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sigh of relief

くたくたな1日を今日も生き延びて
冷たいシャンパンとチーズと生ハム、
届いた本と手紙に気持ちが緩む、
感じ。

お風呂で読んだ本:2013-14冬の5

2014-03-30 | 本とか
自分はいつも、俳句をやってみたいと思いつつ
ご存知のように(笑)言葉が多い人間なので中々できない。
マレーシアに住んでいたときは日本語に餓えてて
日本の新聞衛星版の詩歌の投稿ページなどじっくり見ていました。
そこで勉強しようと思っても
何しろ四季がない常夏の国なので季語が遠くて難しかった。
帰国後、たまにうんうんひねってみると「盛りだくさんすぎ」と言われたりして
やっぱり言葉の多い理屈っぽい人間のままで、
そろそろ風通しのいい人間になりたいものです・・・。
それで、ときどき俳句や短歌の本も読みますが
いつまでたっても入門書を読んでいます。


「あなたの俳句はなぜ佳作どまりなのか」辻桃子
この人の書いた入門書っぽいのを前にも1冊読んだ気がする。
でもこの文庫は、とてもわかりやすいです。
わたしが未熟でまだ読む目をもってないからだろうけど
たまに、添削された句よりされる前の句の、
作者の言いたかったことの方が、大事なように思えることもあるけど、
それでも、その添削の理由にはいちいち納得させられます。
理屈になっとくできるのと、それを実践できるかは別ですから
ほほう!と思ってもきっと俳句は詠めないままだと思うけど。
みんなただ行きて死ぬ。私たちはその一瞬を一句に書き留めているだけだ。
切ないから「たのしい」と言って笑っているのだと言うことを、忘れないで。
 てふてふに獣の顔のありにけり 辻桃子
ーーーーーーーーー
 目玉焼き目玉幾つや避暑終る 大川桃鬼
「避暑終わる」の季がロマンチックに流れがちなのを「目玉幾つ」ととぼけたので俳味が濃くなり寂しさがにじみ出た。甘い叙情に「寂しい滑稽」が加わったら「鬼に金棒」だと思う。
ーーーーーーーーー
.....こういう季語の使い方はどんな場合も説明的だ。「・・・だから」と簡単に理由、理屈のつくものは詩ではないと肝に銘じておこう。俳句とはわけのわからないナンセンスなものであるゆえに、人間存在のわけの解らなさに直感的に突き刺さるものなのだ。

写生と言うのがどういうものなのか少しわかった気がするし
(「写生に徹せよ」というのは、「徹底的な写生の果てに、このような幻想を至らせたい」がゆえである。)
とにかく削ぐ、説明しては行けない、でも意味不明な抽象もよくない、
というようなことが、非常によくわかります。


「短歌があるじゃないか」 穂村弘/東奈緒子/沢田康彦
穂村さんの本は何冊か持ってる。仲良くなれそうに思う。笑
現代短歌は読むのは好きだけど自分でしようとは思わないです。
ちょっとセンチに流れやすい地のままがでそうなのがいやなのかな。
もっと刈り込んだ端正な形が好きなのでしょう。
この本はアマチュアの方の短歌を3人で対談風にあれこれ語ったものです。
敷居の低い短歌入門書と書かれている。
本当に何十年たっても入門書を読んでいるわたしです(笑)。

斎藤茂吉などがそうであるように、近代短歌というのは一人称で、結婚したら結婚の歌、子どもができたら子ども、お母さんが死んだら悲しみの歌を、というふうに日記みたいな連続性を持っているわけですよね。(穂村)
ーーーーーーーーーーーー
例えば歌人の水原紫苑さんにとっては「能」とかの世界がこれなんですよね。必ず人が死んで、死者との交感になる。生きてるもの同士ではこの世界はもうだめだから、片方が死んでいなければ本当の愛の世界は成就しないみたいなたちばとかもありうると。(穂村)
 魚食めば魚の墓なる人の身か手向くるごとくくちづけにけり  水原紫苑
 こんなにもふたりで空を見上げてる 生きてることがおいのりになる 穂村弘
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 大切なことをひとりで成し遂げにゆくときのための名前があるの 穂村弘
というように名前をつけるのはひとつの呪術なんですよね。
ーーーーーーーーーーーー
 熱帯夜。ゴキブリの中みは赤と黄いろと緑。 穂村弘

 天国の5秒手前にいる君をおくりとどけるアインシュタインの舌 伴水

 わたしたち家につかない気がするわフロント・ガラスにふる鱗たち 加藤治郎

 荷車に春のたまねぎ弾みつつ アメリカを見たいって感じの目だね 加藤治郎

 雪を見て飲むあついお茶 わたしたちなんにも持たずにここに来ちゃった 
                                 東直子


お風呂で読んだ本:2013-14冬の4

2014-03-29 | 本とか
「針がとぶ」 吉田篤弘
クラフト・エヴィング商會の人ですね。
この人個人での小説は3冊くらい読んでるけど
読むと、いいなぁと思うのに、中々読み直すことはない。
なんか甘い感じが残る気がするからですが、
実際に読むとね、そんな安い甘さではなくて、
やっぱりいいなぁと思うんですけどね。
これは、カバーのミヒャエル・ゾーヴァの絵がよくて久しぶりに買ったんだけど
かなり好きです。他の本ももっと読もうと思った。
表題作の「針が飛ぶ」はレコードの針のこと。
亡くなった人の残したレコードの同じところで針が飛ぶ、その一瞬を
本当に一瞬のことなのだ。でも、その一瞬は、わたしに玄関の電球が切れたときのことを思い出させた。あの暗転と、夕刊のインクの匂いと。
だから、電球を交換したように、またもう一度と思って、繰り返し針をおろす。
B面の最後。
針がとぶ。
そこに、わたしの聴くことのできない音楽があった。

