
自分は幸せか不幸か考えることもあまりなく、たまに考えると幸せなように思う。
人間の根源的な孤独にあまり縁がないように見えますね。
映画産業の斜陽で元恋人の小林旭が時代に対して愚痴を言った時にも、
仕方ないことを言ってなにか意味があるかしらなどと思い、
テレビに背を向け事業に走る彼を尻目に(その事業は大失敗するのだけど)
自分はテレビにも出始め、そこでもやはり大女優として生きていく。

女優としては順風満帆だったと言っていいと思う。
恵まれた容姿、芯の強さ、野心のなさ、人との距離の取り方のうまさ。
何にも誰にも依存しない大女優。
また、一人の女としても、そんなに悪い人生ではない。
幼くて記憶もないような戦中戦後以外には特に波瀾万丈とは言えない人生と思う。
一番愛した石原裕次郎とは何も起こらなかったけど、日活がポルノ路線になったあと
石原プロダクションに移って共に仕事をし、ずっと公私共にいい友達だったし、
最初の恋人になった小林旭(わりとバカっぽく書かれてる笑)とも
やはりずっと友達として相談にのったりした。
監督と付き合えば一皮向ける映画に出演でき、
大好きな父親には溺愛され家族にも大切にされ
結婚相手の石坂浩二とは長年の別居の間も特に問題もなく自由に暮らし、
お金には困らず常に誰か愛してくれる恋人がいた。
周りのスターに比べてドラマチックな不幸のない人生なんだけど、
その周りのスターたちとの関わりと、この時代の映画やテレビの世界の話、
そして淡々とした彼女の個性でちゃんと面白い本になっています。

あと内容に関係ないけど、これ文庫本なんだけどすごく字が小さい。
老眼になるとこの小ささは結構大変でした・・・笑

「詩と散策」

2024-03-22 | 本とか
散歩をしながら思索にふける本というのは、5年前くらいに読んだ新潮クレストブックスの
「オープン・シティ」というのがあった。
クレストブックスは信頼してるし、表紙の美しさに惹かれて買ってゆっくり読んだ。
ナイジェリア系の作家がマンハッタンを歩きながらあれこれ考える知的な思索の本で、
精緻な文章で読むのに時間がかかったな、と思って5年遅れで昨日感想を書いたのだけど、
それはそもそも今回の「詩と散策」のことを書こうと思って思い出したのだった。
そして、よく思い出すとこの2冊の本にはあまり共通点はないのだった。
「オープン・シティ」はより系統立てて古典に造詣が深く、詩的というよりは哲学的で
彼のマンハッタン徘徊は過去の多くの哲学者の散歩の後を継ぐものに近い。
一方「詩と散策」の方は、詩人である。学者は過去からのつながりの中に生きているけど
詩人は案外ポツンと、今、ここ、にひとりで生きている人が多いかもねと思う。

本の帯に「散歩を愛し、猫と一緒に暮らす詩人」のエッセイと書いてある薄い本なので
ゆるふわな感じかなとぱらりとめくると、オクタビオ・パスの詩がまずあって、それがよかった。
ぼくに見えるものと言うことの間に、
ぼくが言うことと黙っておくことの間に、
ぼくが黙っておくことと夢みることの間に、
ぼくが夢見ることと忘れることの間に
詩。       /オクタビオ・パス「ぼくに見えるものと言うことの間に」



中に引用されている詩も平易な言葉でつづられる淡々としたエッセイも心地よく
同時に味わい深く考えさせられるので、見た目よりは読むのに時間がかかった。
薄くて軽めの本なので旅先に持って行って電車の中などで読みました。

>冬に凍った川を馬に乗って渡った人たちが、翌年の春、氷が解けたそこで馬の蹄の音を聞いたそうだ。川が凍るときにともに封印された音が、氷が解けるにつれよみがえったのだ。馬も人もとっくに去ってしまったのに、彼らがいたことを証明する音が残っている。
遠くの遠くの星の光が何百年も経って地球に届いていることを思い出す美しいエピソード。

