7月に皆さんと西九州の史跡巡りをしたお話の続きです。天草の殉教公園近くで昼食を取ると、天草下島の西南方面に向かいました。目的地は崎津です。去年ユネスコの世界文化遺産に登録された崎津教会を中心とした集落です。平日だったためそれほど混んでおらず、集落をのんびり散策することができました。島原の乱の地から遠く離れていたためそれほど迫害は無かったようです。しかし、ここの住民の中で隠れキリシタンの方々は、江戸時代を通じて小さな漁村であるこの崎津でひっそりと暮らしていたようです。お話を聞くと、今この崎津地区でも少子高齢化が進みキリシタン文化を守っていくのが大変とのことでした。
崎津地域を代表するカトリック建築のキリスト教会
最初に崎津教会を見学後、元々は旅館だったみなと屋に行きました。みなと屋の展示室で隠れキリシタンに関わる資料を見学しました。隠れキリシタンの方々は、表向き仏教か神道の信者となって幕府に見つからないようにしていたのでしょう。そのため、教会の近くには神社やお寺がセットになって建てられています。200年近くも子々孫々キリスト教が伝えられたことには驚きます。それはそれは過酷な生活だったのでしょう。
崎津教会に向かう みなと屋でお話を聞く 神社から見た崎津地区
キリスト教より先に伝来した仏教は鎌倉時代には大変な弾圧をうけました。民衆に寄り添った浄土真宗などは特に迫害を受けました。ヨーロッパでは権力者側だったカトリックが宗教改革で立場が弱くなりました。その反動として世界に布教活動するようになったことは何か皮肉のように思えます。当時の仏教者は権力者に取り込まれてしまい、民衆の心から離れていったのでしょう。そんな時に現れたキリスト教は新鮮であり、民衆の心をとらえたのではないかと思います。
崎津地区にある仏教寺院 島原口之津港に向かうフェリー乗場の鬼池港
みなと屋で隠れキリシタンの展示を見た後、山側にある神社に向かいました。神社からは崎津地区が見下ろせました。神社仏閣と教会の建立場所に宗教の違いが表れているように思います。神社仏閣はほとんどの場合、集落を見下ろすようなやや高い場所にあります。これは古代からほぼ同じです。権力者の住む場所は高い位置に、貧しい民衆は田んぼの近くや海辺にあります。しかし、教会は集落の中心にあることが多いです。これは宗教が、民衆の上にあるのかそれとも民衆と共にあるのかの違いの現れではないかと思います。
島原半島口之津港に向かう 諫早のホテルに到着 誕生日の方を中心に乾杯
崎津を出ると、天草下島を時計周りにぐるりと回って島原半島の対岸の港である鬼池港に向かいました。40年前私が20代の頃に来た時は、ひなびた港でしたが今は立派な港になっていました。何十台もの車が乗れるフェリーが接岸します。40年前に乗った小型フェリーを思い出しながら島原半島に向けて海を渡りました。対岸の島原口之津港に着くと、宿泊するホテルがある諫早に向かいました。ホテルに到着すると、皆さんと夕食をとりつつ乾杯をして歓談しました。そして、楽しい夕べが過ぎていきました。
キリシタン史跡を中心に巡った天草・雲仙コース
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