ああ、針の飛ぶほんの一瞬に無限の時間が見えるじゃないですか。素敵。
この表題短篇の最後の部分でした。

7つの短篇はどこかで繋がっているけど
わたしは記憶が悪いし、時系列とかわかんなくなるしで
ぼんやりと、ああこの人はあの人かなぁ、と思うくらいで読んだけど
それでいいと思います。
上記の話で、亡くなった人の日記からなる短篇より、
長く履いて来た靴を履き替えてしまうのはなんだかとてもさみしい。
このごろはじつは、あまりさみしいということを感じないまま暮らしていた。
雨のあがった今日の夕方の散歩に、おろした靴を履いて歩いてそう思う。そう思い、それでどうしていいのかわからない。
そういえば、さみしいというのはどうしていいかわからないことであった。


小川洋子の解説より
登場人物たちは、あるもの、ではなく、ないもの、にばかり心を寄せる。・・・中略・・・いずれにしても彼らは、あるとない、の境界に迷いなく潜り込んで行く。境界の溝は思いがけなく深いのだが、途中で恐れを抱き、戻ってきたりはしない。どこまでも遠い果ての地点までたどり着く。矛盾という名の溝の前ですごすごと引き返してしまう人々の目には決して映らない風景が、そこには広がっている。


「博物誌」 ルナール
岸田国士戯曲賞を映画化した→「愛の渦」を見たあとに、
岸田国士訳のこれ。
ものすごくウィットやセンスがあるとは思わないけど
確かにあとがきで訳者が書いてるように
日本の俳文学にいくぶん近いものがある感じはする。
ルナールの簡潔な表現、というよりもむしろ、その「簡潔な精神」が、脂肪で太った西欧文学のうちにあって、彼を少なくとも閑寂な東洋的「趣味」のなかに生かしていると言えば言えるだろう。(訳者あとがきより)
原著のフランスでの最初の出版は1896年でまだ半分くらいの量だったそうです。
雌鳥、雄鶏、家鴨、牛、山羊、兎、蝸牛、蟇、蟋蟀、といった動物や虫や
ひなげし、葡萄畑、樹々の一家、という自然の草木についての短い文章です。
写真は、この本の驢馬のところの挿絵。

続きは明日か明後日。

お風呂で読んだ本:2013-14冬の3

2014-03-27 | 本とか
「絵本・落語長屋」 文・西川清之 絵・落合登
これはすごく楽しい本。
50年近くも前に出た本の復刻版文庫本です、素晴らしいことだ。(1967年)
明治生まれの江戸っ子が挿画と文章でつづる落語の世界。
文書は、短い随想で、あらすじとかは書いてないので
知らない噺だとどういう噺なんだろうかと想像しながら読むのもいいし、
文も絵も洒脱で楽しいです。
若い頃はテレビで時代劇を毎日のように見ていましたが
(わざわざ見るつもりがなくても、多くの家でテレビはつけっぱなしで
 夕方や夜には毎日何か時代劇がやってました)
最近は昔ほど時代劇はやってないみたいだし、
そもそもわたしもテレビ自体見ないので
落語聴いてても何となく細かい風俗などはぼんやり想像してるんだけど
こうして絵になるとすっきりしますね。
上方の人間ですが、江戸落語はいいなぁ、得だなぁとうらやましくもある。笑


「散歩で出会う花ポケット図鑑」 久保田修
あんまり文章読みたくない夜は、図鑑とか見ます。
季節の変わらない常夏の国から四季のある日本に帰って来て以来
雑草や、街の木くらいは知っておきたくて
図鑑の類は大小けっこう持っていますが
文庫本タイプは、やはりお風呂でも読みます。
写真が小さくてわかりにくいとか、部分を知りたい、全体を知りたい、
説明にもっとこういうことを書いてほしい、などいろんな要望はあるけど
お風呂で眺める文庫サイズと言うところは、よろしいです。


「頭のうちどころが悪かった熊の話」 安東みきえ
これは絵本的というか寓話的な物語です。
勧善懲悪な教訓的な話は今更読みたくないんだけど
これはなんとなく少々の不条理もあって、でも最終的には
あたたかい物語でした。
表題は、そのままの話で、頭のうちどころの悪かった熊が
何か大事なものを(覚えてないまま)さがすシンプルな話です。
「こんなにかわいい君を思い出せなかったなんて、ぼくはよほど頭のうちどころを悪くしていたんだな」
なんてスィートな描写もあるけど、ブラックなところもあって
甘いだけのお話じゃないところはいいです。