プライベートな主観で地図を作った人に関して、
>ある人が言ったように「取るに足らぬものなどなに一つない、と思う心が詩」なら彼の作った地図は詩と言えるのではないか。
いいねー。ほんとにそう。

>私の目で見たものが、私の内面を作っている。私の体、足どり、眼差しを形作っている(外面など、実は実在しないのではないか。
これはごく最近わたしも全く同じことをSNSで呟いてた。
見るものが人を作る。なにを見たかが、その人だ。
なにを聞いたか、なにに触れて、なにを感じて、なにを考えたかがその人だ。
でもその中で「見る」ことってわりと簡単に考えられちゃってるなぁと思うのです。
先日、福田平八郎展見たときに改めて思ったけど、こういう日本画の先生の言う「見る」は
ありのままのものを見えないものが見えそうなほどちゃんと見る、
見て、そして気づくということで、ただ見るのと違ってそれは人に変化を引き起こす。
ぼーっと生きてるとなにも見なくても困りはしないし変化も不要かもしれないけど、
その変化の連続というものがその人を作っていくとこの頃よくわたしは思う。
もっとよく見よう、世界の小さな良いものに気づこう、と思ってます。
>だから散歩から帰ってくるたびに、私は前と違う人になっている。賢くなるとか善良になるという意味ではない。「違う人」とは、詩のある行に次の行が重なるのと似ている。

>手に入れられないものが多く、毀されてばかりの人生でも、歌を歌おうと心に決めたらその胸には歌が生きる。
ああそうか、わたしも歌を歌おう。

>私はまだ老いてないのに老いたと思うときがある。なにも失いたくないから、なにも受け入れない人間になったと。長く使うと体の関節が擦り減るように、心も擦り減る。だから”人生100年”というのは残酷だと思う。人間には百年も使える心はない。
この前半はとても理解できる。わたしは50歳くらいでもう降りた、という気分で
隠居の心持ちで生きている、それはこういうことか。
でも後半には同意できない。わたしの心は擦り減って100年の半分ですっかり重く
くたびれてしまったけど、不屈の心を持った人はいる。擦り減らない強い人もいると思うよ。

テオ・アンゲロプロスの「永遠と一日」という映画の老詩人アレキサンドロスのこと、
>死を前にして虚無に浸っていたアレキサンドロスも、幻想の中で三つの1日に出会って、「永遠」を自覚するようになったのではないだろうか。最後に、明日をも知れぬ余命わずかの彼がこんなことを言う。「明日のために計画を立てよう」
わたしが憂鬱で気分が沈んでドロドロになったときにつぶやく言葉があって
それは「計画がわたしを生かす」。
とにかく何か、遠い目的ではなく、明日か明後日か具体的な計画を何か持つことが、
それが具体的になっていくことが今の自分をなんとか生きさせてるなとよく思うのです。

>シェイクスピアは、人間は夢と同じ材料でできていると言ったらしいが、同時に、幽霊の寂しさとも同じ材料でできていることは知っていただろうか。
大人になって幽霊が怖くないなってから、幽霊の寂しさに思いを馳せる余裕もできた。

愛読しているリルケの詩集について
>「変化」という言葉には、訳者の注釈がついている。「目に見えるものを見えないものに移し替えること」と。まさに夕暮れのなすこと、夕暮れ時に起こることだ。

最近心の距離が野山に近づいたわたしはここを読むと、さあMacBookを閉じて散歩に行こうと思う。
>部屋の中にいるときに世界はわたしの理解を超えている。しかし歩くときの世界は、いくつかの丘と、一点の雲でできているのだということがわかる。   /ウォレス・スティーブンズ「事物の表見について」

それだけだ。いくつかの丘と一点の雲。その中の無限、そして無。
日々、誠実な散歩者として生きているが、私はまだ全ての丘と雲を見たわけではない。

誠実な散歩者の散歩に行ってきますー!



