老いの途中で・・・

人生という“旅”は自分でゴールを設定できない旅。
“老い”を身近に感じつつ、近況や色々な思いを記します。

森氏発言の波紋  (前篇) ~マイクロアグレッション~

2021年02月14日 19時54分45秒 | その他

 先日もこのブログで取り上げた東京五輪・パラリンピック組織委員会の森会長の女性蔑視発言については、本人は不承不承だったようですが、何とか同氏の辞任で幕引きを図りたいとの意向の様ですが、そんなに簡単に収まる問題ではないでしょう。

 今回大きな問題となったのは、当初の発言内容や、それに続く逆切れ会見だけでなく、当初の発言を直接に聞きながらその場でそのおかしさを指摘する人がいなかったことと、本人が一応は謝っているとして同氏の継続を図ろうという動きもあり、更に日本独特と密室での後継者選定が模索された事で、考えようによっては森氏の発言内容よりも、後者の方がより大きな問題ではないかと思います。

 まず、森氏があのような馬鹿げた発言をするに至った経緯については、森氏独自の根本的な女性蔑視の思考が大きな要因でしょうが、それをその場で直ちに指摘する人がいなかった(?)事や、彼が謝罪したので勘弁してやっても良いのでは?という関係者が多数いたのは、ジェンダーギャップ(男女格差)指数が153ヶ国中の121位という日本の面目躍如ともいえる恥ずかしい出来事となりました。

 関係者だけでなく、全ての男性にとって、今一度ジェンダーや社会的弱者の対する自分の立ち位置を振り返らざるを得ない機会になったと思います。

 <※ ジェンダー(gender)とは、生物学的な性別であるセックス(sex)ではなく、社会的な性別を意味する言葉です。この概念は1970年代に欧米のフェミニズム運動をきっかけとした議論の中から誕生したもので、女らしさや男らしさ、女性の役割と男性の役割を、生物学的差異に由来する不変のものとして考え、性差別の存在を認めない立場に対して、これらが社会的な現象であり、解決可能な問題として位置づけています。~IDE JETROより~>


 そんなことを考えている時に、2月9日の毎日新聞夕刊の『あした元気になあれ』と言うコラムで、小国綾子さんが「女性蔑視発言に思うこと」と言う文章を書かれていて、非常に興味深く読ませて頂きましたが、その中にこの文章のキ―になると思われる「マイクロアグレッション」という聞きなれない言葉がありました。直訳すると、“小さな敵意”という意味なのでしょうが、私には初めて聞く言葉だったので調べてみました。


 WIKIPEDIAなどに拠ると、マイクロアグレッション( Microaggression)とは
・1970年にアメリカの精神医学者であるチェスター・ピアスによって提唱された、“意図的か否かにかかわらず、政治的文化的に疎外された集団に対する何気ない日常の中で行われる言動に現れる偏見や差別に基づく見下しや侮辱、否定的な態度”のこと

・提唱したピアスは、黒人以外のアメリカ人がアフリカ系アメリカ人に対して行うものを指していたが、その後2000年代にコロンビア大学心理学教授のデラルド・ウィング・スーによって再定義され、“様々な人種、LGBTといったジェンダーや障害を持つ人などあらゆる社会的に疎外されているといわれている集団も対象になった
とあります。

・また同時に、“2015年以降には、多くの学者や社会的コメンテーターがマイクロアグレッションの概念は、主観的な根拠に過度に依存している、科学的根拠がとぼしいエセ科学である。論理的思考や批判的思考といった大学生や社会人に求められる思考能力が身につかなくなるなど、マイクロアグレッションの科学的社会的妥当性が疑問視されてきている”という批判的な立場に立つ人も多く出てきている、とも注釈されています。


 確かに科学的な裏付けがなくて、主観に基づく部分が多いのかも知れませんが、私たちは如何に自分はそうではないと思っていても、誕生して今迄このような社会的な偏見や差別が当り前の環境で生活してきただけに、このような思考が知らず知らずに何らかの形で身に浸みていることは認めざるを得ないでしょう。

 特に日本では、「男らしく」「女らしく」、「長男だから」「長女だから」、「親が恥ずかしい」「親戚に恥をかかすな」「兄弟のため」、とかいう言葉は男性だけでなく、女性も嫌と言うほど聞かされ、自然に生物学的な性別を判断基準にしている事があるのだと思います。

 その結果として、日本に於いては男性の多くがこのマイクロアグレッションを持つと共に、女性の内のかなりの人がこれをおかしいとは思いながらも黙認したり、公けには反論しにくい気持を持っておられるのではと思います。


 私自身も、戦後の民主教育を受け、頭の中では自分は男女同権論者だと思いこんでいるのですが、ツレアイが認知症を発症して今迄通りの家事や生活ができなくなるまでは、家事の役割などを知らず知らずに生物学的な男・女で区別していた面も感じますし、ツレアイの介護をする立場になってもどこかで介護者として威圧的な態度で強制を強いている事に気付いて愕然とすることもあります。

 また、現役時代の仕事や社会的な活動の中でも、管理者という立場になれば、ややもすれば周囲に対して指導という名を借りた強圧的な要求をしていたことがあったことも否定できないでしょう。


 こんなことを真剣に見つめ直すのは、ある意味では自己の今迄のあり方を否定するような事にもなりかねない、本当に辛い作業です。

 しかし、誰しもが、意識せずともマイクロアグレッションを持っている可能性を認めた上で、自分を見つめ直さねば、今非難の的となっている森氏と変わらないことをする危険性があります。

 更に、大事なことは過去の過ちを認める事での言い訳や自己満足するのではなく、今後これらのことを繰り返さないことへの自戒と共に、もしこのような行為を目にした場合に、はっきりとその場でその過ちを指摘することの大切さでしょう。(まさ)