「うさぎパン」 瀧羽麻子
高校生男女の、かわいいお話。
あっという間に読めてしまうけど、瑞々しくてかわいいお話で
甘くてきゅんとします。
子どもの恋愛に興味はないし、こういう本、普段買わないんだけど(笑)
出てくるパン屋さんが赤いひさしの「アトリエ」と言う店で
タイトルが「うさぎパン」ですから
赤いひさしのアトリエ&カフェをやってるうさぎ飼いのわたしは
買わないわけにいかなかったのでした。笑
ダ・ヴィンチ賞を取った小説だったんですね。
同時収録されてるスピンアウト小説の「はちみつ」もかわいい話でした。


「怖い絵」 中野京子
これは何年も前から読むつもりで
文庫化をじーーーーって待っていた本です(我慢強い、笑)。
続編も早く文庫化してほしいなぁ。
中野京子さんは、これを読む前に新書の
「ハプスブルク家12の物語 名画で読み解く」 を読んで面白くて
友達に勧めたら友達もハマって、という経緯もあって
「怖い絵」も読みたいなぁと思いつつ、しつこく文庫化するのを待ちました。
予想通りに大変面白い本。
いくつかの名画の、何がどう怖いか、その絵や画家の背景なども踏まえて、
難しくない読みやすいものになっています。
当たり前に怖いゴヤの絵もあり、なぜこれが怖いの?という絵もあり、
西洋絵画に詳しい人も詳しくない人も楽しめると思います。
様々な絵のなかで、わたしはなぜか威風堂々たる冷徹な独裁者
ヘンリー8世の肖像が気になって、

いつか模写してみたいとか思いながら読みました。

お風呂で読んだ本:2013-14冬の2

2014-03-26 | 本とか
冬の初め、秋頃から旅の本を自分の本棚からさがして読んでいた一部。

「ルーカス・クラナッハの飼い主は旅行が好き」 山本容子
これは前に書きました。(→

「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」 村上春樹
これも書いた。ウィスキー飲みたくなる文章。
(→クレタとアイラ:ことばとウィスキー

「明るい旅情」 池澤夏樹
これも書いたけど(→クレタとアイラ:クノッソス
そこに書かなかった引用を少々。
「イギリス人はある時期に地球全体を知的に把握した。
世界という概念に実態を与えた。どの国に住む者も、
イギリス人が作った地図を借りて「世界」というものを認識した。」
「イギリス文学を作った人々の大半は何らかの形で
イギリスを出て行った人々であるということになる。」
「この国はみんなが出ていったところ、いわば空虚なる中心なのだ。」
「この世界は全体として経営可能であると最初に気づいたのはイギリス人だった…
スペイン人のように一方的な強奪で征服しようとは考えなかった…
資産ではなく生産力を...利用しようと考えた」
「世界は経営可能である。そう信じる前の段階として、
世界は渡航可能であるということがあった」
「渡航する力は充分以上に残っている。世界は認識可能であるという
別の心情が生まれる。」
「出てゆくこと、行った先を知ること、それを故国に報告すること、
この伝統は残っていて、それがいい文学を作る」

以上、イギリスと、そこですばらしい紀行文が多くうまれたことに対しての
池澤夏樹の考察の部分。

「世界は彼ら(イギリス人)にとってちょうどよい広さと複雑さ、
文化の多様性、適量の謎などを含んでいて、
これは一国民が数世紀に亘る探求遊びを続けて飽きないほどのものだった。
それに熱中することは彼らに莫大な利をもたらしたが、
今では純粋の遊びに近いものになっている。」
「それが一生に値する遊びであることを知る者が、
今日もまた荷物を背負って国から出てゆく」


「長い旅の途上」 星野道夫
とても有名な人だけど、アウトドアに興味のないわたしはよく知らなかった。
素敵な人だなぁと本を読んで思いました。
(→本をもらうこと
ふと、今は亡き作曲家の武満徹の言葉を思い出していた。それはぼくがとても好きな言葉だった。
「この世界を、もうどうしようもなくなっているのに、やはり肯定したい気持ちにさせられる。あきらめと希望が同居し、明るさと悲しみが一緒くたなのに、私は明日のことを考えている」
ジェーンは突然手を差しのべ、ぼくとミヒャエルと。一人一人の手を握った。ぼくは、何か、言葉にならない約束をさせられたような気がした。それが、私たちのアフリカの旅の終わりだった。

誰かと心底信頼関係を持つと言うことは
長い約束のようなものだとわたしも思う。
そういう風に、手を握ったりつないだりすることは
言葉にならない、自由な約束なんだなぁ。

続きは明日、か明後日。

お風呂で読んだ本:2013-14冬の1

2014-03-25 | 本とか
本は、随分長く、ほとんど読めなくなっていたので
感想を書くこともなかったけど、
この1年くらい少しずつ読めるようになって来たので
このブログにも本にまつわる→カテゴリーも作りました。
でも本の感想は映画の感想より難しいので
やっぱり、あんまりちゃんとは書きません。
大長編とか読み終わったら、つい自慢して書いちゃうけど(笑)、
わたしがイイカゲンな感想書くよりも
気になった部分の引用を少々載せるだけの方がいい気がする。

