素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

立川談志さん亡くなる

2011年11月24日 | 日記
 立川談志さんが亡くなったとテレビのニュースで報じられた時、先日読んだ立川談春さんの「赤めだか」のことを思った。全体を通してみると、師匠“談志”へのレクイエムのように聞こえた。特に最後につけてある特別編その1“揺らぐ談志と弟子の罪”、その2“誰も知らない小さんと談志”は最たるものである。

 『談志(いえもと)は揺らぐ人だから試験の基準が毎回変わるんでどうしていいかわかりません、という気持ちは理解できないこともないが、試験の科目が変わるわけではない。そして弟子は皆、平等に出世してほしい、と願う談志(いえもと)の心情は永遠に変わらない。むしろ試験を受ける立場の人間のモチベーションの方が状況に応じて変化してしまうことが多いのではないか。重ねて云うが、談志(いえもと)は揺らぐ人なのである。ならばその揺らぎを自分にプラスに利することはできないか。(中略)談志(いえもと)を喜ばす知恵を絞れない弟子は、それはやっぱり罪だと思う。

 二ツ目昇進が決まった者達は、今が我が世の春だろう。嬉しいだろう。どんなはしゃぎ方をしてもよいと談春(おれ)は思う。でもスタートラインはまだ先だ。真打だ。頑張ってください。

 真打を目指している人達へ。

 もう時間がありません。立川流の落語家である以上、己の真打昇進のイベントを少しは世に問うものにしたい、と皆思っているでしよう。準備期間を考えれば、一日も早く談志(いえもと)から真打のお墨付きをもらうべきです。立川談志だっていつかは必ず死ぬのです。あと十年生きる保証はどこにもありません。己の晴れの日の口上に、談あれも志(いえもと)が並んでくれない状況を真剣に想像するべきです。談志(いえもと)が認めてくれなくて何のための真打か。(中略)今回の二ツ目昇進で、立川談志の直弟子の前座は一人もいなくなりました。

 この現実をどう受け止めるか。立川談志がひとつの部分を整理しはじめたと考えるのは、あまりに悲観的すぎるでしょうか。(後略)』


 3年前に談春さんが案じた現実が訪れてしまった。弟子の真打昇進をめぐっての、当時落語協会の会長であった師匠の小さんとの対立や立川流立ち上げのことなどは吉川潮さんの『戦後落語史』(新潮新書)を読むとよくわかる。病気療養から高座復帰を目指していた談志さんと談春さんとの〈立川談志・談春親子会〉のことを読むと“赤めだか”での談春さんの悲痛な呼びかけが理解できる。

 その2“誰も知らない小さんと談志”は師匠と弟子の絆の深さを感じさせてくれる話となっている。関係をもどす機会がありながら最終的には小さん師匠が亡くなるまで、二人が会うことはなかった。葬式にも出なかった談志さんがそのことについて一度だけ銀座のバーで談春さんと小さんの孫の花緑さんには話している。

 「葬式、つまり儀式を優先する生き方を是とする心情は談志(おれ)の中にはないんです。そんなことはどうでもいい。何故なら・・・。」
  談志(いえもと)は、ちょっと胸を張って云った。
 「談志(おれ)の心の中には、いつも小さんがいるからだ」


 今回の自らの死に臨んでも、家族だけの密葬で済ませ荼毘に付した後、事務的な書面で世間に公表された。らしさをつらぬいたと思う。そして無言で「俺は死んでないよ。俺の高座を聞いた人間の心の中には一生生き続けるんだよ。それが一流の落語家で、その場に居合わせたものは幸せ者よ。」と言っているように思う。

 残念ながら私は“立川談志の落語”を生で聞く機会はなかった。おそらく、テレビで特番があるだろうが、その日その場所で噺を聴いた者だけにしかその“すごさ”はわからないものだと思う。落語に限らず“ライブ”の魅力は同じ場所に居合わせた者だけにしかその感動を共有できないということだと思う。

 “戦後落語史”の中で紹介されている話。

 『高田文夫のプロデュースで、志の輔・談春・志らく、三人の兄弟会が紀伊國屋ホールで催された夜、私は客席に談志と隣合わせて座っていた。その時、談志はこう言ったものだ。
  「三人は俺の分身みたいなもんで、三人合わせると俺になる。』
 
 


 志の輔独演会に続き、来月は立川談春独演会に出かけることになっている。立川流に出会う機会が増え、家元・談志の死というものも含め、
偶然の積み重ねである一連の流れに不思議さも感じている。
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