goo blog サービス終了のお知らせ 

sigh of relief

くたくたな1日を今日も生き延びて
冷たいシャンパンとチーズと生ハム、
届いた本と手紙に気持ちが緩む、
感じ。

秋の本のイベント3

2014-11-13 | 本とか
11月の1週目に3つ本に関係のあるイベントに行ったわけですが
直観読みブックマーカーと朗読会に続いての3つめについて。

フランス語を読んだり聞いたりする機会は全くなく
基本の基本さえあやしいですが
語学で一番好きなのが「発音」すること、というわたしに
ぴったりの講座がありました。
大阪の輸入絵本の会社がやってる、絵本をフランス語で読むという会。
絵本を嫌いな人はあまりいませんが、わたしも大好きだし
フランス語は入門程度をほのかに知ってればいいということだったので
何の準備もなしに気楽な気分で行ってみました。
ところが、
簡単な説明をしながら、絵本を読むワークショップと思って行ったのに
なんといきなりフランス人の先生(フランス語しか話さない)が
自己紹介をして下さいねと(フランス語で)おっしゃり、
え・・・?自己紹介しろって言ってる?え?え?フランス語で?いきなり?

女性ばかり5人くらいの参加者で、一番しゃべれそうな人が
なんとか自己紹介を始めたので、必死で聞いて必死で思い出しました。
・・・じゅまぺる~~。じゃびて~~。じゅすい~~。
そして先生が何か質問される。
??電車?乗り換え?時間??どこ?いつ?
・・・どぅ、どぅふぉあ。ゆなーる。あらゆにべるして・・・
しどろもどろ、という言葉を人間にしたら、この時のわたしです。笑

それからきれいな絵本を出してきて、表紙を見ながら、どうも
「何が見えますか」と聞いてるようです。
とれ ころれ。でゅゔぇーる。どぅろらんじゅ。
ぱんちゅーるどぅぽあっそん?

名詞の男女はひとつも覚えてません。時制もひとつも覚えてません。
単語だけは、後半にはどんどん思い出してきた。
文法や活用は少し思い出してきた。
冠詞は気にせず、時制も気にせず、聞こえた言葉を拾っては
なんとか短い文にしてしゃべる、ということを必死にした1時間でした。

他の参加者の方も似たような感じで、必死でカタコトで話してましたが
終わる頃には、わたしはだんだん楽しくなってきていました。
なんか、どんどん、昔覚えたことを一気に思い出していく勢いがすごくて、
ちょっと興奮してしまうくらいでした。
あ、それ知ってる!あ、そうそう、そうなるんだった。あ、その言い回し!
そして間違っても平気で(そもそも正しい冠詞がひとつも思い出せないんだから
間違わずにしゃべれるはずがないし)聞いたことを繰り返して
少しずつ話を進めて行く。楽しい。

多分、英語を勉強したり教えたりする中で(最近勉強してないけど)
自分にはイイカゲン力がついてるのだと思います。
マレーシア生活の影響も大きいかも。
誰も正しい英語をしゃべってないけど、通じ合って問題なく過ごせる世界を
長く見てきたせいかもしれません。
正しい言葉をしゃべらなくては、という概念が、ほとんどない。
こちらがどれだけ初心者なのかは、わかってくれてるわけだから
もう間違えまくって好きにしゃべったらいいんだなぁと。

終わった後、疲れ切ってる人たちの中で、わたしひとり
なんだかうきうきと楽しい気分になってました。
本のイベント、というより語学講座に近かったんですが
これはこれで楽しいものでした。

秋の本のイベント2

2014-11-08 | 本とか
読書会遊びをしてたことは一昨日書きましたが
朗読会と言うのは映画でしか見たことがなくて
それも全部外国映画で、日本ではあまり身近じゃないし
今まで参加したことは一度もありませんでした。

でもある時ふと見かけたのが、現代アメリカ文学の翻訳の第一人者
柴田元幸さんの京都での朗読会。
彼の出している「モンキー」という文芸誌の第4号発売記念の朗読会。

実はわたしは昔々の大学生時代、専攻がアメリカ文学で
卒論はフィッツジェラルドでした。
その頃は小説もたくさん読んでいて、その後もアメリカ文学は
自分なりに楽しんで読んでいたので、
柴田元幸さんの翻訳もいくつも読んだし、
彼の編んだアンソロジーなども家にあります。

この写真の本は、エッセイというか書評集ですが、
「モンキー」という雑誌の前身、「モンキービジネス」も読んでたし
ちょっと行ってみようかなと、直前だったのですが予約して行きました。
会場が京都の恵文社一乗寺店。とても素敵な本屋さんで
最近もどこか外国のサイトで世界の素敵な本屋のひとつに選ばれてましたね。

