老いの途中で・・・

人生という“旅”は自分でゴールを設定できない旅。
“老い”を身近に感じつつ、近況や色々な思いを記します。

冬の京都・東山へ その③ 新熊野神社/智積院など

2024年01月21日 15時31分03秒 | 旅行/色々な風景

(今日は京都・東山地区の最終回ですが、夕方から神戸で高校時代の悪友たちとの新年会があるので早目にアップしています)

 今熊野観音寺を終えてからは、泉涌寺への参道に戻り、その①で紹介した泉涌寺の総門を経て東山通に出て、遅まきの昼食を摂ってから北上。

 暫く行くと左側にある、新熊野神社(いまくまのじんじゃ)に立ち寄りました。ここは、京都市の天然記念物に指定されている大樟で有名ですが、歴史的にも由緒があります。

 後白河上皇は生涯で34回も熊野三山に参詣するほど熊野権現を信仰していたが、熊野は余りにも遠いので、1160年に院の御所である法住寺殿の鎮守社として紀伊国・熊野三山の熊野権現を勧請し、熊野三山の新宮・別宮として平清盛によって創建されたとのことです。

 以後は京の熊野信仰の中心地として大いに栄え、本殿の裏側の丘の中に「京の熊野古道」と呼ばれる熊野参道迄も再現しています。


 実はこの神社には以前にも立ち寄っていますが、2年程前に園芸福祉を一緒にしていた仲間と会った時に「同じく仲間だった○○さんが、新熊野神社の宮司さんに嫁いではる」という事を聞いていましたので、今回は社務所で声をかけ、久しぶりにお会いできました。何とも、不思議なご縁での再会でした。

 

 その後は、東海道線を跨ぐ道路を経て、智積院(ちしゃくいん)へ。
ここは真言宗智山派の総本山ですが、ここも歴史的にも極めて面白いです。少し長くなりますが、

・智積院は、元々は紀伊国根来(現・和歌山県岩出市)にある大伝法院(現・根来寺)の塔頭でした。

 大伝法院は真言宗の僧覚鑁が大治5年(1130年)、高野山に創建した寺院だったが、教義上の対立から覚鑁は高野山を去り、保延6年(1140年)大伝法院を根来に移して新義真言宗を打ち立て、智積院はこの大伝法院の塔頭として、根来山内の学問所として建立された。

・近世に入ると根来寺は豊臣秀吉と対立し、天正13年(1585年)の根来攻めで全山炎上し、智積院の住職であった玄宥は弟子たちを引き連れて寺を脱出し、高野山に逃れた。

 玄宥は新義真言宗の法灯を守るために智積院の再興を志したが、念願がかなわないまま十数年が経過。
その後、関ヶ原の戦いで徳川家康方が勝利した翌年の慶長6年(1601年)、家康は東山の豊国社(豊臣秀吉が死後「豊国大明神」として祀られた神社)の付属寺院の土地建物を玄宥に与えた。これにより、智積院はようやく復興を遂げた

という経緯です。

 この日は参拝者も少なくノンビリと境内や庭園を回れましたし、また、宝物館では今でも色鮮やかな長谷川等伯一門による国宝の障壁画をじっくりと拝見できました。


 その後、京都に住む娘と食事の約束時間まで、時間があったので直ぐ近くの三十三間堂に行きましが、16時で閉門という事で諦め、それならと昨年秋に行ったばかりですが割合に近い渉成園の庭園でもと足を延ばしましたが、此処も16時の閉門間際で入園できませんでした。

 やはり冬の京都の寺院は閉門時間が早いので、早朝からの参拝が大事です。

 

 とも角、本当に久しぶりで東山地区をマイペースで回ってきましたが、流石にこの時期は参拝者も少なくまたインバウンドが余り行かない所だったので、本当にのんびりと出来ましたが、2万歩程歩いたので、流石に足はパンパン。

 四条河原町で娘と落合い、居酒屋風の店でタップリと食べて飲んで帰阪でした。(まさ)

<新熊野神社>

大樟 京都市天然記念物

同上

境内には樟が沢山

同上

同上

本殿奥にある「京の熊野古道」

古道に面して熊野曼荼羅などの展示も

 

<智積院>

山門の碑

院内 参道の竹垣

大書院玄関

(名勝庭園)

クチナシ

ウメモドキ

庭園の池

庭園のアップ

庭園の池


大書院の障壁画 長谷川等伯一門 これは全てレプリカでオリジナルは宝物館内にあります

同上  桜図

同上 楓図

書院内


中庭

襖絵 布袋唐子嬉戯の図



境内の紅梅 咲き始め

ハクモクレンも蕾膨らむ

同上


金堂

同上

明王殿

 

<渉成園> 入れませんでしたが外側からの写真

塀の瓦   (渉成園は東本願寺の施設です)

別名の「枳殻邸」のように周囲には枳殻(カラタチ)があったようです


四条大橋から見た雲 この時期には余り見かけない鱗雲のような雲