ちょっとマンネリですが・・・

ダラダラ過ごしている毎日のことあれこれ・・・・

忙しい毎日の合間をぬって、絵本の構想を練っている・・・

2013年06月15日 | Weblog
忙しい毎日の合間をぬって、絵本の構想を練っている・・・

「朝日新聞」2013.6.8付け、土曜版より。

こう語っているのは、101歳の日野原重明氏だった。このお歳でも忙しく仕事をされているとは、いつもこのエッセイ「101歳あるままま行く」を読むたびに驚かされる。

内容はとても高齢者が書いているとは思われないほど、生き生きとしていてやる気に満ちている。100歳を迎えた年に、何か新しいことを創めようと思い、「童謡・童話作家になる」と宣言したという。

氏は昔からアンデルセンが好きだったそうだ。それにしても、創作ということになれば、かなりのエネルギーが必要だと思われる。その力はどこから生まれてくるのか不思議だ。

そういえば、世界最高齢で、男性の長寿記録を更新していた京都府の木村次郎右衛門さんが12日午前2時8分、老衰のため地元の病院で116歳で死去した、というニュースが流れた。

少子高齢化といわれているように、今後は高齢者ばかりどんどん増えてくるが、健康でいつまでいられるかのほうが大事なことだ。やはり何らかのやりがいを持っていたほうが張り合いがあるのかもしれないな。


しばしば「受注産業」という言い方をする。

2013年06月14日 | Weblog
しばしば「受注産業」という言い方をする。

「朝日新聞」2013.6.8付け(土曜版)より。

今まであまりじっくりは読んだことはないが、“逆風満帆”というコラムで取り上げられていた阿川佐和子さんのインタビュー記事が目にとまった。

実際に頻繁にテレビに出演し、本の出版でもベストセラーにもなっていることから、超ご多忙な人だということはわかる。しかもあの小柄な体ですごいバイタリティを感じさせる。

テレビ番組でインタビューするときにも、言葉に迫力を感じることさえあるものだ。そんな彼女に対して、これからやりたいことについて質問すると、「考えはなにもありません。受注産業ですから」と答えたそうだ。

実にユーモアに富んだ返答でもある。しかしその裏にはどんな仕事もこなしていこうという意欲があるからとも思える。仕事のスタイルは自分のやりたいことを申し出るというより、「やりませんか」と誘いを受けて、一緒に企画を練り、作り上げていくそうだ。

当然ながら力があるからこそ注文をする人が多いのだ。しかし、30年間仕事をしても自信がないと語っているのが不思議なくらいだ。

現在でも厳しかった父親の抑圧からか、仕事には自信がないと語る。しかし今の若者からみれば、父親よりこの佐和子さんのほうが知名度は高いと思われるが・・・


どんなに上手に原稿が読めても、取り上げるニュースに対する理解や共感がなければ・・・

2013年06月13日 | Weblog
どんなに上手に原稿が読めても、取り上げるニュースに対する理解や共感がなければ・・・

「朝日新聞」2013.6.8付け(土曜版)より。

“元気のひみつ”というコラムのなかで、NHKのキャスター井上あさひさんをとりあげていた。「ニュースウォッチ9」ではいつも落ち着いたしゃべりが印象的だ。

しかし、彼女をインタビューした、このコラムの筆者によれば、井上さんは毎回緊張の連続で背中にも汗をかいていると語っていたそうだ。

1時間ほどのニュース番組だが、その準備には相当な時間を費やすようだった。出社して視聴者からの手紙に目を通し、ひたすらその日のニュースをチェックするという。

まあこれは当然なことだろうが、さらに少しでもあいまいな点があれば、調べて自分なりの考えをまとめておくそうだ。そんな準備があって初めて本番をむかえる心構えができるのだろう。

はじめに取りあげたフレーズのあとには、「…薄っぺらさが見えてしまう。何をどう話すか頭から離れることはない」と続いていた。そうそう、彼女の“元気のひみつ”は「しっかり食べておくこと」だった。やはり好感がもてるキャスター稼業も体力勝負のところがポイントかな。