読む本のほとんどはお風呂で読んでいて
大きな雑誌や写真集、全集ものなどはソファやベッドで読むけど
文庫本はもう、お風呂用に買う感じです。
週に1冊くらいのろのろと、ひとシーズンに20冊くらいかな。
この冬に読んだ文庫本のメモ。

「雪の練習生」 多和田葉子
これは素敵な本だった。シロクマの祖母・母・息子3代の話。
モスクワのサーカスから西ドイツへ亡命、さらに東ドイツへと。
伝記を書いたり伝説の芸を成し遂げたり、動物園の人気者になったり、
と説明してもほんの1%もわからないと思う不思議な話。
クマも考えたりしゃべったり、しゃべらなかったりします。
静かで内省的で、すごくおもしろい物語です。
「人間は不自然と言うことをとても嫌っているんだよ」とミヒャエルが説明してくれた。「熊は熊らしく、下層階級は下層階級らしくしなければ不自然だと思っている。」「それならば人間はどうして動物園なんか作ったんだ。」「「うん、それは多分、矛盾しているところが人間の唯一自然なところだからだ。」「そんなのずるいよ。」「君は、自然か不自然かなんて気にしないで、君がいいと思う通りに生きればいいよ。」

ウルズラはわたしと向かい合ってきりっと立ち、唇だけを柔らかく差し出す。その時、彼女の喉が闇の中で大きく開いて、魂が奥でちらちら燃えているのが見える。一度接吻する度に、人間の魂が少しずつわたしの中に流れ込んで来た。人間の魂と言うのは噂に聞いたほどロマンチックなものではなく、ほとんど言葉でできている。それも、普通にわかる言葉だけでなく、壊れた言葉の破片や言葉になり損なった映像や言葉の影なども多い。

これはサーカスで死の接吻という芸をするときの熊の言葉。


「ひとり暮らし」 谷川俊太郎
「昼寝」は本来孤独な楽しみであるべき、とか。薄いエッセイの本です。
谷川さんのエッセイも何冊か読んで来たけど、やっぱり詩の方が好きかなぁ。
でもひとり暮らし初心者なので、つい買ってしまった。笑


「毎日のパン」 いしいしんじ
これは文庫本ではなく京都の進々堂のカフェに置いてあった薄い冊子で、
100周年を記念して、パンを題材にした小説を書いてもらったと言うもの。
無料でご自由に、と置いてあったので1冊もらってきたけど、
かわいい本でかわいいお話だったので、もう何冊かもらってきて
遠くの友達に送ればよかったと、あとでとても後悔しました。
パン屋さんに毎日来ていた犬の話。パン、食べたくなります。

続きは明日、か明後日。

簡単な本難しい本

2014-02-10 | 本とか
お風呂は普通、1時間半ほど入ってて、
そのうち1時間は湯船の中にいて本を読んでる。
いつも文庫で30~50ページくらい読むので(遅いです)
週に1冊くらいのペースなんだけど、
ふんわかした高校生の恋愛もの読んでたら1日半で読み終わった。
簡単な本は簡単だなぁ。たまにはいいですね。

難しめの本だと頭が疲れるからか、お風呂では1時間も読めなくて
3~40分で20ページくらいしか読めずに疲れてしまうこともあります。
お風呂で頭使うとのぼせる?笑

でも難しい本ってどういう本かと聞かれたら、よくわからないです。
たとえば「百年の孤独」を難しいと云われると驚いちゃう。
あれは難しい本ではないよねぇ。滅法面白い。
独特の世界ではあるし、慣れないかもしれないけど、
ビックリしながらどんどん読んじゃう本。

いわゆる評価の定まってる古典は、大体難しいばかりではなくて、
半分以上は面白くてすいすい読める。(というほど読んでないけど)
トルストイもドストエフスキーも、大部分はすいすい読んでしまうよね。
たまに、長ーーーーい考察がでてきて、うあぁ、と思いつつ
登場人物多すぎて混乱しつつ、でも面白い。
古典は、少しとっつきにくくても、まあ読んで損することはないので
安心してがっつりゆっくり取り組めるので、
あまり難しいとか考えないです。
・・・と、思うのはわたしが小説を好きなせいで
例えば読み慣れない西洋哲学や歴史の本だったら
ひとが簡単に思う本も、難しいと思ってしまうかもしれないか。笑

簡単な本難しい本って何でしょうね~?

