素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

ONKYOのステレオにまつわる話

2009年11月19日 | 日記
 昭和40年代後半の大学生にとって、ステレオはかなり高額な買い物だった。貯めた金を持って店に行ったとき、当時メジャーではなかったがONKYOのものが音や見た目の重厚感がすごく気に入った。

 ただ、持ち合わせた現金では不足で、生まれて初めてローンを組んだ。今の時代ならともかく、当時は学生の身で借金をして物を買うということは一般的ではなかったが、欲しいという一念に押されてしまった。

 もともと愛知県で働くつもりはなかったので、ふるさとの三重県と当時教員不足に悩んでいた大阪府の採用試験を受けた。三重県のほうは不採用。大阪府の中でもベッドタウンとして人口が急増していた枚方市にすべり込みで採用された。採用の決定が3月上旬と遅かったので、とりあえず香里園に住んでいた叔父の家に間借りさせてもらった。

 新任研に地元のいろいろな場所をバスで巡るというものがあった。その中に、オンキョーの工場見学が入っていた。ステレオは愛用してきたが、オンキョーが大阪の会社だということは知らなかった。

 しかも、本社と工場が、香里園の叔父の家から歩いて20分ほどの所にあると知って、“縁”みたいなものを感じた。退屈なバスめぐりの中で、自分の持っているものと同じものが作られていると思うだけでワクワクした気持ちになった。スピーカーのボックスがいかに頑丈でしっかり作ってあるかということをハンマーで叩いて実演してくれた時、「やはり、自分の目に狂いはなかった!」と心ひそかに喜んだが、冷静に考えれば自社製品の優秀さを宣伝するのは当たり前である。喜ぶようななことではない。「若かった。」ということか。

 人口が急増していた枚方市では、私が就職した時に10校目と11校目が開校し、以後ほぼ1年に1校の割合で建設され20校目の長尾西中学校が1986年に開校されて建設ラッシュは終わった。

 必然的に新任の採用も多く、組合でいうところの青年部の数も多かった。私が赴任した村野中学校も教職員の半分は青年部だったと思う。12,3名ほどいたと思う。少し落ち着いた4月の休みを利用して、職場の青年部のメンバーでハイキングに行った。そこに、妻もいた。

 香里園の駅で解散した後、私を含め3人ほどで彼女の住んでいる文化住宅(この名称と実際の佇まいのギャップには大阪に来て驚いたものの1つ)に寄せてもらった。部屋に入って私の目にとびこんだのが、まったく同じONKYOのステレオである。名越さん流にいうと『私はステレオに“居着いて”しまった。』

 私のステレオは叔父の家に荷造りしたままだったので、次の休みの日にレコードを入れた袋をぶら下げて彼女の部屋に行き、お気に入りの曲を聴いて過ごした。そして度々通うようになった。そのあたりのことを何年か前に妻に話したが、まったく覚えていない。とのこと。

 人生に“If”はないが、あの部屋にONKYOのステレオがなかったら、違う道を歩いていたかもしれない。

 2つの双子のようなステレオ。1つは結婚のとき処分した。もう1つは、こちらが目を離している間に4歳の長女がふたを開け、中のアームをおもしろそうに持ち上げて遊び、折ってしまい、The End。丈夫なスピーカーは踏み台、子どものベンチと活躍した。

 
コメント
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