ウルガンさまは織田信長や豊臣秀吉のドラマがあれば出てくることがあるので知っている人もいるだろうが、アルメーさまはほとんどドラマなどには出ていない。
身体が弱く、寒さにも弱かったアルメーさまは京都の冬には身体を壊し、主に九州での宣教活動だったこともあり、ウルガンさまのように近畿中心の宣教師よりも有名ではなかったのかも知れない。
だが、現代の日本人にとって彼が有名無名かなどは関係はない、ただ私が心を奪われるのは彼がヴィヴァローダ{生ける車輪}となり、福音を述べ伝え歩き続け、貧しい人たちを救い続けた事実に、なぜ?どこからそのような力を生み出したのか、と言う神秘に私の胸は熱くなるのである。
彼はどのように日本人を愛したのか、患者の病気を癒しながら、どのようにその患者の心も癒していったのか、彼がそこに何を見い出していたのか、実際に私が彼を見たのなら、どんな思いに包まれるのか、多重の苦しみを背負い味わいながらも、彼はどんな歩き方をし、どんな笑顔を持っていたのか、与え与えられた信仰の神秘にどんな喜びを味わったのか、私は問わずには居られない。
またそう問わざるを得ない私の内にあるものは何か、救い主メシアを待ち焦がれていると言うことか、我が身の信仰のか弱さゆえか、カルワリオを歩く聖人への憧れか、そこにマザーの面影を探しているのか・・・、そのすべてかも知れない、がしかし、分からない、分かりきらない、ただただ心が彼の信仰の輝きに惹かれていることだけは確かである。
たかが本一冊でアルメーさまの何が分かるのかと言うことはもちろんのことであるが、こうも言える、私の知っているMCに最初に入会した日本人のシスターラファエルやマザーとともにMCの神父の会を作ったFrジョセフもマザーのある一冊の本を読み、それまでの人生を生まれ変わるようにして新しい道へと導かれたのである。
だからという訳でもないが、一冊の本をどう読むかと言う可能性は常に無限であり、またその時期もあり、神さまの導きもあるのである。
マザーも忙しい生活の中であれ、本は読み続けた。
マザー自身も本を読む時間を持ちなさいと言っていた。
そして、そこから自らの信仰、日々の営みの糧となり得るものをマザーも見い出し続けたである。
私もそれにならいたく、こうしてアルメーさまの生涯を心に留めるにいたった。