「オープン・シティ」

2024-03-21 | 本とか
ナイジェリア系作家の本というだけで買った本。いや表紙にもやられた、好きな感じ。
移民に関する小説が気になって、特にアメリカの、アジアやアフリカ系の移民の話は読みたくなる。
エイミ・タン、ジュンパ・ラヒリ。数年前に読んだジュリー・オオツカの「屋根裏の仏さま」は、
アメリカの日系人の話だけどものすごく強い印象を残した。
それに比べると、欧米系の移民の話は、なんだか少し遠い物語のように思う。
そしてラテン系の移民の話は、また違う。
ジュノ・ディアスの「こうしてお前は彼女にフラれる」はわたしには未知な感じが面白く、
わかっているのについつい浮気してしまうどうしようもないダメ男の切なさがよかったけど。

この本の作家はナイジェリア系だけどアメリカ生まれ。ナイジェリアに戻って子供時代を過ごした後
高校以降はアメリカで、医学部中退のあと、美術史を学んだ。
この本の主人公「私」は精神科医で、マンハッタンを散歩しながら何かを見たり誰かに会ったり
何かを思い出したりして思索する。
詩的な思索の本かと思って読み始めたけど、詩的というより知的だった。でも思索は広く深い。

>ー教授は片方の手でそれを表現したー一行か二行の言葉があればすべてをつかまえることができる。詩が何を語り何を意味するのかすっかりわかる。釣針のあとに全体が現れる。陽が和らぎし夏の季節に、我は羊飼いのごとく外套を纏う。何だかわかるかね?もう誰も暗記してないだろ。(略)それはそれとして最初に記憶の価値を教えてくれたのはチャドウィックだ。記憶を精神の音楽だとする考え方も教わった、
これは日系人の恩師サイトウ教授の言葉の部分。すぐれたバイオリニストはバッハやベートーヴェンのソナタをそらで弾ける、詩も同じだという。それをケンブリッジにいた頃にチャドウィックに教わったと。わー、チャドウィックか!歴史がすぐそばにある。

世界と移民についての思索が多い。
ある鬱病の女性患者の話。彼女は17世紀アメリカ北東部の先住民と
ヨーロッパからの移住者との接触に関する広範な研究をしていて
>それを彼女は豪雨の日に川の向こう岸を眺めている感じだと表現したことがあった。彼女は対岸で起きていることが自分と関係あるのか、いやむしろそこで何が起きているのかわからなかった。(略)彼女と話してはっきりしたこともあった。白人の移住者のせいでアメリカ先住民が耐えねばならなかった恐怖、彼女によればアメリカ先住民をいつまでも苦しめた恐怖に、彼女は内奥まで侵されていたのだ。

また、カーネギーホールでのサイモン・ラトル指揮のマーラーのコンサートで
>こうしたコンサートではほぼいつものことだが、そこにいる全員が白人だった。私はそんなことについ気がついてしまう。毎回気づいては、やり過ごそうとする。そのとき、気持ちに折り合いをつける一瞬の複雑な心の動きもある。すなわち、それに気づいた自分をたしなめ、世界は今なお隔てられていることを知って悲しみ、夜のどこかでふとこうしたことが頭に浮かぶと思うと嫌になるのだ。
白人の同質性に紛れ込んでしまう自分に驚きながら、でもマーラーの音楽は白くも黒くもなく人間的かどうかも疑わしいと考える。
同様に映画館に行くと、映画についての批評というより、
観客が白髪の白人ばかりの時と、多くが若い黒人絵あった時のことや、
その映画を見ているうちに思い出したある集の記憶などについて語っていくし
映画の後に地下鉄に乗るときに祖母のことを思い出したり、考えはとめどなく彷徨う。