映像や声は、その人の言葉に肉をつける、体温を与える。

2013年06月12日 | Weblog
「朝日新聞」2013.6.5付けより。

たまたま数日前から、テレビに関することに触れていたのでこの記事が気になった次第。これはコラム「CM天気図」のなかで天野祐吉さんが語っている言葉だった。

実にシンプルでわかりやすい。テレビCMは当然ながら多くの人に向けた商品の宣伝だから、記憶に残らなければならない。またインパクトも必要だろう。

視聴者は見たまま感じたままをストレートに受け取ってしまう。制作者側はそこを計算しつくしているのだ。そこが文字情報と大きなちがいらしい。

文字にすればつまらないものが、声や表現から多くのものが伝わってくる。温かさやクールさ、かっこよさ、ダサさなども(またそれもいいのかもしれないが)、素朴さなどさまざまなものが情報となっている。

しかし、テレビ映像ではそれもまた演出ということも考えられるから、注意が必要なのだろうな。ニュースやノンフィクションのドキュメントならそういうことも少ないのかもしれないが。


どの民放チャンネルも、お笑い番組やクイズ番組が花盛り・・・

2013年06月11日 | Weblog
「テレビは見てはいけない」苫米地英人著より。

その理由は番組制作費のコストが安くて済むからだった。これは容易に想像できる。お笑い番組の制作費は、通常のドラマやドキュメンタリーの3分の1、4分の1だという。

というもの、お笑い番組に登場する若手芸人たちは、テレビに出たい人の集まりだったのだ。だから、ギャラがどれほど安くても、喜んで出演するようだ。

テレビに出たがる若手芸人はいくらでもいるというのはわかる。彼らはある意味ギャラよりもテレビ出演を優先しているのだろう。

お笑い番組は200万円でも制作可能らしい。安かろう悪かろうでは困るが。しかし、そこにはテレビ局をつくるのにかかった社会的コストは含まれていないことも筆者は指摘していた。

つまり国民がテレビ局に投資してきたお金や、広告費として支払われてきた金額は膨大なものになっているということだった。お笑いの1時間番組でも二億円のコストが費やされている可能性もあるらしい。

だからこそ、制作費が安いからといって安直な番組をつくりつづけることを問題視していたのだ。本当に見る価値ある番組は意外と少ないのかもしれないな。


いまの世の中では、テレビが最高の洗脳装置・・・

2013年06月10日 | Weblog
「テレビは見てはいけない」苫米地英人著より。

最高の洗脳装置という表現が実に気になる。その一例として、テレビによく出る政治家が当選しやすいことを取りあげていた。

選挙ではテレビにタレントとして出演していた人がしばしば当選する確立が高い。しかも当選する場合はかなりの大差で勝ってしまう。

テレビに出ているということだけで視聴者は自然と好意を抱くようだ。、芸人、作家、スポーツ選手を利用するのは、やはり知名度がモノを言うからでもあるからだろう。

逆にいえばテレビというメディアをうまく使った候補者が当選しやすいということになる。とくに全国区で当選しようと思う場合は、テレビに出る回数を増やすという戦力にでるのだろう。

だからこそ、視聴者は知らず知らずのうちに、洗脳されてしまうというのも頷ける。とくに選挙が近くなった場合には、有権者は気をつけねば・・・


視覚情報は文字情報にくらべて、一瞬で圧倒的なリアリティを感じさせる・・・

2013年06月09日 | Weblog
「テレビは見てはいけない」苫米地英人著より。

ここでは文字の代表としての小説と視覚の情報としての映画やドラマ、アニメなどを取り上げていた。たとえば書籍で100万部と言えば大ベストセラーになる。

ところがテレビドラマやアニメの大ヒット作品では1000万単位の人が目にすることになるのだった。たとえ、1パーセントといっても120万人とすごい人数になる。

つまり映像メディアが膨大な視聴者を生み出しやすいのは、それが「視覚情報」だったからだ。文字は読まなくてはその内容がわからない。しかし、映像はストレートに伝わってくる。

しかも説明はなくても理解できることも多い。またスピード感もある。ことわざの通り、百聞は一見に如かずというのとも似ている。新聞の情報よりテレビの映像は迫力も伝わりやすいものだ。


「大雑把力」は、情報過多の現代にこそ求められる力。

2013年06月08日 | Weblog
「雑菌主義宣言!」齋藤孝著より。

大雑把な奴だと言われれば、いかにもいいかげんな人間のようでもある。つまりネガティブで決していい意味ではない。

しかし、仕事ではとりあえず本筋を見定めて、大づかみにポイントを押さえると考えれば、積極的な意味合いであることもわかる。

大雑把は「大きく、雑に、把む」となるが、この力がつくと仕事もスピードアップされるようだ。まず仕事の全体を見ることで、流れをつかむのは大切なことだ。

雑多ななかから自分に必要な、または価値がある情報をどれだけつかめるかは、日々の生活の質を向上させるとも言えそうだ。

雑多パワーの代表は「雑誌」だという。多くの人によって作られたさまざまな記事、写真、広告などを目にすることになる。そして偶然目にしたことのなかに自分にとって価値ある情報が含まれていることもある。