寄席の落語でも笑いながら寝てしまう眠たがりのわたしなので
朗読をずっと聞くのは眠くなるんじゃないかと心配したけど
(しかも待ってる間にビール飲んでたし。笑)
眠くなるどころか、すごく楽しく聞き入りました。
お話の合間に朗読が挟まる形で、でもどちらもよかったです。


最初は絵本の朗読。
これは絵本のページをスクリーン(白壁ですけど)にうつしながら
パソコンを見ながらの朗読。
絵本の読み聞かせをしてもらったことのないわたしはちょっといい気分。
でも朗読って、もうパソコンやタブレットを見ながらするものなのね、と
何だか不思議な感じでみていたら、そのあとのものは、
紙の原稿やノートを手に立ち上がっての熱唱となりました(?)。
やっぱり長文は、紙の方が読みやすいよね。

今回の「モンキー」はジャック・ロンドンがテーマ。
1900年頃の作家、カメラマンです。
ジャック・ロンドンは名前や作品は知ってましたが
読んだことはありませんでした。
あまりアメリカの古い時代に興味がなかったんですね。
動物と人間やその野生について書かれたものが多く
動物にも興味がなかったので。
でも興味の有る無しは別に、やはり面白いものは面白い。
有名な作品の他に、まだ発表されていないものも読まれて
しかもラストの前で終わったので、続きが知りたくてうずうず。
著作権は切れてるので検索したら出てきますよとにっこりされてたので
帰宅後検索してざっと読みました。→こちら
英文ですが、柴田先生が読んだところは、英文見ながらも
彼の日本語の朗読がいきいきと思い出されました。

1900年頃は、テレビもなく、映画の隆盛もまだの時期で映画スターも特になく
時代のセレブといえば作家たちだったそうで
ジャック・ロンドンやマーク・トウェインは、かなりセレブな存在。
酒場のケンカが新聞の一面の記事になるくらいだったそうです。

また、ジャック・ロンドンはどんどん書く作家だったようで
いいものができたら出版社に送る、
あまりよくないものができたら、やっぱり送る、と言う人だったらしく
作品には、過去の焼き直しっぽいものがあったり
完成度やレベルはいろいろだったようですが、
そういう作家って他に思い浮かびますか?の問いに
柴田先生はドストエフスキーなんかそんな感じがしますね、と。
そうなのかぁ。

あと、柴田先生は「るび」がお好きなようです。
昔のように総ルビでもいいくらいとおっしゃってました。
「るび」に好き嫌いがあるなんて考えたことがなかった。面白い。

朗読会っておもしろいなぁ。

秋の本のイベント1

2014-11-06 | 本とか
普段なんだかんだと写真や映画のイベントには関わったり
遊びに行ったり多いのですが、
本関連のイベントは何年かお留守にしてました。
数年前は古典を読む会をやってみたり、
本と映画や小説の舞台の見学とかを組み合わせた読書会をして遊んでましたが、
ここ数年いろいろと落ち着かないことが多くてあまり本を読めなくなってたので。
今ものろのろとしか読めないけど、ゆっくり大事に読んでます。

それで、この前うちのすぐ近所、徒歩3分くらいの某NPO法人に勤めてる友達が
わたしも会ったことのある人を招いて
本のイベントをすると言うので行ってきました。
予習いらないし、ぶらっと気軽に行けばいいと言うことで。
ぶらっと行ったら知り合いの飲み屋の奥さんもいて、あら!とご挨拶。
あと某市の図書館の方も、以前お見かけしたことある気が・・・
(世間は狭いです。笑)

これは陸奥さんと言う人の「直観読みブックマーカー」というもので
中々説明しても実際どう言うものなのかわかりにくいんだけど、
何か質問しては、テキトウに選んだ本のテキトウなページの
テキトウな場所を目をつぶってえいっと指で選んで、
それをみんなであれこれ楽しむというような遊びです。

たとえばsighさんってどんな人?の問いに、みんなでやって出て来たのが
「いや分かっているのだろうか。混乱する」とか
「フレアスカートでスキップしてみる」とか。
それを、あーだこーだ分析したり感想言ったり、
わりとゆるっとした感じで楽しみます。
そしてその時にどの本の何ページとかもメモして
そういう風にして本に興味を持って読みたい本を増やしていくという
狙いもあるようです。

あと、村上春樹の本がたくさんあったので、
それで4行詩を作るというのもやりました。
4人一組で、それぞれが起承転結を担当をして1行選んで並べる。
村上春樹の文体って強固だなぁとしみじみ思いました。
意味は全然繋がらなくて、すごく変な詩になる、というか
詩としては成立しないんだけど
どの1行も村上春樹なので、なんとなくまとまりはあるのです。
変に現代詩っぽくておかしかったですね。