ブリュッセルでたまたま知り合った男性との会話で、
政治哲学の議論中マルコムX化かマーティン・ルーサー・キングのどちらかを選べと言われ
自分一人だけマルコムXを選んだというその友人の言葉(作家の考えというわけではない)
>マルコムXを選んだのは同じムスリムだからだねって言うんだ。ああ、そうとも、僕はムスリムだよ。でも彼を選んだ理由はそれじゃない。哲学的に彼と同意見だったからで、マーティン・ルーサー・キングに賛成できなかったからだよ。マルコムXは、差異それ自体に価値があり、その価値を促進することが戦いだって理解してた。マーティン・ルーサー・キングは誰からも敬われてて。彼は誰もが手を取り合うことを夢見てる。でもそれは片頬を打たれたら反対の頬を差し出せってことだよ、僕には意味がわからない。

ブリュっセルで詩人ポール・クローデルのブロンズの像を見ながら
>第二次大戦時にナチスの協力者やマーシャル・ペタンを支援したことで人々の非難を浴びたが、左翼的不可知論者のW.H.オーデンはクローデルのことを情け深くもこう記している。「時間がポール・クローデルを赦すだろう、優れた筆に免じて赦すだろう」と。私は激しい雨と風の中で問うた。本当にそれほど単純な話なのだろうか。時間とは、筆が優れていれば倫理的に生きたことにしてしまうほど、過去に固執せず恩赦を与える心の広いものなのだろうか。しかし私は街じゅうの無数の銅像や碑が讃える悪者は、クローデルに限らないのだ、と思い知らずにはいられなかった。そこは碑の街であり、ブリュッセルの至る所で石や鉄に偉業が刻まれていた。それらは不愉快な問いへの有無を言わせぬ回答なのだ。

アパートから見える部屋で壁に向かって祈る女性を見ながら紅茶を飲み
>人はそれぞれだ、と私は考えた。人のありようはみんな違う。しかし私もまた祈った。もしも彼女のように私がユダヤ教徒であれば、壁に頭を向けていただろう。祈りは何かを保証するものではないし、生に望むものを得る術でもない、とずっと思っていた。それは単なる存在のための実践だ。それだけだ。今を生きるためのセラピーであり、心の願いに名を与えるセラピーだ。すでに形のある存在のための実践だ。すでに形のある願いにも、未だ形になっていない願いにも。

いくつか引用したものの、なんか、引用してもその前後に絶え間なく思索は続き、
いろんなものが絡み合いながら進んでいくので、ここだけでは多分よくわからないと思うけど、
あちこちに考えが伸び、彷徨うのに、頑張ってついていく感じの読書でした。
自分も普段ものを考えるときは確かにこんなふうに揺蕩いながら、
難しいことだと立ち止まりながら、延々と考えは続いていくなぁとは思うけど
知識と教養の差が大きいので文学にはならないですね。笑

「みっちんの声」

2024-03-07 | 本とか
池澤夏樹の個人編集の「世界文学全集」に、日本からは大江健三郎も村上春樹も中上健二も
敢えて入れなくていいかとスルーしたものの、
あとで石牟礼道子さんの「苦海浄土」を追加したと書かれてた。
わたしが去年読み終わった「苦海浄土」は、この池澤さんが編んだ文学全集の中の版です。
さらにそのあと「日本文学全集」を編むときは、石牟礼さんの他の作品も入れていて
池澤夏樹は彼女を神のように尊敬し崇めているのだなぁと思ってたけど
この対談集を読むと、その神のように敬愛している石牟礼さんとお近づきになれてうれしくて
石牟礼さんが大事で大事で日本の宝だと思ってらっしゃるのがすごくよくわかる。
それはなんだか尊いものだなぁと思う。

石牟礼さんは文章は濃厚ですごいものを書きますが、ここで話す言葉は平易で多くもないので、
池澤さんが石牟礼さんの言葉や言いたいことを先回りしたり説明したりすることが多いです。
それはこうこうこういうことですね、とどんどん整った言葉にしていくのが、
ちょっとやりすぎな気持ちになることもあるけど
とにかく好きで好きで仕方ないのが溢れているので、まあ仕方ないか、と思うことにした。

