老いの途中で・・・

人生という“旅”は自分でゴールを設定できない旅。
“老い”を身近に感じつつ、近況や色々な思いを記します。

ヒットした発禁の歌

2021年02月28日 19時12分32秒 | その他

 先日TVで「昭和は輝いていた ~ヒットした発禁の歌~」という番組がありました。
ツレアイの入浴などで少しバタバタしていたのでジックリと腰を落ち着けて見られなかったのですが、非常に面白い番組でした。

 司会が武田鉄矢で、ゲストに中村メイコさんなどもおられ、我々が非常によく知っている歌謡曲や童謡で発売当時に色々と問題があり、いわゆる発禁処分を受けたものが数多くあるという事で、代表的なものが紹介されていました。

 国会での某官僚の答弁ではありませんが記憶力低下の私は、内容をはっきり覚えていませんが、ネットでの番組紹介などを参考に、思い出せる限りで下記します。


 戦争の影が色濃くなってきた昭和9年、音楽も統制の対象となり、秩序や風俗を乱す可能性があるレコードは発売禁止になることが決定され、その対象になったのは、甘い・退廃的・米英調などその理由は実に様々だった。例えば

①「忘れちゃいやョ」 (渡辺はま子)
 “ネェ、忘れちゃいやよ、忘れないでネ”という歌詞が、“あたかも娼婦の嬌態を眼前で見るが如き歌唱。エロを満喫させる”と指摘された。

②「裏町人生」 (上原敏 結城道子)
 新宿、浅草などの繁華街の裏町・酒場をイメージということで。

③「夜のプラットホーム」 (淡谷のり子、二葉あき子)作詞:奥野椰子夫、作曲:服部良一 
 “さよなら さよなら 君いつ帰る”の歌詞が、出征する人物を悲しげに見送る場面を連想させ、戦時下の時代情勢にそぐわないと検閲に引っかかった。

尚、この曲に関しては更に色々なエピソードがあったようです。
・元々は淡谷のり子の歌だったが、発禁になったので歌えなくなったものの、彼女は戦地の慰問で歌い続けて大人気だった。
・発禁になった2年後の1941年(昭和16年)、「I'll Be Waiting」(「待ち侘びて」)というタイトルの洋盤が発売されました。
この曲は『夜のプラットホーム』の英訳版で、作曲と編曲はR.Hatter(レオ・ハッター)という名前になっているが、これは服部良一が自身の名をもじって作った変名で、作詞を手がけたVic Maxwell(ヴィック・マックスウェル)とは当時の日本コロムビアの社長秘書をしていたドイツ系のハーフの男性の変名であったということです。
・またこの歌が本格的に大ヒットしたのは、戦後になって二葉あき子が歌ってからのようです。

④「別れのブルース」  (淡谷のり子)
 国内初のブルースだったが、日中戦争戦時下の時勢にふさわしくないと,翌年発禁処分を受ける。とにかく淡谷のり子は当局からマークされていたようです。

⑤「森の水車」    (高峰秀子)
 軍歌しか認められない時代で、『森の水車』のメロディが米英調だという理由ですが、歌詞のなかに「ファミレド シドレミ ファ」と「ドレミ階名」が使われていたからでしょう。

⑥「たきび」(童謡)
 「時局にそぐわない」という理由ですが、その理由たるや、正に噴飯ものです。
 何と、“たき火は敵機の攻撃目標になるし、 落ち葉も貴重な燃料のうちだ、風呂ぐらいは焚ける”というものです。


 更に、旧日本国だけでなく、米軍占領下に於いても、同じようなことが起きています。
菊池章子が歌って大流行した「星の流れに」ですが、この曲の当初の題名は『こんな女に誰がした』であったのが、GHQから“日本人の反米感情を煽るおそれがある”とクレームがつき題名を『星の流れに』と変更して発売となったようです。


 このように、歌謡曲や童謡と言えども権力者から見て好ましくないと判断されたものは、発禁となったり、内容変更を余儀なくされたものが数多くありますが、これは戦時中或いは占領下の出来事であり現在は関係ないとは言えないでしょう。

 むしろ、歌だけでなく映画なども含めて、自主規制とかいう名の下で自ら進んで自由な表現を制限している事が多いでしょう。
 卑猥過ぎる内容であれば兎も角として、社会状況や時の権力者に配慮し過ぎたものは、自ら進んで文化的な活動を歪曲するものでしかないでしょう。(まさ)