素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

成長した姿、見せていただきました!祝優勝!

2011年11月20日 | 日記
 退職する時に受け持った生徒達も高校3年生になっている。卒業時、一人ひとり夢や希望を抱いて進学していったが、その後についてはあえて尋ねたりはしてこなかった。ただ、その後の姿を見届ける機会を与えられたならば極力応えようと思ってきた。

 選手権の京都大会は複数の有望校で教え子が選手としてがんばっているので、気にはなるがあえて情報をシャットアウトしてきた。先日、T君のお父さんからコメントをいただいた。それで、T君が敗れた教え子達の分までを一身に背負い、福知山成美との決勝のピッチに立つということがわかった。これは見届けなければいけないとすぐに思った。
 
 第90回全国高等学校サッカー選手権大会兼京都高校サッカー選手権大会の決勝、福知山成美対立命館宇治の試合を見るため、西京極競技場へ車で出かけた。キックオフの13時に間に合ったと思ったが甘かった。周辺含め駐車場が満車状態。仕方がないので桂川を渡って対岸の堤に駐車して歩くことにした。そのため、前半の試合を見ることができなかった。ハーフタイムでスタンドからトイレや喫煙のため降りてくる声を聞くと、成美のほうが押された感じで前半を終えたらしいことはわかった。

 人ごみを分けるようにしてスタンドにあがり、急いでスコアを確認した。1対0を見て、ホッとした。
 

  雨上がりのピッチはスタンドから見ている以上に重くすべりやすい。ボールコントロールがむずかしいだろう。加えて風も強い。サッカーの試合においては相手との戦いプラス2つのものとも戦わなければいけない。1つは、レフェリー。ルールにしたがって笛をふくが、判定の部分では個々微妙な違いがある。当たり前のことである。早くレフェリーの傾向をつかみ、味方につけるしたたかさが必要である。もう1つが自然、特に強風はやっかいである。ボールが流れたり、押し戻されたり、曲がったりと普段通りにいかないことが多い。イライラしないで、状態に応じて蹴り分ける冷静さが必要である。風の動きがどうなるかわからない厳しいコンディションの中、1点リードして前半を終えたことは大きい。

 後半は一進一退の攻防が続く。高さの勝負では確実に上まわっているので安心できたが、成美の前線にいる3人ほどは足元が強くドリブルでの突破力があり、油断ができない。

 キャプテンマークをつけたディフェンスの要のT君。常にDFラインに目を配り、コントロールの指示を出し続け、味方が攻撃している時はハーフライン上から鼓舞する声をかけ、コーナーキックやフリーキックを得た時は最前線に上がり相手DFと体を張ってせりあい追加点をねらう姿とスタンドまで届く声を見て聞いて「成長したな」と思った。

   中学卒業後の進路選択で迷っていた頃に、お父さんに「うちの子、まだ伸びると思いますか?3年間見てきて率直なところ聞かせてほしい」とたずねられたことがあった。

 スポーツでも学習でも、どの環境であればその子が伸びていくのかは誰にもわからない。しかし、その時点で最善であろうと判断した道に進んでほしいというのが親心であろう。「伸びしろがあるのか、がんばってきてもうぎりぎりの状態なのか」で、どういう環境に身を置かせるかの判断が違ってくるというのは痛いほどわかった。ただ、私自身がその判断材料を渡せるほどの“見る目”があるのか自問すれば、はなはだ心もとなかったが、次のような旨の話をさせてもらったと記憶している。

 体格を含め体力面と技術面においてはベーシックな部分はしっかりできているので伸びる余地は十分ある。それに精神的な部分での変化が加わればさらに持っているものが活きてくる。
 ほぼ同じメンバーで一定期間チームをつくってくると、自ずからチーム内での役割り分担が出来てくる。T君の場合は、やさしくおだやかな性格もありチームの中の潤滑油的な働きをしてくれている。それは裏返せば、表面に自分の主張を出さず控えめな、縁の下の力持ち的なプレーとなりがちである。そこを脱皮するとさらに大きなプレイヤーとなる可能性がある。
 そのために、彼を今までつながりのない人間ばかりの環境に一人、身を置かせるという選択肢もある。ただ、それは大きな賭けでもある。遅かれ早かれそういう環境に身を置かなければならなくなるが、どの時期がベストなのかは判断に苦しむ。最終的には、自分が選んだ道の責任は自分で取ることができるように、本人の気持ちも大切にして、よく相談して決定してほしい。

 そして、1年生の時、彼のヘディングシュートが決勝点となり全国大会出場というシンデレラボーイ的な高校生活のスタートとなった。気楽な1年生の時に高いハードルを越えたことが、学年が進むにつれて重荷になっていくのではということを案じた。高校生活最後に、京都の決勝の舞台に立つまでには、数多くの悩みや苦労もあっただろうと推察する。

 残り5分を切った時点からは逃げ切りを図るリツウジと最後の力をふりしぼってゴールに向かうセイビとの息詰まる攻防となった。悲鳴と歓声が応援席から何度も湧きあがった。ロスタイムもかなり進んだところでセイビがコーナーキックを得る。サッカーの神様はいじわるで、必ず最後の最後で、双方に試練と希望を与える。ゴール前の混戦からボールが蹴りだされた瞬間に終了の笛が鳴った。
 帰りに車を運転しながら考えた。人は生まれてから、家族、幼馴染、小学校、中学校と人の輪を広げていく。その中で“自立心”を養っていくのだが、義務教育の年代までとそれ以後では大きく異なるのではないか。義務教育を終えると否が応にも厳しい競争社会に入っていく。義務教育年代までも競争はあるが、それだけではない人間関係も育まれる。生ぬるいと言われるかもしれないが、そういう競争を超えた人間同士のつながりがあってこそ、漠然とした人への信頼感をもつことができるのではないだろうか。そのことが、競争社会において勝っても負けても、おごらず、くさらず次へのステップを踏み出す広い視点を持つ人間となる土台となる。

 まもなく高校生活を終え、また次の新しい環境に飛び込んでいく3年前の教え子達がそれまでに得て来たものを力にして、さらに自立し、たくましく人生を切り拓いていってくれることを願う。そして、そういう姿をほんのわずかでも垣間見る機会を与えてもらえることをありがたいと思う。それが“教師冥利”かな。

   
コメント (1)
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