ルーカス・クラナッハの飼い主は旅行が好き

2014-02-01 | 本とか
山本容子さんは初期?のカミソリのエッチング時代から
なんてかっこいいんだろう、センスがいいんだろうと思ってました。
美貌と才能とセンスのある画家だと思う。
彼女の本を何冊持ってるかな、けっこうあります。
そのうちの一冊は、同じ本を文庫本でも持ってたので、そっちを
久しぶりにお風呂で読んでみた。
「ルーカス・クラナッハの飼い主は旅行が好き」
いつもながらに洒落たエッチングのたくさん入った薄い本。
こういう絵は、サイズの小さい文庫本にも合うなぁと思う。
サイズと中身の洒脱な軽さと絵が全部合ってる、とても素敵な本です。
1989年出版だから25年も前なのかぁ。(文庫化は1999年)

最近、お風呂で旅の本特集みたいに、本を読んでるけど
これは前に書いた星野道夫さんの本とは対極にある感じの本です。
星野さんは自然と人間とこの世界全部について
余分なものは何も持たずに身ひとつでアラスカを行き、
見て感じて考えて書いていたけど、
山本容子さんはパートナー氏と都市のホテルに泊まります。
あくまでも都会の、シティな感じ、田舎に行っても。
でも、どっちの本も、わたしは好きですね。

前半は、いろんなホテルの、たとえば鍵の形や
水を飲むのにぴったりのコップや、
窓の景色やベッドの話を楽しく読んでたんだけど、
後半になるにつれ、パートナー氏の登場が増えてきたような。
作者は、イスラム国でお酒が飲めないと云ってはふくれ、
モスクワでキャビア缶が売り切れでがっかりしまくし、
レストランで扱いが悪かったといっては泣き、
年末のベネチアでホテルが取れず、リド島に泊まるのは嫌だと取り乱す。
その度に、パートナー氏がうまくなだめたり解決してくれたりして、
翌日には、機嫌を直してあやまったりするんだけど、
わがままで、甘えていて、ちょっとダメでかわいい女の人全開です。
ああ、うらやましい。
才能と美貌は仕方ないけど
せめて、こんなふうにわがままの言える女になりたかった、と
旅の本のつもりだったのに、読後感は全く別のものでした・・・。笑

本をもらうこと

2014-01-26 | 本とか
旅の本をお風呂で読んでいると、昨日書いたけど、
星野道夫の、アラスカでのことを書いた本は
旅の本には入らないかなぁ、旅ではなく住んでらしたんだもんねぇ。
でもタイトルが「長い旅の途上」だし、
これを読むわたしはやはり、旅の気分に少しなるので、ま、いいか。
いや、これを読んだからと云って
クレタやアイルのようにそこに旅したくなりはしないけど
(冒険もアウトドアも過酷な自然も苦手な軟弱もの・・・)
思ったよりもずっとよかった。とても好きな本。

この本はもらった本です。
あるとき、待ち合わせをしてた友だちが、
電車を間違えたので(これ彼女はよくやる)30分遅くなるとメールが。
駅の構内で待ち合わせてたので、他に行く場所もなく
30分くらいなら本屋さんで時間をつぶそうと入って
なんとなくぼんやりと文庫本の棚を見てたら
わたしの大好きな本が目に入って、なんだか買いたくなったのです。
文庫本は、好きな本を見かけると、無性にもう一冊買いたくなる。
それで、そうだ、遠方から来てくれる友だちへのお土産にしようと
その本を買って、数時間後、彼女と別れる時に
お土産、と云って渡したのです。

文庫本は小さくて高くなくてどこにでもあって、とても素敵なものだと思う。
装幀の素晴らしい美しい本や、ムカつくほどセンスのいい本も好きですが
どこにでもある小さな文庫本の何気なさは、やっぱり特別好きです。
だから人にあげるのも、もらうのも、あまり気をつかわないのが、またいい。

そのとき、その友だちはとても喜んでくれて
後日、一年後くらいかなぁ、何かで会ったときに、
はい、お返し、って本をくれたのでした。それがこの本。
星野道夫さんは大変有名な人ですが、わたしはアラスカにも冒険にも興味がなく
この人の書いたものを、ほとんど読んだことがなかったのですが
読んでみて(まだ途中だけど)ああ、食わず嫌いはよくないなぁと思った。
とても素晴らしい本です。
いい本を読ませてくれてありがとう。

そういうわけで、会う人に時々、いきなり文庫本をはいって
プレゼントしたりしますが、驚かないで受け取って下さいね。

お風呂で読む旅の本

2014-01-25 | 本とか
少し前に、最近、旅の本ばかり読んでるんです、と言った人がいて、
旅の本、という響きは素敵だなぁと思うものの、
旅行記や紀行文でも、特に好きなものはあまり思い浮かばないなぁと
ぼんやり聞いていました。
でも、しばらくして家の本棚の整理をした時に、ふと思い出して
旅行に関する本って何か持ってるかな?と探してみた。
思ってたよりはありました。数冊だけど。
そのうちの二冊が、クレタ島とアイラ島の、先日のブログに書いた本です。
あと、なんだか切実なアジアバックパック失恋旅行の本やら、
もちろん沢木耕太郎の本やら、他に数冊。

自分は旅行は特別に好きな方ではないと思います、
めんどくさいと思ったりする。
滞在型の旅行の方が好きで、パリにひと月近くいても、
ひたすら毎日歩き回ってただけ、ということもあったし、
観光もせずずっとリゾートのプールサイドにいるだけ、というのも多かった。
壮大な自然にも、過去の偉大な文明の遺跡にもあまり興味がなかった。
というか、、それを見て、ほーう!とありきたりに感動するだけの
自分の薄っぺらさがいやになるので見たくなかったのかもしれませんが。
(あー、やっぱややこしい人間ですねわたし。)