こういう遊びは参加者の組み合わせでかなり左右されるので
わたしのような偏屈は楽しめないことが多いかもしれないけど
興味深い試みだと思います。
そして、お茶をいただきながらやったのだけど
これはお酒を飲みながらやるとずっと楽しいんじゃないかなぁと思ったのは
わたしが酒飲みだからでしょうか?笑

そういえば陸奥さんが「カモメのジョナサン」で有名な作家
リチャード・バックの「イリュージョン」と言う本のことを言われて、
その本はわたしの大好きな本で、
失くさないように文庫を何度も買ってしまう数少ない本のひとつ。
その本の中に、なにか答えがほしい時に、どんな本でもいいから
テキトーに開いて読むと、大体答えはそこにあるみたいなことが書かれてて
それについて話されてたんだけど、その辺はわたしも記憶にありました。
20代の頃はジョン・ケージの「小鳥たちのために」という本を持ってて
その本でよくそういうことをした覚えがあります。

トルストイ・マラソン

2014-10-06 | 本とか
昨夜、トルストイの「アンナ・カレーニナ」をロシア語で朗読してるのを
ライブでパソコンで聞いてたんだけど、とても興味深い。

700人の世界中の人が参加して、リレー形式で「アンナ・カレーニナ」を読む
というものなんだけど、それをオンラインで聞くことができるようになってて
ロシア語、全くわかりませんが、なんだかいいんです。
多分中には少し知られた人もいるのでしょうが、わたしにはわからなくて
ただいろんな人がいろんな姿と声で朗読をしているのを見ているのが楽しい。
コスプレっぽい人もいるし、老若男女、いろんな声を聞くのが面白い。
若い女性の張りのある滑らかできれいな声もいいけど
落ちついた声が好きだなぁと思いました。
中年くらいの男性の、やや抑え気味の朗読が一番好きかも。

前に友達が風邪のパートナーに読み聞かせをする話を聞いて
何それうらやましい、わたしもしてほしい!と言ったことがあるけど
こういうのなんとなく聞き流すのは、それのかわりみたいなものかしらん。笑

朗読ということの面白さとは別に、
知らない人同士がこういう風に一瞬、時間を共有するのっていいなぁと思う。
こういうイベント好きだなぁ。
たくさんの人を少しずつ巻き込む形のやつ。
作る人・発信する人と、見る人・消費する人、にわかれるのではなく
たくさんの人が同じようにふわりとゆるく参加するもの。
そういうのが好きですね。
10人が作ったものを1万人が楽しむより
100人が作ったものを100人、あるいはそれより少し多いくらいが楽しむ、
というものが、わたしは好きなんです。
そういうのは、大体規模は小さくなりがちなんだけど、
ネットを使うと、それまでになく広がるところがいいな。

日本でもこういうのないかな?
誰か文豪の生誕とか没後何十年とかの記念に、数百人の人を募って
10時間とか30時間とかライブでリレー読書するようなの。
音楽では聞いたことがある気がする、長時間交代で演奏し続けるみたいなの。
でもそれ演奏者はプロだもんね。
いいなと思うのは普通の人がたくさん参加するもの。朗読はいいと思う。
朗読見るのが、こんなに面白いと思わなかったのです。
服も顔も声も違う人がそれぞれのやりかたで読むのって楽しい。
(たまにイケメンが出てくるのがおまけの楽しみ。笑)

700人が「アンナ・カレーニナ」をオンラインで読む

ロシア語さっぱりなので、どこ読んでるのか全然わかんないけど。笑
Финальные чтения "Каренина. Живое издание"

82歳!

2014-09-22 | 本とか
ナマの石田純一見た人が40代にしか見えなかったって言ってた話を聞いて、
彼は今60歳。
60歳って、もうすっかりおじいさんな人もいるよね。
女もだけど、男も年取ればとるほど、差が出てくる。
60歳で随分おじいさんな人と、
現役感ばりばり、半分の年の女の子平気で口説ける人と。
どっちもいますね。

前に、岸恵子の書いた小説を読んだんだけど、
70歳くらいの女性と60歳くらいの男性の恋愛小説でした。
中々その年の男女の恋愛小説ってないですよね?
男女逆ならあるかもしれないけど、
男性が60や70でも、女性はむやみに若かったりするし、
女性が70代って、珍しいなぁと思って読んでみた。
70だけど50にしか見えないって言われる
美しいヒロインだからこそ成立する話だけど、
読んでる間ずっと70歳でもこんな感じってありえるんだぁ、と
なんとなく新鮮な感じを持っていました。
でも50代に見える70代が中々想像できなかったのです。

でもその後、本屋で、岸恵子と吉永小百合の写真の載った
対談集?みたいな本を見たら、納得!
このふたりなら、十分説得力があります。素敵できれい。
・・・吉永小百合69歳、岸恵子82歳っ!!!

