素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

デジブック 『紅葉を巡るドライブ』

2011年11月25日 | 日記
一昨日行った善峰寺と今日行ってきた神峯山寺(かぶさんじ)は、京都府と大阪府の境にあるポンポン山(678.9m)をはさんで位置する。ハイカーに人気のコースである。6時間ほどで歩くことができるみたいなのでカタクリの時期に歩いてみたいと思っている。今秋は入口と出口にあたる寺の紅葉を楽しんだ。善峰寺への道は細く険しかったが、神峯山寺への道は思っていたよりは広く、スムーズに行くことができた。

 時間的にゆとりができたので箕面方面にも足をのばした。箕面大滝付近の紅葉を楽しもうと思っていたが、駐車場が満車で、並んでいたのでその奥にある勝尾寺まで行くことにした。結果、大正解であった。神峯山寺の紅葉も見頃で、美しかったが、勝尾寺は趣きが少し違う感じの紅葉の景色を楽しむことができた。場所は違うが

♪隠しきれない 移り香が
 いつしかあなたに 浸みついた
 誰かに盗られるくらいなら
 あなたを 殺していいですか
 寝乱れて 隠れ宿 九十九折り 
 浄蓮の滝
 舞い上がり 揺れ堕ちる 肩のむこうに
 あなた・・・山が燃える
 何があっても もういいの
 くらくら燃える 火をくぐり
 あなたと越えたい 天城越え 
が頭の中に浮かんでくる見事な“情炎”を連想させる紅葉にも出会った


デジブック 『紅葉を巡るドライブ』
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立川談志さん亡くなる

2011年11月24日 | 日記
 立川談志さんが亡くなったとテレビのニュースで報じられた時、先日読んだ立川談春さんの「赤めだか」のことを思った。全体を通してみると、師匠“談志”へのレクイエムのように聞こえた。特に最後につけてある特別編その1“揺らぐ談志と弟子の罪”、その2“誰も知らない小さんと談志”は最たるものである。

 『談志(いえもと)は揺らぐ人だから試験の基準が毎回変わるんでどうしていいかわかりません、という気持ちは理解できないこともないが、試験の科目が変わるわけではない。そして弟子は皆、平等に出世してほしい、と願う談志(いえもと)の心情は永遠に変わらない。むしろ試験を受ける立場の人間のモチベーションの方が状況に応じて変化してしまうことが多いのではないか。重ねて云うが、談志(いえもと)は揺らぐ人なのである。ならばその揺らぎを自分にプラスに利することはできないか。(中略)談志(いえもと)を喜ばす知恵を絞れない弟子は、それはやっぱり罪だと思う。

 二ツ目昇進が決まった者達は、今が我が世の春だろう。嬉しいだろう。どんなはしゃぎ方をしてもよいと談春(おれ)は思う。でもスタートラインはまだ先だ。真打だ。頑張ってください。

 真打を目指している人達へ。

 もう時間がありません。立川流の落語家である以上、己の真打昇進のイベントを少しは世に問うものにしたい、と皆思っているでしよう。準備期間を考えれば、一日も早く談志(いえもと)から真打のお墨付きをもらうべきです。立川談志だっていつかは必ず死ぬのです。あと十年生きる保証はどこにもありません。己の晴れの日の口上に、談あれも志(いえもと)が並んでくれない状況を真剣に想像するべきです。談志(いえもと)が認めてくれなくて何のための真打か。(中略)今回の二ツ目昇進で、立川談志の直弟子の前座は一人もいなくなりました。

 この現実をどう受け止めるか。立川談志がひとつの部分を整理しはじめたと考えるのは、あまりに悲観的すぎるでしょうか。(後略)』


 3年前に談春さんが案じた現実が訪れてしまった。弟子の真打昇進をめぐっての、当時落語協会の会長であった師匠の小さんとの対立や立川流立ち上げのことなどは吉川潮さんの『戦後落語史』(新潮新書)を読むとよくわかる。病気療養から高座復帰を目指していた談志さんと談春さんとの〈立川談志・談春親子会〉のことを読むと“赤めだか”での談春さんの悲痛な呼びかけが理解できる。

 その2“誰も知らない小さんと談志”は師匠と弟子の絆の深さを感じさせてくれる話となっている。関係をもどす機会がありながら最終的には小さん師匠が亡くなるまで、二人が会うことはなかった。葬式にも出なかった談志さんがそのことについて一度だけ銀座のバーで談春さんと小さんの孫の花緑さんには話している。

 「葬式、つまり儀式を優先する生き方を是とする心情は談志(おれ)の中にはないんです。そんなことはどうでもいい。何故なら・・・。」
  談志(いえもと)は、ちょっと胸を張って云った。
 「談志(おれ)の心の中には、いつも小さんがいるからだ」


 今回の自らの死に臨んでも、家族だけの密葬で済ませ荼毘に付した後、事務的な書面で世間に公表された。らしさをつらぬいたと思う。そして無言で「俺は死んでないよ。俺の高座を聞いた人間の心の中には一生生き続けるんだよ。それが一流の落語家で、その場に居合わせたものは幸せ者よ。」と言っているように思う。

 残念ながら私は“立川談志の落語”を生で聞く機会はなかった。おそらく、テレビで特番があるだろうが、その日その場所で噺を聴いた者だけにしかその“すごさ”はわからないものだと思う。落語に限らず“ライブ”の魅力は同じ場所に居合わせた者だけにしかその感動を共有できないということだと思う。