だから田中小実昌が知らない異国の街を、
バスでぶらぶらするだけの旅行記みたいなのしか、
あんまり読まなかったんですけど、(田中小実昌はいい)
この前、人に旅の本をもらって、
そういえばわたしの好きな沢木耕太郎の「天涯」シリーズも
旅の本だよなぁと思ったり、
家の本棚を見ると思ったよりは旅の本があったりで
なんとなくそういう本を読んでます。

それでこの頃、お風呂で旅の本を読んでいて、
今日は沖縄と、カナダに行きました。
沖縄ではヤンバルのイタジイの熱帯らしい森を歩き、
カナダではビクトリア時代の衣装を着けてのお祭りを、
ぽかんと口を開けて眺めました。(頭の中で)

お風呂で本を読むのはいいです。旅の短い本がいい。
1時間くらい、湯気の中で、ぼーっとのぼせかけながら、
知らない土地の話を聴いて見て、驚いたりするのは、楽しいです。

何年も、頭が落ちつかなくて本を読めない状態だったので
焦らずに、少しずつ楽しんで本を読むと云う喜びを
久しぶりに味わって、かみしめています。

クレタとアイラその3:ことばとウィスキー

2014-01-18 | 本とか
昨日書いたクレタ島の紀行文の池澤夏樹は、わたしにとって
日本の作家の中で好きな作家ベスト5くらいに入るんだけど、
アイラ島のことは村上春樹の書く旅行エッセイ?で読みました。
小説は、30年も前、高校生や大学生の頃は新刊が出るたびに読んでいたけど
最近は小説もエッセイも読んでない。
「海辺のカフカ」を数年前に読んだのが最後かな。
あ、そのあと何か軽いエッセイ集を買った気はするけど(覚えてない。笑)

こちらは写真入りの、やはり薄い文庫本で、
旅について書いた本ってわたし何冊か持ってたっけ?と
自分の本棚を探したら出てきた、十年前くらいに書かれたものです。
「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」
タイトルかっこいいなぁ。
そして写真もたくさん入っていて(奥様が撮られた?)
羊やうさぎやかもめや牛と、海と牧草地、
そして、いくつものパブと少しの蒸留所の様子が楽しい本です。

アイラ島と云えばシングル・モルト・ウィスキーですが、
そのウィスキーの描写が上手すぎて(旨すぎて)夢見心地になる。
いえ、わたし自身はウィスキーはほとんど飲まないし
むしろ父の記憶と結びついて嫌いな方だったのですが、
ここ数年やっとそういうことが少し気にならなくなってきたのと、
アイラ島が手頃な小ささの島で、散歩したり
暖炉の前で本を読んだりというのにぴったりな感じに惹かれたのです。
そしてここへの旅はテーマもはっきりする。
もうここに行ったら毎日飲むしかないでしょ、ということです。
そしてやっと、ウィスキーというものと、仲良くなって帰ってくる。
いい旅になりそうじゃないですか?
ただ、わたしのようなアジア人女性は多分ものすごく若く見られるかもしれなくて
下手したら大学生くらいに見られちゃうんじゃないかな?
そして小さくてふわんとしてて(←そういう雰囲気らしいです、中身はともかく)
ひとりでこういうパブで飲んでるのが似合わない気が・・・。
似合わなくても日本では、ひとりでどんな立ち飲み屋でも入るけど
一人旅でまわりに違和感ふりまくのは、ちょっと居心地悪いかな?笑
まあ行く時には大人の女に化けていきましょう。

以下「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」より

….誰にも邪魔されることもなくしずかに本を読む。暖炉によい香りのする泥炭(ピート)をくべ、小さな音でヴィヴァルディのテープをかける。上等なウィスキーとグラスをひとつテーブルの上に載せ、電話の線を抜いてしまう。文字を追うのに疲れると、ときおり本を閉じて膝に置き、顔を上げて。暗い窓の外の。波や雨や風の音に耳を澄ませる。つまり悪い季節をそのまま受け入れて楽しんでしまう。

たとえばアーネスト・ヘミングウェイの初期の作品に見られるような、切れ込みのある文体だ…….音楽でいうならば、ジョニー・グリフィンの入ったセロニアス・モンクのカルテット。15年ものは、ジョン・コルトレーンの入ったセロニアス・モンクのカルテットに近いかもしれない。どっちも捨てがたく素敵だ。
(ラフロイグの味について)

…..ひとことで「これはこうだ」と言い切れるようなキャッチーな要素は希薄である。そのかわり、暖炉の火の前で、古く懐かしい手紙を読んでいるときのような静かな優しさ、懐かしさが潜んでいる。にぎやかなところで飲むよりは、馴染んだ部屋で、馴染んだグラスで、一人で穏やかに飲みたい酒だ。その方が味がずっと生きてくる。シューベルトの長い室内楽を聴くときのように、目を閉じて息を長くとって味わった方が、味の底が一枚も二枚も深くなる。ほんとうです。
(ボウモアについて)