もう一度言おう。

・・・82さいっ!!!!!
すごいなぁ・・・。
若く見えるといっても、異常に若く見えるわけじゃないです。
よく見るとそれなりにお年を召しているのはわかる。
でもね、若く見えるとかじゃなく、やっぱりきれいな人なんですよねぇ。
若く見えるということは、一番重要なことじゃないんでしょうね。

小説の内容は、わりと古典的な恋愛小説ですが
あとがきが山田詠美で、とてもいいです。少し引用。
わたしの大嫌いな日本語のひとつに「いい年齢(とし)して~」という言い回しがある。だいたいその後には「みっともない」とか「あさはかな」とか、「思慮が足りない」というネガティブな言葉が続く。「浮ついている」や「むこうみずな」なんかも。それらは皆、愚かしさを表す形容詞たち。………稀な大波を乗りこなして来た人は「いい年齢して」することの醍醐味を知っている。昔、若くて未熟な私が呆れた、あの人もあの人も、たぶん、自分だけのやり方で波乗りをしてきた人たちなのだ。…だから、愚行に身をやつせる。そのことに夢中になれる。

「わりなき恋」岸恵子


「必死のパッチ」

2014-09-21 | 本とか
この前春風亭昇太と桂雀々の2人会に行ったとき、
トークで二人の育った環境が違いすぎることをたくさん話されてたので、
家にあったはずの雀々さんの本「必死のパッチ」を
もう一度読もうと探してもなくて、
あれ?読んだ気がするのに気のせいかな?とか思ってたら店にありました。
しかも、sighさんへと、サイン入りやった。
いつサインもらったんやろ?繁昌亭だったかなぁ。

とにかく、それをまたぱらぱら読んでたら、これはやっぱり切ない本やねぇ、と。
小柄で色々とそつがなくスマートな、東京っぽい昇太さんとは好対照に見えた、
がちゃがちゃした(ほめてる)雀々さんですが、
小6で母親が出ていっちゃって、
父親はギャンブルばかりのろくでなしで莫大な借金を作ってて、
父親に心中を迫られ殺されかけた夜なんかもあって、という実話を書いた本です。
壮絶とか面白いとか思う前に、無力な子どものさびしさが、かわいそうで仕方ない。
子どもが酷い苦労をして無理して頑張っちゃう話には弱い。
こんなええネタめったにないからよかった、とか笑いながら言うてはったけど、
子ども時代の雀々さんを思うと、どんなに騒々しい落語されても、
なんか勝手に切なくなって困ります。

「円卓」

2014-08-30 | 本とか
映画も見たし、行定監督のトークも聴きに行ったし、
映画祭イベントのシネトークパーティでもテーマ映画としてしゃべったけど、
西加奈子の原作は読むつもりはなかったんです。
前に彼女の本を1冊読んだとき、ものすごくつまらなくて
読み終わってゴミ箱直行の数少ないハズレだったので。
(面白くなくても我慢して最後まで読むタイプなので、
最後まで読んでつまんないと怒りでつい・・・)
でも読書家の友達が絶賛してたのでおそるおそる読んでみたら、
すごくよかったです。読んでよかった。

これね、映画見た人も読むといいよ。
映画「円卓」の感想
映画では、ほぁ~んと優しい気持ちになった、
ぽっさんがこっこに「ひとりにしてごめんな」って言う所、本だと泣かされるから。
自分が、言葉に立ち止まるようになって、ものを考えるようになって、
孤独のようなものを初めて感じるようになった小学生の頃のことをすごく思い出す。
映画ではそういうことは全然思い出さなかったのです。
こっこちゃんの成長もさほどくっきりと感じなかった。
でも本だと、映画では気づかなかった細々した部分がよくわかるし
小学生の頃の自分のことを、忘れてたことまで思い出しました。
しかも、ちょっと調子に乗ってるくらいの、この笑いのセンスも好きです。

でも本読んだ人も、やっぱり映画も見るといいと思うよ。
ネズミ男のダンスだけでも、映画見る値打ちあります。
あの部分は文字を超えてる。笑

映画と本って、同じ量の情報が入ってても
その種類が違うんだなぁと思いました。
こっこちゃんの家にる、でかい真っ赤な円卓は映画で見たイメージが鮮烈で、
これは本で読むよりずっと印象に残るし、
その巨大な赤の部屋や家族への影響力もすっと感じることができます。
でも急に、考える、思いやるということを覚え始めたこっこちゃんの内面は
やはり本の方がきめ細やかです。