 “戦後落語史”の中で紹介されている話。

 『高田文夫のプロデュースで、志の輔・談春・志らく、三人の兄弟会が紀伊國屋ホールで催された夜、私は客席に談志と隣合わせて座っていた。その時、談志はこう言ったものだ。
  「三人は俺の分身みたいなもんで、三人合わせると俺になる。』
 
 


 志の輔独演会に続き、来月は立川談春独演会に出かけることになっている。立川流に出会う機会が増え、家元・談志の死というものも含め、
偶然の積み重ねである一連の流れに不思議さも感じている。
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デジブック 『秋色に染まる善峯寺』

2011年11月23日 | 日記
 山崎にいる娘のマンションに用があったついでに、車で30分ばかり足をのばして善峯寺へ寄ってきた。30年余り前に、香里園に住んでいた祖母の西国三十三ヶ所巡りにお供して以来なのでほとんど記憶にない。ポンポン山への登山を考えた時、ふと目に留まったのでもみじの見頃の時期なので行ってみようということになった。

 平安末期に建立された古刹で隆盛したが、応仁の乱で焦土と化してしまった。江戸時代に徳川5代将軍綱吉の生母・桂昌院によって復旧された。

 デジブック 『秋色に染まる善峯寺』
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昨日から突然体が動き出す

2011年11月22日 | 日記
 マラソンが終わってからはジムでのランニングマシーンでの走りが今ひとつ調子が出ていなかった。疲れの自覚症状はないのだが、体の芯の部分に疲労がたまっているのかスピード、走行距離とも10月のようにはいけなかった。体の声に素直にしたがって無理のない程度におさめてきた。

 昨日も、4日ぶりのジムということで、時速6kmの歩きから入り、7,8,8.5,9と少しづつスピードを上げていったところ、体の状態がここ3週間とは全然違い、楽しい気分になってきた。これはいけるかなと15分過ぎた頃からスピードを思い切って時速10.5kmまで上げ、行けるところまで行ってやれという強気になった。

 30分までそのスピードを保つことができ、体からは「まだ行けるよ」と言ってきたので、10.8kmに引き上げてそのまま走り続けた。このスピードを保つのはマラソン前のベストの時でも経験がなかった。45分になっても、体からストップの指示がでない。「ひょっとしたら、60分10kmが出せるのでは」という計算を始めた。最初のローペースをカバーするためにはこのままではダメで、もう1回、ペースアップする必要がある。ここからの15分はきつい。あせって早くペースアップすると途中でダウンしてしまう。

 時速10.8kmで粘りにねばり、ラスト3分で時速11.5kmまで一気に引き上げ、ギリギリで60分10kmを達成した。「とりつかれたみたいに走ってましたね。ひっくり返らないかとヒヤヒヤしてました。」とスタッフの人から声をかけられた。「完全回復したみたいです」と苦笑するしかなかった。

 今日の日中は小さな用が細切れにあったので、夕食後に走ってみた。昨日の状態が一時的なものだったかどうかを確かめたかったからである。やはり昨日と同様、すこぶる体が軽い。ゆとりを持って40分走り続けることができた。もっといけると思ったが、ここは自重した。心身ともにマラソン前の状態にもどったことさえわかれば十分で、調子に乗りすぎると故障する。

 共済だよりに投稿していた北海道の82歳の方の座右の銘「諸器官は使わなければ衰える。使うと良くなる。使い過ぎると壊れる。」を思い出した。フランスの生物学者ルーによる“生物に関するルーの三原則”だそうだ。

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琴奨菊と稀勢の里

2011年11月21日 | 日記
 私が小2から中3まで過ごした鵜方は相撲が盛んな地域であった。小、中ともに立派な土俵があり、小学校の高学年では全校相撲大会、中学校でも学級対抗相撲大会があり盛り上がっていた。休憩時間にも砂場や教室の後ろで相撲をよくとっていた。先輩にプロの力士になった人がいて、当時“褐色の弾丸”と呼ばれ人気のあった房錦が挨拶に来るというのが町の話題となり、興奮してしゃべっていたことを覚えている。中学校にも場所前になると番付表が送られてきて、下のほうの細く小さな名前の所に赤鉛筆で線が引かれていて、なかなか上に上がっていかなかったことを覚えている。町では無敵でも上には上がいて、現実は厳しいものだということを教えてくれたし、いつしか町の話題から消えていった。

 今、交野市出身の新十両・勢(いきおい)が絶好調なので、地元出身力士の出世頭である隣町の寝屋川市出身・前頭1枚目豪栄道をおさえローカルニュースでよく取り上げられている。今日はまげを持つ反則技で9連勝をのがしたが、きっぷの良い取り口と面構えもの良さに将来楽しみな力士である。

 徐々に落ち着きを取り戻しつつある大相撲の中で、注目の的は琴奨菊と稀勢の里であろう。この2人が名実ともに2枚看板となる日が実現したら大相撲に向けられている厳しい世間の評価も大きく変わっていくのではないかと思う。2人の面構えが対照的である点が魅力である。特に、稀勢の里のようなタイプが貴重である。

 私が相撲を見始めた頃から振り返ってみると、柔剛の好対照な2枚看板を持った時、大相撲人気は上がるという傾向がある。

 柏戸と大鵬・玉の海と北の富士・輪島と北の湖・曙と貴乃花・朝青龍と白鵬などである。中学校の時は、安定した大鵬より強さともろさの同居した柏戸を応援していた。北の湖や朝青龍のふてぶてしさも魅力があったのだが、そういう力士は減ってきた。

 以前のように根気よく見ることはないが、すこし興味を持って眺めている。
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