対談は時系列で並べられていて、一番最後の方は石牟礼さんの言葉も意識も
ややあやふやで頼りなくて、書かれていないけど池澤さんの切なさを感じ取りました。
こうやってお会いできるのがあと何回あるだろう、とにかく生きていてほしい、
でも死ぬことを、別の懐かしいものたちのところに行くことのように思うなら
そんなに悲しまなくていいのだろう。でも生きていてほしい。ただ生きていてほしい、と
そんなふうに思ってらしたのだろうな。

何箇所か引用します:

草の中に立ってると自分と草の区別がつかないという石牟礼さんに、
池澤:風が吹いてこう揺れたら草が揺れている。自分という草が揺れていると思えるわけでしょう。
石牟礼:思います。自分の祖(おや)は草だったと思ったりする。

人間よりも草に近い魂を持っていると、ああいう文章が書けるのだなぁと思った。


池澤:・・・・魂というのは、一人に一個じゃなくて、もっと何か…
石牟礼:ご先祖さまがいっぱい入ってますよね。
(略)
池澤:それが自分において一番色が濃くなっているところが自分の魂であって、でも閉じたカプセルじゃないですよね。



初めて覚えたひらがなが本棚の本の「つるみゆうすけ(鶴見祐輔)」で
石牟礼:ああ、そのときに「これは人の名前かもしれん」と思いました。
池澤:そのときは、文字を使えば、文字を連ねていけば、世界がひとつできるというか。
石牟礼:文字を使えば、今見ている景色とか、今見ている人とか、全部立ち上がり直すんだなという経験をしました。綴り方の時間が大好きで、鐘が鳴ってもずっと書いてるんですよ。(略)鉛筆の先から世界が立ち上がる。そういう自覚がありました。


あと、これは編集者をしている友達のことを思い出した部分。
池澤:一つはね、編集ってことをかんがえているんです。つまり普通編集というのは二次的な仕事と思われがちですよね。作家が書いたものを本にする。その部分だけと思われているけども、古代で考えたら「古事記」にしても、「竹取」にしても、「今昔」はもちろん、古代の文学のほとんどは編集ものなんですよ。つまり、さまざまな素材があって、それを集めて編むわけ…そのこと自体が非常に大事な、文学的な営為だった。個人の名前をたてての創作は、たぶん「源氏」からですよ。(略)
翻訳もそうですね。翻訳という仕事は二流だとみんな思ってきた。原語で読めない人のためにしかたないからやると。だけど、翻訳という仕事は非常に大事な文学的な仕事である、と、だって、文学はそれで広まってきたんだもの。
また後で別の時にも池澤はこう言ってる
つまり、編集は思想なんですよ。創作なんです。


池澤さんが文学と女性に関して語っていたところも印象に残りました。
世界文学全集を編んだ時に、気がつけば女性と旧植民地出身の作家が多くなっていたと。
その人たちはかつてはペンを持ってなかった、ずっと教育も機会も得られなかったけど、
ペンを持って小説をかけるようになって傑作がたくさん生まれたのだとおっしゃってた。
こういう話を聞くとうれしくなるな。
先日読んだ、抑圧されたアフガニスタンの女性たちの短編集「わたしのペンは鳥の翼」を思い出します。
これは辛い本でもあるけど、少なくともこうして極東のわたしに伝えることができている。
彼女らに文字が与えられず、また書けても出版してくれるところがなければ実現しなかった。
能力のないものとして何も与えられなかった弱かった人たちの状況が確かに変わってきたのだと思うと、
まだまだ道半ばだとしてもうれしい。
20世紀は大きな戦争の世紀だったけど、
一方で女性や植民地や民族の解放や人権獲得は少しは進んだのだな。

そして弱い側には言いたいことがいつもあるというところで
先日映画がリメイクされた「カラーパープル」の原作を号泣しながら読んだ辛い時期のことを思い出し、
また、魂の話のところでエヴァンゲリオンの人類補完計画のことを思い、
脳みそが活性化されてる時にはとにかくいろんなことを思い出すものだな。
そういう時は辛いことを思い出していても、それでもとても楽しい。
思い出すものが離れていればいるほど、その間を繋ぐ思考がカラフルになり
生きている、生きて思考している喜びがある。