珍しくこれは本も映画も是非どっちも!とお勧めしたいです。

映画でも本でも、最後の方でいくつもの単語が出るシーンがあるんだけど
その単語はこっことぽっさんの好きな、
世の中のいいものを集めたみたいなものだと思うんだけど
その中に「あいこの続く時間」っていうのがあって、ああいいなぁと思った。
じゃんけんとかで、あいこが続くと、なんだかおかしくなって
変なテンションになって、笑っちゃうことってあるよね。
仲のいい友達だとなおさらで、バカ笑いになっちゃうことも。
そういう時に共有してる目に見えない言葉にならないものって、すごく大事だ。
あいこの続いてる瞬間って、いいもんだよねぇと、思い出しました。
こういう小さなことを気づかせてもらうのは好きです。

「ばかもの」

2014-07-28 | 本とか
昨日読んでた小説が、奔放を気取った謎めいて我が儘な女の話と思って読んでたら
若い男の子がどんどんアルコール依存になってダメになって行き
自分も恋人も損ねて行く話になって、描写がすごくリアルで読んでてつらい。
このどうしようもなくダメになって行く感じ。うん。
うまいなぁと思って、もう自分で書かなくていいやと思った。
いつか、自分が見てきたこういうことを書いてみようかと思ってたけど。

俺は、かつて自分をアルコールに駆り立てたものが、行き場のない思いだったことを理解している。アルコールだけではないだろう、今までやってきたことの殆どすべてが、行き場のない思いから発している。今だってそうだ。自分の家に帰るときにも、自分の部屋でテレビを見ているときにも、その思いはつきまとう。家族と過ごしているときもそうだし、もし本人が知ったら残酷かもしれないが、額子の中に入っているときでさえ、そうだ。/「ばかもの」絲山秋子

その後、主人公はアルコールの依存症から入院治療して
やっと立ち直っていくんだけど、この人の溺れて行く様子も苦悩も
よくわかるように書けていてリアリティもあるんだけど、
彼にほのかな希望が見えそうになると、
なんだか許せない気持ちになるのが、自分は狭量だなぁと思ってしんどい。
依存症の人がどれだけ身近な人を傷つけるか、どれだけのダメージを与えるか。
自分がされたことは、もう何とも思ってないつもりなのに、
こう言うのを読むと、どんなに純粋で優しくても
結局自分のことで精一杯の勝手な人間だったんだよなぁと決めつけてしまうのは、
本当は許してないってことなのかな。
許すも何も、いやなことはすぐ本当に忘れてしまうので、
あんまり覚えてないんだけどな。

田辺聖子さんの小説

2014-07-08 | 本とか
田辺聖子さんの小説って、
若い頃は話は面白くてもそこに出てくる、ちょっとこなれて調子良かったり
呑気だったりずるかったり、ぬぼーっとしてたり、もっちゃりしてたりする
冴えない中年男たちを、全然いいとは思えなかったのに、
年を取ると何だかわかる気がするもんだなぁと、この頃は思います。
ずるさもダメさもハンパさも、まあかわいいか、と思える大人になりました。
自分がそうだからなんだけどさ。笑

「トシなんか個人的に伸び縮みするもんやさかい、自分の思うトシをてんでに自己申告しといたらエエのや、思いますな。」
「人間がまともになるのは60すぎてからや……どんなこともこの世の中にはあり得る、ということを悟る。それをぼく、人生の諸訳がわかる、いうてまんねん。」(田辺聖子の小説より)


もっちゃりしてるけど悪くはない。笑
でもこういう話し方に、すこしでもおっさんの説教臭さがあると、
鬱陶しい感じになるんだよね。
そして、たいがい、おっさんというものは説教臭い。しかも話がつまらない。
説教臭いおっさんより、悪くてダメなおっさんの方がマシだなぁ。
(説教臭い、いばったところのある男に我慢できないタチです)
そう思って、説教臭いおっさんにならないように、
日夜バカでダメな自分を更新しておるのですよわたくしも。

ホタルとトモスイ

2014-06-17 | 本とか
ホタルって、日本では一度も見に行ったことない。

19歳の時、京都の女友達の家へ泊まりに行って
食事の後浴衣に着替えてホタルを見に行こうねと約束してたのに、
その夜、ちょっとした用事で電話をかけた人と話が止まらなくなって
そのまま明け方まで何時間もの長電話をしてしまい
ホタルを見損ねたことがあります。
ひどい友達ですねわたし。笑
でも、恋に落ちたことが、こんなにはっきりした時って
このあとには、もうない気がします。
初めてだったからかなぁ。忘れられない夜ですね。