当初の目的とは別なものを目にすることもあるが、そんな意外性のある出会いがいい刺激となって新しい発想のチャンスともなりえるのだろう。


他動的要素を受け入れる柔軟さ・・・

2013年06月07日 | Weblog
「雑菌主義宣言!」齋藤孝著より。

ここでの小タイトルは“菊池寛にあって芥川龍之介になかったもの”となっていた。ちょっと興味深い。どちらも知名度の高い文学者だったが、菊池は文学的才能については、芥川のほうが才能があることはわかっていた。

純文学ではあっさりと負けを認めて、多くの人が楽しめるものを書く方向に向かったのだった。そして、『文芸春秋』という雑誌のフィールドを作って、ほかの作家に原稿料を払って、文士たちの暮らし向きを救済、向上させていこうと考えたのだ。

一方芥川龍之介は文学的才能は優れてはいたが、自分を追い込む傾向があったため、三十五歳で自ら命を絶ってしまった。ある意味彼には雑菌的な社会適応力がなかったと齋藤氏は語っている。

むしろ雑菌主義とは、厳しい現実社会を乗り切っていくためには必要なことだということだった。ただ単に純粋だけを求めても行き詰まることもある。むしろ生きるために必要なのはしぶとさなのだろう・・・な。


雑菌もふりかけられているうちが花。

2013年06月06日 | Weblog
「雑菌主義宣言!」齋藤孝著より。

たとえばミッションやオファーがなくなった時、つまりここでは「雑菌ふりかけ」がなくなったときは、自分を広げていくのがものすごく難しいという意味だった。他者のリクエストが全くない生活だと、どんな人でも伸びにくいという。

これは筆者自身の経験からも言えるようだった。齋藤氏は期せずして大学院に十年近くもいたために、他者からのリクエストがまったくない生活に陥ってしまったという。雑菌すらふりかけてくれなかったと振り返る。

そんなつらい状況を経験したからこそ、いま来ている仕事は断れないのだろう。だからわずらわしいことからも逃げてはいけないとしみじみ述懐している。

面倒くさいこと(つまりそれが雑菌になる)もふりかけられているうちが花だと語っている。白米もいいが、それにふりかけがあればなお美味しく食べられるというのと似ているのだろうか。


体が柔らかければ心もおのずと柔らかくなるもの。

2013年06月05日 | Weblog
「努力しない生き方」桜井章一著より。

時どき無意識に人に向かって「頑張って!」という言葉をいうことはある。もともと気持ちが硬くなっている人にその言葉を言ってもムダなようだ。何でもかんでも頑張ろうというのはかえってマイナスらしい。

頑張りすぎるとむしろ心がギュッと硬くなっていってしまうという。体も心もいつも柔軟であるという状態が望ましいようだ。とくに優れたスポーツ選手ほど体は柔らかいという。

体が柔らかければ、体全体を使うような動きになり、一部分だけに負担はかからないようだ。体全体を使うことで、大きな力も発揮できるのだった。

そういえば、庭の樹木を見ていて思い出したのは竹の強靭さだった。台風が来たときに、他の樹木は折れたり倒れたりするが、竹は曲がってもまた元通りの姿で立っている。

頑張り過ぎれば、心も体も折れてしまうのだろうな。気をつけねば。といっても、今は頑張るほどのことはなにもしていないか。まあそれはそれでいいのかもしれない・・・。


「工夫」があれば何事も楽しくできる。

2013年06月04日 | Weblog
「努力しない生き方」桜井章一著より。

桜井氏はこれまでの人生を振り返って、「努力した」という記憶がないという。麻雀も「頑張った」という思いはないらしい。うまくなったのは努力ではないと語っている。

むしろ思っていたのは、これをこいうふうにすれば面白い、こうやれば上手くいくんだなという感覚だったのだ。歯を食いしばるというのとはまったく違っていた。

麻雀以外のことでも何でも、そこにあったのは「努力」ではなく「工夫」だったと分析している。確かに自ら進んでする仕事なら工夫をすること自体が楽しくも感じられる。

しかも、その工夫した結果望む成果が出た時ほど満足感は大きいものだ。桜井氏は自分がどこまで可能性をもっているか試してやろうと挑むような気持ちで向かっていったという。

