素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

死について

2009年11月28日 | 日記
 11月半ばぐらいから喪中はがきが届き始める。「天寿をまっとうしたんやな」とか「まだ若すぎる、無念やったやろな」などと『人生の終わり』=『死』というものを考えさせられる時期の1つである。一見形式的に見える短い文面の中に、残された方々の故人への思いを深く感じるのである。

 「 世の中に絶対はない。」とよく言われるが、「死」は絶対にある。その厳然たる事実を前にして人間は不老不死の薬を求めたり、死後の世界に思いを馳せたりと脳が発達した分、他の動物に比べもがいてきたように思える。それらが科学を発達させ、文化を育んできたといってもよい。

 山本周五郎は作品の中で、親しい人の死を前にして嘆き、悲しむ人に対して「人は二度死ぬ」という言葉をかけている。「一度目はその人自身の死、二度目はその人の思い出を持っている人の死。だから生をまだ授かっている者はその人を胸の中に抱いてしっかり生きていかなければいけない。」今まで多くの人との別れに際して私自身を支えてくれた言葉でもある。

 今、私は「両親より先に死にたくない。子どもたちよりは先に死にたい」という思いを持っている。生まれた順番に死んでいくのが平凡だけど一番の幸せだと思っている。世の中には不慮の死を遂げる人も多く悲しみに満ち満ちている。この年齢で平凡な願いを口にできる自分は幸福だと思う。

 森本哲郎の「ことばの旅」の中にモンテーニュのことばが紹介されている。・・・むろん、だからといって、仕事は投げやりでいいんだ、ということではありません。人間は生きているかぎり仕事に打ち込み、働き続けることを望むものです。けれど、死が仕事を中断させるのを嘆くのはまちがっている。と言うのです。死はそんなにつごうよく来てくれるものでないからです。ですから、彼はこう言います。「わたしは、死が、わたしがそれに無頓着で、いわんや、わたしの菜園の未完成であることなどにはなおさら無頓着で、ただせっせと白菜を植えている最中に、到来することを望む」そんなぐあいに、死をあっさりと受け入れたいというのが、モンテーニュの死の準備なのでした。・・・・

 父親は5年ほど前から、自分の描いた水彩画を年賀状に使っている。最初は弟が原画をはがきに印刷していたが、ここ3年ほどは私の仕事になった。原画の淡い色合いをだすのがなかなかむずかしいが、新しい年に向けての父の張り合いでもあると思う。先日、的矢湾の夜明けを描いた原画が届いた。            
この作業を今年もできる喜びをかみしめている。

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