でもその後マレーシア住んでた時、
なんか田舎の川で小舟に乗って見に行ったことはある。
川の両脇の茂みの大量のホタルで、
クリスマスツリーの立ち並ぶ中を進んでるようだった。
残念なことに月が明るすぎる夜だったけど、現実感のない時間だった。
少し前に読んだ→「トモスイ」という小説でも
マレーシアのホタルの夜のイメージを思い出しました。
アジアの田舎の川だから、このイメージでほぼ正しいと思う。

もう一度その川に行きたいわけじゃないけど、
そういう夜があって本当によかった。
京都でホタルを見損ねた夜も、
マレーシアの小舟の上のホタルの夜も。
それを、その初恋にしてもマレーシアでの時間にしても、
それを失くしたあとでも、大事に思い出せるこういう夜が
いくつもあるといいと思う。

いつも何でも、いつか失くすことを意識しているので、
自分はその時のために、こういう記憶をためているんだろうな。

大きな本屋

2014-06-12 | 本とか
大量の情報を浴びて、そこからどんどん取捨選択するのが
楽しくて仕方なかった時期も若い頃にはありましたが、
インターネットの普及で情報の量が桁違いになって
最近は疲れちゃって、最低限の情報を処理するくらいのエネルギーしかないし、
もういいや、本当に必要な情報だけあればと思うようになりました。
野心も野望も意欲も何もないので、それでもぼんやり楽しく生きていけます。

同様に、本屋さんでも同じように疲れちゃうようになりました。
大型書店の大量の情報にに負けないエネルギーも、昔はあったけど
今は、あっさり降参です。古典だけでいいや、もう。

それで、大きな本屋に行くと、いつも圧倒されて、
一瞬入りかけてすぐ逃げてくるか、小さい範囲を決めてそこだけ丹念に見るか、
ぐるぐる歩き回るだけでほぼ何も見ないで帰ってくるかのどれかなんだけど、
雑貨屋さんなどの小さい写真集コーナーとかは
落ちついて見ることができるのでほっとします。

街も同じかも。
大きな街だと、どこにもよらずに逃げ帰ってくるか、
知ってるところだけでゆっくりするか、
歩き回ってみて結局何も見ずに帰るかのどれかだもんなぁ。

なんかひどく臆病な生き物のようだな、わたし。
臆病なわけでも繊細なわけでもなく、年を取っただけだと思うんですけどね、

「台所のおと」

2014-06-07 | 本とか
梅雨だし、雨の肌寒いような日に読むのが似合う本を読む土曜日でした。
最近買った何冊かの写真集も本当に好きでいいんだけど、
もう何度も読んだ、幸田文の「台所の音」は何度も読んでるけど読むたびに唸る。
うまい。いい。素晴らしい。
こんなに細やかで静かで優しく凛とした小説ってあるだろうかと毎回思う。
小さな短篇だけど、もう手放しで大絶賛したい、いつも。好き。大好き。

ストーリーは
小料理屋をやっている年の離れた夫婦の夫の方が体を壊して寝込む。
妻のあきは、不治の病だとは言わずに、なんでもないように台所に立って
店を続けるけど、夫は妻の台所の音をよく聴いていて
以前から静かな台所をする女だが、この頃はことに静かで、ほんとに小さな音しかたてない。
ふたりの事情や、近所の家事、使用人の若い女の恋愛などが絡んできますが、
基本、台所に立つあきの料理の音を細やかに聴く夫、というだけの話です。
でももうすごくいいんですよねぇ。
文章がひとつひとつ、嵩張らずに、でも崩れたところがなく
なんて気持ちいいんだろう。
そしてこの音と言葉への感性。少し抜粋しますが、もう全文抜粋したい!

真夜中だな、と思いつつ、茶筒の蓋を抜く。蓋はいい手応えで抜けてくる。こんな些細な缶ひとつでも、蓋のしまり加減が選まれていた。茶焙じに茶をうつし、火にかざして揺すると、お茶の葉は反り返り、ふくらみ、乾いた軽い音をさせ、香ばしく匂う。土瓶にとり、あつい湯をそそぐと、弾いてしゅうっと鳴る。あきは番茶のうまさはそういうように、しゅうっと声をたてて呼びかけながら出てくるのじゃないだろうかといって、以来ひとつ話の笑いの種にされていた。

それにしてもあきは、ほんとに静かな音しかたてなかった。その音も決してきつい音はたてない。瀬戸物をタイルに置いて、おとなしい音をさせた。なにやら紙をかさかさいわせることもあるし、あちこち歩きまわりもするが、それがみな角を消した面取りみたいな、柔らかい音だ。こんなにしなやかな指先を持っているとは思わなかった。
最後の方で、揚げ物の音を雨の音と間違えるのだけど、
ああ、いい雨だ、さわやかな音だね。油もいい音させてた。あれは、あき、おまえの音だ。女はそれぞれ音をもってるけど、いいか、角だつな。さわやかでおとなしいのがおまえの音だ。その音であきの台所は、先ず出来たというもんだ。