こういう旅は、すごく自分のスタイルだなぁと思うんだけどね。

クレタとアイラその2:クノッソス

2014-01-17 | 本とか
どうも、無事に旅行に行ける気はあまりしないんだけど
(息子あてにならない・・・)
夏でも秋でもうさ番が見つかれば行けるから
いろいろと考えています、久しぶりだな。

クレタに関しては池澤夏樹の「明るい旅情」という
素晴らしい本で読んで、思いを募らせました。
この本は短い紀行文を集めた薄い本で、
もう20年も前に雑誌に掲載された文が元ですが
90年の「マリ・クレール」「バッカス」や95年の「SWITCH」
92年の「翼の王国」(全日空の機内誌。好きでした)など、
雑誌が面白かった頃だなぁ、なつかしい。

クノッソス。ヨーロッパ的なるものすべてのはじまり。
世界で最も信頼のおける基準点。

ここの印象は十数年前とまったく同じだ。こちらはそれだけ歳を取ったし、
ものの考え方も変わっているはずなのに、
クノッソスは全く同じ精神の姿勢を要求し、
その視点からのみ一つの文明の全容を見せる。
だから基準点なのだ。
何かで自分が動揺するたびに、
自分がどちらを向いているかわからなくなるたびに
ここに来られたらと思う。
そういう土地を一つ持っていること、そういう記憶を持っていることを
自分の財産の一つとみなす。四千年前に人間はクノッソスを造り、
やがてそれを失い、それ以来ずっと、必死で、それを再建しようと試みながら、
遂に成功していない。
すべての建築史はその失敗作の山であり、
すべての都市計画はクノッソスのプランの稚拙ななぞりである。
われわれはクノッソスを頂点として、以来四千年の間ひたすらずり落ちてきた。
だから、十年に一度は、クノッソスに行ってみた方がいい。


歴史の深さやその知識だけではなく
それを前にした人の気持ちについてこういう風に書かれたものを読んで
クノッソスを見たくなってしまった。
クノッソスがわたしの基準点になるのかどうかはわかりませんが。
ギリシャに3年ほど住んでいたことがある池澤夏樹は
文学者であるのと同じくらいに旅行者で
その紀行文はもちろんとても興味深いです。

ちなみに、
わたしにとって日々の生活の中での基準点のようなものがあるなら
それはお風呂だと思うのです。
すっかりひとりになって、気持ちも体も裸になって、
完全にリラックスする場所って他に中々ないんじゃないかな。
特に寒い日に、温かいお湯につかると、ふーっと安堵のため息が出る。
体も気持ちも、ゆるゆると柔らかくゆるんでいきます。
そのお湯の中でわたしはいつも文庫本を1時間くらい読んでいるのだけど
いい本を読むと、何も持たない裸の自分たった一人の場所から、
知らない国や知らない人の頭の中や知らない日常に、しばらく行ける。
そして、服やしがらみや悩みやいろんなものを身につけていた昼間の自分が、
すっかり新しくニュートラルになる気がする。
クノッソスに比べて、なんてささやかな基準点でしょう(笑)。

掃除と本

2014-01-07 | 本とか
昨年末あたりから
8年ぶりとか10年ぶりとかの場所の掃除や片付けをしてるということで、
これはもう家庭が崩壊しはじめて以来、
一番元気な自分であるということですよ。
昨年も本当に大変な一年だったんだけど、いい感じです。
このまま行きたい。
本棚にもスペースが出来たので
本屋さんに行って文庫本を何冊も買う、というようなことも
再開しています。
読むの楽しい。
今もまだしょっちゅう、何度も何度も同じところを読んでも頭に入らなくて
意味がわからず、読めないことも結構あるんだけど、
でも落ちついて落ちついてと自分に言い聞かせ、
朗読するよりゆっくりと読むと、読めることも多い。

本を人並みにたくさん読んでたのは、思春期から20代で、
お風呂に3時間くらい入って、毎日1冊くらいはお風呂で読んでました。
お風呂しか安心できる場所がなかった頃です。
その後、結婚して子どもを産んでからは読むヒマがなくて、
海外に住んでるときは読む本がなくて、
帰国したらストレスで?本を読んでも意味が取れなくなったりしたので
年のわりにさほどの読書歴はないのです。
それでも毎日何時間も読んでた時期が遠い昔にあるだけで、
よかったと思うことも多いです。

モノ知らずで、記憶力もひどいし、
本を読んでもすぐに内容を忘れるけど、
人と話をしてるときに、過去に読んだ本や考えたことが、
役に立つことがあるから。
いや、別に何かの役に立つと言うのではなく、
まあ、思考のひきだしが増えて楽しくなるという意味です。
今わりとたくさん見ている映画もそういうものと思う。
今、何の役にも立たないしかしこくもならないけど
いつか楽しくなることの役にたつかなぁ思う。
掃除が出来て、本が読めて
普通の自分に、もっと戻って行けますように。

