素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

今日は“器”に縁のある日でした

2011年11月04日 | 日記
 近所の方から大和文華館の開館50周年記念特別展『乾山と木米~陶磁と絵画~』の招待券をいただいた。特に予定もなかったので出かけることにした。大和文華館に行くのは初めてである。

  

 思っていたよりもゆったりとした空間の中に建てられていた。外門から本館まではゆるやかにカーブするスロープをのぼっていく。道の両側には赤松の古木をはじめたくさんの木々が植えられていて目を楽しませてくれる。山茶花の花が真っ盛りであった。

 尾形乾山(1663~1743)と青木木米(1767~1833)は、活動期は100年の隔たりはあるがともに京焼の名工らしい。陶磁だけではなく絵画、書にも優れた作品を残していて、その代表作品が展示されていた。私には骨董の知識も見る目も皆無であるが、乾山の作品に“遊び心”を感じ木米よりも人物に興味を持った。

 家に帰ってから調べてみた。
  
 京都の呉服商、雁金屋の三男として生まれ、権平と名付けられる。六歳年上の兄は尾形光琳である。貞享4年(1687年)父の遺言により、室町花立町・本浄華院町・鷹ヶ峰の三つの屋敷と書籍・金銀などの諸道具を、光琳と折半で譲り受けた。

 遊び人で派手好きで遺産を放蕩に費やした兄・光琳と対照的に、乾山(けんざん)は莫大な遺産が手に入っても、内省的で書物を愛し隠遁を好み、霊海・逃禅などと号して地味な生活を送った。

 元禄2年(1689年)、仁和寺の南に習静堂を構え、参禅や学問に励んだ。この仁和寺門前には野々村仁清が住んでおり、乾山は早くから光悦の孫の光甫や楽一入から手ほどきを受けていたこともあり、仁清から本格的に陶芸を学んだようだ。

 37歳の時、かねてより尾形兄弟に目をかけていた二条綱平が京の北西・鳴滝泉谷の山荘を与えた為ここに窯を開く。その場所が都の北西(乾)の方角あたることから「乾山」(けんざん)と号し、出来上がった作品に記した。正徳2年(1712年)50歳のとき京都市内の二条丁子屋町(現在の二条通寺町西入北側)に移住し、多くの作品を手がけた。作風は自由闊達な絵付けや洗練された中にある素朴な味わいに特徴があり、乾山が器を作り光琳がそこに絵を描いた兄弟合作の作品も多い。

 享保16年(1731年)69歳の時、輪王寺宮公寛法親王の知遇を受け、江戸・入谷に移り住んだ。元文2年(1737年)9月から初冬にかけて下野国佐野で陶芸の指導を行う。その後江戸に戻り、81歳で没した。


 その足で午後は、門真の小学校に勤務・退職された酒井則行さんの展覧会にまわった。酒井さんは大の歴史好き。特に縄文時代の生活に強く関心を持ち、擬似体験を試みて来た。その中で縄文土器づくりにも挑み、2009年3月には「縄文土器模造品66考古展」を開く。現在、「縄文土器再生」をテーマに実用的模造品制作に励んでいて、その成果を自らの手で民家をリフォームした“元町ギャラリー”で展示されている。

    西三荘の駅前から徒歩5分、古い歴史を感じさせてくれる住宅街の中にある。
  門をくぐると縄文土器のお出迎え

     写真や博物館の展示品をもとに模造品をつくっていくが、写真でも展示物でも裏のほうがわからないので、自分で想像してつくるそうだ。それがまた楽しいと話されていた。縄文人のデザインは現代にも通じると釉薬をつけて焼きあげたランプや花器などの実用品は味わい深いものがあった。

 一見の価値あり。

今日はほんまにたくさんの“器”を見た。白洲正子さんの「花日記」を久しぶりに開けた。“器”を生かす花の写真に添えられた文が今日の経験とあいまってより心にしみてくるのである。

    


コメント
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