映画にできないかなぁ。小津安二郎とかじゃなく、
もっと音に対する感性の繊細な人。
2年ほど前に見たトルコ映画の→「蜂蜜」、こういう感じの人に撮ってほしいなぁ。

うっかりの再読

2014-05-28 | 本とか
最初の3行読んで、タイトル見て、ああこれ前に読んだと思い出した。
文庫本は読んだらあげたり捨てたりするので、
前に読んだことを忘れて買っちゃうことが時々ある。ばかですねぇ。
でも仕方なくもう一度読んだら、話はどんどん思い出したんだけど、
自分の読み方が前と全然違うのが面白かったです。

前に読んだのは5年くらい前かな。
その間に読み方や感じ方が変わったところは
その間の自分の経験にいろいろ思い当たることがあるので
ああ、結構苦労したなぁとか改めて思ったり。笑

初めての本を読む以上に、
同じ本を時間を開けて読むのは面白い読書体験になること多いよね。
映画もだけど。
まあなんでもそうか。
若い頃に本をある程度たくさん読んでてよかったと思う。
若い頃に映画を見といてよかったし、
若い頃に人を好きになったりしといてよかった。
そういうことが全部、あとから何か感じる時に、
たくさん思い出されて、思索がカラフルになるのが楽しい。

わたしは経験至上とは考えてないので
たくさんのことを経験しないといけないとは思ってなくて
たとえば1冊の本ばかりを何度も何度も読むような読書もいいと思うし
よく考え深く感じる人であれば
静かな人生でも充分楽しく思索することができると思うけど、
思い出すことがたくさんあるというのはやっぱり楽しいことだと思う。
毎日いつも何するときも、いつか思い出せるようにと、
なんだかそのいつかのために記憶しようとするのが癖になってます。
どんな瞬間も瞬間でしかないから、
特に幸せな時は、ああ、この瞬間をずっと覚えておきたいなぁ、
いつか思い出したいなぁと思ってる。

「千年の愉楽」

2014-04-21 | 本とか
去年、映画を観て、こきおろした「千年の愉楽」の原作(中上健次)を
1年もたって今頃読んだのだけど、
お風呂で読むと、ますますくらくらする。
素晴らしい映画「シュガーマン」「愛アムール」2本見た後の3本目だったので
この2本と比べたらかわいそうだけど、それにしてもあかんかったからなぁ。
若松孝二監督の遺作だったので、
あまり悪口言う人いないみたいだし、わたしも感想ブログは書かなかったけど
映画の方は少しがっくりきてしまいました。
キャスティングが、もうすごくわかりやすく無理な感じで・・・。
主役のオリュウノオバは、すべてを見て知って記憶して
時間も超え、生も死も善も悪もなくそのまま肯定するような産婆で
それが死の床で回想したりするわけですが、
死の床の80歳を過ぎた老婆を寺島しのぶが演じているのです。
もう少し若い頃のシーンでも、若すぎて無理な感じなのに
死の床のシーンで布団から出ている手が細くて白くてすべすべして、
完全に人気女優のきれいな手でしかなく、産婆の手ではなさすぎて
顔を少しくらい老けメイクしても、そこでさーっと冷めてしまいました。
手とか、そういうディテールにあまりに注意を払ってないとがっくりくる。
あと美しい美しいと言葉では何度も繰り返される若い男たちが
みんなイマドキの顔すぎてなんか違和感。
血の暗さや因縁の深さを出そうとすごんでも、幼さや馬鹿さにしか見えない。
映画じたいも、明るくてきれいすぎる気がしました。
もっとどろっとさせてもよかったんじゃないかなぁ。
若い子が見に来なくてもいいから、もっと淫靡な感じにすればよかったのに。

などと、映画をこき下ろした時に、原作を読んだ人みんなに、
小説の方を読めー!と言われたし、
いや、原作は本当に本当に素晴らしいんだから!と力説されたし
そんなに力説されなくてもそれはわかってたので(笑)、
映画化したときに起こってしまったいろいろな間違いを大幅に脳内修正して、
映画中の引用ナレーションやセリフは記憶にとどまっていたので、
自分の頭の中で小説を脳内再構築しては、いたのです。
こういう感じのこういう小説だろうと。
中上健次の文体はぼんやりとわかってたので、実際に読んでも
わたしの脳内再構築小説が実物と大きな差はなく、
実物を確認するような感じでした。
そういう意味で驚きはないけど、しかし、それにしても
素晴らしい小説だなぁとじっくり味わいました。濃厚です。