「精霊たちの家」

2013-11-17 | 本とか
「精霊たちの家」(アジェンダ著)長い小説。
池澤夏樹が編んだ世界文学全集の1冊です。

若い頃は、お風呂でよく本を読んでて、
毎日三時間くらいお風呂にいたのですが
その後はそんな体力もなくなって、というか
育児とかしてたらそんな余裕はなかったですね。
そして最近は集中力がなくなって
中々本を読めないようになっていました。
いろいろと落ちつかない人生だったもので。
(今もあんまり落ちついてないけど。笑)

でも、一人暮らしになって気分だけは少し落ちつき
長い小説が読みたくなって
2年ぶりくらいに本を読むことに。
これは分厚い本なので少しずつ、結局三週間くらいかけて読み終わった。
大変おもしろかった。


前半は、「百年の孤独」のガルシア=マルケス読むのと同じ気分で、
ラテン文学の寓話的魔術的世界を楽しんでたけど、
後半は何だか、ジョージ・オーウェルの「1984年」読んでるような、
映画「アンダーグラウンド」思い出させるような、
別の話になって行って、重苦しい気分にどきどきしながら読みました。
アンダーグラウンド感想

南米での、共産主義の台頭に対抗するファシズムの席巻、
古い地主たちの誤算、農民たちの根強い憎悪。
そのあたり、容赦ない拷問シーンとかあって「1984年」みたいでつらい・・・

この辺の話は、たまたまだけど、映画「アンダーグラウンド」
「暗殺の森」「1900年」と立て続けに見てきたので
すっかりこの辺の流れのことが身近に感じられるようになりました。

あとで池澤夏樹の解説読むと、前半よりむしろ後半の
こっちが主軸なんだなぁとわかった。
この解説がすごくよかったです。

そういえば、池澤夏樹の本ってKindleストアに1冊も入ってないので
いつまでもKindleを買う気になれない。
池澤夏樹もない本屋なんて、あかんでしょう。
Kindle端末は、ほしいなぁと思うんだけど
コンテンツ貧しすぎ・・・
そしてこういうすばらしい文学全集もKindleストアには全くないんです。
重いので、こういうのがKindleで読めれば、すごく助かるんだけど。

まあ、ともかく、
若い頃は心と頭に体力があったので、短編をどんどん読むのが好きだった。
別々のたくさんの話を、平気で消化できた。
でも、今は、ひとつの物語を消化するのにとても時間がかかるので、
短編をいくつも続けて読むのはしんどい。
長ーいひとつの話を読むほうが、いい感じがする。
いい読書ができました。

「岸辺の旅」

2013-09-25 | 本とか
お風呂では、読みやすい小説を読むんだけど、先日、湯本香樹実の「岸辺の旅」を読んでいて、
これいいなぁ。
彼女の本は「夏の庭」と「ポプラの秋」を昔読んで、
どちらも子どもの話で、悪くはないけど特別好きなわけでもなかった。
あ、「西日の町」も、読んでたわ。これも悪くなかった。
でも「岸辺の旅」はすごくいい。

ストーリーが面白いというわけでもないし、静かな話なのに、
久しぶりに読み終わるのが惜しい気分で読んでいます。
お風呂でしか読まないので、読む速度はゆっくりです。
文庫の表紙の写真がいいなぁと思ったら、これは絵なんですねぇ。



表紙を描かれたのは相原 求一朗という洋画家。
冬の北海道の詩情を描く洋画家の第一人者と言われた、と。
1999年になくなってる。寒そうな景色を描く画家だなぁ。
文庫の表紙は小さいので、すっかり写真だと思って、いい写真だなぁと眺めていた絵。

行方不明になった夫が突然現れて他の人にも普通に見えるし食べたりしゃべったり、
普通の人間と変わらないんだけど、どうもそうじゃないようで、でもその夫と一緒に
あてがあるようなないような旅に出る妻の話。

主人公の女性は、なんだか諦念なのか包容なのか
ただ夫を好きすぎて現実を受け入れたくない部分があるだけなのか
どうも、とらえどころのない人です。
地味で静かで、ゆらゆらとしながらも、生きて行く力は持っているような女性。
夫の方はよくわからない。
妻以外の関係も後半で出てくるけど、なんだか、もっと、とらえどころのない感じです。

とらえどころのないふたりが、何かに触れないように気をつけながら?
でも、その何かに向かってゆっくりすごして行く。
切なさや、あきらめや、どうしようもなさやにあふれているけど
どこかに温かいところのある話でした。

「海辺でからっぽ」

2013-09-08 | 本とか
なんか、ものすごく田中小実昌が読みたいのに、
文庫本は、すぐ人にあげたり捨てたりするので、家にない。
「海辺でからっぽ」は、文庫は出てないの?
ああ、よみたいよみたい読みたい。

週に何本か映画を見て、後はテキトウに知らないバスに乗って、
文庫本かペーパーバックを読みながら、知らない酒場でいい気分で酔っぱらって、、、
ああ。いいなぁ。
わたしの酔っぱらい原点はコミさんにあるのかもしれない。

もっと、ばあさんになって、すっかりからからに乾いたら、こういう人生をやりたい、
無頼と言うほど、威勢良くもなく、ただ、ふらふら生きたいんだよ。