それはむしろ遊びのような感覚だったらしい。仕事でもスムーズに進めるコツはいかに力を入れないかだったのだ。不自然な力が入っていると思ったら、やはり疑うべきなのだろう。


足し算的な人生はここまで足せばOKというゴールはない。

2013年06月03日 | Weblog
「努力しない生き方」桜井章一著より。

この本自体が、実にシンプルで気に入った題名だったのでちょっと気になり手に取った次第。そのはじめの部分にあったのが上記フレーズだった。

振り返ってみれば自分もさまざまなものを足し算で考え生きてきたように思える。少しでもうまくいきたい、幸せに過ごしたい、お金も増やしたい、仕事で評価されたいなどもそうだろう。

実際そう考えたとしてもなかなか思うようにはいかないものだ。足し算的なことばかり考えていると身の回りのことも見えにくくなってしまう。グルメ志向だといって、美味しいものを求めてばかりいると、今度は減量のためにダイエットが必要だということになってしまう。そのためにわざわざスポーツクラブに行く人も多いようだ。

筆者は、「努力する」「求める」「頑張る」「つくる」などの足し算的行為は、常識的にはプラスの評価を受けるべきなのに、必ずしもそうなっていないことも多いと指摘していた。

桜井氏自身の経験から、麻雀で20年間無敗だったのは、勝負にのぞむとき足し算的な発想や行動ななかったからだと振り返っている。いつも力を抜いて工夫を重ねていたのだ。むしろ引き算的な発想こそがポイントだと述べている。


自分なりの「行動記録」をとる。

2013年06月02日 | Weblog
「継続は、だれも裏切らない」内藤誼人著より。

(前日のつづき)
自分なりにやることを決めたら、それをどれだけやったかを記録をとるようにすると良い、というアドバイスがあった。そうすることで、よりやる気が高まるからだ。

実にこれは納得できることだと思った次第。前日も最後にちょっと触れたが、ウォーキングを始めた時は、何も記録はつけていなかった。そのうち、自宅を出てから最寄り駅前までの所要時間と歩数を記録することにしたのだ。用意したのは万歩計とストップウォッチのみ。

駅のホームに立った時点のものを記録しておくことにしたのだ。その時点でケータイにメモるだけだから簡単なこと。すぐに電車が入ってくる時は、時どき記録するのを忘れたしまうこともあるが。

いずれにしても、一日が終わった時点での歩数は、部屋のドアの壁に貼ってある記録表に簡単に書いている。3000歩を1キロとして、何キロ歩いたかを○で消し込んで日付けを書くだけだ。

単に数字を記録するのと違って、ビジュアル化してあるので、進んだ距離がわかりやすい。記録といっても5秒程度で記入できるものだ。シンプル・イズ・ベスト!

もしこれを人から言われたら、きっとやらないだろう。自分が考えて、最もラクだと思えるからこそ継続できている。問題はこれからの梅雨時と真夏を乗り越えられるかだな・・・

物事は自分で決めるからこそやる気が出てくる。

2013年06月01日 | Weblog
「継続は、だれも裏切らない」内藤誼人著より。

意外に単純なことだが、人から「ああしろ」「こうしろ」などと指図をされると、やる気を失ってしまうことが多い。同じことでも、自分で決めたことならそれなりにモチベーションも保てるものだ。

人から言われる前に、スタートしたものはストレスもそれほど感じない。また創意工夫もできる。健康維持のためにちょっとした運動をしようと考えて、とりあえず、散歩から始めることもあるだろう。

事実私も、何か定期的な運動をしなければと思って、朝のウォーキングをやっている。これももし人に話せば、そんなものでは足りないと言われるかもしれない。

しかし、自分で考えてスタートしたものは、ストレスもなく意外に継続できているものだ。わざわざウォーキングの時間を作って歩くのではなく、朝の通勤バスを徒歩に変えただけのものだった。

はじめは無理だと思っていたものが、可能だとなると面白くもなる。しかも、ちょっとした記録をつけ始めると、より継続も興味がわいてきたのだ。スタートしてから半年が過ぎた。まあ飽きるまでどれくらいかわからないが、何もやらないよりましかも。