かなり熱いのぼせ方をしそうだけど、
お風呂でくらくらしながら読むのに、結構向いてる本です。
読むの遅い上に、密度の高い文なので時間もかかるけど。
のぼせて倒れないように気をつけて読みました。
ヘビィな読書体験になると思うし、
ページをめくるのに力がいると言った人もいたけど
わたしはそういうのはなくて、なんだかすいすい読んでしまいました。
こういう小説では、誰にも感情移入とかしないものかもしれないけど、
自分はここに出てくるオリュウノオバの持つ哲学のようなものも、
無垢故に汚れ澱んだ血を持ち若くして死んでしまう美しい中本の男たちの
どうしようもなさ、しようのなさのようなものも、
善も悪も、汚れも無垢も、誕生も死も、どれも同じように、
ごく普通にあたりまえに身近にあるように感じるせいか
何の違和感も衝撃もなく、するっと読んでしまう。
こういう本を読むと、自分がどんな人間か思い出す気がします。

お風呂で読んだ本:2013-14冬の7

2014-04-02 | 本とか
この冬、お風呂で読んだ本シリーズやっと最終回。笑
夏になるとシャワーが増えるので、本読まなくなるかもなぁ。


「きことわ」 朝吹真理子
芥川賞でしたっけ。
町田康が解説でほめてたので、買ってみた。
少女時代、同じ時間をすごした貴子と永遠子が25年ぶりに再開する。
この文庫の表紙カバー、いいんです。
紙が普通のつるつるのじゃなく、なんかマットなの。
こんなのもあるのねぇ。
ゆるゆると読めます。特に大きな起伏もなけど、
安定して同じ調子の心地いい文章で
お風呂で読んでると、読んでるのかぼんやりしているのか
わからなくなりそうな感じも。
少女たち、というモチーフって、友達も少なく姉妹もなかったわたしには
遠くてなんだかメンドクサイような気持ちになるんだけど
そういう鬱陶しい甘さもあまりなく、読めました。


「財布のつぶやき」 群ようこ
群ようこのいつものエッセイです。
群ようこ、昔は面白いと思ってたんだけど、
久しぶりに読むと新鮮味がないというか、
彼女の中年女性の感慨のようなもの読んでもあるある!というところより
ずっと手前の、普通やんあたりまえやん、ってところから
もうあまりはみ出してくれないと言うか、
ユーモアがなまぬるいと言うかキレが足りないと言うか・・・
やや退屈になってしまった。わたしが変わったのか。
彼女が変わらなすぎるのか。ふむ。


「乳と卵」 川上未生映子
少女が大人になるときの、女になりたくない潔癖さとか
女になりかけの少女の生理とか
そういうやたらデリケートな感じの話は嫌いだし、
母と娘のやはりデリケートな関係を書いたものも
あまり読みたいと思わないので、これは読むつもりがなかったんだけど
薄いし「きことわ」と並んで売ってたので
ええい、芥川賞2本立てだと思って買いました。
豊凶手術に取り付かれてる母と口をきかなくなって筆談で会話する娘の話。
でも読んでる途中で、やっぱりイヤになって
2ヶ月ほどほったらかしてた。
最近続きを読みました。そういう読み方珍しいです。
つまんなくても、ざっとでも、一通り読むタイプなので。

関西弁でつづられてるんだけど、
そういうのって田辺聖子以外読んだことないかもとふと思った。あるかな?
・・・続けてそれを注意深げに読んだ緑子は、〈いっこもわからん、でもなんかむずこいのはわかった〉、それからしばらく辞書のボタンを色々押したあとに、はっとした要ような顔になり、口を丸く開けてわたしを見て、〈もしかして、言葉って、じしょでこうやって調べてったら、じしょん中をえんえんにぐるぐるするんちゃうの〉とびっくりしたように書いたのをポンと見せた、つづけて、〈ぜんぶ入ってるってことやの?イミが?〉と訊くので、「まあ一応、そういう考え方も出来るよね」と云うと、緑子はじっと文字群を見つめて考え込み、しばらくして〈じゃ、言葉の中には、言葉で説明できひんもんは、ないの〉と真剣な顔をして訊くので、わたしにはそういう不思議はないので、まあまあ........

髪の毛から額から、卵のじゅるりが顔に垂れて、固まりはじめたところもあり、嗚咽をしながら、ほ、ほんまのことを、と絞り出すのが精一杯、それから緑子は体を震わせて泣き続け、巻子はそれを見ながら、首を振って小さな声で、緑子」ほんまのことって、ほんまのことってね、みんなほんまのことってあると思うでしょ、絶対にものごとには、ほんまのことがあるのやって、みんなそう思うでしょ、でも緑子な、ほんまのことなんてな、ないこともあるねんで、何もないこともあるねんで。

あとこの文庫には、もう一篇、
孤独でぎりぎりな女のなんかやりきれない話が入ってます。